ダストテイル-短歌と散文のブログ-
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辻聡之さん、『あしたの孵化』

辻聡之さんの第一歌集『あしたの孵化』。

歌集は入手したのだけど、僕にはまったく事前情報がない。辻さんがどういう人で、どういう歌を作る歌人なのかよくわからない。逆にこういう状態で虚心に歌を読んだほうが、いいのかもしれない。歌集の表現上の特徴や魅力を、自分のできる範囲で探って行こうと思う。

・誰ですかと問われる声で目覚めればしゅわしゅわという加湿器の音

・ナポレオンは三十歳でクーデター ほんのり派手なネクタイでぼくは

・望まれるように形を変えてゆく〈主任〉はどんな声で話せば



巻頭の3首、つらつらと読んでいって、「うーん、なるほど」と思った。3首まとめて強引に歌の印象を書いていけば、まず作者はおそらく「なにものにもなれない自分」を歌いたいのかなと思った。

一首目では、「誰ですか」とだれかに問われて、目が覚めてみればそこにあるのは「しゅわしゅわ」とした加湿器の音だという描写がなされる。誰ですかと問うたのは、自分のなかの心の声なのだろうし、夢であったり、無意識であったり、もっと神さま的な視点なのかもしれない。それを聞いて目が覚めたのだけど、現実ははっきりと答えを与えてくれるわけではなく、ただ加湿器の音を立てている。そういう感じだろうか。

二首目は、おそらく作者も三十代くらいなのだろうと類推するけど、ナポレオンは三十歳でクーデターを起こすくらいの名誉とか波乱とか、とにかく歴史に名を残すくらいの活躍をしているのに、自分は派手、しかもそんなに派手ではなくて、「ほんのり」派手なネクタイをしているという含意のある歌だと思う。そんなに格好の良い立場ではなくて、無難にやっているという感じをナポレオンと対比させたのだろう。

三首目、おそらく作者自身が「主任」という肩書きになったのかもしれない。それでも、自分は社会的な関係のなかで、他人に合わせられる、誰のものでもない自分がいるという感覚を歌にしたものだろう。「どんな声で話せば」、というのは、他者との関係のなかで、自分の声や表情や立ち位置というのをどんなふうに設定すればいいのかわからない、アイデンティティのゆらぎみたいなものが歌にされているような印象を受けた。

巻頭の歌群である「カラーバリエーション」では、こういった三十代(?)の作者のアイデンティティの揺れと、社会との関係みたいなのが歌われている。表題歌で、

・わたくしも誰かのカラーバリエーションかもしれなくてユニクロを出る

という歌は、そういったアイデンティティと、現代社会との関係を詠った歌として、多くの人に膾炙する作品になるのだろう。
自分は何者でもない、という感覚なのだけど、他者と決定的に違っているわけでもなくて、たとえば私はユニクロだけどあなたはアルマーニというような大きな決定的な格差があるわけでもない。

社会が同じような均質さで、しかも、決定的な違いというよりは、なにかカラーバリエーションのような、「選択の範囲でしかない」というような不自由さに満ちているのを、「わたし」を通して透かしていく。そんな深い意図を持つ歌であるように思った。


・蛸を噛むきみを見ている上顎はぶれないきみの確かな頭骨

・すりへりし踵直せる細き指ていねいに暮らすっていいよねという

・折り畳み傘をゆっくり折り畳むようにゆっくりまた年を経る

・うまく生きるとは何だろう突風に揉まるる蝶の翅の確かさ



すべて「Ⅰ」の章から引いた。
どの歌も、しっかりものの手触りを掴もうとした確実な筆致である。

一首目、「君」があの蛸をくにゅくにゅと噛みながら、顎が結構動いている様子をみて、上顎が頭骨の一部なんだ、しかも頭骨というのはぶれないんだ、と発見するのは、決して華やかな感じではないけれど、確かなものへの心寄せが感じられておもしろい。ものを見て、頭骨という体の大きな部分を連想するのは、地味だけどあまりできない発見であるように思った。

二首目、この細き指というのは自分の指なのか、それとも誰かの指なのか、ぼくは恋人の指として読みたいけど、誰かがゆっくり踵を直すのを見ながら、「ていねいに暮らすっていいよね」という感慨が生まれる。自然な感じがして、無理のない描写だと思う。

三首目は、ちょっと変わった表現の仕方で、「折り畳み傘をゆっくり折りたたむ」ということをあんまりしない僕に、作者が丁寧に傘を折りたたんでいる姿が思い浮かばれた。その様子そのものが興味深いけど、その描写を「ように」という一語でつないで、ゆっくり年を経るという表現につなげた。折り畳み傘という意外なツールから、ゆっくりという表現を引き出して、それをゆっくり年を経るという描写につなげるあたりが、呼吸をよくわかっている感じがして面白い。僕にはここまでの作品で、ていねいやゆっくりという言い回しから、確かに生きることへの強い希求を感じることができるように思えた。

四首目、「うまく生きるとは何だろう」というやや加速気味の破調から、突風に揉まれても折れたりすることのない蝶の翅の「たしかさ」を思う。これも決して派手ではないけど、「確かなもの」に心を寄せていくような作者の心寄せを感じることができるように思った。

ⅠとⅡと言った章立てがされているけど、章立てのなかに決定的な文体の変化とか、大きな出来事の差異は感じられない。以下、面白いと思った歌を章立てにこだわらずに引いてみようと思う。

・幽霊の話題を挟む雑談の夜に湿りを帯びてゆく耳

手触りが面白い感じの歌で、湿りを帯びてゆく耳とはどういう耳なのだろうとか、あんまり意味を考えずに読んだほうがいいのかなと思った。湿りを帯びた耳の感触、冷えてゆくのではなくて、お話をしている途中にだんだん湿ってゆくという感触にちょっとぬるっとしたものを感じた。

・一輛に百人ほどの善人を載せて音なく地下をゆくもの

電車〈地下鉄)なのだろうと思うけど、面白いのは善人という規定で、どういう人が善人なのだろうという基準は普通ない。百人ほどの善人というのは、そう断定することで作者が逆に人間をどう見ているかというのが透かし見えて、面白みを感じた。

・くらぐらと夜に雪ふれば雪の声つかまえており父の補聴器

父や母を詠った歌で秀歌というのは多いけど、この歌集の雪の声というのはなかなかおっと来る表現だったように思う。
人間の耳は雪のふる音を普通捕まえることはできないが、補聴器という道具は、もう少し何かを捕まえることができるような気がする。くらぐらとした夜の雪が、雪の声をつかまえるという把握は、魅力的だ。補聴器のひとは、普通聞こえない、おそらくもっと低い雪の声を捕まえているのだろうか。

・少しずつ他人の家になりゆくをさびしきことと言い捨てて母は

この歌は、自分の家にだんだん妻が入ってきたり、いろんな他の家族が入ってくることで、自分の家が自分の家ではなくなってしまう感触を過不足なく表現しているように思う。

・雪のなりそこない、おまえ、一心に袖を汚して溶けゆくのみの

こういう少し荒ぶった口調の歌いくつかあったけど、この歌は魅力的だった。相手のことを雪のなりそこない、と断定することに、
少し恐れの入り混じった感情をぼくは持ってしまうのだけど、そのあと「袖を汚して溶けゆく」という把握で、なにか美しいものに世界おまえを変えてしまう。そういう効果があるように思う。

魅力的な歌はまだまだあるが、体力の関係でこの辺で一度感想を終えておこうとおもう。
あまり表現を過度にすることのない、確かな筆致の作者であるように思う。
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「羽根と根」七号 きまぐれ一首ずつ読み①

最近短歌から遠ざかって久しく。。。

ブログを書かなくなってから、歌をまったく読まなくなってしまいました。
新しい歌人を、誰一人知らないという状況になってしまいました。
歌集なんてろくに読んでません。

こ、れ、で、は、い、か、ん! と

まとまった時間がすこしあるので、手元にある本を片っ端から、読んで記録してゆくことにしようと思います。

(まったく個人的な事情で申し訳ないですが、リハビリのつもりです。かけるまでは書いてゆくつもりです)

                               ※

◆七戸雅人「temporary」

・重さうに脚を抜きたる鷺の眼に鷺の冠羽がいつもしたがふ

冠羽というのは、インコやオウムの頭の後ろにある長い毛のことらしい。
ある種のけだるさを表現しようとした作品かもしれない。鷺が「重さうに」湖沼から脚を引き抜くのを作者は見ていた。私は、「重さうに」という作者の主観の表現が一首全体にかかっているように感じた。脚を抜いた鷺の眼はどういう眼をしていたのだろう。おそらくけだるそうな眼をしていたのではないかと推測する。

ところで、鳥というのは眼を動かすとき、いつも手早く眼を動かすので、この作者が見ていた鷺も、おそらくかなりきびきびと動かしていたのではないかと推測する。そして鷺の眼の動き、頭の動きに、冠羽もまたしたがっていく。そんな情景を想定して読んだ。

一首としてはそんな歌意を読み取る。しかしこの歌はこういう作意を想定したとしても、あまりよくわからない作品だ。

重さうに脚を抜きたる鷺の/眼に鷺の冠羽がいつもしたがふ

この言い回しがどことなくスムーズではなく、ぎこちない印象を受ける。作者は最初鷺の脚を見ていた。その鷺が重そうに脚を引き抜いた。そのあと、キビキビとした鷺の眼の描写になるわけだが、ここになにか脈絡があるわけではない。
この脈絡のなさに、人間の意識がもつあてどなさを読み取っていいのか、それとも、何か技術的なぎこちない感じを読み取ればいいのか。ちょっとこの歌一首だけではわからない。

・おのづから井戸のくづるる 黙せよと言はるるまでもなく黙しきて

自分から井戸が崩れていく これだけでは何か実景としては想像しにくい光景だ。
しかし、下の句でなんとなく作者がどうしてこのような描写をしたのかがわかる。

おそらくこの井戸は、「わたし」の心のなかの井戸なのではないか。人から「黙せよ」と言われるまでもなく「黙し」きて、つまりこの作者は長い間、ずーっと、黙ってきたのだろう。そのうち、心のなかにある井戸が崩れてしまった。本来なら井戸が崩れるというのは長いスパンでじんわり崩れていくものだとおもうので、おそらく作者の心の「沈黙」もかなり長い時間が立っていたのだろうと推測する。

この歌は悲しい歌だ。黙せよと言われることもなく黙しきて、心のなかの井戸は崩れてしまう。そういう因果関係を読み取れればぼくはある種の感動をこの歌から受け取ることができるかもしれない。

・窓のうちにビル風聴けり置き去りにすることもさるることも済ませて

自分は窓の中でビル風の音を聞いている。
「置き去りにすることもさるることも済ませて」、これは誰かをビルの中で置き去りにしたとかいう、人のことだけ、ではなくて、もっとできごと一般の「こと」かもしれない。置き去りにすることもされることも済ませて、いろんな感情や出来事を置き去りにしてきたり、逆に置き去りにされてきたりしたことももう終わらせて、窓の中でビル風の音を聞いている。そういう歌だと思う。複雑な感情を扱った歌だと思った。

・藁積めば藁のうちにも窓閉ぢて軟禁をふかく憎まぬこころ

この歌は、ちょっとわからない。「藁のうちにも」という表現があまりにもざっくりしすぎていて、歌意を詰めきれない。藁の一本一本の内側に窓があったという光景は想像しづらいが、そう読むのが自然なのか。藁の束のなかに窓があったというほうがどちらかというと自然のような気もするけど、しかし下の句の「軟禁をふかく憎まぬこころ」というのは、一体何なのだろう。

七戸の歌は、読者にわかりやすく説明をしている歌はほとんどない。自分の内部内部の感情をぎこちなく歌に託しているように見える。その感じが好きかもしれない。

◆牛尾今日子「食べたら終わり」

牛尾の歌は安心する。わかりやすい。(七戸さんと比べて)
まあぼくが安心するという感想を書く事自体は、作者にとって不本意なことなのかもしれないけど、
日常生活のなかでちょっとした発見に注目しようとする感じがよくわかって、面白い歌が多い。

・玄関に座りこんだら背中からリュックが浮いてうまれる隙間

一体なんで座ったときにリュックと玄関の間にうまれる隙間に注目するんだろうというのが、不思議で、ほんとうに歌というのは不要なことに注目する心のありようが「面白い」と言われるジャンルなのだなあと感じた。素直にこころのなかにヒットしてきた。
げんかん、すわりこんだら、リュック、という「ん」と「っ」の連なりが歌にリズムを与えている。なんとなくホームランではなくて、クリーンヒットという感じがする歌。


・マックってマクドのことを呼ぶひとと見ている案内図 そうだよね

牛尾さんが関西の人なのは漠然と知っているのだけれど、われわれは関東人なのでマクドの事マックって言う。この歌の場合は、
そういうマックと呼ぶひとのことを歌っているんだろう。日常的なスケッチなのだが、そうだよね、というのは、おそらくこのマックと呼ぶ関東のひとと一緒に何か気づいた事があってうなずいていることなのだろう。明るい感じを受け取った。

・ふまじめな暮らしの夜の階段は電気をつけないで降りられる

ふまじめという響きが面白い。どうい生活を送っているのかはよくわからないけど、ふまじめな暮らしというふうに作者が自らをややひくめに言いながら、それとはあまり因果関係のない「の」の起き方が、またある種絶妙な味を出していると思った。

夜の階段は電気をつけないで降りられる、くらいだから、非常に慣れたマンションとか家の階段なのだろうけど、それを単純に電気をつけないで降りられる場所の説明をしないで、ふまじめな暮らしの、というふうにやや序詞的に作るのが面白かった。

今回はここまで。気になった歌をとりとめもなく書いていきます。

「批評ニューウェーブ」についての疑問への疑問への疑問への疑問?


未来1月号、4月号の中島裕介の時評では二つの「対立」について書かれている。

http://www.miraitankakai.com/comments.html

(4月号が現時点では最新。1月号は少し下にスクロールすれば読めます)

ちょうど手元に評論のために用意した資料を持っていたので、インターネット上での議論と併せて、この二つの「対立」についての議論の経緯が分かる状態だった。

今までは歌集などを初読で読んでの印象批評のようなものが中心だったこのブログだが、もうちょっと「きちんと調べて」「俯瞰的に見る」ような記事のほうが重要かなと思い、ささやかだが文章を書く事にした。

私自身は、最近「傾聴」の大切さというか、書かれた文章が何を書こうとしているか、細やかに相手の意見を聞くことが非常に大切なのではないか、と思っている。

この問題についてもちゃんと議論の出どころを抑えて、問題を整理しておいたほうがいいように思う。

まず、一つ目の「対立」の発端は山田航が2015年4月11日の東京新聞に、「批評ニューウェーブ」という記事を書いたことにある。

これに対して、大森静佳が結社誌「塔」の短歌時評でこの記事に対しての疑問を提出した。(私は初出に当たっていないので、ズルと言えばズルである)
http://toutankakai.com/magazine/post/4917/

それについては三上春海(2015年10月8日)
http://kamiharu.hatenablog.jp/entry/2015/10/18/231642


さらに久真八志(2015年11月20日)といった論客たちがそれぞれブログで意見を述べている。
http://blogs.yahoo.co.jp/okirakunakuma/64115590.html


特に九真は大森の時評について自身のブログで反論を述べており、見解の相違があらわになっている。

まず、少ない字数と締め切りという制約のなかで、短歌界でリアルタイムで起こったことについて、自らの見識のみを頼りにして、意見を述べなければならないという課題をこなしている時評の執筆者には敬意を表したい。

その上で私自身は、個人ブログの利点である、「締め切りがない」「字数が自由」という点を利用して、すこし込み入ったことを、できるだけ丁寧にわかりやすく文章にしていきたいと思う。

さて、この問題について個人的に議論を整理して行こう。

私自身の直感というか、第一印象では「「批評ニューウェーブ」って言われてもなあ」。という印象だった。

簡単に言うと、確かに統計を用いた批評も大事だと思うが、そこだけをクローズアップして、「ニューウェーブ」と名付けるのは新聞の誌面に掲載される時評としてはどうなのか、という疑念が湧いた。当初、私は、大森の「批評ニューウェーブへの疑問」をネットで読んだことから始まったので、大森の言っていることのほうが(なんとなく)私の考えていることに近いのではないか、と頷きながら読んでいたのであった。

しかし、山田の東京新聞の元の原稿を調べて読んで、私自身は大森の時評についても、やや粗っぽい見え方をしているかなとも思った。

たとえば、山田の時評について、大森は次のように指摘する。


まず議論の出だしである。

「例えば、光森裕樹は自身の運営するウェブサイト「tankaful」や「短歌研究」の時評(二~四月号)で、結社数や新人賞応募者の推移をグラフ化したものや統計データを活用してさまざまな問題提起をしている。田中濯は「短歌」の歌壇時評で、発行歌集数の推移を示すグラフを用いて歌集出版費用の問題に踏みこむ(二月号)。また、語彙計量ソフトを用いて歌集の分析をし(四月号)、歌集賞の在り方に疑問を投げかける(六月号)。「未来」の時評を担当する中島裕介も、結社論、電子書籍版歌集、著作権問題などをめぐって視野の広い批評を展開している。」(大森原文)

それに対して大森は次のように言う。

「いずれも短歌の未来を見据えた鋭い危機意識から書き起こされたものである。資料を集めて数字を拾い、グラフ化する作業には大変な手間と時間がかけられているだろう。」(大森原文)

ここまでは全くその通りで、私も光森、田中、そして中島の時評を読んで、大変な苦労をしているなあと思いながら拝読してきた。

しかし、問題になっているのは以下の箇所である。

「山田は、これら統計を活用した批評は従来の批評の在り方を転換させうると評価し、具体的な利点として①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる、②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる、という二点を挙げる。
 確かに、短歌の今後を照らすものとして統計データやグラフは貴重である。従来の印象や思い込みを覆す、スリリングな新鮮さもある。風通しもいい。その点、利点②に異論はない。ただ、①についてはどうだろうか。
 私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか。客観的であることはそんなに無条件で肯定されるべきことなのだろうか。歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。 」(大森原文)

もちろん、結社誌の時評という、非常に少ない文字数を考えれば、どうしてもまとめて自分の意見を言わないといけないという制約があったのだろう。そこは痛いほど伝わってくる。

その上で、大森はやや抑え気味に、

「私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか。客観的であることはそんなに無条件で肯定されるべきことなのだろうか。歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。」(大森原文)

と、反論を加えている。

このまとめて、やや比喩的に、(たとえば岡井隆の影響をうけている、と三上春海は指摘しているし、久真八志は、この部分を明確な「ミス」とまで言い切っている。)自分の意見を表明したところがやや粗っぽかったのかもしれない。

確かに私もこの箇所はすこし強引だったかもしれないと思う。

私が問題だと思ったのは、おそらく久真と同じところだと思うが、

大森がこの部分について「客観的な批評」、「透明な批評」、「つまらない」という感じで短くやや印象批評的に議論をまとめすぎてしまったことである。

これは山田の原文でもそうなっているが

「①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる」

というところと、

「②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる」

という二つの問題は、微妙に混線している。

「①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる」

これは一首あるいは一連あるいは一冊の歌(集)の「読み」についての話である。

「数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評」は客観的ではない、客観的であるという議論以前に、「自分がこの一首についてどう思ったか」という解釈を書くことが、「統計で分析できる」とはそもそも思えない。

まずもって、「統計で分析」された「一首の歌についての解釈」を光森も田中も中島も行っていない。

たとえば田中濯が角川短歌2月号で行っていたのは、私なりに要約すると、歌集の発行部数が減っているという現状をグラフ化し、その理由をいくつかまとめ、歌集出版という行為そのものが「おカネがかかる」という現実について述べたものである。私もむしろまったくお金がないので、身につまされながら読んだが、とてもわかりやすい「短歌を取り巻く環境について」の話だった。歌の読みについての話ではない。「統計を使用した分析」が新たな知見をもたらしたのは、山田、大森の時評で言えば、「②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる」の部分ではなかろうか。

田中は歌の読みに関わる部分として、やはり角川「短歌」6月号で「歌の背景」という時評を書いている。

・これはテキストマイニングという手法の紹介(簡単に言うと、文章の単位を出来る限り細かい語彙の「単位」に分類し、統計的に「数える」手法(「語彙計量」というものらしい)と、

・テキストマイニングが、「歌集を読み込むさいに、単語等の出現頻度をチェックして、そこから話を始める批評法」の助けになるということ、

・さらにはテキストマイニングが、「万葉集」において既に実践されていること。語彙計量や計量言語学といった分野が、議論が普遍性を獲得しやすい「議論のためのインフラ」になると述べていることなどが書かれている。

おそらく山田や大森が「ある程度客観的な議論をするためのインフラ」と呼んだものは、この計量言語学という新たな学術領域についての田中の知見を踏まえてのものだったのだろう。(ここが唯一短歌の「読み」と交差するところではある)

しかしこれも、突き詰めて言えば、「自分がこの一首についてどう思ったか」という解釈の分析ではない。テキストマイニングという新たな知見を含めたとしても、短歌の解釈についての個人の「主観」は揺らぐことがないのではないかと私は思う。

                       ※

さて、山田は実際には後の文章で、次のように書いている。(これは紙データを文字起こししているので、少し間違いがあるかもしれない。)

「こうした短歌批評のニューウェーブといえる動きが始動したことは、従来の短歌批評の方法の説得力を低下させるだろう。とりわけ、「この結社の歌人ならこうであるはず」「この世代ならこうであるはず」といった属人性に基づく批評は、根拠のないものとして排される。また、多様な表現ジャンルが相互に影響し合う現状においては、漫画なり現代美術なり社会学なり、短歌以外の知識を武器として歌論へ導入していくことが重要になる。当然一人では難しいので、エキスパートたちの集合知として、短歌批評は成り立っていゆくことになる。」2015年4月11日東京新聞「短歌月評」

山田はあまり無理なことは言っていない。とは一瞬思わせるだけの説得力を持っていると思う。

「漫画なり現代美術なり社会学なり、短歌以外の知識を武器として歌論へ導入していくことが重要になる。当然一人では難しいので、エキスパートたちの集合知として、短歌批評は成り立っていゆくことになる」

この部分は納得できる知見というべきところで、様々なジャンルの専門家たちが揃って、短歌は深まっていく。「エキスパートたちの集合知」ということは間違いない。もともと、たとえば大学で勉強したとしても、いろいろな学術部門があるし、もちろん計量言語学という分野を応用した短歌の批評があったら、そういう批評は積極的に私も読みたいし、興味がある。

ところが、その前の部分はどうだろうか。

「この結社の歌人ならこうであるはず」「この世代ならこうであるはず」といった属人性に基づく批評は、根拠のないものとして排される。」

確かにこういう「属人的な批評」をする人はいる。山田が誰を推定して言っているのかはわからないが、しかしこんな分析をする批評家は、「従来の短歌批評の方法」を用いる歌人だとしてもほぼ論外だと思う。それをまとめて、古い短歌批評と言われても、私は全く納得できない。一首の読みを細やかにすることが、属人的な批評に繋がるとは私には思えない。

もう一つ。

「漫画なり現代美術なり社会学なり、短歌以外の知識を武器として歌論へ導入していくことが重要になる。」

こちらのほうははっきりいって、こういう指摘をすることすら、もう時代遅れとしか私には思えない。

山田がおそらく把握している、「従来の短歌批評」ですら、「歌論」という枠組みだけでものごとを考えているとは思えない。少なくとも私の周囲の歌人たちは、様々な学術領域の影響を受けているので、これは私のいる環境が恵まれているのか、それとも山田の認識が間違っているのか、ちょっと考えこまざるをえなかった。

たとえば私自身が触れてきた歌人は、みな、何らかのジャンルのエキスパートだった。

文学、比較文学、哲学、美学、解釈学、精神分析、ポストコロニアリズム、あるいはいわゆるど基本の、言語学、国語学、
山田が指摘する「社会学」、「表象文化論」だって、当然視野に入っている方もいる。

既に現在の批評自体が、様々なジャンルの専門家が寄り集まって、一つの批評を形づくっていると思うのだ。既に、「短歌以外の知識を武器として歌論へ導入する」ことは、異なる学部の専門家である大学や大学院などを卒業した、一人ひとりの歌人が行っていることなのではないか。

もちろん、様々な学術領域の知識が導入され、山田の言う「エキスパートたちの集合知」を作っていくことは、これからも大切になるだろう。しかし、山田自身が、「従来の短歌批評の説得力が低下する」と指摘している文章の根拠は、あまりにも薄弱なものではないかと思えた。

確かにいろいろなところから知識を重ねて、短歌は読みを深くしていくと思う。
もちろん、社会学や表象文化論を用いた批評を誰かがこれから書いて行くならそれは望ましいことだが。

やはり前提となるのは、従来の歌論というか、歌のよみの蓄積をしっかり当たって、その上で「新しい読みではこう読めるよね」ということまで明らかにした歌についての分析なのではないかと思った。

一応ぐるぐる回って、私自身は、どこが批評ニューウェーブなのか。という最初の直感に戻ってくるに至った。

ひとつ目の「対立」、中島裕介が1月号の時評で述べていた意見の相違に対する私の見解は、おおむねこのようなものだと思う。

二つ目の対立については、要望があったら書くが、おおむね、山田の文章のやや視点を変えた角度からの読みなおしなので、あまり意味がないかもしれない。

(2016・4・10 書き下ろし)

堀合昇平さん、『提案前夜』

もうすっかり遅くなってしまって。。。

発刊が2013年ですから、感想としては相当出遅れた形になってしまいました。本来なら堀合さんが日本にいらっしゃるときに感想を書いて、ご本人ともいろいろお話をしたかったのですが、ぼく自身にこのブログを続けるかどうかということに対する逡巡があったり、いろいろ個人的な都合で結局今日の今日まで感想を書けずじまいになってしまいました。

感想が遅れたことをお詫びしつつ。
気を取り直して書いていきたいと思います。

堀合さんの歌は、「未来」の誌上で読んでいる時は面白くもなんともないと思っていたのだけど、
歌集という形にしてみると、低いが同じ熱量で何かを確実に伝えて来る、そういう感触を確かに持っている歌集だと思います。

この歌集の作品世界は華やかで、ひとを魅了するような青春歌でもなければ、季節のうつろいを歌った「もののあはれ」でもありません。修辞もはっきりいって地味で、歌っている内容も無機質な職場詠。一首単位でパッと見せられると、うーん、そんなに目立っていい歌かなあという感じでもないです。

しかし並べられたお歌を連作として読んでいくと、何かひりひりした感触が伝わってくる、そんな仕掛けになっているように思います。

何よりこの世界観は怖いです。どういうふうに歌を引用すればいいのかな、とあれこれ考えていたのですが、例えば中家菜津子さんの引用が的確かもしれません。

「わたくしの消去」について / 「東海歌壇 岡井隆講演」 夏嶋真子(中家菜津子) 

中家さんは歌集の「末尾が0になるところから機械的に抜き出した」と言っています。これは引用としては不思議な形に見えるのですが、中家さんの論旨を読むと納得できます。

私なりに敷衍すると、堀合昇平という一人の歌人の個性が、長いスパンでずっと文体を変えずに、ぶれずに堀合昇平という「私」を貫いているために、それが反転するような形で、堀合さんという輪郭線が「普遍的なサラリーマンの姿にまで深化している」ということのようです。面白い見方だと思います。

中家さんはさらにこう続けます。

「無私な観察により事実を「美しく」詠んだとしても、記録の域を脱出することはできない。堀合氏は現実の出来事の中から事実ではなくひとつの詩想とひとつの真実を見つめている、社会へと大きく開かれた目をもって。それを独自の文体で描くことでサラリーマン生活という日常が、詩性の備わったリアリズムへと昇華される。」

さて、リアリズムというキーワードが出てきました。

近代短歌以来というのか、リアリズムは例えば自然とか、季節のうつろいとか、そういうものとセットになってきていました。しかし現代でリアリズムで歌をつくろうとするとき、どうでしょう。私たちは庭に咲くこでまりの花にリアリティを感じるでしょうか。これだけ過酷なオフィスワークを強いられて、たとえばブラック企業みたいなものが問題となるときに、私達の現代のリアリティは堀合さんが開拓したように、空調の音とか、職場での会議とか、そういう一見すると「歌になるのか」というところに、むしろ隠れているのではないかという問題提起があるようです。

一首も引用しないままでこの感想を終えるわけにはいかないので、私なりに歌を引用します。
 
 違う、僕じゃない。
胸ぐらを掴む男の胸元にIDカードが揺れていたこと(9)

胸ぐらを掴む男というのは、おそらく上司なのでしょうが、このお歌は詞書の「違う、僕じゃない。」という言葉とセットで読むと、ある無機質な感じが出てくるように思います。胸元に揺れていたIDカード。そして「違う、僕じゃない。」という切迫した詞書。ここには、荒っぽさと同時に、現代の「交換可能な私」への鋭い認識が詩になっていると思います。

IDカードを壁に翳(かざ)せばひらくドアのたぶんわたしがここにいること(22)

同じようなお歌は前半にもう一首あります。こちらのほうがわかりやすいですが、破壊力という意味では前のお歌のほうがいいかなと思います。「違う、僕じゃない。」という詞書が、端的にもう言い表していると思うのです。

さて、続いてもう一首。

部屋が暑い理由が判った。
仕様書は冷たい。痩せた指先で夏なのに塗るハンドクリーム(12)

なんとも言えず気持ちの悪い歌です。何の気持ち悪さなのかというと、はっきりとハンドクリームの気持ち悪さだと思います。痩せた指先にハンドクリームを塗る。本来なら保湿とかちょっとおしゃれとか、そういう目的で使うハンドクリームが見事に反転されてしまっていて、夏に塗るハンドクリームって気持ち悪いだろうなあという感触だけが伝わってくる。この決して癒しとかそういうところに向わない「ハンドクリーム」の気持ち悪さ。これが堀合さんの本領なのではないかと思います。

「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が揺さぶる(25)

このお歌、もう堀合さんの代表歌に完全になりました。「ナイス提案!」って一見するとユーモアがあって面白みのあるフレーズだけど、これは決して上司とかに言っているんではなくて、夢のなかで言っているんだと思います。このナイス提案!は、見事に悪夢だと思います。堀合さんの悪夢ではなく、現代の悪夢。そういうところを見事にとらえたお歌だと思いました。その後、うす闇に叫ぶもエグいなあと思いますし、それを妻が揺さぶる、というのもうまいです。「あなた、しっかりして」と揺さぶっているのでしょうか。私はここに救いようのない職業人の怖さのようなものを感じ取りました。救いを無理に読まないほうがいい歌であるように思います。

あと指摘しなければいけないのは、加藤治郎さんを始めとする現代短歌の影響です。決して堀合さんが本歌取りをうまくやっているという印象はないのですが、これだけ直球でニューウェーブを継承しようとしたというか、加藤治郎を継承しようとした歌人もかなり珍しいと思います。

「ロスジェネ」という一連には、記号短歌を模した

ホントウノジブンサガシニトラワレテケイサンドリルノコタエノヨウナ
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 (23)

という一首があります。僕は記号短歌であろうがなかろうが、背後にやはりその記号を選ばせるだけの内的必然性が必要だと思っているのですが、この歌にはそれだけの精神があると思います。白紙の計算ドリルを表す□の連打は、必ずしも目新しさはないような気もするのですが、それでも現代の「自己啓発」とか「自分探し」に対する精一杯の皮肉が見て取れるので、手法の目新しさというよりも、その背後の「批評精神」のほうを読み取りたいと思います。

他にも加藤治郎さんを始めとした先行する短歌の、いわばパロディのような歌が多かったです。

・反骨者(パンクス)のようにフロアを歩こうよネクタイ首に巻きつけながら(40〉

・いま僕の脳は機能を失ってタメ口たたく 大会議室(40)

やはり加藤治郎から短歌に入った私は爆笑してしまったのですが、

「~しようよ、~しながら」というのは完全に加藤治郎の歌の形だと思いますし、
「いま僕の脳は機能を失って」~は「濡れたガーゼに包むみつばち」という加藤治郎の「ブレイン・ダメージ」の有名な一首が思い浮かびます。ただちょっとこれらの歌はパクリにしてはうまく言っていないかもしれないと思いますし、加藤さんへの挨拶かなと思いました。そうするとⅡ章のタイトルになっている「シオリ」というのも、「ハルオ」へのオマージュかなということを考えたりして、全般的に加藤愛が満ちているなあという印象を受けました。

寝不足の朝に差し込む歯ブラシのざらつく感じ そうあの感じ(27)

と思ったらこれは中澤系のフレーズですね。さすが。

他にも、ぼくが個人的に好きだなと思った歌です。

みな前を向くから僕も前を向くデスクトップの遠い草原(28)

ふいに詩が奔ったようで手を止める機器構成明細第2・4版に(36)

冷えたゼリーに桃を掬えば知るだろうつまりはイメージの問題なんだ(37)

その他のゴミとかかれた箱の前とまれば捨てるその他のゴミ(48)

梅雨明けをニュースは告げる 堕ちぬため働くのだと何故言い切れぬ(55)

地下鉄にスマートフォンの溢れいてゼビウスをやるおんなに萎える(74)

市場にはデッキブラシの音だけが響いてふいに夏の気配が(90)

どの歌も、なんというのか、現実に足をつけているのですが、少しポエジーがあるかなというお歌です。ぼくが選ぶ歌というのは、単純にうまく言えてる歌ではなくて、ぼくなりに「美しさ」を感じる歌だと思います。

一首目、「みな前を向くから僕も前を向く」というのは多分職場で、パソコンの画面を全員見ているので、自分もというふうに前を向いたのでしょう。それがなんだか、日本的な同調圧力の暗喩にもなっているような上の句の怖い描写です。それが、突然デスクトップの遠い草原という美しい描写に変わる。もちろん、職場のPCですから、壁紙なんて設定されておらず、元のWindowsの画面のままなのでしょう。上の句描写のとおり前を向いたら、ふいに読者とともにデスクトップの草原を目にする。なんとも言えず美しい発見で、動きがあるのがいいと思います。


「ふいに詩が奔ったようで~」のお歌は僕すごく好きです。詩が奔ったようでというフレーズがとてもいいですね。でその詩が奔ったものというのが、機器構成明細2・4版というなんか現代的で詩なんて感じないようなものだった。そういう日常の苦しい仕事の場面に詩が奔ったような感じを抱く。ささやかな抵抗といいますか。窒息しそうな日常に詩を感じる場面があるよという歌ですね。

三首目「冷えたゼリーに桃を掬えば~」のお歌。これも素晴らしくいい歌だと思います。多分これもシーンとしては何か上司と部下の会話で「いやいや、それをこうするのはイメージの問題なんだ」といっているようですが、この歌は、美しいです。冷えたゼリーに桃を掬えばという言い回しもなめらかで、そのあとイメージの問題なんだ、と言う韻律も美しいので、そういう職場のシーンを無理に当てはめなくても歌として味わえると思います。

「その他のゴミ」の歌は、一瞬松木秀さんの歌かなとおもうくらいややニヒリスティックなものの把握の仕方がいいと思います。誰も自分が出したゴミのことを最初からその他のゴミと認識している人はいないのでしょうが、「その他のゴミ」の前に止まれば「その他のゴミ」にその他のゴミを捨ててしまうわけで。人間の認識の問題を、ゴミという身も蓋もないものに捉えて考えている歌だと思いました。

五首目「梅雨明けを~」のお歌。現代の暗部を見ています。いまじぶんが働いているのですが、それは堕ちぬため働かぬと言い切れるわけでもない。もしかしたら今の自分の生活も堕ちているのではないか、ふとそんな感慨がよぎったりするのでしょう。上の句の梅雨明けをニュースは告げる、というのがなんとなく明るい感じですが、それと下の句の急迫な口調がよくついているとおもいます。

六首目 スマートフォンで「ゼビウスをやるおんな」ってどんな人なんだろうと思うんですが、これがパズドラとかだったら普通だよなあと思うんですが、ゼビウスという言葉のチョイスがいいんじゃないかなと思います。ゼビウスかあ。昔やりましたね(遠い目)。言葉の感触として、ゼビウスってすごく懐かしいのに、なんか寂しい感じがあって、これがぴったり歌についているんだと思います。ただ、「溢れいて」という文語の混ぜ方、僕は堀合さんの文体ならこういうドライな文語の入れ方もいいかなという気はするんですが、気になる人はいるかもしれません。スマートフォンとしっかり訳さずに歌にするあたりにも、実直な人柄が溢れていて好感をもちました。

七首目。光景としては市場の朝だと思うんですよね。みんなそれぞれデッキブラシの音を響かせて廊下を掃除していて、そういうときになんともなく夏の気配がした、という歌だと思うのですが。デッキブラシの音が響くということと、不意に夏の気配がするということはなんでそう関連付けられるの?というくらい関係のないことだと思うのですが、このお歌の場合、その遠さがとてもいいと思います。

散漫に書いて来てしまいましたが、ちょっとむずかしいかなと思った箇所もあります。

一点目は、確信犯なのでしょうからあんまり問題にしませんが、堀合さんの長所でもあり短所でもあるところです。冒頭でも述べましたが、この歌集はとにかく職場詠が多いです。不器用と言ってもいいでしょう。とにかく、シオリという連作になるまで職場詠ばかりやっていて、シオリでちょっとだけ家族を詠っていてまた職場詠。この構成、これだけつらつらと同じトーンの世界ばかりを並べられたら、今後どうするんだろうな、とちょっと余計な心配をしたくなります。この構成だとどうしても前半、というか前半から中盤くらいまでにいい歌を見つけてしまって、後半がお腹いっぱいという感じになるかもしれません。

もう一つは、はっきりと歌の出来栄えにムラがあること。もちろん、第一歌集ということですから、歌のできばえにムラがあってもいいと思うのですが、これだけ同じトーンの歌が並んでいると、ああ、これはなんとなく詩として機能しているなという感じの歌と、んー。ちょっと微妙だなという歌の差が目立ってしまうと思うんです。この出来栄えの差は、私たちが感得するリアリティの差と言っていいのかもしれません。

堀合さんの短歌のリアリティは、近代=現代短歌が持続させてきたリアリティとは少し微妙に質が違っていて、堀合さんの歌の世界には「現代的」なリアリティはあるんですが、それが果たして「リアリズム」から来ているのか、というと全面的に中家評には賛同しかねるかな、という感じがします。短歌のリアリティには、もちろん「体験的によくわかる、ささる」という感じのリアリティは確かにあるけど、近代=現代短歌と接続していくなかで、やっぱり細かくものを見ていくというリアリティも大切で、堀合さんにはそういう「描写」が粗っぽい歌が多いように思います。

いくつか歌を引いて指摘したいと思います。

たとえばこういう歌ではいわゆる「リアリズム」、ものを見るということがうまく機能しているなという感じがあります。

組み結ぶ足つぎつぎとほどかれてほどかれぬ一組につまづく (48) 

ブラインドタッチを統べるつややかな指は依頼を拒みつづける (68)

一首目、これぞというくらい見事な出来栄えです。電車か何かに載っていて、自分が歩いていると周りの人間はみんな足を組んでいる。それが自分が移動していくと、みんな通路を譲って組んだ足を解いていくのですが、なかに気の効かない人というのがいて、その人の足に思わずつまづいてしまった。これが見るというか、観察ということ見事にを体現しているなあと、思いました。

二首目は、統べる、がうまい言い回しです。これは女性の事務員を観察している歌だと思いました。ブラインドタッチを統べるつややかな指、というのはおそらく女性の指だろうと思います。その人が上司からの依頼を拒みつづけている。そういう様子を観察していて、とてもうまいと思いました。

逆にこういう歌はどうなんだろうと思います。

週末にはなやぐ声を聴きながら塩の吹き出たスーツで歩く(18)

ゴミ収集車の過ぎ行けば後ろから生臭い風が吹いてくる(75)

一見するとリアリズムの歌に見えるのですが、一首目、はなやぐという言い回し、これは週末という言葉から連想されているだけであって、観察しているわけではありません。塩の吹き出たスーツというのも夏という感触は伝えて来るのですが、見慣れた言葉かなあと思います。突出してよく見えるなあという歌がある一方で、どちらかというと平板な歌が多いと、思います。

二首目も、悪くはないのですが、ゴミ収集車の過ぎ行けば、という急迫な声調のあとでゆっくりと「生臭い風が吹いてくる」、って言うと声調が挿入されるので、なんだか弛緩した感じになります。のんびりとした「生臭い風」だなあと思いました。これは下手をすると散文なのかなという印象もあります。事実をありのまま歌えば描写になるというわけでもないのです。

どうしてもこういう歌の呼吸というか、歌の文体ということをうまくコントロールできていないために、どうしてもキレのない歌、散文的な歌が増えてしまうのではないかと思います。

とても長々と感想を書きました。

堀合さんは外国に旅立ってしまったということなので、歌について語る機会があまり持てなかったのは残念なのですが、またどこかでお目にかかる日もあることを祈って筆を置きたいと思います。新しい境地を獲得されることをお祈りしています。

守中章子さん、『一花衣』

だいぶ間が開いてしまって、ブログで文章を書くのが久しぶりになってしまいました。
少しずつですが、歌集の感想書きを復活させていただきたいと思います。

本来なら2013年ぐらいから「続き」で読んだ歌集の感想を書くところなのですが、、
ちょうど直近で批評会があって、書きやすいので未来の守中章子さんの歌集から始めさせてください。

これ以上だらだらと伸ばすと、批評会の記憶そのものが薄れてしまって、もう何を書いていいのかわからなくなってしまいそうなので。。。

守中章子さんの批評会、私などは到底お近づきになれないであろう詩の方がたくさんお越しになられていて、100人ぐらいはいらっしゃったでしょうか、大盛況でした。

(記憶が薄れているのですが)批評会のパネルディスカッションでは、この歌集の「死」の気配が指摘されていたように思いっます。私も詳しくは存じあげないのですが、どうやら守中さん自身がやはりお身内の方の死をきっかけにして作歌を始められた方らしいということで、その歌集のテーマも必然的に死の気配をまとっていると思います。

私自身も、自分の祖母の死がテーマになった連作とか、うつ病で死にかけた経験というのを歌にしていた経験があるので、共感しながら拝読しました。ただ、その「死」に対するアプローチは私自身とはかなり違うな、と思いました。。。
                                
私はどちらかというといつも短歌を「ぼんやりとした感情の襞のようなものを、おそるおそる、言葉にしていく」という手つきで言葉にしていると思います。言葉を紡ぐとき、いつもなるべく「ぼんやり」したものを少しでも言葉に近づけたい、声にしたい。そういう欲求がいつも心のなかに沸き起こってくる。そういう作歌衝動があるのですが、

『一花衣』を読んでいると、そんな私とはまったく別のスタンスで言葉そのものに誠実に向き合う作者の姿が見えてきます。大胆に世界をまるごとつかむような、死を無理やりこちら側に引き寄せようとするというか、なんとなくロックンロールな認識の仕方をする作者だという印象がありました。

言葉に対するスタンスが若干違うので、私にとって大切な歌は、守中さんの渾身の歌とは若干違うかもしれません。

・さうだよねときはゆつくり進むから いまは未生つていふ場所にゐる(10)

このお歌が最初目に止まりました。文語調の歌が多いのですが、このお歌は岡井隆を彷彿とさせるゆったりとした口語調で、未生つていふ場所にゐる、という言葉が謎めいています。これは花が未生であるという状態とってもいいのだろうし、解説にあるように仏教用語の未生をとってもいいのだろうし、一首のなかに多義的な意味を孕んでいて、奥行きを感じさせる歌です。口語の呼吸がとてもゆっくりしていて、いいと思いました。

・幾千のことばを薄茶で飲みしづめしらさぎの立つ器を置きぬ(14)

ことばについて考えた歌はたくさんありますが、この歌も美しい歌だと思いました。。「しらさぎの立つ器」は実景としてとってもいいし、心象風景としてとってもいい。この実景としてもいいし心象風景としてもいいという読みの多義性を誘うような作品が私はとても好きだと思います。


・かなしみはボディブローのやうでありゆがむ画面に立ちあがるボクサー(54)

この歌は私にとって驚くべき発見だった歌。かなしみはボディブローという上の句が、まさに自分の体感と一体化しているようで、かなしみときたら僕なんかはもっと美しい言葉をつけようとすると思うのですが、いきなりボディブローという二句目に虚を付かれました。心ではなく腹の底にしずしず響いてくるものなのだろうな、という、少し驚いた歌でした。立ちあがるという表現も荒っぽくて、成功していると思います。

冬のあさ声をころして呼びてみるめざめのきはに会ふはずだつた(60)

ゆふぐれに読まるる詩には「せかい」とふ語のあらはれて母音ひびきぬ(94)

うなづきて熱き紅茶をすすりつつ赦すはうへと身はかしぎゆく(102)

かなしみをしづかに持ちて運びゆく木下闇(こしたやみ)抜けつぎの暗渠へ(106)

向日葵を購はむかな両の手にあふるるほどのあの日のこゑを(110)

われひとりめざめをりたる病棟に真夜しろき馬しづかに立ちぬ(123)

まなかひにひろがるものをうす霧と呼べり不安と未だ呼ばずして(126)

少し順番が前後しますが、私が好きだと思うタイプの歌はいずれも歌集の中ほどにあらわれてきました。詳しくは書ききれないのですが、126ページ。不安と名付けられる前の「うす霧」。

102ページの動作のなかに気持ちを込めた感じというのか、「赦すはうへと身はかしぎゆく」という所作の、さりげない描写の感じ。110ページの「向日葵」には「あの日のこゑ」がオーバーラップされて投影される。こういう描写と心象が入り組んだ歌をとても好きだと思いました。

しかしこの歌集における作者の本領はおそらくこういった複雑な歌ではないのだろうとも思います。

もっとも深甚だったのは、炎天に立っている亡父に「待ちやがれ」と思わず絶唱してしまうような、わしづかみにされるような言葉の大胆な使い方でした。

待ちやがれかげろふゆらぐ炎天に亡父立ちをりえい待ちやがれ(64)

この歌はとても成功していると思うし、気持ちもわかるのだけれど、私はどちらかというと「死」に対して怖れを抱いているというか、そんな死んだひとに対して待ちやがれなんて怖くて言えません。。。

直球のこれらの歌には、やはりストレートであるがゆえに持っている粗さのようなものも同時に持っていると思いました。

たとえば以下の2首はどうでしょうか。

もうたれも死ぬことなかれまどろみて深夜のベルに素足で走る(44)

吾子還らば雪水与へむ賢治のごといやむしろこの生命与へむ(58)

44ページの「もうたれも死ぬことなかれ」という感慨は、作者がお寺で暮らしているらしいという実感からすればよくわかるものだし、おそらく深夜に急報が入って自分自身が走り回っているのだろうと思います。

しかし私はこの歌が持っているある種のヒューマニズムには完全に乗りきれませんでした。死ぬことは避けては通れない。人は運命には逆らえない。それに対して表現の上だけで抗おうとするのはいささか強引すぎるように感じました。

58ページの素直な心情吐露も私は完全には乗り切れませんでした。ストレートで大胆に母の気持ちを大胆に歌っているのはいいと思うのだけど、運命に対して内省するというよりは、どちらかというと運命をねじまげようとしすぎているという感触が、何か世界の外に出て言葉を発しようとしている態度に捉えられてしまって、少し収まりが悪く拝読しました。

この作者は言葉に対しても、かなり無理な冒険というか、言葉そのものを歌にしようとしている姿勢が現れていて、それは冒険ではあるのだけど、ときどき言葉が雑になってしまう感じがある。


アの音を聞かせてほしいあのときのくちのかたちさとてもきれいだ(16)

脚韻を踏む美しけさに触れしのち愛恋といふ迷路に入りぬ(139)

「DETRUIRE(でとぅりゆいる)」かのじよは叫ぶ夜をこめてRに巻かれ樹になるまでを
(150)

とめどなく語るくちから翻(こぼ)るるは冠詞接尾語指示代名詞(150)

これらの歌は言葉そのものや、かなり概念的なテーマについて述べています。これは私の短歌へのスタンスとは大きく異なる部分だと思います。もちろん、言葉そのものについて触れた喜びというのを歌にするのはいいことだと思うのだけど、言葉にふれた喜びを、言葉で表現するということに、少し荒っぽさというか自己矛盾があるような気がします。これらの短歌には私の大好きな謎がないように思いました。

一首目、アの音を聞かせてほしい、というのは言葉そのものへの愛着のようなものですが、そのあとであのときのともう一度あ音を使ってしまうあたりが、なんとなくダメ押しな感じがして、あんまりおもしろいとは思えませんでした。

二首目、脚韻を踏むしずけさと愛恋はあんまり関連がないというか、言葉をこう、ゴタゴタゴタっと並べてしまっただけ、という感じがします。

三首目、DDETRUIRE(でとぅりゆいる)」のあとに、Rが出てきてしまう感じ。このへんがなんとも言えず僕にはダメ押し感があって、言葉付きが汚いように感じます。

四首目、うーん。言葉って本来は名付けられないものだと思うんですよね。国語学を勉強しているひとには申し訳ないんですが、冠詞接尾語指示代名詞という収め方は、僕には全く賛成できません。そういう言葉を言葉で難しくしようとしても、僕は全く乗れないです。

いろいろと難も書いてしまいましたが、僕はこの作者の立ち位置にすごく共感しつつ、その手つきにはあまり賛成できないという感じかもしれません。ロックンロールよりもウィスパーボイスを好む、僕の好みではなかったという説明の仕方でいいのかな、と思いつつ。

この歌集についての感想はこの辺りにしたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。