ダストテイル-短歌と散文のブログ-

「批評ニューウェーブ」についての疑問への疑問への疑問への疑問?


未来1月号、4月号の中島裕介の時評では二つの「対立」について書かれている。

http://www.miraitankakai.com/comments.html

(4月号が現時点では最新。1月号は少し下にスクロールすれば読めます)

ちょうど手元に評論のために用意した資料を持っていたので、インターネット上での議論と併せて、この二つの「対立」についての議論の経緯が分かる状態だった。

今までは歌集などを初読で読んでの印象批評のようなものが中心だったこのブログだが、もうちょっと「きちんと調べて」「俯瞰的に見る」ような記事のほうが重要かなと思い、ささやかだが文章を書く事にした。

私自身は、最近「傾聴」の大切さというか、書かれた文章が何を書こうとしているか、細やかに相手の意見を聞くことが非常に大切なのではないか、と思っている。

この問題についてもちゃんと議論の出どころを抑えて、問題を整理しておいたほうがいいように思う。

まず、一つ目の「対立」の発端は山田航が2015年4月11日の東京新聞に、「批評ニューウェーブ」という記事を書いたことにある。

これに対して、大森静佳が結社誌「塔」の短歌時評でこの記事に対しての疑問を提出した。(私は初出に当たっていないので、ズルと言えばズルである)
http://toutankakai.com/magazine/post/4917/

それについては三上春海(2015年10月8日)
http://kamiharu.hatenablog.jp/entry/2015/10/18/231642


さらに久真八志(2015年11月20日)といった論客たちがそれぞれブログで意見を述べている。
http://blogs.yahoo.co.jp/okirakunakuma/64115590.html


特に九真は大森の時評について自身のブログで反論を述べており、見解の相違があらわになっている。

まず、少ない字数と締め切りという制約のなかで、短歌界でリアルタイムで起こったことについて、自らの見識のみを頼りにして、意見を述べなければならないという課題をこなしている時評の執筆者には敬意を表したい。

その上で私自身は、個人ブログの利点である、「締め切りがない」「字数が自由」という点を利用して、すこし込み入ったことを、できるだけ丁寧にわかりやすく文章にしていきたいと思う。

さて、この問題について個人的に議論を整理して行こう。

私自身の直感というか、第一印象では「「批評ニューウェーブ」って言われてもなあ」。という印象だった。

簡単に言うと、確かに統計を用いた批評も大事だと思うが、そこだけをクローズアップして、「ニューウェーブ」と名付けるのは新聞の誌面に掲載される時評としてはどうなのか、という疑念が湧いた。当初、私は、大森の「批評ニューウェーブへの疑問」をネットで読んだことから始まったので、大森の言っていることのほうが(なんとなく)私の考えていることに近いのではないか、と頷きながら読んでいたのであった。

しかし、山田の東京新聞の元の原稿を調べて読んで、私自身は大森の時評についても、やや粗っぽい見え方をしているかなとも思った。

たとえば、山田の時評について、大森は次のように指摘する。


まず議論の出だしである。

「例えば、光森裕樹は自身の運営するウェブサイト「tankaful」や「短歌研究」の時評(二~四月号)で、結社数や新人賞応募者の推移をグラフ化したものや統計データを活用してさまざまな問題提起をしている。田中濯は「短歌」の歌壇時評で、発行歌集数の推移を示すグラフを用いて歌集出版費用の問題に踏みこむ(二月号)。また、語彙計量ソフトを用いて歌集の分析をし(四月号)、歌集賞の在り方に疑問を投げかける(六月号)。「未来」の時評を担当する中島裕介も、結社論、電子書籍版歌集、著作権問題などをめぐって視野の広い批評を展開している。」(大森原文)

それに対して大森は次のように言う。

「いずれも短歌の未来を見据えた鋭い危機意識から書き起こされたものである。資料を集めて数字を拾い、グラフ化する作業には大変な手間と時間がかけられているだろう。」(大森原文)

ここまでは全くその通りで、私も光森、田中、そして中島の時評を読んで、大変な苦労をしているなあと思いながら拝読してきた。

しかし、問題になっているのは以下の箇所である。

「山田は、これら統計を活用した批評は従来の批評の在り方を転換させうると評価し、具体的な利点として①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる、②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる、という二点を挙げる。
 確かに、短歌の今後を照らすものとして統計データやグラフは貴重である。従来の印象や思い込みを覆す、スリリングな新鮮さもある。風通しもいい。その点、利点②に異論はない。ただ、①についてはどうだろうか。
 私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか。客観的であることはそんなに無条件で肯定されるべきことなのだろうか。歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。 」(大森原文)

もちろん、結社誌の時評という、非常に少ない文字数を考えれば、どうしてもまとめて自分の意見を言わないといけないという制約があったのだろう。そこは痛いほど伝わってくる。

その上で、大森はやや抑え気味に、

「私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか。客観的であることはそんなに無条件で肯定されるべきことなのだろうか。歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。」(大森原文)

と、反論を加えている。

このまとめて、やや比喩的に、(たとえば岡井隆の影響をうけている、と三上春海は指摘しているし、久真八志は、この部分を明確な「ミス」とまで言い切っている。)自分の意見を表明したところがやや粗っぽかったのかもしれない。

確かに私もこの箇所はすこし強引だったかもしれないと思う。

私が問題だと思ったのは、おそらく久真と同じところだと思うが、

大森がこの部分について「客観的な批評」、「透明な批評」、「つまらない」という感じで短くやや印象批評的に議論をまとめすぎてしまったことである。

これは山田の原文でもそうなっているが

「①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる」

というところと、

「②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる」

という二つの問題は、微妙に混線している。

「①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる」

これは一首あるいは一連あるいは一冊の歌(集)の「読み」についての話である。

「数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評」は客観的ではない、客観的であるという議論以前に、「自分がこの一首についてどう思ったか」という解釈を書くことが、「統計で分析できる」とはそもそも思えない。

まずもって、「統計で分析」された「一首の歌についての解釈」を光森も田中も中島も行っていない。

たとえば田中濯が角川短歌2月号で行っていたのは、私なりに要約すると、歌集の発行部数が減っているという現状をグラフ化し、その理由をいくつかまとめ、歌集出版という行為そのものが「おカネがかかる」という現実について述べたものである。私もむしろまったくお金がないので、身につまされながら読んだが、とてもわかりやすい「短歌を取り巻く環境について」の話だった。歌の読みについての話ではない。「統計を使用した分析」が新たな知見をもたらしたのは、山田、大森の時評で言えば、「②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる」の部分ではなかろうか。

田中は歌の読みに関わる部分として、やはり角川「短歌」6月号で「歌の背景」という時評を書いている。

・これはテキストマイニングという手法の紹介(簡単に言うと、文章の単位を出来る限り細かい語彙の「単位」に分類し、統計的に「数える」手法(「語彙計量」というものらしい)と、

・テキストマイニングが、「歌集を読み込むさいに、単語等の出現頻度をチェックして、そこから話を始める批評法」の助けになるということ、

・さらにはテキストマイニングが、「万葉集」において既に実践されていること。語彙計量や計量言語学といった分野が、議論が普遍性を獲得しやすい「議論のためのインフラ」になると述べていることなどが書かれている。

おそらく山田や大森が「ある程度客観的な議論をするためのインフラ」と呼んだものは、この計量言語学という新たな学術領域についての田中の知見を踏まえてのものだったのだろう。(ここが唯一短歌の「読み」と交差するところではある)

しかしこれも、突き詰めて言えば、「自分がこの一首についてどう思ったか」という解釈の分析ではない。テキストマイニングという新たな知見を含めたとしても、短歌の解釈についての個人の「主観」は揺らぐことがないのではないかと私は思う。

                       ※

さて、山田は実際には後の文章で、次のように書いている。(これは紙データを文字起こししているので、少し間違いがあるかもしれない。)

「こうした短歌批評のニューウェーブといえる動きが始動したことは、従来の短歌批評の方法の説得力を低下させるだろう。とりわけ、「この結社の歌人ならこうであるはず」「この世代ならこうであるはず」といった属人性に基づく批評は、根拠のないものとして排される。また、多様な表現ジャンルが相互に影響し合う現状においては、漫画なり現代美術なり社会学なり、短歌以外の知識を武器として歌論へ導入していくことが重要になる。当然一人では難しいので、エキスパートたちの集合知として、短歌批評は成り立っていゆくことになる。」2015年4月11日東京新聞「短歌月評」

山田はあまり無理なことは言っていない。とは一瞬思わせるだけの説得力を持っていると思う。

「漫画なり現代美術なり社会学なり、短歌以外の知識を武器として歌論へ導入していくことが重要になる。当然一人では難しいので、エキスパートたちの集合知として、短歌批評は成り立っていゆくことになる」

この部分は納得できる知見というべきところで、様々なジャンルの専門家たちが揃って、短歌は深まっていく。「エキスパートたちの集合知」ということは間違いない。もともと、たとえば大学で勉強したとしても、いろいろな学術部門があるし、もちろん計量言語学という分野を応用した短歌の批評があったら、そういう批評は積極的に私も読みたいし、興味がある。

ところが、その前の部分はどうだろうか。

「この結社の歌人ならこうであるはず」「この世代ならこうであるはず」といった属人性に基づく批評は、根拠のないものとして排される。」

確かにこういう「属人的な批評」をする人はいる。山田が誰を推定して言っているのかはわからないが、しかしこんな分析をする批評家は、「従来の短歌批評の方法」を用いる歌人だとしてもほぼ論外だと思う。それをまとめて、古い短歌批評と言われても、私は全く納得できない。一首の読みを細やかにすることが、属人的な批評に繋がるとは私には思えない。

もう一つ。

「漫画なり現代美術なり社会学なり、短歌以外の知識を武器として歌論へ導入していくことが重要になる。」

こちらのほうははっきりいって、こういう指摘をすることすら、もう時代遅れとしか私には思えない。

山田がおそらく把握している、「従来の短歌批評」ですら、「歌論」という枠組みだけでものごとを考えているとは思えない。少なくとも私の周囲の歌人たちは、様々な学術領域の影響を受けているので、これは私のいる環境が恵まれているのか、それとも山田の認識が間違っているのか、ちょっと考えこまざるをえなかった。

たとえば私自身が触れてきた歌人は、みな、何らかのジャンルのエキスパートだった。

文学、比較文学、哲学、美学、解釈学、精神分析、ポストコロニアリズム、あるいはいわゆるど基本の、言語学、国語学、
山田が指摘する「社会学」、「表象文化論」だって、当然視野に入っている方もいる。

既に現在の批評自体が、様々なジャンルの専門家が寄り集まって、一つの批評を形づくっていると思うのだ。既に、「短歌以外の知識を武器として歌論へ導入する」ことは、異なる学部の専門家である大学や大学院などを卒業した、一人ひとりの歌人が行っていることなのではないか。

もちろん、様々な学術領域の知識が導入され、山田の言う「エキスパートたちの集合知」を作っていくことは、これからも大切になるだろう。しかし、山田自身が、「従来の短歌批評の説得力が低下する」と指摘している文章の根拠は、あまりにも薄弱なものではないかと思えた。

確かにいろいろなところから知識を重ねて、短歌は読みを深くしていくと思う。
もちろん、社会学や表象文化論を用いた批評を誰かがこれから書いて行くならそれは望ましいことだが。

やはり前提となるのは、従来の歌論というか、歌のよみの蓄積をしっかり当たって、その上で「新しい読みではこう読めるよね」ということまで明らかにした歌についての分析なのではないかと思った。

一応ぐるぐる回って、私自身は、どこが批評ニューウェーブなのか。という最初の直感に戻ってくるに至った。

ひとつ目の「対立」、中島裕介が1月号の時評で述べていた意見の相違に対する私の見解は、おおむねこのようなものだと思う。

二つ目の対立については、要望があったら書くが、おおむね、山田の文章のやや視点を変えた角度からの読みなおしなので、あまり意味がないかもしれない。

(2016・4・10 書き下ろし)
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堀合昇平さん、『提案前夜』

もうすっかり遅くなってしまって。。。

発刊が2013年ですから、感想としては相当出遅れた形になってしまいました。本来なら堀合さんが日本にいらっしゃるときに感想を書いて、ご本人ともいろいろお話をしたかったのですが、ぼく自身にこのブログを続けるかどうかということに対する逡巡があったり、いろいろ個人的な都合で結局今日の今日まで感想を書けずじまいになってしまいました。

感想が遅れたことをお詫びしつつ。
気を取り直して書いていきたいと思います。

堀合さんの歌は、「未来」の誌上で読んでいる時は面白くもなんともないと思っていたのだけど、
歌集という形にしてみると、低いが同じ熱量で何かを確実に伝えて来る、そういう感触を確かに持っている歌集だと思います。

この歌集の作品世界は華やかで、ひとを魅了するような青春歌でもなければ、季節のうつろいを歌った「もののあはれ」でもありません。修辞もはっきりいって地味で、歌っている内容も無機質な職場詠。一首単位でパッと見せられると、うーん、そんなに目立っていい歌かなあという感じでもないです。

しかし並べられたお歌を連作として読んでいくと、何かひりひりした感触が伝わってくる、そんな仕掛けになっているように思います。

何よりこの世界観は怖いです。どういうふうに歌を引用すればいいのかな、とあれこれ考えていたのですが、例えば中家菜津子さんの引用が的確かもしれません。

「わたくしの消去」について / 「東海歌壇 岡井隆講演」 夏嶋真子(中家菜津子) 

中家さんは歌集の「末尾が0になるところから機械的に抜き出した」と言っています。これは引用としては不思議な形に見えるのですが、中家さんの論旨を読むと納得できます。

私なりに敷衍すると、堀合昇平という一人の歌人の個性が、長いスパンでずっと文体を変えずに、ぶれずに堀合昇平という「私」を貫いているために、それが反転するような形で、堀合さんという輪郭線が「普遍的なサラリーマンの姿にまで深化している」ということのようです。面白い見方だと思います。

中家さんはさらにこう続けます。

「無私な観察により事実を「美しく」詠んだとしても、記録の域を脱出することはできない。堀合氏は現実の出来事の中から事実ではなくひとつの詩想とひとつの真実を見つめている、社会へと大きく開かれた目をもって。それを独自の文体で描くことでサラリーマン生活という日常が、詩性の備わったリアリズムへと昇華される。」

さて、リアリズムというキーワードが出てきました。

近代短歌以来というのか、リアリズムは例えば自然とか、季節のうつろいとか、そういうものとセットになってきていました。しかし現代でリアリズムで歌をつくろうとするとき、どうでしょう。私たちは庭に咲くこでまりの花にリアリティを感じるでしょうか。これだけ過酷なオフィスワークを強いられて、たとえばブラック企業みたいなものが問題となるときに、私達の現代のリアリティは堀合さんが開拓したように、空調の音とか、職場での会議とか、そういう一見すると「歌になるのか」というところに、むしろ隠れているのではないかという問題提起があるようです。

一首も引用しないままでこの感想を終えるわけにはいかないので、私なりに歌を引用します。
 
 違う、僕じゃない。
胸ぐらを掴む男の胸元にIDカードが揺れていたこと(9)

胸ぐらを掴む男というのは、おそらく上司なのでしょうが、このお歌は詞書の「違う、僕じゃない。」という言葉とセットで読むと、ある無機質な感じが出てくるように思います。胸元に揺れていたIDカード。そして「違う、僕じゃない。」という切迫した詞書。ここには、荒っぽさと同時に、現代の「交換可能な私」への鋭い認識が詩になっていると思います。

IDカードを壁に翳(かざ)せばひらくドアのたぶんわたしがここにいること(22)

同じようなお歌は前半にもう一首あります。こちらのほうがわかりやすいですが、破壊力という意味では前のお歌のほうがいいかなと思います。「違う、僕じゃない。」という詞書が、端的にもう言い表していると思うのです。

さて、続いてもう一首。

部屋が暑い理由が判った。
仕様書は冷たい。痩せた指先で夏なのに塗るハンドクリーム(12)

なんとも言えず気持ちの悪い歌です。何の気持ち悪さなのかというと、はっきりとハンドクリームの気持ち悪さだと思います。痩せた指先にハンドクリームを塗る。本来なら保湿とかちょっとおしゃれとか、そういう目的で使うハンドクリームが見事に反転されてしまっていて、夏に塗るハンドクリームって気持ち悪いだろうなあという感触だけが伝わってくる。この決して癒しとかそういうところに向わない「ハンドクリーム」の気持ち悪さ。これが堀合さんの本領なのではないかと思います。

「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が揺さぶる(25)

このお歌、もう堀合さんの代表歌に完全になりました。「ナイス提案!」って一見するとユーモアがあって面白みのあるフレーズだけど、これは決して上司とかに言っているんではなくて、夢のなかで言っているんだと思います。このナイス提案!は、見事に悪夢だと思います。堀合さんの悪夢ではなく、現代の悪夢。そういうところを見事にとらえたお歌だと思いました。その後、うす闇に叫ぶもエグいなあと思いますし、それを妻が揺さぶる、というのもうまいです。「あなた、しっかりして」と揺さぶっているのでしょうか。私はここに救いようのない職業人の怖さのようなものを感じ取りました。救いを無理に読まないほうがいい歌であるように思います。

あと指摘しなければいけないのは、加藤治郎さんを始めとする現代短歌の影響です。決して堀合さんが本歌取りをうまくやっているという印象はないのですが、これだけ直球でニューウェーブを継承しようとしたというか、加藤治郎を継承しようとした歌人もかなり珍しいと思います。

「ロスジェネ」という一連には、記号短歌を模した

ホントウノジブンサガシニトラワレテケイサンドリルノコタエノヨウナ
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 (23)

という一首があります。僕は記号短歌であろうがなかろうが、背後にやはりその記号を選ばせるだけの内的必然性が必要だと思っているのですが、この歌にはそれだけの精神があると思います。白紙の計算ドリルを表す□の連打は、必ずしも目新しさはないような気もするのですが、それでも現代の「自己啓発」とか「自分探し」に対する精一杯の皮肉が見て取れるので、手法の目新しさというよりも、その背後の「批評精神」のほうを読み取りたいと思います。

他にも加藤治郎さんを始めとした先行する短歌の、いわばパロディのような歌が多かったです。

・反骨者(パンクス)のようにフロアを歩こうよネクタイ首に巻きつけながら(40〉

・いま僕の脳は機能を失ってタメ口たたく 大会議室(40)

やはり加藤治郎から短歌に入った私は爆笑してしまったのですが、

「~しようよ、~しながら」というのは完全に加藤治郎の歌の形だと思いますし、
「いま僕の脳は機能を失って」~は「濡れたガーゼに包むみつばち」という加藤治郎の「ブレイン・ダメージ」の有名な一首が思い浮かびます。ただちょっとこれらの歌はパクリにしてはうまく言っていないかもしれないと思いますし、加藤さんへの挨拶かなと思いました。そうするとⅡ章のタイトルになっている「シオリ」というのも、「ハルオ」へのオマージュかなということを考えたりして、全般的に加藤愛が満ちているなあという印象を受けました。

寝不足の朝に差し込む歯ブラシのざらつく感じ そうあの感じ(27)

と思ったらこれは中澤系のフレーズですね。さすが。

他にも、ぼくが個人的に好きだなと思った歌です。

みな前を向くから僕も前を向くデスクトップの遠い草原(28)

ふいに詩が奔ったようで手を止める機器構成明細第2・4版に(36)

冷えたゼリーに桃を掬えば知るだろうつまりはイメージの問題なんだ(37)

その他のゴミとかかれた箱の前とまれば捨てるその他のゴミ(48)

梅雨明けをニュースは告げる 堕ちぬため働くのだと何故言い切れぬ(55)

地下鉄にスマートフォンの溢れいてゼビウスをやるおんなに萎える(74)

市場にはデッキブラシの音だけが響いてふいに夏の気配が(90)

どの歌も、なんというのか、現実に足をつけているのですが、少しポエジーがあるかなというお歌です。ぼくが選ぶ歌というのは、単純にうまく言えてる歌ではなくて、ぼくなりに「美しさ」を感じる歌だと思います。

一首目、「みな前を向くから僕も前を向く」というのは多分職場で、パソコンの画面を全員見ているので、自分もというふうに前を向いたのでしょう。それがなんだか、日本的な同調圧力の暗喩にもなっているような上の句の怖い描写です。それが、突然デスクトップの遠い草原という美しい描写に変わる。もちろん、職場のPCですから、壁紙なんて設定されておらず、元のWindowsの画面のままなのでしょう。上の句描写のとおり前を向いたら、ふいに読者とともにデスクトップの草原を目にする。なんとも言えず美しい発見で、動きがあるのがいいと思います。


「ふいに詩が奔ったようで~」のお歌は僕すごく好きです。詩が奔ったようでというフレーズがとてもいいですね。でその詩が奔ったものというのが、機器構成明細2・4版というなんか現代的で詩なんて感じないようなものだった。そういう日常の苦しい仕事の場面に詩が奔ったような感じを抱く。ささやかな抵抗といいますか。窒息しそうな日常に詩を感じる場面があるよという歌ですね。

三首目「冷えたゼリーに桃を掬えば~」のお歌。これも素晴らしくいい歌だと思います。多分これもシーンとしては何か上司と部下の会話で「いやいや、それをこうするのはイメージの問題なんだ」といっているようですが、この歌は、美しいです。冷えたゼリーに桃を掬えばという言い回しもなめらかで、そのあとイメージの問題なんだ、と言う韻律も美しいので、そういう職場のシーンを無理に当てはめなくても歌として味わえると思います。

「その他のゴミ」の歌は、一瞬松木秀さんの歌かなとおもうくらいややニヒリスティックなものの把握の仕方がいいと思います。誰も自分が出したゴミのことを最初からその他のゴミと認識している人はいないのでしょうが、「その他のゴミ」の前に止まれば「その他のゴミ」にその他のゴミを捨ててしまうわけで。人間の認識の問題を、ゴミという身も蓋もないものに捉えて考えている歌だと思いました。

五首目「梅雨明けを~」のお歌。現代の暗部を見ています。いまじぶんが働いているのですが、それは堕ちぬため働かぬと言い切れるわけでもない。もしかしたら今の自分の生活も堕ちているのではないか、ふとそんな感慨がよぎったりするのでしょう。上の句の梅雨明けをニュースは告げる、というのがなんとなく明るい感じですが、それと下の句の急迫な口調がよくついているとおもいます。

六首目 スマートフォンで「ゼビウスをやるおんな」ってどんな人なんだろうと思うんですが、これがパズドラとかだったら普通だよなあと思うんですが、ゼビウスという言葉のチョイスがいいんじゃないかなと思います。ゼビウスかあ。昔やりましたね(遠い目)。言葉の感触として、ゼビウスってすごく懐かしいのに、なんか寂しい感じがあって、これがぴったり歌についているんだと思います。ただ、「溢れいて」という文語の混ぜ方、僕は堀合さんの文体ならこういうドライな文語の入れ方もいいかなという気はするんですが、気になる人はいるかもしれません。スマートフォンとしっかり訳さずに歌にするあたりにも、実直な人柄が溢れていて好感をもちました。

七首目。光景としては市場の朝だと思うんですよね。みんなそれぞれデッキブラシの音を響かせて廊下を掃除していて、そういうときになんともなく夏の気配がした、という歌だと思うのですが。デッキブラシの音が響くということと、不意に夏の気配がするということはなんでそう関連付けられるの?というくらい関係のないことだと思うのですが、このお歌の場合、その遠さがとてもいいと思います。

散漫に書いて来てしまいましたが、ちょっとむずかしいかなと思った箇所もあります。

一点目は、確信犯なのでしょうからあんまり問題にしませんが、堀合さんの長所でもあり短所でもあるところです。冒頭でも述べましたが、この歌集はとにかく職場詠が多いです。不器用と言ってもいいでしょう。とにかく、シオリという連作になるまで職場詠ばかりやっていて、シオリでちょっとだけ家族を詠っていてまた職場詠。この構成、これだけつらつらと同じトーンの世界ばかりを並べられたら、今後どうするんだろうな、とちょっと余計な心配をしたくなります。この構成だとどうしても前半、というか前半から中盤くらいまでにいい歌を見つけてしまって、後半がお腹いっぱいという感じになるかもしれません。

もう一つは、はっきりと歌の出来栄えにムラがあること。もちろん、第一歌集ということですから、歌のできばえにムラがあってもいいと思うのですが、これだけ同じトーンの歌が並んでいると、ああ、これはなんとなく詩として機能しているなという感じの歌と、んー。ちょっと微妙だなという歌の差が目立ってしまうと思うんです。この出来栄えの差は、私たちが感得するリアリティの差と言っていいのかもしれません。

堀合さんの短歌のリアリティは、近代=現代短歌が持続させてきたリアリティとは少し微妙に質が違っていて、堀合さんの歌の世界には「現代的」なリアリティはあるんですが、それが果たして「リアリズム」から来ているのか、というと全面的に中家評には賛同しかねるかな、という感じがします。短歌のリアリティには、もちろん「体験的によくわかる、ささる」という感じのリアリティは確かにあるけど、近代=現代短歌と接続していくなかで、やっぱり細かくものを見ていくというリアリティも大切で、堀合さんにはそういう「描写」が粗っぽい歌が多いように思います。

いくつか歌を引いて指摘したいと思います。

たとえばこういう歌ではいわゆる「リアリズム」、ものを見るということがうまく機能しているなという感じがあります。

組み結ぶ足つぎつぎとほどかれてほどかれぬ一組につまづく (48) 

ブラインドタッチを統べるつややかな指は依頼を拒みつづける (68)

一首目、これぞというくらい見事な出来栄えです。電車か何かに載っていて、自分が歩いていると周りの人間はみんな足を組んでいる。それが自分が移動していくと、みんな通路を譲って組んだ足を解いていくのですが、なかに気の効かない人というのがいて、その人の足に思わずつまづいてしまった。これが見るというか、観察ということ見事にを体現しているなあと、思いました。

二首目は、統べる、がうまい言い回しです。これは女性の事務員を観察している歌だと思いました。ブラインドタッチを統べるつややかな指、というのはおそらく女性の指だろうと思います。その人が上司からの依頼を拒みつづけている。そういう様子を観察していて、とてもうまいと思いました。

逆にこういう歌はどうなんだろうと思います。

週末にはなやぐ声を聴きながら塩の吹き出たスーツで歩く(18)

ゴミ収集車の過ぎ行けば後ろから生臭い風が吹いてくる(75)

一見するとリアリズムの歌に見えるのですが、一首目、はなやぐという言い回し、これは週末という言葉から連想されているだけであって、観察しているわけではありません。塩の吹き出たスーツというのも夏という感触は伝えて来るのですが、見慣れた言葉かなあと思います。突出してよく見えるなあという歌がある一方で、どちらかというと平板な歌が多いと、思います。

二首目も、悪くはないのですが、ゴミ収集車の過ぎ行けば、という急迫な声調のあとでゆっくりと「生臭い風が吹いてくる」、って言うと声調が挿入されるので、なんだか弛緩した感じになります。のんびりとした「生臭い風」だなあと思いました。これは下手をすると散文なのかなという印象もあります。事実をありのまま歌えば描写になるというわけでもないのです。

どうしてもこういう歌の呼吸というか、歌の文体ということをうまくコントロールできていないために、どうしてもキレのない歌、散文的な歌が増えてしまうのではないかと思います。

とても長々と感想を書きました。

堀合さんは外国に旅立ってしまったということなので、歌について語る機会があまり持てなかったのは残念なのですが、またどこかでお目にかかる日もあることを祈って筆を置きたいと思います。新しい境地を獲得されることをお祈りしています。

守中章子さん、『一花衣』

だいぶ間が開いてしまって、ブログで文章を書くのが久しぶりになってしまいました。
少しずつですが、歌集の感想書きを復活させていただきたいと思います。

本来なら2013年ぐらいから「続き」で読んだ歌集の感想を書くところなのですが、、
ちょうど直近で批評会があって、書きやすいので未来の守中章子さんの歌集から始めさせてください。

これ以上だらだらと伸ばすと、批評会の記憶そのものが薄れてしまって、もう何を書いていいのかわからなくなってしまいそうなので。。。

守中章子さんの批評会、私などは到底お近づきになれないであろう詩の方がたくさんお越しになられていて、100人ぐらいはいらっしゃったでしょうか、大盛況でした。

(記憶が薄れているのですが)批評会のパネルディスカッションでは、この歌集の「死」の気配が指摘されていたように思いっます。私も詳しくは存じあげないのですが、どうやら守中さん自身がやはりお身内の方の死をきっかけにして作歌を始められた方らしいということで、その歌集のテーマも必然的に死の気配をまとっていると思います。

私自身も、自分の祖母の死がテーマになった連作とか、うつ病で死にかけた経験というのを歌にしていた経験があるので、共感しながら拝読しました。ただ、その「死」に対するアプローチは私自身とはかなり違うな、と思いました。。。
                                
私はどちらかというといつも短歌を「ぼんやりとした感情の襞のようなものを、おそるおそる、言葉にしていく」という手つきで言葉にしていると思います。言葉を紡ぐとき、いつもなるべく「ぼんやり」したものを少しでも言葉に近づけたい、声にしたい。そういう欲求がいつも心のなかに沸き起こってくる。そういう作歌衝動があるのですが、

『一花衣』を読んでいると、そんな私とはまったく別のスタンスで言葉そのものに誠実に向き合う作者の姿が見えてきます。大胆に世界をまるごとつかむような、死を無理やりこちら側に引き寄せようとするというか、なんとなくロックンロールな認識の仕方をする作者だという印象がありました。

言葉に対するスタンスが若干違うので、私にとって大切な歌は、守中さんの渾身の歌とは若干違うかもしれません。

・さうだよねときはゆつくり進むから いまは未生つていふ場所にゐる(10)

このお歌が最初目に止まりました。文語調の歌が多いのですが、このお歌は岡井隆を彷彿とさせるゆったりとした口語調で、未生つていふ場所にゐる、という言葉が謎めいています。これは花が未生であるという状態とってもいいのだろうし、解説にあるように仏教用語の未生をとってもいいのだろうし、一首のなかに多義的な意味を孕んでいて、奥行きを感じさせる歌です。口語の呼吸がとてもゆっくりしていて、いいと思いました。

・幾千のことばを薄茶で飲みしづめしらさぎの立つ器を置きぬ(14)

ことばについて考えた歌はたくさんありますが、この歌も美しい歌だと思いました。。「しらさぎの立つ器」は実景としてとってもいいし、心象風景としてとってもいい。この実景としてもいいし心象風景としてもいいという読みの多義性を誘うような作品が私はとても好きだと思います。


・かなしみはボディブローのやうでありゆがむ画面に立ちあがるボクサー(54)

この歌は私にとって驚くべき発見だった歌。かなしみはボディブローという上の句が、まさに自分の体感と一体化しているようで、かなしみときたら僕なんかはもっと美しい言葉をつけようとすると思うのですが、いきなりボディブローという二句目に虚を付かれました。心ではなく腹の底にしずしず響いてくるものなのだろうな、という、少し驚いた歌でした。立ちあがるという表現も荒っぽくて、成功していると思います。

冬のあさ声をころして呼びてみるめざめのきはに会ふはずだつた(60)

ゆふぐれに読まるる詩には「せかい」とふ語のあらはれて母音ひびきぬ(94)

うなづきて熱き紅茶をすすりつつ赦すはうへと身はかしぎゆく(102)

かなしみをしづかに持ちて運びゆく木下闇(こしたやみ)抜けつぎの暗渠へ(106)

向日葵を購はむかな両の手にあふるるほどのあの日のこゑを(110)

われひとりめざめをりたる病棟に真夜しろき馬しづかに立ちぬ(123)

まなかひにひろがるものをうす霧と呼べり不安と未だ呼ばずして(126)

少し順番が前後しますが、私が好きだと思うタイプの歌はいずれも歌集の中ほどにあらわれてきました。詳しくは書ききれないのですが、126ページ。不安と名付けられる前の「うす霧」。

102ページの動作のなかに気持ちを込めた感じというのか、「赦すはうへと身はかしぎゆく」という所作の、さりげない描写の感じ。110ページの「向日葵」には「あの日のこゑ」がオーバーラップされて投影される。こういう描写と心象が入り組んだ歌をとても好きだと思いました。

しかしこの歌集における作者の本領はおそらくこういった複雑な歌ではないのだろうとも思います。

もっとも深甚だったのは、炎天に立っている亡父に「待ちやがれ」と思わず絶唱してしまうような、わしづかみにされるような言葉の大胆な使い方でした。

待ちやがれかげろふゆらぐ炎天に亡父立ちをりえい待ちやがれ(64)

この歌はとても成功していると思うし、気持ちもわかるのだけれど、私はどちらかというと「死」に対して怖れを抱いているというか、そんな死んだひとに対して待ちやがれなんて怖くて言えません。。。

直球のこれらの歌には、やはりストレートであるがゆえに持っている粗さのようなものも同時に持っていると思いました。

たとえば以下の2首はどうでしょうか。

もうたれも死ぬことなかれまどろみて深夜のベルに素足で走る(44)

吾子還らば雪水与へむ賢治のごといやむしろこの生命与へむ(58)

44ページの「もうたれも死ぬことなかれ」という感慨は、作者がお寺で暮らしているらしいという実感からすればよくわかるものだし、おそらく深夜に急報が入って自分自身が走り回っているのだろうと思います。

しかし私はこの歌が持っているある種のヒューマニズムには完全に乗りきれませんでした。死ぬことは避けては通れない。人は運命には逆らえない。それに対して表現の上だけで抗おうとするのはいささか強引すぎるように感じました。

58ページの素直な心情吐露も私は完全には乗り切れませんでした。ストレートで大胆に母の気持ちを大胆に歌っているのはいいと思うのだけど、運命に対して内省するというよりは、どちらかというと運命をねじまげようとしすぎているという感触が、何か世界の外に出て言葉を発しようとしている態度に捉えられてしまって、少し収まりが悪く拝読しました。

この作者は言葉に対しても、かなり無理な冒険というか、言葉そのものを歌にしようとしている姿勢が現れていて、それは冒険ではあるのだけど、ときどき言葉が雑になってしまう感じがある。


アの音を聞かせてほしいあのときのくちのかたちさとてもきれいだ(16)

脚韻を踏む美しけさに触れしのち愛恋といふ迷路に入りぬ(139)

「DETRUIRE(でとぅりゆいる)」かのじよは叫ぶ夜をこめてRに巻かれ樹になるまでを
(150)

とめどなく語るくちから翻(こぼ)るるは冠詞接尾語指示代名詞(150)

これらの歌は言葉そのものや、かなり概念的なテーマについて述べています。これは私の短歌へのスタンスとは大きく異なる部分だと思います。もちろん、言葉そのものについて触れた喜びというのを歌にするのはいいことだと思うのだけど、言葉にふれた喜びを、言葉で表現するということに、少し荒っぽさというか自己矛盾があるような気がします。これらの短歌には私の大好きな謎がないように思いました。

一首目、アの音を聞かせてほしい、というのは言葉そのものへの愛着のようなものですが、そのあとであのときのともう一度あ音を使ってしまうあたりが、なんとなくダメ押しな感じがして、あんまりおもしろいとは思えませんでした。

二首目、脚韻を踏むしずけさと愛恋はあんまり関連がないというか、言葉をこう、ゴタゴタゴタっと並べてしまっただけ、という感じがします。

三首目、DDETRUIRE(でとぅりゆいる)」のあとに、Rが出てきてしまう感じ。このへんがなんとも言えず僕にはダメ押し感があって、言葉付きが汚いように感じます。

四首目、うーん。言葉って本来は名付けられないものだと思うんですよね。国語学を勉強しているひとには申し訳ないんですが、冠詞接尾語指示代名詞という収め方は、僕には全く賛成できません。そういう言葉を言葉で難しくしようとしても、僕は全く乗れないです。

いろいろと難も書いてしまいましたが、僕はこの作者の立ち位置にすごく共感しつつ、その手つきにはあまり賛成できないという感じかもしれません。ロックンロールよりもウィスパーボイスを好む、僕の好みではなかったという説明の仕方でいいのかな、と思いつつ。

この歌集についての感想はこの辺りにしたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。

一点突破する口語~田丸まひる『硝子のボレット』を読んで~

                              
・歌集全体の印象について

・性愛歌を読む

・小糠雨のようなセックスずっとずっとずっときれいなからだでいたい(16)
・こいびとの膝の裏から亜熱帯めいたにおいがこぼれたら夏(17)
・このひとはさびしいひとと決めつけてくちびるで聴く心臓の音(19)
・男のひとは体のどこにきしきしと女のひとを入れるのですか(94)
・ドロップス夕方色の一粒を何も言えない舌から舌へ(29)

 ・職場詠を読む

・けれどまた笑ってほしい今朝虹が出ていたことを告げる回診(23)
・病室の窓から青いプリウスを数えて今日を生き抜いたひと(24)
・父親のいない事実をふりかざす処女は本日ふたり診ました(35)
・やわらかな睫毛がゆれる思春期の恋のはじまりカルテに記す(41)
・擦過傷めいた記憶をしまいこみ白衣の袖は二度折り返す(98)
・死にたいって教えてくれてありがとう金魚を破るくらいに泣いて(101)

好きな歌10首

. ・ジュラルミンケースを下げてできるだけ遠い異星の空席を待つ (10)
・あたたかい言葉まみれの決別の手紙ちいさくちいさくたたむ(13)
・小糠雨のようなセックスずっとずっとずっときれいなからだでいたい(16)
・病室の窓から青いプリウスを数えて今日を生き抜いたひと(24)
・甘いもの好きの子どもが死にたがる世界に機関銃を野ばらを(43)
・寒雷の夜に切る爪 からだから遠ざかるものすべてを悼む(57)
・こおり水、水たまり、まりあ、アルジャーノン、言葉をぬぐい合うようなキス(67)
・ひかりまみれあなたに移住するひとはひかりまみれになるって呪い(91)
・遺書を読むように言葉のつらなりを行く さびしさに飽きたとしても(112)
・点描の雨わたしより丁寧にわたしの髪を梳くひとがいる(119)



こんにちは。西巻です。本日は硝子のポレットの対談ということで、加藤選歌欄の人間として田丸さんの歌集を担当させていただきます。早速本題に入りますが、2,010年代は新かなで口語体の歌がほんとにみんなデフォルトになってきてしまっておりまして、そこからどう差異を付けていくのかというのが難しい状態になって来てしまっているように思います。田丸さんの歌もおもいっきり口語で新かなの女性文体なわけですが、これだけ口語体が氾濫しているなかでどういうふうに自分の短歌を個性づけていくのかというのは田丸さんに限らず、多くの口語歌人にとって課題になっていると思います。田丸さんの場合はそれをどうクリアしたかということになると思いますが、これは歌だけではなく、まず歌集の構成に関わる問題です。この歌集そのもののコンセプトが非常に明確だったと思います。概論的に言うと、性愛歌を歌う。そして、精神科医としての日常を歌う。最初から読んでいくと、章立てが必ずこのどちらかに分類されるような構成になっていて、それが交互に登場してくるような印象があります。歌集の再後半部では、その2つが融合しているのかな、という感じがしますが、とにかく欲張らずに焦点を2つに絞った。この発表のレジュメも一点突破の口語というふうにさせていただきましたが、そこがまずとても大きいということを指摘させてください。

次に歌集全体の位置付けになるわけですが、これはとてもむずかしいところです。田丸さんのファンだというツイートをあちこちで見かけます。一方で、田丸さんの性愛歌は既存の短歌の刺激から新しいことを歌っていないという先輩歌人からの指摘もあるようです。これは田丸さんがどういう読者に歌を届けたいかというご自身の欲求と、田丸さんの歌が釣り合っているかということになると思うんですが、簡単にいうと専門歌人というのは短歌の歴史や記憶をよく知っているので、「どこかで見た口語の歌」に対するジャッジは非常に厳しい。一方で、最近のネットから歌に入った人というのは僕はそんなに詳しくないんですが、そんなミクロな短歌の歴史というか「どっかで見た」という短歌の記憶に対してはどうでもよい。田丸さんはどちらかというと短歌をあまり知らない人に対して言葉を届けるというスタンスをとっていて、その熱量というか、テンションの高さというのはずっと持っている歌人だなとは思います。そこら辺が多くの方から支持を受けている要因ではないだろうかと思います。

では具体的な話に移りたいと思います。まずやっぱり抑えておかないといけないのは、性愛の歌でしょう。女性に限らず性愛の歌って基本僕は嫌な感じがする読者なのですが、田丸さんの歌はそれほど嫌な感じがしません。セックスのことを歌っているのに、あんまりぐちゃぐちゃしていない感じがあって、ある種の清潔感を感じます。

小糠雨のようなセックスずっとずっとずっときれいなからだでいたい

一首ずつ細かく見ていきましょう。この歌は具体的にセっクスと出てくるのに、上の句では「小糠雨のような」という言葉でつないでいます。どういう行為なのかということを丹念に描写するのではなくて、なんとなく清潔感のある上の句を持ってきて、下の句も、もっと乱れたいとかではなく、ずっとずっとずっときれいなからだでいたい、という性欲とはちょっと真逆の事を言っています。セックスの歌なのに肉欲とか相手を求める気持ちがまるでゼロです。どちらかというと詩的に、綺麗に歌いたいという感じがよく出ていると思います。

こいびとの膝の裏から亜熱帯めいたにおいがこぼれたら夏

この歌なんかは、膝の裏ってふつうくさいだろ。と思うんですよね。リアルな感じが全然しない。亜熱帯めいたにおいがこぼれたら、というのはどちらかと言うと雰囲気でつけていて、それもかなりいいイメージをまとわらせている。こいびとという言葉も、具体的なこいびとではなくてこの歌集で頻繁に登場する詩語、詩的言語としてのこいびとのような気がします。

このひとはさびしいひとと決めつけてくちびるで聴く心臓の音

これもなんとなくリアリズムに添っていくと無理だろ。と思うんです。くちびるで心臓の音を聴くことはできません。でもこの歌を右耳で聴くとかに変えてしまうと、この歌から香ってくるというか、くちびるという表現から香ってくるポエジーが失われるような気がするんです。状況としては胸にキスをしているシーンを思い浮かべましたが、具体的な造形を結ばないというか、艶かしい感じはあんまりしません。徹底的にこの作者は生臭いところを拒否する歌の作りをしていて、それがある種のいびつさにもつながってくるし、清潔感にもつながっていくんじゃないのか。そんな印象をもちました。

男のひとは体のどこにきしきしと女のひとを入れるのですか

 なんとなく機械人形のような印象がある歌です。加藤治郎さんは解説でこの歌について、男の暴力性の本質のような印象を受けるということをおっしゃっていましたが、ぼくはこの「きしきしと」は、なんとなく男性の力の象徴というよりも、、男性の心の象徴のように読みました。男のひとが女の人に入れるのではなくて、微妙なところですが、男のひとが自分のどこに女の人を入れるのかということを問うていて、それがきしきしという音を立てている。なんとなく歪んだ心の象徴のような気がします。この少し現実とは離れた感じ、リアリズムとは違うポエジー、清潔感がこの歌集の性愛の歌の特徴のように思います。

性愛の歌は結構あるし、みんな引っかかるところだと思うので、それについてはこれくらいにして、この場では職場詠について読んでみたいと思います。

・けれどまた笑ってほしい今朝虹が出ていたことを告げる回診

日常詠とか職場詠ということになると、どうしても僕はリアリズムとのかみ合わせということが気になるところです。この歌の場合はおそらく患者に虹が出ていたことを告げるんでしょうね。ひとりひとりの入院患者に虹が出ていたということを何回も繰り返すという回診なのだと思いました。明るい歌で、前向きなメッセージを発信しようとしている歌だと思います。

・病室の窓から青いプリウスを数えて今日を生き抜いたひと

あと、うまく言っていると思ったのは2首目とちょっと飛ばして、5首目ですね。2首目はこれ入院患者のことを歌っている歌だと思うのですが、「青いプリウスを数えて」というのは現実の手触りがします。駐車場に沢山止まっている車のなかから青いプリウスを数えて今日を生き抜くというのは切ない体験だけど、あるリアリティがあります。

・擦過傷めいた記憶をしまいこみ白衣の袖は二度折り返す

五首目の歌も僕の観点から見るとうまく言っているように思えるのですが、自分の擦過傷めいた記憶をしまい込み、という上の句の斡旋に対して、下の句が衣服の袖を二度折り返すってけっこう地味だけど丁寧に物事を読んでいる気がして、これは上手に下の句はリアリズムに則っているような印象を受けました。

・やわらかな睫毛がゆれる思春期の恋のはじまりカルテに記す

ちょっと批判もしておかないといけないので、いろいろあるんですけど、この歌をあげておきます。現実のことを歌うにしては、言葉の運びがすこし甘ったるい印象があります。やわらかな睫毛がゆれる って、連体形でもとれるしここで切れてるようにもとれるでしょう。この歌はこの辺の整理がうまくいっていない歌だと思いました。思春期の恋のはじまりって、これはどちらかというと詩的言語というか、きらきらっとした可愛らしい言葉じゃないですか。それが現実の深いところをえぐっている感じがあまりしない。どちらかというと、き可愛らしい前向きな歌だけど、そんなにえぐっている感じがしないなあと思いました。。

・父親のいない事実をふりかざす処女は本日ふたり診ました

3首目はちょっと僕からすると嫌だなあと思った歌です。 
やや微妙に上から目線であるような気がします。
引っかかったのは、ふりかざすという言葉が持つニュアンスでしょうか。父親のいない事実をふりかざす、って患者がいて、それについてやや批判的な目線でお前みたいなのは二回もいました、というちょっとなんかニュアンスをまとっている感じ。意外と田丸さんってこういう問題について冷淡な目線を持っているのかなと思いました。

そうですね。こういう身辺詠とか職場詠ということになるとどうしても田丸さんが本来持っている詩的言語としての言葉の運びということと、やっぱり日常詠としてはリアリズムがもたらすルールみたいなもののせめぎあいがあると思うんですよね。それが噛み合っているのか、未完成だと見るかというのは読者によって判断が別れるところかなという気が致します。僕は個人的にはリアリズムの側にたつ読み手かもしれませんね。やっぱり短歌って31音なわけで、そのなかに詩的できれいな言葉を入れるだけではだめで、上の句と下の句が吊り合っていてほしい。そういう細かい技術は、今後の課題として残っているように思いました。

山崎聡子さん、『手のひらの花火』

山崎聡子さんの『手のひらの花火』について感想をまた喋りましたのでブログでご報告させていただきます。
ご視聴いただければ幸いです。



【取り上げた歌】

飛び込み台番号(7)のうえに立ち塩素の玉のきらめき見てる

死ぬときはプールの匂いを纏いたい「タイルをみっつとったらおわり」

塩素剤くちに含んですぐに吐く。遊びなれてもすこし怖いね。

制服にセロハンテープを光らせて(驟雨)いつまで私、わらうの

いくつもの名前を呼んで私から遠ざかりゆく放課後の窓

シングルのベッドで深爪競い合うことを幸福のたとえのように

ゲームセンターの青い光のなかにいて綺麗なままで死ぬことを言う

五円玉 夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』 (光森裕樹さんの発言より引用)




【取り上げた歌】

ほおずきを口のなかから取り出せばいのちを吐いたように苦しい

中学で死んだ高山君のことを思うときこれが記憶の速度と思う

排卵日小雨のように訪れて手帳のすみにたましいと書く

ルームメートの朝の祈りよレバノンをピンクで塗りつぶした世界地図

パークロード道なりにゆきそれはそれは遠い陽炎のように歩めり

あまやかに噛み砕かれたる芽キャベツのなんてきれいな週末だろう

染みだらけのコートに体を包んだらひとり明け方の線路を辿ろう

息が夜に溶けだしそうで手で覆う映画を生きてそして死にたい

電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ
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