批評会記録 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

批評会記録

一点突破する口語~田丸まひる『硝子のボレット』を読んで~

                              
・歌集全体の印象について

・性愛歌を読む

・小糠雨のようなセックスずっとずっとずっときれいなからだでいたい(16)
・こいびとの膝の裏から亜熱帯めいたにおいがこぼれたら夏(17)
・このひとはさびしいひとと決めつけてくちびるで聴く心臓の音(19)
・男のひとは体のどこにきしきしと女のひとを入れるのですか(94)
・ドロップス夕方色の一粒を何も言えない舌から舌へ(29)

 ・職場詠を読む

・けれどまた笑ってほしい今朝虹が出ていたことを告げる回診(23)
・病室の窓から青いプリウスを数えて今日を生き抜いたひと(24)
・父親のいない事実をふりかざす処女は本日ふたり診ました(35)
・やわらかな睫毛がゆれる思春期の恋のはじまりカルテに記す(41)
・擦過傷めいた記憶をしまいこみ白衣の袖は二度折り返す(98)
・死にたいって教えてくれてありがとう金魚を破るくらいに泣いて(101)

好きな歌10首

. ・ジュラルミンケースを下げてできるだけ遠い異星の空席を待つ (10)
・あたたかい言葉まみれの決別の手紙ちいさくちいさくたたむ(13)
・小糠雨のようなセックスずっとずっとずっときれいなからだでいたい(16)
・病室の窓から青いプリウスを数えて今日を生き抜いたひと(24)
・甘いもの好きの子どもが死にたがる世界に機関銃を野ばらを(43)
・寒雷の夜に切る爪 からだから遠ざかるものすべてを悼む(57)
・こおり水、水たまり、まりあ、アルジャーノン、言葉をぬぐい合うようなキス(67)
・ひかりまみれあなたに移住するひとはひかりまみれになるって呪い(91)
・遺書を読むように言葉のつらなりを行く さびしさに飽きたとしても(112)
・点描の雨わたしより丁寧にわたしの髪を梳くひとがいる(119)



こんにちは。西巻です。本日は硝子のポレットの対談ということで、加藤選歌欄の人間として田丸さんの歌集を担当させていただきます。早速本題に入りますが、2,010年代は新かなで口語体の歌がほんとにみんなデフォルトになってきてしまっておりまして、そこからどう差異を付けていくのかというのが難しい状態になって来てしまっているように思います。田丸さんの歌もおもいっきり口語で新かなの女性文体なわけですが、これだけ口語体が氾濫しているなかでどういうふうに自分の短歌を個性づけていくのかというのは田丸さんに限らず、多くの口語歌人にとって課題になっていると思います。田丸さんの場合はそれをどうクリアしたかということになると思いますが、これは歌だけではなく、まず歌集の構成に関わる問題です。この歌集そのもののコンセプトが非常に明確だったと思います。概論的に言うと、性愛歌を歌う。そして、精神科医としての日常を歌う。最初から読んでいくと、章立てが必ずこのどちらかに分類されるような構成になっていて、それが交互に登場してくるような印象があります。歌集の再後半部では、その2つが融合しているのかな、という感じがしますが、とにかく欲張らずに焦点を2つに絞った。この発表のレジュメも一点突破の口語というふうにさせていただきましたが、そこがまずとても大きいということを指摘させてください。

次に歌集全体の位置付けになるわけですが、これはとてもむずかしいところです。田丸さんのファンだというツイートをあちこちで見かけます。一方で、田丸さんの性愛歌は既存の短歌の刺激から新しいことを歌っていないという先輩歌人からの指摘もあるようです。これは田丸さんがどういう読者に歌を届けたいかというご自身の欲求と、田丸さんの歌が釣り合っているかということになると思うんですが、簡単にいうと専門歌人というのは短歌の歴史や記憶をよく知っているので、「どこかで見た口語の歌」に対するジャッジは非常に厳しい。一方で、最近のネットから歌に入った人というのは僕はそんなに詳しくないんですが、そんなミクロな短歌の歴史というか「どっかで見た」という短歌の記憶に対してはどうでもよい。田丸さんはどちらかというと短歌をあまり知らない人に対して言葉を届けるというスタンスをとっていて、その熱量というか、テンションの高さというのはずっと持っている歌人だなとは思います。そこら辺が多くの方から支持を受けている要因ではないだろうかと思います。

では具体的な話に移りたいと思います。まずやっぱり抑えておかないといけないのは、性愛の歌でしょう。女性に限らず性愛の歌って基本僕は嫌な感じがする読者なのですが、田丸さんの歌はそれほど嫌な感じがしません。セックスのことを歌っているのに、あんまりぐちゃぐちゃしていない感じがあって、ある種の清潔感を感じます。

小糠雨のようなセックスずっとずっとずっときれいなからだでいたい

一首ずつ細かく見ていきましょう。この歌は具体的にセっクスと出てくるのに、上の句では「小糠雨のような」という言葉でつないでいます。どういう行為なのかということを丹念に描写するのではなくて、なんとなく清潔感のある上の句を持ってきて、下の句も、もっと乱れたいとかではなく、ずっとずっとずっときれいなからだでいたい、という性欲とはちょっと真逆の事を言っています。セックスの歌なのに肉欲とか相手を求める気持ちがまるでゼロです。どちらかというと詩的に、綺麗に歌いたいという感じがよく出ていると思います。

こいびとの膝の裏から亜熱帯めいたにおいがこぼれたら夏

この歌なんかは、膝の裏ってふつうくさいだろ。と思うんですよね。リアルな感じが全然しない。亜熱帯めいたにおいがこぼれたら、というのはどちらかと言うと雰囲気でつけていて、それもかなりいいイメージをまとわらせている。こいびとという言葉も、具体的なこいびとではなくてこの歌集で頻繁に登場する詩語、詩的言語としてのこいびとのような気がします。

このひとはさびしいひとと決めつけてくちびるで聴く心臓の音

これもなんとなくリアリズムに添っていくと無理だろ。と思うんです。くちびるで心臓の音を聴くことはできません。でもこの歌を右耳で聴くとかに変えてしまうと、この歌から香ってくるというか、くちびるという表現から香ってくるポエジーが失われるような気がするんです。状況としては胸にキスをしているシーンを思い浮かべましたが、具体的な造形を結ばないというか、艶かしい感じはあんまりしません。徹底的にこの作者は生臭いところを拒否する歌の作りをしていて、それがある種のいびつさにもつながってくるし、清潔感にもつながっていくんじゃないのか。そんな印象をもちました。

男のひとは体のどこにきしきしと女のひとを入れるのですか

 なんとなく機械人形のような印象がある歌です。加藤治郎さんは解説でこの歌について、男の暴力性の本質のような印象を受けるということをおっしゃっていましたが、ぼくはこの「きしきしと」は、なんとなく男性の力の象徴というよりも、、男性の心の象徴のように読みました。男のひとが女の人に入れるのではなくて、微妙なところですが、男のひとが自分のどこに女の人を入れるのかということを問うていて、それがきしきしという音を立てている。なんとなく歪んだ心の象徴のような気がします。この少し現実とは離れた感じ、リアリズムとは違うポエジー、清潔感がこの歌集の性愛の歌の特徴のように思います。

性愛の歌は結構あるし、みんな引っかかるところだと思うので、それについてはこれくらいにして、この場では職場詠について読んでみたいと思います。

・けれどまた笑ってほしい今朝虹が出ていたことを告げる回診

日常詠とか職場詠ということになると、どうしても僕はリアリズムとのかみ合わせということが気になるところです。この歌の場合はおそらく患者に虹が出ていたことを告げるんでしょうね。ひとりひとりの入院患者に虹が出ていたということを何回も繰り返すという回診なのだと思いました。明るい歌で、前向きなメッセージを発信しようとしている歌だと思います。

・病室の窓から青いプリウスを数えて今日を生き抜いたひと

あと、うまく言っていると思ったのは2首目とちょっと飛ばして、5首目ですね。2首目はこれ入院患者のことを歌っている歌だと思うのですが、「青いプリウスを数えて」というのは現実の手触りがします。駐車場に沢山止まっている車のなかから青いプリウスを数えて今日を生き抜くというのは切ない体験だけど、あるリアリティがあります。

・擦過傷めいた記憶をしまいこみ白衣の袖は二度折り返す

五首目の歌も僕の観点から見るとうまく言っているように思えるのですが、自分の擦過傷めいた記憶をしまい込み、という上の句の斡旋に対して、下の句が衣服の袖を二度折り返すってけっこう地味だけど丁寧に物事を読んでいる気がして、これは上手に下の句はリアリズムに則っているような印象を受けました。

・やわらかな睫毛がゆれる思春期の恋のはじまりカルテに記す

ちょっと批判もしておかないといけないので、いろいろあるんですけど、この歌をあげておきます。現実のことを歌うにしては、言葉の運びがすこし甘ったるい印象があります。やわらかな睫毛がゆれる って、連体形でもとれるしここで切れてるようにもとれるでしょう。この歌はこの辺の整理がうまくいっていない歌だと思いました。思春期の恋のはじまりって、これはどちらかというと詩的言語というか、きらきらっとした可愛らしい言葉じゃないですか。それが現実の深いところをえぐっている感じがあまりしない。どちらかというと、き可愛らしい前向きな歌だけど、そんなにえぐっている感じがしないなあと思いました。。

・父親のいない事実をふりかざす処女は本日ふたり診ました

3首目はちょっと僕からすると嫌だなあと思った歌です。 
やや微妙に上から目線であるような気がします。
引っかかったのは、ふりかざすという言葉が持つニュアンスでしょうか。父親のいない事実をふりかざす、って患者がいて、それについてやや批判的な目線でお前みたいなのは二回もいました、というちょっとなんかニュアンスをまとっている感じ。意外と田丸さんってこういう問題について冷淡な目線を持っているのかなと思いました。

そうですね。こういう身辺詠とか職場詠ということになるとどうしても田丸さんが本来持っている詩的言語としての言葉の運びということと、やっぱり日常詠としてはリアリズムがもたらすルールみたいなもののせめぎあいがあると思うんですよね。それが噛み合っているのか、未完成だと見るかというのは読者によって判断が別れるところかなという気が致します。僕は個人的にはリアリズムの側にたつ読み手かもしれませんね。やっぱり短歌って31音なわけで、そのなかに詩的できれいな言葉を入れるだけではだめで、上の句と下の句が吊り合っていてほしい。そういう細かい技術は、今後の課題として残っているように思いました。
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光森裕樹「空の壁紙」レポート

11月22日 さまよえる歌人の会(渋谷勤労会館)
第五十四回角川短歌賞受賞作
光森裕樹「空の壁紙」:発表原稿



ーD・E・Lー光森裕樹の名を呼ぶためのphonetic alphabet
レポート 西巻  真
    "Detail"
 
   "TYO-REK"
・試験予約の目的都市はそれぞれに違(たが)ひて遙かなりレイキャビク
   正しく伝達するための Phonetic Alphabet
・指示をだす ケネディ国際空港(JFK)を"Jack-Fox-King"と呼び替へ
   "Dog-Easy-Love"
・建物として名が遺るかなしみのインディラ・ガンディー国際空港(DEL)
   それはPCのレジストリに"Melissa?"といふ痕跡を残す
・行方不明の少女を捜すこゑに似てVirus.MSWord.Melissa

   "Engineering"

・人を待つ吾はめぐりの街燈に暗き展開図を描かれて
・六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか
・あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず
・空港と呼ばるるみなとに錨なき船の離陸をしばし眺めつ
・一晩を眠らずあれば震へだす指を鎮めつ「閉」のボタンに
・ビル背面をゆきてふたたび出て来ざるツェッペリン忌の飛行船かな
・友の名で予約したれば友の名を名告りてひとり座る長椅子

・空港に一日(ひとひ)を過ごす万物にキャスターがつく日を想ひつつ
・吊革のいづれを引かば警笛が鳴るかと試す最終電車に

    "Liryc"

・友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず
・ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか
・自転車の灯(あか)りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち
・屋上さへあらばそれでも生きてゆける うそぶくことがちからに変はる
・あなたならきつとできるといふことを冬ながくしてできずにゐたり

・明日も春、そのことのみのたしかさに曲がるべき角ひとつまちがへ
・ムービングウォークの終りに溜まりたるはるのはなびら踏み越えてゆく



今日は光森さんの作品を批評することになって、どのような形で表現すれば作品の本質に近づけるかかなり迷いました。近年にないくらい迫力のある新人賞受賞作を見せられた感じがしていて、まさに新人賞にふさわしい「新しい人」があらわれたと思います。

あれこれと考えたのですが、この主知的で、遊び心があって、それでいて非常にリリカルな詩性を湛えた一連を表現するために、光森さん自身が使っていたphonetic alphabet(音標文字)を使ってその特性をまとめてみようと思いました。やや気取りすぎな感もありますが、そのくらいの遊び心はこの歌人の評には許されるかな、という気がしています。

ご存じの方も多いと思いますが、”phonetic alphabet”というのは無線などでお互いが交信するとき、その文字を間違えないようにするために音で表す単語のことです。この音標文字を素材として、連作の細部にちょこちょこっと仕組んでくるあたりに、細部へのこだわりを感じます。

奇しくも作者が授賞の言葉で、「パリのみどり」を大切にしていきたいという趣旨のことを述べていますね。それは、僕なりに解釈すると、言葉が持っている音声と文字の組み合わせがもたらす、非常に些細な違いのようなものとか、微差というようなものにこだわっていきたいということだと思うんです。この連作ではその作者の覚悟が、一番目の連作の「detail」に表れているような気がするんです。

(牧野芝草さんより、このphonetic alphabetは、第二次世界大戦中のイギリス軍で使われていたもので、現在の一般的なものではないという重要な指摘あり)

まず作中主体がどんな人物なのかということを解析していこうと思います。選考会では、この作中主体が空港の関係者、というような読解が多くなされていましたが、細かく呼んでいくと、この作者がプログラマか何かの仕事を主にメインにしていて、空港へはおそらくそのシステムを構築しに行っているような感じがします。

  "TYO-REK"
・試験予約の目的都市はそれぞれに違(たが)ひて遙かなりレイキャビク

この”試験予約”という言葉は、「試験を予約しに行く」のでなくて、この人の仕事上、空港のチケットをプログラム上で「試験的に予約」しているという意味だととらえました。

まず冒頭近くでこのように、TYO-REK(東京-レイキャビク)と準備をしておいて、その後しばらくしてからJFKとDELが続けてで出てくる。こういう詞書で、”空港の一連ですよ”ということをやや判じ物のように小さいところにちょこちょこっと仕組んでくる。

「このこだわりはあくまで小さいところなので、そんなに大事ではありませんよ」という表情をしながら、何気にこのphonetic alphabetにつよい執着を持っているような感じ。これを「detail」と表現していいのではないかと思います。

                           ※

次に作品の中身についてなのですが、どの歌にも非常に知的な認識の操作がなされている感じがします。上手いことは上手いんだけど、その「うまさ」を表現するのに、テクニシャンという用語は全くあてはまらない。むしろ、工学的といったらいいのか、アーキテクチャルな感じがしますね。

一首目

人を待つ吾はめぐりの街燈に暗き展開図を描かれて

などは、その感覚が非常に強く匂う。たしか初期の近藤芳美に、自分が技師として製図しているような歌がありましたが、この"展開図"にも同様の香気がします。ただ、この人の場合、ちょっと違うのは、職業でこうしているのではなくて、「私の感覚」そのものに「展開図」を描いたり、マッピングしたり、アーキテクトしたりする感じがあるのが重要だと思います。

あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず

この三首目も秀歌ですが、ここにはマッピングに対する深い偏愛のようなものを感じます。

この感覚を指して、「engineering]と名付けましたが、なんというか、世界を設計しにかかっているような感覚が漂っているのです。

六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか

どういうことかというと、次に引いたこの歌に顕著だと思うのですが、普通僕たちがバスを見るときに、
「六面」という言い方であらわしたりはしないはずです。普通は三面の部分しか見えないから、見えたままを書く。しかし、この人の場合、すでに頭の中に直方体というイメージが所与のものとしてあって、そこから逆算していって三面というようにあらわすわけです。あたかも自分のなかでの設計が先にあって、それから事物があるんだ、というような、認識の転倒をしているように思います。

空港と呼ばるるみなとに錨なき船の離陸をしばし眺めつ

同様のことは四首目にも言えて、この歌は「空港」という言葉から先に発想された歌です。言葉に「みなと」がふくまれているということを、この人はあらかじめ知識として知っているので、飛行機のことを「錨なき船」だという表現が出てくる。これも、言葉や図形を先に認知して、それから「後付け」で事物が表現されているような感覚の歌。

一晩を眠らずあれば震へだす指を鎮めつ「閉」のボタンに

五首目の歌もそうですね。エレベーターの「閉」という文字が先にあたえられていて、そのあとでその「閉」という言葉によって、感情がしずめられていく。と、同時にエレベーターがしまっていく。という情景と知が一致した歌だと思うのですが、こういうように認識を先行させて、そこから逆算して現実をあらわすような操作を徹底している秀歌が多いのも、特徴のように思います。

                      ※

最後に"lyric"です。なんだか、これだけ認知の歌、認識の鎧につつまれているようにみえながら、光森さんという人は意外に「いいひと」なんじゃないかと感じさせるような良質な抒情性というか、ぐだぐだな抒情も反面として持っているんじゃないか、という気がしました。

友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず

この歌などは、かなりそういった抒情性が前面にあらわれているように感じます。特にこの「二月の雪ふりやまず」のあたりですね。

・「友人のひとりを一人の母親に変へて」というのは、認識の歌であるといえなくもない。(※オカザキなをさんより、lirycとまとめた歌に対してもうすこし具体的な説明を、とご指摘をいただく)

たしかに上句の感じからすると、友人というカテゴリーから、母親というカテゴリーへと「ひとり」が変化したというような、認識の歌であるようにもみます。しかし、注目しなければならないのは、「二月の雪降りやまず」という言葉の「二月の雪」がもたらす、あるドラマティックな抒情性だと思うのです。

私がレポートで"liryc"としてあげた三首とも、ある共通点を持っていまして、それは、「ひとり→一人」「深さ→ふかさ」、「灯り→あかり」というように、漢字書きとひらがな書きを意図的に変換させるような操作がなされていることです。

友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず
ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか
自転車の灯(あか)りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち

この変換の「ひらがな」の部分が醸し出すあるゆるい抒情質のようなものに、僕は個人的にぐっときてしまいました。

さらにうしろの2首

屋上さへあらばそれでも生きてゆける うそぶくことがちからに変はる
あなたならきつとできるといふことを冬ながくしてできずにゐたり

などは、かなり率直に抒情性のほうへ傾いた歌だと思うのですが、こういう良質な抒情性がときおり顔をのぞかせるあたりも、この作者の大きな特徴だと感じました。



※発表原稿を用意していなかったため、途中からやや当時の発表の様子を再現して構成したところがあります。

※発表にあたっては、途中の牧野芝草さん、オカザキなをさん、黒瀬珂瀾さんのご意見やフォローにかなりすくわれました。どうもありがとうございました。


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わかものうたの未来・口語の未来

わかものうたの未来・口語の未来                                               
(初出:2007年10月28日 彗星集4周年記念歌会発表原稿)
 
Ⅰ・ライトヴァース

「前衛短歌が、喩法・主題制作・私性の超克など様々な方法上の問題を明確にしながら、作品として提示していったとことは史的事実である。が、唯一口語体だけは、作品として結実しなかった。口語体というのは、前衛短歌の最後のプログラムだった。」(加藤治郎『TKO』より)
 
ライトヴァースによって現代の私たちが普遍的に考えている口語体が出来上がったと言っても間違いない。
しかし、「口語短歌」そのものは短歌史のなかでも繰り返し試みられてきた話題であったのだ。

たとえば、戦前のプロレタリア短歌では、「アララギ派」をはじめとした伝統的な文語定型の短歌を「ブルジョア的」として非難し、大衆のための文芸(プロレタリアートのための文芸)として口語短歌を位置づけようとする試みがあった。

・朝日を読むな勝つまで読むなのビラが来た号外よりビラを先に張らう(坪野哲久)

また、昭和4年、(プロレタリア短歌とほぼ期を一緒にして)北原白秋の飛行詠などが新聞紙上に発表されて話題になった。

 ・自然がずんずんからだのなかを通過する―山、山、山。(前田夕暮)

これらの短歌では、口語短歌運動としてだけではなく、自由律短歌の考え方としても結びついていために、定型との親和性を放棄した形での作品が多く見られていた。また、プロレタリア短歌では、「大衆性」の基本を「労働者階級の問題」と強く結びつけたため、歌材の選択そのものがきわめて限定的になってしまう恨みがあった。

ライトヴァースでは、これらの問題を前衛短歌の影響を受けながらクリアしていき、定型との親和性を持つ話体を独自に開拓していったと考えられるだろう。また、歌材の選択の幅も、恋愛をはじめとした自由な話体を開拓していった。

・バックシートに眠ってていい 市街路を海賊船のように走るさ(加藤治郎)
・「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(俵万智)

岡井隆はこのように言っている。

「ライトヴァース派には、多かれ少なかれ、作者(作中主人公といったほうが正確だが)にまつわる〈物語〉のイメージが濃厚だった。作者は架空のであれ事実のであれ〈物語〉の中に在る。これは、近代短歌が既成概念とした、歌による〈人生記録〉の思想を、うらがえして利用したものである。ライトヴァース派が口語(というより話体といったほうが正確だが)を短歌に導入して成功したことは定説だろうが、読者は、この話体を主人公たちの劇中のセリフとして聞いていたのである。」 (岡井隆)

ライトヴァースは、私と作品が密接に結びついていた過去を自由にし、短歌で歌われている世界自体が、日常とは別個の世界を作りあげることに成功した。また読者が想像することによって、歌の背後のシチュエーションを補っていく構造を作りだすことで、独自の作品空間を作りだすことができるようになった。

たとえば、一首目で歌われているのは、どこかの車のなかのシーンを切り取ったものであるのだろう。シチュエーションに関する情報を、読者が自由に想像することが許されている。

また、これらの歌は、加藤治郎、俵万智といった個々の作者を超えて、普遍的な作品空間へと言葉を押し上げることに成功している。

80年代はポストモダンブームの中で「作者の死」ということが盛んに言われていたが、これらの近代文学的な批評タームと、短歌の潮流も無縁ではいられなかったのである。


Ⅱ・ポスト・ニューウェーブ

これらの口語短歌の伝統を踏まえて、新たな口語短歌の開拓を目指した世代として考えられるのは、1994年に登場した世代だろう。

1. フラット化の時代

現在では40代に突入しているこれらの世代では、ニューウェーブの影響を受けながら、ニューウェーブに対して微妙に否定的なスタンスをとることになる。たとえば、この世代の代表的な歌人である松村正直、枡野浩一といった二人の論を見てみよう。

「ニューウェーブ以降の世代である私たちは、彼らのこうした現状や態度を、しっかりと認識するべきなのだと思う。そして彼らの行き詰まりの原因を一度よく考えてみる必要がある。その上で、真に良い歌を作ろうとするならば、たとえ保守的・復古的というようなレッテルを貼られようとも、彼らとは違う道を選ばざるをえない。ここ数年に出た歌集を読む限り、多くの若手歌人が既にそのことに気付いている。ニューウェーブの時代はもう終わったのだ。」(松村正直「角川短歌2002年」)

「穂村弘の短歌を今まさに好きでいる人たちは、すこやかさが嫌いなのかな。いや、現代に生きてる人はだれもが病んでるんでしょうけど。「大丈夫なのかなあ、飲んでる睡眠薬の強さを自慢するようなこと書いて」とか、「そんな透明っぽいペンネームでいつまで生きていくの?」とかって、大きなお世話みたいなことをつい言いたくなってしまう。私がある時期から穂村弘ファンの集う掲示板に顔を出さなくなったのは、あそこにいると余計なことを言って彼らを傷つけてしまいそうだし、結果として自分自身も傷ついて駄目になりそうだったからです。」(枡野浩一40000字インタビュー「早稲田短歌2002年」)

松村と枡野は、一見対極的に見える歌人だが、実はニューウェーブに対して共通した感覚を抱いていると私は考えている。興味深いのは、松村正直のこの「ニューウェーブはいらない」という論に対して、やはりニューウェーブ世代と考えられる大辻隆弘がこのような反論を寄せていることだ。

「私が強烈な違和感を感じたのは、松村のニューウェーブ短歌に対する認識の甘さである。松村はニューウェーブ短歌をきわめてテクニカルな側面からしか見ていない。「口語・オノマトペ・記号」などの手法のみが、松村にとってのニューウェーブであり、そこには「私」の存在はない、と考えているようだ。
 冗談を言ってはいけない。と思う。『マイ・ロマンサー』をもう一度開いて読んで見るがいい。そこには、普段の日常の意識のなかでは気づかない不気味な「私」の無意識的な深層が、圧倒的な暴力性をもって顕在化しているはずだ。」

私が特に興味を挽かれるのは、大辻隆弘が『不気味な「私」』と言う形で、ニューウェーブ短歌に「私」の存在を認めていることだ。おそらく大辻の指摘は正しい。松村の内部には、不気味な「私」は存在していないし、それは枡野が、「すこやかさ」と呼ぶものと同義であると考えていい。

私は、これらの「不気味な「私」」と呼ぶものの不在を持って、松村、枡野の短歌を否定する立場に立つことは慎重になりたい。穂村、加藤、荻原、大辻といった世代にあって、松村、枡野の世代にないものに、注目したいと思っている。むしろ、松村、枡野は、このような「不気味な私」から無縁でいられたからこそ、次代に口語短歌を拡張することが可能になったのではないだろうか。

特に枡野浩一の場合、短歌の大衆化と言う点で、近年でもっとも成果を挙げた歌人として知られるようになった。

枡野、松村と同世代の男性歌人として、千葉聡の名前もここに加えておきたい。彼らの短歌の特徴は、「短歌の共感可能性」を押し広げたことにある。

・二年間暮らした町を出て行こう来たときと同じくらい他人か (松村正直)
・それ以上言わない人とそれ以上聞かない僕に静かに雪は   (松村正直)
・こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう (枡野浩一)
・かなしみはだれのものでもありがちでありふれていておもしろくない (枡野浩一)
・蛇行せよ詩よ詩のための一行よ天国はまだ持ち出し自由 (千葉聡)
・遠ざかる光 これから僕がゆく道を照らして電車は消えた  (千葉聡)

これら3人の歌は、読者が理解するのに難しい強烈な比喩だとか、読者の想像力を超えてくる先鋭的な比喩を極力避けている。文体も、想像力の飛翔からははなれて、きわめて着実な印象を受ける。

荻原裕幸は枡野浩一の作品を、「作家の自己表現でありながら、同時に読者が自身の言葉だと錯覚するような場所で共感を誘発する文体がある。」(短歌ヴァーサス4号)

というふうに批評している。

枡野は、自信の作品を読ませるとき、枡野浩一の声というよりも、私たち自身の声としてこれらの作品を読むことができるような仕組みを、自己の作品の「文体」のなかに取り入れることに成功した。「かなしみはだれのものでも~」と読んでいくとき、そこにある種の感動があるとすれば、それが文体がもたらす共感可能性であると指摘することができよう。

以前、大衆性とは、「純文学に対する大衆文学」というように、「マスとしての大衆」を全面的に主張するような
ものであったかもしれない。しかし、枡野が体現している大衆性は、読者一人一人の内部に浸透させていくような巧妙なものだ。枡野の作品には、作者と読者の間にあるはずの、ある種の距離感が一切存在しない。そのことは、大衆性の変質を私たちに示唆させてくれるが、このことはここでは詳述しない。

千葉、松村においても、自己像の構成の仕方は、「日常的な私」から離れようとしない。そのことは、口語短歌を基盤に、きわめて普遍的なイメージで構成される「私像」を提示し、読者との距離感を埋めようとする試みであるように思える。

2・女性文体の浸透

ライトヴァースやニューウェイブ、それ以降の枡野や松村が推し進めた口語短歌運動が導入した修辞や、文体レベルのテクニックの進展は、2003年以降、むしろ女性歌人たちに多く受け継がれることになる。

・左手が微妙な位置に浮いたままなにも言えずにくちづけをした (加藤千恵)
・3回も食事したからバレてるよ 生春巻きと私が好きね (佐藤真由美)
・感覚は枯れてゆくから 明日君にシマトネリコの木を教えよう (永田紅)
・この道は春に花降る道となる パラダイスとは変化するもの (天野慶)
・嫌いって言えないジンに浮いたまま拾い上げないライムの輪っか (佐藤りえ)
・歯みがきをしている背中抱きしめるあかるい春の充電として (伴風花)
・今を割り今をかじるとこんな血が流れるだろう砂漠のざくろ (盛田志保子)

これらの歌人たちの短歌の差異を指摘する余裕はないが、いわゆる「女性一人称の口語体」への親和力、情景と比喩のバランスのよさをあげることができるだろう。個々の作家としての価値判断はおくとして、総体として語るとすれば、これらの歌人たちはそれぞれ口語体とレトリックのバランスで勝負をしていくことになるのだが、短歌世界に新たな何かを持ちこむという方法で勝負する歌人たちではなかった。

2003年以降、これらの歌人の影響をうけた歌人たちが次々と登場するが、方法的には喩性と文体のバランスがとれすぎていて、どれも同じ歌に見え、一昨年ぐらいからこのレベルで同じ歌を投げ込んでいくだけでは通用しない、という状況が生まれ続けているように感じる。

たとえばいわゆる「投稿歌人」「ネット歌人」と呼ばれる人たちのなかにも、これらの技法を駆使する歌人たちが登場してくると、「オリジナリティのある歌人」を見分けることが非常に難しい時代に突入しているようだ。


(参考:ネット歌人の作品)
・ シロツメクサ抱えて歩く保健室がないから頭痛もしない春です (宮田ふゆこ)
・ あさがおの双葉のような始まりに鳥たちはもう帰りたくない (橘こよみ)

口語短歌は、現在に至るまである種の飽和状態が生まれていると考えてもよいだろう。

3・口語短歌の可能性

これらの飽和状態にある口語短歌を差異化していく方法として、幾人かの特殊な歌人たちが独自の技法を追求していくにいたった。これからの口語短歌の可能性として、幾人かの歌人たちをあげていき、その可能性を指摘することで本稿を閉じたい。

(1)言葉の関節を外す(斉藤斎藤の戦略)

今までのポストニューウェイブ第一世代の文体をたくみに借用し、そこからずらすことでオリジナリティを主張するという方法に、斉藤の独自の戦略がある。

・いけないボンカレーチンする前にご飯よそってしまったお釜に戻す (斉藤斎藤)
・そうさぼくらは世界に一つだけの花ぼくらはぼくを束ねるリボン (斉藤斎藤)

既存のフレーズを上手く借りてそこからずらすことによって批評性を生み出す独特の技法や、比喩をつかった表現を極力さけ、「お釜に戻す」「向こうから人」のような即物的な表現を大胆に導入することで、いわゆる予定調和的な口語短歌の回収のされ方をずらしていく方法は、斉藤の独壇場になっている。
たとえば、突然始まる情景描写から、むき出しのものをぽんと投げることで、比喩からずれた言葉の圧力を生み出すという独特なタッチの作品群は、斉藤の新たなレトリックの可能性を感じさせるものだ。

・鳴くだけの事ぁ鳴いたらちからをぬいてあおむけにおちてゆく蝉ナイス
・ゆうやけのなか川べりの道を行き止まれと言われ止まる全体

ここでは、「ナイス」、「全体」という言葉の圧力に特に注目しておきたい。

2・言葉をフラグメント化する(今橋愛・飯田有子)

二人とも、独自の方法意識で口語を非日常の領域へ押し上げることに成功した歌人である。

・「水菜買いにきた」/三時間高速をとばしてこのへやに/みずな/かいに。 (今橋愛)
・うしろてに/てすりさがしても/きたみちは砂です/思い出せない本です (今橋愛)

今橋短歌の場合、「思い出せない本」や「みずな」「かいに」といった、空間と言葉の飛躍を徹底化した表現に特徴がある。多行書きを活用して、言葉と言葉の間隔を上手く飛ばしてゆくことによって、今までにない意識の分裂を表現している。

・たすけて枝毛ねえさんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中に撫でまわす顔 (飯田有子)
・投与のことも水音と呼ぶ夕ぐれにどこでおちあう魂だったの (飯田有子)

飯田短歌では、今までのように状況が良くわかって比喩もバランスも良くて、といった方法ではなく、全面比喩のような方法で言葉自体の圧力に賭けていくような歌の作り方をしている。言葉をフラグメント化していくという点で、言葉の出し方は違うが、二人とも口語短歌をさらに過激化させた戦略としてありうるだろう(ただ、この方法は既に穂村弘という偉大な先駆者がいるが)

3・口語短歌による社会=世界へのアプローチ

・かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ中澤系)
・二十代凶悪事件報道の容疑者の顔みなわれに似る(松木秀)

口語短歌は恋愛がモチーフになることが多く、社会性や世界性へアプローチしていこうという動きが今まであまりなかった。あまりそれほど多くなかった。中澤系をはじめとして、こういった社会的、哲学的なモチーフで口語を駆使する方法にも可能性があるのではないか。

4・マックスが異なる歌

兵庫ユカ、佐原みつる、といった歌人たちは、今までの短歌で「歌の核心になっている」部分を意図的にずらすことによって、あらたな完全口語の表現を開拓しようとしている歌人というふうに考えることができるだろう。

・受け入れるだろう ケーキの紙箱の片側をこう開く感じで (兵庫ユカ)
・今はまだ口にできないことだから袖口の白い釦に触れる (佐原みつる)

たとえば、「市街路を海賊船のように走るさ」というとき、歌の核はあきらかに「海賊船のように」という比喩のマックス部分におかれていた。しかし、兵庫短歌、佐原短歌では、歌の核心にあるのは、「こう開く感じ」であり、
「今はまだ口にできないこと」である。

今までは歌の核心が一つのカタルシスであり、そこにむけて表現を研ぎ澄ましていくような作歌方法が普通だったが、これらの歌人には、歌の核心部分が、非常にささやかなことであり、そのようなカタルシスとは無縁である。技法的に強引に説明すると以上のようになるが、これらの歌が現在の若手歌人の「すこやかさ」とは程遠い実存意識と結びついていることは疑いようがない。


・真水から引き上げる手がゆっくりと私を掴みまた放すのだ (笹井宏之)
・こんなにもピアノになって氷片を海に散らし続けるピアニスト (高田祥)
・ミサイルが飛ぶように海鳥が飛ぶ愉快な時代にみんな生まれて (細見晴一)


 これから口語で歌を作っていく場合、自らの立ち位置を正確に理解し、次にどのような歌を投げ込んでいくかという才能が必要になってくると考えている。

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魚村晋太郎第二歌集『花柄』批評会











先週の日曜日は神保町で、魚村晋太郎さんの第二歌集『花柄』の批評会。ほぼ満席の盛況ぶりで、やっぱり注目度の高い歌集なんだなあということが伺えた。

いつも批評会というと1時から始まるのが通例だと思うけど、何か事情があったのか午後2時から5時という時間になっている。パネリストもいわゆる「パネリスト」ではなく、「基調発言」という名前になっている。

ディスカッションの時間や会場発言の時間がその分減ってしまっていて、少し残念な感じがした。

その「基調発言」は穂村弘さん、花山周子さん、田中槐さん、島田幸典さん。途中でへろへろになってしまったため、議論の理解力にあまり自信がない。こんな頭で詳しく話をまとめるのは大変申し訳ないのですが、いくつかの問題が提示されていたように思うので、私なりの理解ながらまとめさせていただきます。

(また、歌集『滴る木』で有名な吉野亜矢さんがご自身のブログ「機敏な仔猫何匹」で、的確なまとめをされておられますので、詳しいまとめはぜひご覧ください。)

①第一歌集にはなかった、相聞的な甘ったるい歌を許容するかどうか

②文体の問題

①は、穂村弘さん、花山周子さんが特に「否定的」な立場にたたれておられ、会場発言はどちらかというと肯定的、また、田中槐さん、島田さんは「同情的」とおっしゃっておられたように思う。

たとえばこんな歌。

濡れた刃のにほひをふつとおもはせる肌、もういちど抱きよせるとき「尾翼」

嘘つきのスキンシップはあたたかくミルクは薄い膜を浮かべる「尾翼」

つらい夢を幾つも見たといふやうな顔して口を押しつけてくる「右手」

穂村さんいわく、「とてもレトリシャンとは思えないほど、いや、レトリシャンだからこそ類型的・通俗的」と指摘されていたが、第一歌集の『銀耳』とは違い、少し甘ったるい感じの類型的な把握が見られるというあたり。花山さんもたとえば

扉のない部屋に九月の陽はさしてゐててのひらをかさねるあなた「尾翼」

のような歌については、「「あなた」のあらわれ方が類型的で、歌の精気を損ねている。」というような指摘があったと思う。魚村さんの特徴は非常に重厚で「底光り感」(穂村弘)のする言葉の圧力にあるとすると、このあたりの「通俗・類型的な歌はまったく加点できない」というのが二人の類似した指摘だった。

②。
悪口ばかり先に書いてしまったのだけれども、本来の魚村さんの歌の持ち味は、こうしたメロウな感じの歌ではなく、非常に重厚で、質量を感じさせる言葉の圧力がある歌だと、僕も思う。

島田幸典さんはレポートのなかで、非常に独特の韻律感を指摘されておられた。

栞の紐がついてゐるのに伏せて置く本のページのやうに週末「右手」

たとえばこの歌の、「~のやうに/週末」の、部分に、なんとなく韻律が省略されているような感じ(もしこれが「やうな」だったら、そうは感じないだろう)を受けるという。

ぶつっ、ぶつっ、と言葉が省略されることで、名状しがたい「屈折感」を醸し出す手法だという。

文語旧かなで口語的に歌われることで、非常に名状しがたい、独特の重みをもった世界が展開されている歌集だという点では、全員共通していたように思われる。

最後に個人的に何首か。

基調発言のみなさんが取り上げておられた歌とも重なる部分が多い。
穂村さんは「岡井調」とおっしゃっておられたけど、僕もそう思った。重苦しい世界があらわれてくる。


感情のかたちをとらぬ容積が追ひ出しがたく窓の冬の木

僕たちは信じなかつた椅子たちの円卓からの自由、だなんて

あした降る雨の冷たさ冬彦の「馬」その他をコピーしながら

秋の水みたされてゐる望んでたことの多くはしなかつたけど

ドアが開けば矩形のひかりそのなかにあなたは脚を踏み出すだらう

そらされた目があつまつてゐる部屋に淡い質量をかかげて花は

通過する雨の広島トローチの感じがあをくまだ舌にある

問ひ質す声はモノクロ映像の banzai-cliff 何度も墜ちる

地図のうへ等高線の密になる傾(なだ)りかいたく蝉の声降る

ひいてみて、僕も、甘ったるくなっていく「あなた」の歌はどちらかというと苦手だ。
僕が好きな、非常にずっしりとした世界の重苦しさを表現した歌は、歌集前半に多いように思った。

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岡井隆『初期の蝶/近藤芳美をしのぶ会前後』

2008年「未来」新年会 シンポジウム「2007年、歌集歌書について」
2008年1月20日(日) 日本出版クラブ会館:会場配布レポート












生活の時代を歌う―口語調と散文化の諸問題ー
~岡井隆『初期の蝶/「近藤芳美をしのぶ会」前後』



レポート      西巻 真

・いまなお最前線に立つ歌人 

「言文一致体(いわゆる口語調)の韻律美は、まだ、発掘されていないし、口語調の歌が、その点いろいろ工夫してはみるが、どれも似かよったような、単調さを持つ結果になっている。」(2008年・未来1月号)

 「ライトヴァース派には、多かれ少なかれ、作者(作中主人公といったほうが正確だが)にまつわる(物語)のイメージが濃厚だった。作者は架空のであれ事実のであれ(物語)の中に在る。これは、近代短歌が既成概念とした、歌による〈人生記録〉の思想を、うらがえしにして利用したものである。」(鳴海宥『BALCAROLLE』解説)
 
「多少、問題なのは、女流が薄手になつてゐるあたりだらうか。わづかに東直子が居るが、数の上の圧倒的女流文学の時代に、おもしろいことに目立つ女流が少ないのだ」(2007・「短歌ヴァーサス」11号)

『初期の蝶/「近藤芳美をしのぶ会」前後』を読む

①スタイルがもたらす多様性

 ・こちらからもあちらからも分かってゐないのだかたみの存在の中なる河が
・群島が流れて寄するあざやけき夢一つみて起き上がるかな
 ・この向かうに秋の朝雲があるならむカーテンふかく垂れて書きをり 
・野球番組折々にみて言かわす山形が勝ち福知山勝つ
 ・結社といふ必要悪をためらひつつ否みつつその中に居たりき
・幸福つて平穏のことつて言ひ切れるだけの勇気のないまでのこと

※未完成のままで作品を投げ出そうという姿勢 「場」への信頼

②状況との格闘

「初期の蝶」より ~政治の時代を歌う~

・群衆を狩れよ おもふにあかねさす夏野の朝の「群れ」に過ぎざれば
・機動隊一個小隊ほどの愛この俺だけに通ずる暗喩

「「近藤芳美をしのぶ会」前後」~生活の時代を歌う~

・政とかかはりもたぬ文化が小さき花を咲かせたり見ゆ
・スリッパが横向きにある厠よりいでてまなかひを去らぬスリッパ
・たひやきの眼のへんに歯をあてながら午後のおしやべりは午後の話題で
・ベッドに腰かけて新品のパジャマ着てパズルを解くとふ就眠儀式
・いや、さうだ夜くるしくて散歩する。暗い道ゆく妻と手が触れて

補遺 わかものの口語短歌

・3回も食事したからバレてるよ 生春巻きと私が好きね
・まあいっか わたしが可愛いことなんて わたしひとりがわかっていれば(佐藤真由美)

・読みかけの新潮文庫を閉じるときあのはつなつの開脚前転
・きみはもう春のひかりに溶けながらどうしてそんなに笑ってばかり(ひぐらしひなつ)

・一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン
・こなごなになってしまったいいことも嫌な思いも綺麗な粒ね(佐藤りえ)

・金色の焼きおにぎりの三隅をいっせーのーで割る朝ごはん
・母親が教え続けるのは名前 呼べばあなたの方を向くから(盛田志保子)

・「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
・それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした(笹井宏之)

                    ※

・ドラッグストア横切るときに一枚の葉っぱが落ちてきて胸につく 
・わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる(永井祐)

・牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ
・映画嫌いの彼女がよく見てたロードムービー 旅行も嫌いだったくせにさ(宇都宮敦)

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会場発表内容


岡井隆『初期の蝶/「近藤芳美をしのぶ会」前後』について

実はぼくは岡井隆という人を、未来に入るまで存じ上げませんでした。はじめて大会にうかがったとき、なんか一番前に座ってにこにこしているおじいさんがいて、あれが岡井さんか。三国錬太郎に似てるなあ。という印象しかなくてですね。実際に「えらい人なんだよ」と言われて、その「えらさ」が全然わからないまま歌を作っていたのですが、昨年、『水無月のころ』を拝読して、やはりこれは「えらいひと」だ。という気がして、全歌集などを買い始めた。という経緯があります。

僕はやはり、「今」の岡井隆を読んで、その「今」の岡井隆に影響を受けて、そこからさかのぼって過去の岡井隆を考えている感じがする。今回の歌集を読んでも、岡井さんは全然守りに入ってないというか、「好きなことやります。」といってやっている感じがして、そういう部分で、ぼくは岡井さんのチャレンジ精神にはかなわない感じがします。

まず、岡井さんが「未来」に発表されている文章を見ていると、やはり現代短歌の問題に対して、今なお自覚的だなあ、という印象があります。僕は、ここ二十年の新しい口語短歌運動の影響で、口語で歌を作るほうが自然に感じられるような感受性のなかで生きているのですが、どうしてもいわゆる文語の「定型」感覚と、口語でおしゃべりをする感覚は、あわないところがあって、岡井さんもいろいろな方法で、57577のなかの韻律を口語で更新していっている。という気がする。

歴史的に見ても、プロレタリア短歌などが口語で歌を作ったとき、次第に「定型感覚」というか、57577のフォルムそのものも崩して、「プロレタリア短詩運動」になっちゃった、ということも経験しているわけで、口語体で、いかに定型感をくずさずにリアリティを出すか、というのは意外と今でも重要な問題な気がします。

そういう意味で、女流歌人たちの開発した「~ね」とか「かしら」というような「かわいい」口語の語尾というのがあるのですが、なんか今の歌人たちというのは、口語の文体をほとんど更新しないままなので、どの人が歌を作っても、口語短歌は同じように見えてしまうんじゃないか、という意味で、「女流が薄手」とおっしゃっているんじゃないかなあ、と考えています。

最新歌集について、触れてみましょう。

まずは、「水無月のころ」と同様に、今回もあえてどうつくるか、という条件を先に決めてから、制作にとりかかるという方法になっています。

僕らが、普通短歌を出すときは、たとえば20首つくったら、10首くらい落として、「完成形」みたいなものを雑誌に発表したり、歌集に入れたりしますが、岡井さんは、(実際はどうかわからないですけど)10首つくったら、10首そのまま載せているんじゃないか、というあたりがあって、その辺が面白いところです。最初から、完成形として歌があるのではなくて、非常に流動的な偶然性や、「場」の要素、というものを非常に信頼されているところが、こういうスタイルをとらせているのではないか、と思いました。

その日その日で思いつくものをどんどん出していくわけですから、歌もほんとうに多彩です。、一首目はぼくの好きな歌ですが、なにか平易な言葉をつかっているのに、それが哲学的な深いところを象徴しているようなタイプの歌。2首目、3首目は歌として、非常にいい歌だと思いました。群島という言葉のイメージの喚起力。カーテン深く垂れて、という言葉の斡旋のうまさに思わずうなりました。

そうかと思えば、野球の歌とかその日その日の生活のことがぽんと出たり、結社のことについて考えたり、とにかく思いついたものをどんどんやっている感じがする。こういう多彩さのなかで、岡井さんがいま、何をやろうとしているのかなあ、ということを想像したりしているのですが、やはり初期のころの、政治の時代をどう歌うかということから、「生活の時代」をどう歌うか、ということに関心がシフトしている気がするのです。

今は政治の問題で、何か世界が動くというよりも、年金問題であるとか、そういうことが政治になってしまって、政治課題が生活課題に変貌しているところがある。そこで、歌人たちも状況的には80年代からくらべると、だいぶ生活化せざるをえなくなっていて、あえてこういう問題に踏み込もうとしていると、その日その日で単価を作るという方法に変えざるをえなくなるという側面があるような気がする。で、そういう生活の問題を背負ったまま、なんとなく軽い口語脈で、日常の些細なことをすくいとる、という方向にシフトしているような気がする。

岡井さんの生活の歌、というのは非常におもしろくて、

・たひやきの眼のへんに歯をあてながら午後のおしやべりは午後の話題で

などは軽妙な歌ですが、こういう感覚の歌は、実は今、あまり歌壇のなかでは注目されていない若い男性歌人にも、多く見られる傾向なのではないかな、と思っています。たとえば宇都宮敦さんは、結社には所属していませんが、非常に定型感覚がある方で、

・牛乳が逆から開いていて笑う ふつうの女の子を普通に好きだ

というような歌を見ても、いわゆる57577の音数律から見ると、ちょっと575107くらいになっているのだけど、なんとなく今の口語の律から見ると、すごく自然に見えるんです。午後のおしゃべりは午後の話題で、なども、8音7音になっているんですが、なんとなく勢いとして定型におさまっているような、口語の軽いリズムを生かしている。

・ベッドに腰かけて新品のパジャマ着てパズルを解くとふ就眠儀式

も、定型のリズムから見るとすこしずれている印象があるのですが、それでもなんというか、リズミカルに「ああして、こうして」というふうに持っているので、ああ、韻律がある。という印象を受ける。永井さんもこういう傾向の歌をよくつくられます。なんとなく、定型のリズムを活かしながら散文化していくことで、今の日常をすくいとろうという点で、岡井隆とこういった若い歌人の目指していることというのは、もしかすると似ているのかもしれない。そんな印象すら受けました。

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