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「セクシャル・イーティングについて考える」

で書ききれず、今思いついてしまったことを。

私は、前稿で、「日々の食事の記録」をつける意義がよくわからない。

という趣旨で、文章を書いた。

あくまで仮説として考えてみたい。

たとえば、セクシャル・イーティングの参加者にとって「毎日の食事の記録」をつける
という作業が、それこそ推進力のように歌を作る動機に結びついているとしたら。

と考えてみたい。

短歌を作る動機や意義、その過程もふくめて公開してしまおうという意図があって、
参加者たちが「毎日の食事の記録」をつけようと考えようとしたのだとしたら。

この感覚はわからなくはない。

岡井隆の「2006年水無月のころ」などの最新2歌集には、それこそ歌が成立する
「場」そのものをあらかじめ決めて、そこから歌を歌うという試みがなされている。

私は以前、未来のシンポジウムで、「生活の時代」に突入した歌人たちが、どの
ように歌を歌うのか、という問題に直面している、という内容の発表をしたことが
ある。

歌を歌う根拠のようなものが、「単調な生活」そのものに結びつかざるをえなか
った場合、歌人たちは、「単調な生活」と「歌」とのかかわりをやはり問うように
なるだろう。

もし、セクシャル・イーティングの「日々の食事の記録」が、そのような「単調な
生活」の記録の代わりとして、それを補うものとして存在しているのだとしたら、

その発想は、なんというか、「岡井隆の発想に似ている」というふうに考えられ
る気がするのである。

しかし、

もしその感覚を、私が「わからない」と感じる要素があるのだとすれば、

その「単調な生活」が、あまりにも露骨に提示されていることそのものに
あるのかもしれない。

一日の生活さえも、朝起きて、夜寝て。というような、それこそ「日記」とし
て提示されているのであれば、が「ああ、作歌動機と、日々の記録」が結
びついているのね。

というふうにとらえることは、簡単にできただろう。

しかし、日々の記録ではなく、日々の食事の記録としてそこに提示された
ものは、なんというか、あとから見ると、データベースのようにしか見えない。

つまり、この「データベースのようなもの」から、参加者たちが歌う動機を
見つけようとしているのであれば、その発想の無根拠さに、ついていけなく
なってしまったのだ。

少なくとも、毎日や人生を、ドラマチックに生きたい。

あるいは、生きることを物語としてとらえたい、という潜在的な欲求を持つ
人間にとっては、である。


リアルタイムで発信された作品をリアルタイムで批評することには、
ある種の困難さとともに、ある種のスリリングな危うさがつきまとう。

石川美南、光森裕樹、永井祐、今橋愛らによるセクシャルイーティング
を、私は初発のとき、ある種の驚愕を持って絶賛した。

しかし、その裏側に、ある種の歯がゆさというか、危機感があるという
逆方向の反応を先日ブログに上げた。

この反応があまりにも極端すぎるので、幾人かの方からかなり否定的
な反応をいただいたことは事実である。しかし、絶賛の声も歯がゆさも、
私のなかからまったく同一の感受性として現れたものである。

私は、この「絶賛したい」という気持ちと「それとまったく等距離の苛立
ち」の源が一体どのあたりに由来しているのか、という原因を、究明せ
ずにはいられない。


コンテンツとしてはまったくすばらしかった、
石川美南、光森裕樹、永井祐、今橋愛ら、のセクシャル・イーティング。

おもったほど反応がないような気がする。

すごい根拠のない雑感になるが、セクシャル・イーティングは失敗だったのではないか。

という気がする。

もちろん、コンテンツがいいということは、じわじわとこれから浸透していく要素にはなるだろう。

しかし、なんというか、この若手歌人たちは、自分で自分を宣伝しようという意思がかけすぎている気がするのだ。

牧野芝草さんが、セクシャル・イーティングの反省会の模様をレポートしてくれていたが、

この会の主催者が15人くらいの会場を選択した、と聞いて、すこし「なんだかなあ」という気になった。

なんで100名の会場にしなかったんだろう。

あるいは、セクシャル・イーティングの内容はともかく、外側に掲示板を作るとか、カウンターを
設置するとか。

そういう「反響があります!」的な宣伝をするだけでもだいぶ状況が変わったような気がしている。

けっきょく、内輪満足の会議でしょ。みたいな。

ぼくたちはぼくたちの好きなことをやってます。他人の評価はもとめません。

みたいな。

それって、単なる「ネット短歌」の悪しき反復じゃないのか。

ネット上には、そういう「ネット短歌」がうようよしていて、それらとのコンテンツ面での差異化ができていたのかどうか、正直疑問だ。

気分の問題として、評価されるのをぼさっと待っているような人たちを、積極的に評価はしたくないよね。。。

一ファンとして、そういう歯がゆさが、この4人にはいつもつきまとう。

同世代だけで固まってるんじゃないの?

なんなの? なんなの?

と、あえて根拠のない妄言を吐いてみた。


大辻隆弘の第一歌集『水廊』は、私にとってももっとも忘れ難い歌集の一冊である。

一読したとき、「ああ。これは、自分じゃないか」と、(勘違いも甚だしいが)何度も何度も読み返したものだ。この小文を書くためにまた繰り返して読んだが、300首近くある歌のなかで、付箋がつかない歌を探すのが難しい。

ざっと読むだけでも、80首程度の歌が、ほぼ○で埋まった。

愛する歌集であるだけに、代表歌をあげることも、客観的に批評することも、歌集から受ける私のてざわりをどうしても損なう気がして、なかなか難しい。

ただ、一つだけ言えることがあるとすれば、私の眼の前にあらわれた大辻は、「水」と「ひかり」と「雨」と「夜」の歌人の姿をしていたような気がする。

・癒えゆくにあらねど冬のひかり降る埠頭にこころあそばせてゐつ

・ゼフュロスは雨をたづさへ街路樹とわれらを濡らす、別れを言はう

・ひそやかに樹界うるほふ霧の夜を眠らな 深き眠りはわが巣

・朝の樹にきらめき返す水の襞 うつむいたまま夏が終るよ


(『水廊』より)

やわらかく、重厚な文語で歌われる大辻隆弘の作品世界のなかで、あこがれや癒撫といったものの象徴として、頻繁に「水」や「ひかり」といった語彙が使われ、同様に存在の深部や、無意識のイメージとして「夜」の歌が頻出する。

私は、「水」や「ひかり」といった言葉がもつきらきらとしたうつくしさに強く惹かれたし、同様に「雨」や「夜」といった言葉がもつ、ハイデガー的とでもいえるような重厚さにも強くうたれた。

大辻が歌うものは、若さであり、青春であり、あこがれであり、癒しであり、同時に存在の深部にとどくような、闇だった。

今日は短歌を小休止して、今WEB上でもっともあつい歌をご紹介します。

『セクシャル・イーティング』は、石川美南さん、今橋愛さん、永井祐さん、光森裕樹さんの四人が、毎日ご自身の食生活をさらし、毎月ご自分の歌を披露するというなんだかよくわからない企画なのですが、9月の歌が、とにかくあついです。

お互いがお互いの歌に触発されて、突然変異したようにすさまじい歌が出始めた感じといいましょうか。

おそらく若手のなかで今もっとも力のある人たちだと思います。
ぜひ、ごらんください。

あまりにすごいので、
つたないですが、評を書いてみることにしました。



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