書評 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

書評

堀合昇平さん、『提案前夜』

もうすっかり遅くなってしまって。。。

発刊が2013年ですから、感想としては相当出遅れた形になってしまいました。本来なら堀合さんが日本にいらっしゃるときに感想を書いて、ご本人ともいろいろお話をしたかったのですが、ぼく自身にこのブログを続けるかどうかということに対する逡巡があったり、いろいろ個人的な都合で結局今日の今日まで感想を書けずじまいになってしまいました。

感想が遅れたことをお詫びしつつ。
気を取り直して書いていきたいと思います。

堀合さんの歌は、「未来」の誌上で読んでいる時は面白くもなんともないと思っていたのだけど、
歌集という形にしてみると、低いが同じ熱量で何かを確実に伝えて来る、そういう感触を確かに持っている歌集だと思います。

この歌集の作品世界は華やかで、ひとを魅了するような青春歌でもなければ、季節のうつろいを歌った「もののあはれ」でもありません。修辞もはっきりいって地味で、歌っている内容も無機質な職場詠。一首単位でパッと見せられると、うーん、そんなに目立っていい歌かなあという感じでもないです。

しかし並べられたお歌を連作として読んでいくと、何かひりひりした感触が伝わってくる、そんな仕掛けになっているように思います。

何よりこの世界観は怖いです。どういうふうに歌を引用すればいいのかな、とあれこれ考えていたのですが、例えば中家菜津子さんの引用が的確かもしれません。

「わたくしの消去」について / 「東海歌壇 岡井隆講演」 夏嶋真子(中家菜津子) 

中家さんは歌集の「末尾が0になるところから機械的に抜き出した」と言っています。これは引用としては不思議な形に見えるのですが、中家さんの論旨を読むと納得できます。

私なりに敷衍すると、堀合昇平という一人の歌人の個性が、長いスパンでずっと文体を変えずに、ぶれずに堀合昇平という「私」を貫いているために、それが反転するような形で、堀合さんという輪郭線が「普遍的なサラリーマンの姿にまで深化している」ということのようです。面白い見方だと思います。

中家さんはさらにこう続けます。

「無私な観察により事実を「美しく」詠んだとしても、記録の域を脱出することはできない。堀合氏は現実の出来事の中から事実ではなくひとつの詩想とひとつの真実を見つめている、社会へと大きく開かれた目をもって。それを独自の文体で描くことでサラリーマン生活という日常が、詩性の備わったリアリズムへと昇華される。」

さて、リアリズムというキーワードが出てきました。

近代短歌以来というのか、リアリズムは例えば自然とか、季節のうつろいとか、そういうものとセットになってきていました。しかし現代でリアリズムで歌をつくろうとするとき、どうでしょう。私たちは庭に咲くこでまりの花にリアリティを感じるでしょうか。これだけ過酷なオフィスワークを強いられて、たとえばブラック企業みたいなものが問題となるときに、私達の現代のリアリティは堀合さんが開拓したように、空調の音とか、職場での会議とか、そういう一見すると「歌になるのか」というところに、むしろ隠れているのではないかという問題提起があるようです。

一首も引用しないままでこの感想を終えるわけにはいかないので、私なりに歌を引用します。
 
 違う、僕じゃない。
胸ぐらを掴む男の胸元にIDカードが揺れていたこと(9)

胸ぐらを掴む男というのは、おそらく上司なのでしょうが、このお歌は詞書の「違う、僕じゃない。」という言葉とセットで読むと、ある無機質な感じが出てくるように思います。胸元に揺れていたIDカード。そして「違う、僕じゃない。」という切迫した詞書。ここには、荒っぽさと同時に、現代の「交換可能な私」への鋭い認識が詩になっていると思います。

IDカードを壁に翳(かざ)せばひらくドアのたぶんわたしがここにいること(22)

同じようなお歌は前半にもう一首あります。こちらのほうがわかりやすいですが、破壊力という意味では前のお歌のほうがいいかなと思います。「違う、僕じゃない。」という詞書が、端的にもう言い表していると思うのです。

さて、続いてもう一首。

部屋が暑い理由が判った。
仕様書は冷たい。痩せた指先で夏なのに塗るハンドクリーム(12)

なんとも言えず気持ちの悪い歌です。何の気持ち悪さなのかというと、はっきりとハンドクリームの気持ち悪さだと思います。痩せた指先にハンドクリームを塗る。本来なら保湿とかちょっとおしゃれとか、そういう目的で使うハンドクリームが見事に反転されてしまっていて、夏に塗るハンドクリームって気持ち悪いだろうなあという感触だけが伝わってくる。この決して癒しとかそういうところに向わない「ハンドクリーム」の気持ち悪さ。これが堀合さんの本領なのではないかと思います。

「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が揺さぶる(25)

このお歌、もう堀合さんの代表歌に完全になりました。「ナイス提案!」って一見するとユーモアがあって面白みのあるフレーズだけど、これは決して上司とかに言っているんではなくて、夢のなかで言っているんだと思います。このナイス提案!は、見事に悪夢だと思います。堀合さんの悪夢ではなく、現代の悪夢。そういうところを見事にとらえたお歌だと思いました。その後、うす闇に叫ぶもエグいなあと思いますし、それを妻が揺さぶる、というのもうまいです。「あなた、しっかりして」と揺さぶっているのでしょうか。私はここに救いようのない職業人の怖さのようなものを感じ取りました。救いを無理に読まないほうがいい歌であるように思います。

あと指摘しなければいけないのは、加藤治郎さんを始めとする現代短歌の影響です。決して堀合さんが本歌取りをうまくやっているという印象はないのですが、これだけ直球でニューウェーブを継承しようとしたというか、加藤治郎を継承しようとした歌人もかなり珍しいと思います。

「ロスジェネ」という一連には、記号短歌を模した

ホントウノジブンサガシニトラワレテケイサンドリルノコタエノヨウナ
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 (23)

という一首があります。僕は記号短歌であろうがなかろうが、背後にやはりその記号を選ばせるだけの内的必然性が必要だと思っているのですが、この歌にはそれだけの精神があると思います。白紙の計算ドリルを表す□の連打は、必ずしも目新しさはないような気もするのですが、それでも現代の「自己啓発」とか「自分探し」に対する精一杯の皮肉が見て取れるので、手法の目新しさというよりも、その背後の「批評精神」のほうを読み取りたいと思います。

他にも加藤治郎さんを始めとした先行する短歌の、いわばパロディのような歌が多かったです。

・反骨者(パンクス)のようにフロアを歩こうよネクタイ首に巻きつけながら(40〉

・いま僕の脳は機能を失ってタメ口たたく 大会議室(40)

やはり加藤治郎から短歌に入った私は爆笑してしまったのですが、

「~しようよ、~しながら」というのは完全に加藤治郎の歌の形だと思いますし、
「いま僕の脳は機能を失って」~は「濡れたガーゼに包むみつばち」という加藤治郎の「ブレイン・ダメージ」の有名な一首が思い浮かびます。ただちょっとこれらの歌はパクリにしてはうまく言っていないかもしれないと思いますし、加藤さんへの挨拶かなと思いました。そうするとⅡ章のタイトルになっている「シオリ」というのも、「ハルオ」へのオマージュかなということを考えたりして、全般的に加藤愛が満ちているなあという印象を受けました。

寝不足の朝に差し込む歯ブラシのざらつく感じ そうあの感じ(27)

と思ったらこれは中澤系のフレーズですね。さすが。

他にも、ぼくが個人的に好きだなと思った歌です。

みな前を向くから僕も前を向くデスクトップの遠い草原(28)

ふいに詩が奔ったようで手を止める機器構成明細第2・4版に(36)

冷えたゼリーに桃を掬えば知るだろうつまりはイメージの問題なんだ(37)

その他のゴミとかかれた箱の前とまれば捨てるその他のゴミ(48)

梅雨明けをニュースは告げる 堕ちぬため働くのだと何故言い切れぬ(55)

地下鉄にスマートフォンの溢れいてゼビウスをやるおんなに萎える(74)

市場にはデッキブラシの音だけが響いてふいに夏の気配が(90)

どの歌も、なんというのか、現実に足をつけているのですが、少しポエジーがあるかなというお歌です。ぼくが選ぶ歌というのは、単純にうまく言えてる歌ではなくて、ぼくなりに「美しさ」を感じる歌だと思います。

一首目、「みな前を向くから僕も前を向く」というのは多分職場で、パソコンの画面を全員見ているので、自分もというふうに前を向いたのでしょう。それがなんだか、日本的な同調圧力の暗喩にもなっているような上の句の怖い描写です。それが、突然デスクトップの遠い草原という美しい描写に変わる。もちろん、職場のPCですから、壁紙なんて設定されておらず、元のWindowsの画面のままなのでしょう。上の句描写のとおり前を向いたら、ふいに読者とともにデスクトップの草原を目にする。なんとも言えず美しい発見で、動きがあるのがいいと思います。


「ふいに詩が奔ったようで~」のお歌は僕すごく好きです。詩が奔ったようでというフレーズがとてもいいですね。でその詩が奔ったものというのが、機器構成明細2・4版というなんか現代的で詩なんて感じないようなものだった。そういう日常の苦しい仕事の場面に詩が奔ったような感じを抱く。ささやかな抵抗といいますか。窒息しそうな日常に詩を感じる場面があるよという歌ですね。

三首目「冷えたゼリーに桃を掬えば~」のお歌。これも素晴らしくいい歌だと思います。多分これもシーンとしては何か上司と部下の会話で「いやいや、それをこうするのはイメージの問題なんだ」といっているようですが、この歌は、美しいです。冷えたゼリーに桃を掬えばという言い回しもなめらかで、そのあとイメージの問題なんだ、と言う韻律も美しいので、そういう職場のシーンを無理に当てはめなくても歌として味わえると思います。

「その他のゴミ」の歌は、一瞬松木秀さんの歌かなとおもうくらいややニヒリスティックなものの把握の仕方がいいと思います。誰も自分が出したゴミのことを最初からその他のゴミと認識している人はいないのでしょうが、「その他のゴミ」の前に止まれば「その他のゴミ」にその他のゴミを捨ててしまうわけで。人間の認識の問題を、ゴミという身も蓋もないものに捉えて考えている歌だと思いました。

五首目「梅雨明けを~」のお歌。現代の暗部を見ています。いまじぶんが働いているのですが、それは堕ちぬため働かぬと言い切れるわけでもない。もしかしたら今の自分の生活も堕ちているのではないか、ふとそんな感慨がよぎったりするのでしょう。上の句の梅雨明けをニュースは告げる、というのがなんとなく明るい感じですが、それと下の句の急迫な口調がよくついているとおもいます。

六首目 スマートフォンで「ゼビウスをやるおんな」ってどんな人なんだろうと思うんですが、これがパズドラとかだったら普通だよなあと思うんですが、ゼビウスという言葉のチョイスがいいんじゃないかなと思います。ゼビウスかあ。昔やりましたね(遠い目)。言葉の感触として、ゼビウスってすごく懐かしいのに、なんか寂しい感じがあって、これがぴったり歌についているんだと思います。ただ、「溢れいて」という文語の混ぜ方、僕は堀合さんの文体ならこういうドライな文語の入れ方もいいかなという気はするんですが、気になる人はいるかもしれません。スマートフォンとしっかり訳さずに歌にするあたりにも、実直な人柄が溢れていて好感をもちました。

七首目。光景としては市場の朝だと思うんですよね。みんなそれぞれデッキブラシの音を響かせて廊下を掃除していて、そういうときになんともなく夏の気配がした、という歌だと思うのですが。デッキブラシの音が響くということと、不意に夏の気配がするということはなんでそう関連付けられるの?というくらい関係のないことだと思うのですが、このお歌の場合、その遠さがとてもいいと思います。

散漫に書いて来てしまいましたが、ちょっとむずかしいかなと思った箇所もあります。

一点目は、確信犯なのでしょうからあんまり問題にしませんが、堀合さんの長所でもあり短所でもあるところです。冒頭でも述べましたが、この歌集はとにかく職場詠が多いです。不器用と言ってもいいでしょう。とにかく、シオリという連作になるまで職場詠ばかりやっていて、シオリでちょっとだけ家族を詠っていてまた職場詠。この構成、これだけつらつらと同じトーンの世界ばかりを並べられたら、今後どうするんだろうな、とちょっと余計な心配をしたくなります。この構成だとどうしても前半、というか前半から中盤くらいまでにいい歌を見つけてしまって、後半がお腹いっぱいという感じになるかもしれません。

もう一つは、はっきりと歌の出来栄えにムラがあること。もちろん、第一歌集ということですから、歌のできばえにムラがあってもいいと思うのですが、これだけ同じトーンの歌が並んでいると、ああ、これはなんとなく詩として機能しているなという感じの歌と、んー。ちょっと微妙だなという歌の差が目立ってしまうと思うんです。この出来栄えの差は、私たちが感得するリアリティの差と言っていいのかもしれません。

堀合さんの短歌のリアリティは、近代=現代短歌が持続させてきたリアリティとは少し微妙に質が違っていて、堀合さんの歌の世界には「現代的」なリアリティはあるんですが、それが果たして「リアリズム」から来ているのか、というと全面的に中家評には賛同しかねるかな、という感じがします。短歌のリアリティには、もちろん「体験的によくわかる、ささる」という感じのリアリティは確かにあるけど、近代=現代短歌と接続していくなかで、やっぱり細かくものを見ていくというリアリティも大切で、堀合さんにはそういう「描写」が粗っぽい歌が多いように思います。

いくつか歌を引いて指摘したいと思います。

たとえばこういう歌ではいわゆる「リアリズム」、ものを見るということがうまく機能しているなという感じがあります。

組み結ぶ足つぎつぎとほどかれてほどかれぬ一組につまづく (48) 

ブラインドタッチを統べるつややかな指は依頼を拒みつづける (68)

一首目、これぞというくらい見事な出来栄えです。電車か何かに載っていて、自分が歩いていると周りの人間はみんな足を組んでいる。それが自分が移動していくと、みんな通路を譲って組んだ足を解いていくのですが、なかに気の効かない人というのがいて、その人の足に思わずつまづいてしまった。これが見るというか、観察ということ見事にを体現しているなあと、思いました。

二首目は、統べる、がうまい言い回しです。これは女性の事務員を観察している歌だと思いました。ブラインドタッチを統べるつややかな指、というのはおそらく女性の指だろうと思います。その人が上司からの依頼を拒みつづけている。そういう様子を観察していて、とてもうまいと思いました。

逆にこういう歌はどうなんだろうと思います。

週末にはなやぐ声を聴きながら塩の吹き出たスーツで歩く(18)

ゴミ収集車の過ぎ行けば後ろから生臭い風が吹いてくる(75)

一見するとリアリズムの歌に見えるのですが、一首目、はなやぐという言い回し、これは週末という言葉から連想されているだけであって、観察しているわけではありません。塩の吹き出たスーツというのも夏という感触は伝えて来るのですが、見慣れた言葉かなあと思います。突出してよく見えるなあという歌がある一方で、どちらかというと平板な歌が多いと、思います。

二首目も、悪くはないのですが、ゴミ収集車の過ぎ行けば、という急迫な声調のあとでゆっくりと「生臭い風が吹いてくる」、って言うと声調が挿入されるので、なんだか弛緩した感じになります。のんびりとした「生臭い風」だなあと思いました。これは下手をすると散文なのかなという印象もあります。事実をありのまま歌えば描写になるというわけでもないのです。

どうしてもこういう歌の呼吸というか、歌の文体ということをうまくコントロールできていないために、どうしてもキレのない歌、散文的な歌が増えてしまうのではないかと思います。

とても長々と感想を書きました。

堀合さんは外国に旅立ってしまったということなので、歌について語る機会があまり持てなかったのは残念なのですが、またどこかでお目にかかる日もあることを祈って筆を置きたいと思います。新しい境地を獲得されることをお祈りしています。
スポンサーサイト

守中章子さん、『一花衣』

だいぶ間が開いてしまって、ブログで文章を書くのが久しぶりになってしまいました。
少しずつですが、歌集の感想書きを復活させていただきたいと思います。

本来なら2013年ぐらいから「続き」で読んだ歌集の感想を書くところなのですが、、
ちょうど直近で批評会があって、書きやすいので未来の守中章子さんの歌集から始めさせてください。

これ以上だらだらと伸ばすと、批評会の記憶そのものが薄れてしまって、もう何を書いていいのかわからなくなってしまいそうなので。。。

守中章子さんの批評会、私などは到底お近づきになれないであろう詩の方がたくさんお越しになられていて、100人ぐらいはいらっしゃったでしょうか、大盛況でした。

(記憶が薄れているのですが)批評会のパネルディスカッションでは、この歌集の「死」の気配が指摘されていたように思いっます。私も詳しくは存じあげないのですが、どうやら守中さん自身がやはりお身内の方の死をきっかけにして作歌を始められた方らしいということで、その歌集のテーマも必然的に死の気配をまとっていると思います。

私自身も、自分の祖母の死がテーマになった連作とか、うつ病で死にかけた経験というのを歌にしていた経験があるので、共感しながら拝読しました。ただ、その「死」に対するアプローチは私自身とはかなり違うな、と思いました。。。
                                
私はどちらかというといつも短歌を「ぼんやりとした感情の襞のようなものを、おそるおそる、言葉にしていく」という手つきで言葉にしていると思います。言葉を紡ぐとき、いつもなるべく「ぼんやり」したものを少しでも言葉に近づけたい、声にしたい。そういう欲求がいつも心のなかに沸き起こってくる。そういう作歌衝動があるのですが、

『一花衣』を読んでいると、そんな私とはまったく別のスタンスで言葉そのものに誠実に向き合う作者の姿が見えてきます。大胆に世界をまるごとつかむような、死を無理やりこちら側に引き寄せようとするというか、なんとなくロックンロールな認識の仕方をする作者だという印象がありました。

言葉に対するスタンスが若干違うので、私にとって大切な歌は、守中さんの渾身の歌とは若干違うかもしれません。

・さうだよねときはゆつくり進むから いまは未生つていふ場所にゐる(10)

このお歌が最初目に止まりました。文語調の歌が多いのですが、このお歌は岡井隆を彷彿とさせるゆったりとした口語調で、未生つていふ場所にゐる、という言葉が謎めいています。これは花が未生であるという状態とってもいいのだろうし、解説にあるように仏教用語の未生をとってもいいのだろうし、一首のなかに多義的な意味を孕んでいて、奥行きを感じさせる歌です。口語の呼吸がとてもゆっくりしていて、いいと思いました。

・幾千のことばを薄茶で飲みしづめしらさぎの立つ器を置きぬ(14)

ことばについて考えた歌はたくさんありますが、この歌も美しい歌だと思いました。。「しらさぎの立つ器」は実景としてとってもいいし、心象風景としてとってもいい。この実景としてもいいし心象風景としてもいいという読みの多義性を誘うような作品が私はとても好きだと思います。


・かなしみはボディブローのやうでありゆがむ画面に立ちあがるボクサー(54)

この歌は私にとって驚くべき発見だった歌。かなしみはボディブローという上の句が、まさに自分の体感と一体化しているようで、かなしみときたら僕なんかはもっと美しい言葉をつけようとすると思うのですが、いきなりボディブローという二句目に虚を付かれました。心ではなく腹の底にしずしず響いてくるものなのだろうな、という、少し驚いた歌でした。立ちあがるという表現も荒っぽくて、成功していると思います。

冬のあさ声をころして呼びてみるめざめのきはに会ふはずだつた(60)

ゆふぐれに読まるる詩には「せかい」とふ語のあらはれて母音ひびきぬ(94)

うなづきて熱き紅茶をすすりつつ赦すはうへと身はかしぎゆく(102)

かなしみをしづかに持ちて運びゆく木下闇(こしたやみ)抜けつぎの暗渠へ(106)

向日葵を購はむかな両の手にあふるるほどのあの日のこゑを(110)

われひとりめざめをりたる病棟に真夜しろき馬しづかに立ちぬ(123)

まなかひにひろがるものをうす霧と呼べり不安と未だ呼ばずして(126)

少し順番が前後しますが、私が好きだと思うタイプの歌はいずれも歌集の中ほどにあらわれてきました。詳しくは書ききれないのですが、126ページ。不安と名付けられる前の「うす霧」。

102ページの動作のなかに気持ちを込めた感じというのか、「赦すはうへと身はかしぎゆく」という所作の、さりげない描写の感じ。110ページの「向日葵」には「あの日のこゑ」がオーバーラップされて投影される。こういう描写と心象が入り組んだ歌をとても好きだと思いました。

しかしこの歌集における作者の本領はおそらくこういった複雑な歌ではないのだろうとも思います。

もっとも深甚だったのは、炎天に立っている亡父に「待ちやがれ」と思わず絶唱してしまうような、わしづかみにされるような言葉の大胆な使い方でした。

待ちやがれかげろふゆらぐ炎天に亡父立ちをりえい待ちやがれ(64)

この歌はとても成功していると思うし、気持ちもわかるのだけれど、私はどちらかというと「死」に対して怖れを抱いているというか、そんな死んだひとに対して待ちやがれなんて怖くて言えません。。。

直球のこれらの歌には、やはりストレートであるがゆえに持っている粗さのようなものも同時に持っていると思いました。

たとえば以下の2首はどうでしょうか。

もうたれも死ぬことなかれまどろみて深夜のベルに素足で走る(44)

吾子還らば雪水与へむ賢治のごといやむしろこの生命与へむ(58)

44ページの「もうたれも死ぬことなかれ」という感慨は、作者がお寺で暮らしているらしいという実感からすればよくわかるものだし、おそらく深夜に急報が入って自分自身が走り回っているのだろうと思います。

しかし私はこの歌が持っているある種のヒューマニズムには完全に乗りきれませんでした。死ぬことは避けては通れない。人は運命には逆らえない。それに対して表現の上だけで抗おうとするのはいささか強引すぎるように感じました。

58ページの素直な心情吐露も私は完全には乗り切れませんでした。ストレートで大胆に母の気持ちを大胆に歌っているのはいいと思うのだけど、運命に対して内省するというよりは、どちらかというと運命をねじまげようとしすぎているという感触が、何か世界の外に出て言葉を発しようとしている態度に捉えられてしまって、少し収まりが悪く拝読しました。

この作者は言葉に対しても、かなり無理な冒険というか、言葉そのものを歌にしようとしている姿勢が現れていて、それは冒険ではあるのだけど、ときどき言葉が雑になってしまう感じがある。


アの音を聞かせてほしいあのときのくちのかたちさとてもきれいだ(16)

脚韻を踏む美しけさに触れしのち愛恋といふ迷路に入りぬ(139)

「DETRUIRE(でとぅりゆいる)」かのじよは叫ぶ夜をこめてRに巻かれ樹になるまでを
(150)

とめどなく語るくちから翻(こぼ)るるは冠詞接尾語指示代名詞(150)

これらの歌は言葉そのものや、かなり概念的なテーマについて述べています。これは私の短歌へのスタンスとは大きく異なる部分だと思います。もちろん、言葉そのものについて触れた喜びというのを歌にするのはいいことだと思うのだけど、言葉にふれた喜びを、言葉で表現するということに、少し荒っぽさというか自己矛盾があるような気がします。これらの短歌には私の大好きな謎がないように思いました。

一首目、アの音を聞かせてほしい、というのは言葉そのものへの愛着のようなものですが、そのあとであのときのともう一度あ音を使ってしまうあたりが、なんとなくダメ押しな感じがして、あんまりおもしろいとは思えませんでした。

二首目、脚韻を踏むしずけさと愛恋はあんまり関連がないというか、言葉をこう、ゴタゴタゴタっと並べてしまっただけ、という感じがします。

三首目、DDETRUIRE(でとぅりゆいる)」のあとに、Rが出てきてしまう感じ。このへんがなんとも言えず僕にはダメ押し感があって、言葉付きが汚いように感じます。

四首目、うーん。言葉って本来は名付けられないものだと思うんですよね。国語学を勉強しているひとには申し訳ないんですが、冠詞接尾語指示代名詞という収め方は、僕には全く賛成できません。そういう言葉を言葉で難しくしようとしても、僕は全く乗れないです。

いろいろと難も書いてしまいましたが、僕はこの作者の立ち位置にすごく共感しつつ、その手つきにはあまり賛成できないという感じかもしれません。ロックンロールよりもウィスパーボイスを好む、僕の好みではなかったという説明の仕方でいいのかな、と思いつつ。

この歌集についての感想はこの辺りにしたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。

山崎聡子さん、『手のひらの花火』

山崎聡子さんの『手のひらの花火』について感想をまた喋りましたのでブログでご報告させていただきます。
ご視聴いただければ幸いです。



【取り上げた歌】

飛び込み台番号(7)のうえに立ち塩素の玉のきらめき見てる

死ぬときはプールの匂いを纏いたい「タイルをみっつとったらおわり」

塩素剤くちに含んですぐに吐く。遊びなれてもすこし怖いね。

制服にセロハンテープを光らせて(驟雨)いつまで私、わらうの

いくつもの名前を呼んで私から遠ざかりゆく放課後の窓

シングルのベッドで深爪競い合うことを幸福のたとえのように

ゲームセンターの青い光のなかにいて綺麗なままで死ぬことを言う

五円玉 夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』 (光森裕樹さんの発言より引用)




【取り上げた歌】

ほおずきを口のなかから取り出せばいのちを吐いたように苦しい

中学で死んだ高山君のことを思うときこれが記憶の速度と思う

排卵日小雨のように訪れて手帳のすみにたましいと書く

ルームメートの朝の祈りよレバノンをピンクで塗りつぶした世界地図

パークロード道なりにゆきそれはそれは遠い陽炎のように歩めり

あまやかに噛み砕かれたる芽キャベツのなんてきれいな週末だろう

染みだらけのコートに体を包んだらひとり明け方の線路を辿ろう

息が夜に溶けだしそうで手で覆う映画を生きてそして死にたい

電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ

秋月祐一さん、「迷子のカピバラ」



秋月祐一さんの歌集について感想を喋りました。
ご視聴いただければ幸いです。


秋月祐一歌集について(1)



【取り上げた歌】
味の決めては火を止めたあとにひとしづく落としたならずものの涙ね

修正液が乾くのを待つひとときに声だけ思ひだしてゐるひと

借りるビデオも決まらないまま語りあふギズモの耳の唐揚の味

江國香織の小説めいた夕暮れのグレープフルーツジュースの苦さ

眠れない夜にきみから教はつた世界でいちばん長い駅の名





秋月祐一歌集について(2)

【取り上げた歌】
ひとつづつ交互に食べるたけのこの里よ 始発はまだまだ来ない

相手より長生きしようおたがひに(お化けは死なない)約束しよう

笑ひながら生きてゆかうよ雪の日にでつかい塩のジェラート舐めて

「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」観覧車(談)

でぐでぐと食べてでぐでぐ輪をまはしでぐでぐと寝るデグーの日々は

ふむぐうと抱きついてくる無表情 これは淋しいときの「ふむぐう」

LOMO・HOLGA・CAMEHA8M(ロモ・ホルガ・スメハチ)なんかを脇によせ夕餉のためのスペースつくる

岸原さやさん、『声、あるいは、音のような』

ブログの方法を変えました。
書くのではなく、語りかけるという方法でこれから感想を続けて頂きたいと思います。

ツイートキャスティング放送をつかって、歌集の感想を述べていきます。
よろしくお願い致します。


ツイートキャスティングを始めた理由


【取り上げた歌】
ざりがにの眠りを見たの横むきに浮いて眠るの深夜の水槽

遠い夏くすりの糖衣舐めました 苦いところに届くすれすれ


岸原さやさん(1)



【取り上げた歌】
ゆびさきを針でつつけばさらさらの血がうつくしく見とれてしまう

わたくしの輪郭はもううすい繭 ひかりに透けて風にころがる

かなしみがかなしくなくてくるしみもくるしくなくて熱だけのある

いのちってこんなにかるい水鳥の羽毛の下でまぶた閉じれば

手をひたし水の想いで目をとじる 澄んでゆきたい 澄んでゆきたい

美しい音符さらさら描くように医師がカルテに記す家系図

ていねいに消した火があるふたりして熾し両手をかざしたあの火

横向きに坂をころがる枯れ草の匂い確かな夢の手ざわり


(オープニング)

岸原さやさん(2)



【取り上げた歌】
なめらかに上衣は墜ちるかささぎの渡せる橋をくぐる流れに

むらさめ、とつぶやく。カフェの二階からやわらかく煙らせる 村雨
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。