2007年03月 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

2007年03月

中川宏子『いまあじゆ』を読む

いまあじゅ









中川宏子さんの第一歌集『いまあじゆ』
何回か書こうとしたが、適切な言葉が見当たらなかった。

もちろん、すぐれた歌集であることは間違いないのだけど、ちょっとどう紹介していいのか迷うのである。

歌はとても共感しやすい、いい歌がたくさん並んでいる。中年になった女性の心象を詠ったものだとすれば、十分多くの人に共感を届けられる、いい歌集だと思う。

ただ、それだけでいいのかな、と思うと、どうも全貌をとらえられないような気がして立ち止まる。

この「共感のしやすさ」には、なんとなく、難しいものがある。

何から書いていこうかな、と思って、この歌集の章立てから書いてみることにした。

              ※

『いまあじゆ』の作中の主人公は、中年の主婦と考えてもいいだろう。(もちろん、作者本人である、という読みは避けるけれども)

歌集のなかで、この主人公の主婦としての日常があちこちに出てきて、それが連作としておさめられている、という構成なのだ。

たとえば買い物へいったり、展覧会へいって絵をみたり、犬を撫でたり、韓国の38度線へ旅行へいったり、韓流スターのテレビを見てたり、ドイツで一時的に生活したり。

こういうあたりの行動を読んでいると、まあある程度恵まれて、かなり知的な家庭をお築きになられた主婦としての姿が浮かびあがってくる。

ところが、そこに出てくる歌が、意外と興味深いのだ。

・スーパーのカートを押して同型の主婦ロボットと甘柿を買ふ

・向かうより苦手な人がやつてくる(SWITCH OFFさ)すつと会釈す

ど、どらえもんだー。

こほん。。。

はじめのほうの連作は買い物の歌だが、そこで完全に自分を「ロボット」だと規定して行動している。何だか楽しい自己演出のように見えるが、もちろん、「ロボット」と自分を規定するところが一筋縄ではなくて、「退屈な日常のなかで生かされてる感」が微妙ににじみ出ているところに、この主人公のバランス感覚が働いている。

・ドラマ見て笑つては泣く単調な日々のすきまに挿す体温計

歌集の中盤くらいにこんな歌もあって、この歌集の一つの主旋律は、
「いちおう恵まれた主婦をやっているんだけど、なにか生きづらい感」を抱えている現代の中年女性の姿、とひとまず仮定することができるかもしれない。

そう考えて、地の歌をちょっと並べてみよう。
いずれも上手で、非常に共感しやすい歌が並んでいるのである。


・馬車道にコンビニがあつて花屋がない不思議のままに行く朗読会

・ケータイに桜の花をしまふやうきみのメールを保存してゆく

・ポップコーンがうまく作れたゆふぐれに法皇さまに言ふさやうなら

・白菜ぢゃなく春キャベツでゐよう人と交はる輪の中にゐて

・さよならはいまだ言へない祝日の旗をしまふやうな夜が来てゐて


 一首目は、「花屋がない」と感じる、少しリリカルな少女のような感性。

 四首目は、「春キャベツ」というみずみずしさに言い換えた隠喩のたくみさ。

 五首目は、「祝日の旗をしまふやうな」という直喩の意外性。

どれも、水準をはるかに超えて優れた歌だし、この辺りを見て買いたくなった女性がたくさん出るだろう。と、感じる。

しかし、この感受性について、私はなんとなく考えこんでしまうのだ。

八十年代を過ぎて、俵万智が登場したあたりから、短歌のリアリティは大きく変容した。大きな流れとして、ポストモダン思想に流れた記号短歌・口語短歌を生み出したし、いっぽうで共感をベースとして、ある程度共有化された自己像のなかで、そのなかでの差異を生み出していく方向性の短歌を次々と生み出してきた。

中川さんのこれらの短歌は、この「共有化された自己像」のなかで、意図的に自己の感受性を偽装したものであるような気がするのだ。

そしてその「共有化された自己像」は、今の若い世代の歌人にも、脈脈と受け継がれつづけている問題なのである。

・スプライトで冷やす首筋 好きな人はゐないゐないと呟きながら(石川美南)

・せつなさを語りつづけたサボテンに見たこともない花が咲いたよ(天野慶)

いずれも優れた短歌なのだが、当然、こういう突込みが入るだろう。

「この歌ほんとにスプライトで首筋冷やしたときに思いついたんかーい。この歌の作者は、ほんとにサボテンにせつなさを語り続けていたんかーい。これは、共有化された自己像を想定して、そのなかで自己演出をして作ったものなんじゃないのかー」

中川さんはあとがきのなかで、こんなことを書いている。

「結社に入って研鑽を詰むうち、突き当たったのは作中主体の問題であり「私性」の問題だった。この歌集には、私小説の形を借りた作中主体である、「私」が多数登場してくるのであるが、それを私個人と結びつけると必ずしも統一した現存する「私」ではない。生きるのに厳しい現実を見据えつつ、「私性」の課題は今後とも取り組み続ける問題のように思う」

なかなか、謎めいたあとがきではないか。

おそらく中川さんはこうした問題に自覚的なのだと思う。

この紹介文では、この「共有化された自己像」を掘り下げていくことは避けようと思うが、いずれネット短歌との絡みで、改めて考えていきたいところだと思う。

紹介文とはだいぶ離れた。
最後に五首選を。

ここにあげられる5首。完全にぐっときました…。

この歌集は、ぜひとも多くの人に手にとってほしい歌集だと思う。


・今われは水葬されてゐるのだらうMRIの川に入りゆく

・イムジンは撮影してはならぬ河終はりしはずの生理またくる

・非常時はここで死んでもいいですと念書にサインを鉛筆でせり

・ハチ公は少しさみしき顔ゆゑに人の集まる処と思ふ

・虹を撃て チェーンメールの届く朝トーストがいま叫びはじめる


MRIのひかりのなかで、水葬が出てくるとは…。

ハチ公の歌もいいなぁ。

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杉森多佳子第一歌集『忍冬-ハネーサックル-』











ある日、装丁のとても美しい本が届いた。

杉森多佳子さんの第一歌集『忍冬』

歌集を読む前に、しばしその本の装丁に見とれていた。

カバーをはがしてみたりして、「おおおっ、すげー。こんな装丁になってるんだー。ほらほら、おばあちゃんおばあちゃん、ちょっと見て見て」

と、昼寝しているおばあちゃんに突然歌集を見せたりした。

ページを開いて、通読して、とても安らかな気分になった。そして、いつしか三回、四回と繰り返して読んだ。
             
春日井建、加藤治郎。

歌集全体に、二人の師へのオマージュが並んでいる。

そして、数ページごとに、水準をはるかに越えた詩的純度の高い歌があらわれる。

杉森さんはこの歌集を出すまでに15年間も、歌を蓄えてきたという。

そういえば、この歌集の表紙には、美しいガラス玉があしらわれているのだけれども、15年間を一つの歌集にまとめる作業は、このガラス玉を作るようなものだったかもしれない。

まさに、「凝集」という感じがするのである。

              ★

・長身を静かに折りてチェリストは白雨のごとき喝采を受く

この歌が、この歌集のすべてを一度にあらわしていると思った。

あるコンサート会場。演奏が終わって、拍手がさーっと拡がっていく。
その様子を、「白雨のごとき」と捉えた。

短歌というのは小説と違って、様々な感情を一瞬のなかにぐぐぐっと詰め込むものなのだけれど、この「白雨のごとき」には、いろいろなものが詰め込まれている。


・秋冷を運び来る雨見上げれば刃こぼれのごと身にかかりたり

・洋梨が暗号のように香りだすきみが辛いと語らなくても

いずれも冴えた比喩だ。「おおおっ、おおおっ。すごい」といいながら読んだ。いずれも日常から発想している歌なのに、日常を完全に突き抜けた場所に行ってしまっている。いずれも、三十一音のなかに凝集しようとした結果、こういう比喩が出てくるのだろう。

・わたくしの影を影絵の中に置く傷つくことをおそれていないか

・定型はいまだあやつれぬ風なればこの疾風に身を任すのみ

・生卵の黄身が破れて流れ出すさらってほしい光のなかへ

・地に降れば影をもつゆえてのひらの温みに触れて雪片は消ゆ

・未明より降りつぐ雪に軒下の父の自転車は冷えているなり


さて。あまりたくさん紹介すると全首鑑賞になってしまいそうなくらい、いい歌が並んでいるので、このくらいで止めておこう。

この歌集は、いま、自分の家のよく見えるところに飾ってあって、時々読みかえしている。

自分にとって、歌を作るとはいったいどういうことなのか、を考えさせてくれる歌集になった。

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雑感。(『バラッド』歌評会にて)

土・日と短歌の集まりに出ていて、また再び短歌について考えている。

今日はそれほど書く時間がないのだが、手短にまとめておこうと思う。

土曜日は中川宏子さんより、スワンの会にお招きいただいて、さいかち真さんの歌評をお伺いした。

その席で少し示唆を受けたことがある。

フランス語とドイツ語、ということ。

80年代から90年代にかけて、いわゆるライトバースや、紀野恵さん、水原紫苑さんの短歌をはじめとしたムーブメントが起こったが、その運動の根底にあったのは、フランス語的な言葉の語感であった、というのだ。

考えてみればこのような運動は、日本の思想界に代表されるポストモダンの思想運動とリンクしているようにも感じられる。

私も思想青年として、一時期こういったポストモダンの哲学書を読みあさった時期があったが、何に強く魅かれたかというと、浅田彰や蓮見重彦に代表される文体の強度だったような気がする。


・ふらんす野武蔵野つは野紫野あしたのゆめのゆふぐれのあめ (紀野恵)

いわゆる80年代を代表する紀野恵の代表歌が、「ふらんす野」で始まっていたことは象徴的なできごとではないだろうか。厳密に裏をとっているわけではないので、漠然とした印象批評になってしまうが、80年代から90年代にかけての歌を少し思い出してみると、あるシンクロニシティが見えてくるような気がする。


・進化という藍色の海すきとおる階段のした竜眠るべし

・族長らの眼のごとき天の青 岬に立てば創世の潮寄る


(井辻朱美:『水族』1986)


・透明の伽藍のごとく楽章がその目に見ゆる青年を恋ふ

・宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら

・ 炎天に白薔薇(はくそうび)断つのちふかきしづけさありて刃(やいば)傷めり

(水原紫苑:『びあんか』1989)

さて。どういえばいいのだろう。もちろん、ここに紀野恵を加えて考えてみるべきなのかもしれないが、80年代の女性歌人が持っていた言葉のイメージというのは、どことなく共通している。

硝子・水・透明・青。その歌が発するイメージの輝度は、あくまで硬質であり、理知的であるように感じられる。イメージの磨かれた冴えだけで作品世界が構築され、内奥のどろどろした身体性はまったく排除されている。

これらの作品を見て、「フランス的」と評語をつけることは少し戸惑うが、少なくとも「輝度の高い文語」と言えるのではないだろうか。

ひるがえって、今日のバラッドの批評会。

宮野さんは、重い情感を漂わせた骨太な短歌を詠む人で、同じ文語でも、水原紫苑さんや井辻さんといった歌人が開拓してきた硬質な文語の世界とはあきらかに異なる。

・営業車の薄き屋根撃つ雨音を聞きつつ少し眠りけるかも
                          
・吐く息の整ひ来たる君に添ひ今降り出でし雨のことを言ふ
                          (宮野友和)

歌集のプロフィールをめくると、宮野さんはドイツ語専攻だと言う。
フランス語、ドイツ語。そんなふうにくくっていいものかどうかわからないが、今、現代になって、どうしてこういう思い情感の歌が未来誌上で同時多発的にある勢力を持っているのか。

何らかの、感受性の変化を感じざるをえないのだが、さて、これからも、少しずつ考えてみることにしたい。

・遁走は美しきかな明け方にトムソンガゼルの跳ねを見たりき

・水圧を受けてかたちを保ちたる深海魚かな、五月が終はる
                          (西村旦)

・荷をおおふ薦に跳ねゐし白き鳥いまし羽ばたき地を離らむや

・逃散のごとくに氷見の沖に雪降りたり無事に済むとは思ふな
                          (黒瀬珂瀾)

(そういえば珂瀾さんは、『黒耀宮』(2002)のあのきらめくような彩色美の世界から、近年は完全に転調している。この転調の理由も、ひどく興味があるのだが、何よりも未来に入ってからの珂瀾さんの歌は、『黒耀宮』を一歩出ていると思う。)





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