2007年04月 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

2007年04月

伝統について-「かんたん短歌の作り方」からの卒業論文ー

短歌をはじめてまだ一年半の私は、「伝統」という言葉を聞くと、ときどきたじろいでしまうことがある。

太古から続く和歌の重み、とか、そういう言葉を聞くとどうもしっくりこない感じがしていて、「伝統が大切だからとにかく短歌を読みなさい」という言い方には、あまり納得できない感じがあるのである。

しかし、じゃあ全く古い短歌を読まないのか、といわれるとそういうわけでもなくて、茂吉をがんばって読もうとしたり、土屋文明をがんばって理解しようとしたりすることもある。

そういうとき、短歌の「伝統」というのは私にとってまさに異物だ。

今まで自分のなかになじみのない言語の運動みたいなものをなんとかして取り入れよう、取り入れようとするわけだから、ペタペタな言い方をすると非常に「おなかにわるい」ことになる。

うーん、なんじゃこりゃ。どこがいいんじゃ、こりゃ。。。

ということで、短歌をはじめて1年くらいはこんな消化不良状態が続いた。

実はある場所である有名な歌人さんに教えてもらったことなのだけれども、「短歌」という言語がある日突然「わかる」、という現象は、「自分の脳内にびーっと筋が一本引かれていく感じ」のようなものらしいのだ。

この実感は、非常に自分でもよく理解できていて、ある日突然、ああああっ! と飛び起きるようなことが起こることがある。

例えば、ヘレンケラーが「言語」を発見したときの感動を思い浮かべてみるとわかりやすいと思うのだけど、w・a・t・e・rという記号のつながりが、ある日突然「水」をあらわす言葉なんだ、ということを発見した喜び、といおうか。

最初の頃、ひどく感動した歌をあげてみる。

かなしみはだれのものでもありがちでありふれていておもしろくない(枡野浩一)

わかるなよ あなたにわかるかなしみはあなたのものでぼくのではない
(仁尾智)

この辺が不思議なところで、最初自分は57577という定型を使ってものを伝える、ということがひどく新鮮なもののように思えて、そこから短歌を作り始めたのだった。

口語の短歌、普段自分たちが日常で使っている言葉を定型におさめる、という皺が脳内に刻み込まれたとき、やはり飛び上がるような衝撃を受けた。

しかし、この皺というのは不思議なもので、同じような水をいつもいつも流していると、だんだん効力が薄れてくるのである。

たとえば、5年ほど前に感動した歌を、今でもずーっと愛唱している、という人はいるだろうか。1ヶ月か2ヶ月の間にマスノ系短歌を読破していって、次第にマスノ短歌、という水がなんだか同じような流れ方をしているということに気づいてくると、もうちょっと何か、違う流れ方をしている歌はないか、という「言葉に対する餓え」のようなものが生れてきたりする。

この繰り返しが、自分にとって「短歌を読む」ということなのかもしれない。そして、「短歌を作る」ということは、そこで生れてきた衝撃を自分のなかに取り入れて、またぷいっと葡萄の種を吐くように、自分から吐き出すことなのかもしれない。

読むたびにあたらしい溝が掘られていって、そのぶん、短歌という言語に対する理解がどんどん深まっていく。短歌とは一つの言語なのだ。

             ※

初心の頃の自分が最初につまづいた言語、というのは「の」だったような気がしている。

初心者のとき、こんな歌がよくわからなかった。

あけがたは耳さむく聴く雨だれのポル・ポトという名を持つをとこ(大辻隆弘)

普通われわれの言語体系には、「の」は所有格、くらいの意味しかもたない。「雨だれのポル・ポト」?って何? というレベルでつっかえるのである。しかし、この「の」の通路が開かれると、かなり短歌の世界は大きく道が開ける。

「の」は、短歌言語的にいえば、場面転換をあらわす「の」であって、

あけがたは耳さむく聴く雨だれの/ポル・ポトという名を持つおとこ(大辻隆弘)

で切れるスラッシュを導く言葉、というふうに考えると、「おおおっ」というふうに道が開ける。

雨だれの/がポル・ポトに、かかっているような、切れているような。
この辺の微妙な感じが、まさに「感動モノ」なのである。

そして、この「の」は様々なシーンで使われる。

沈船の窓よりのぼる泡よりもはかなきことをいまこそ言わめ(山田富士郎)

この歌だってそうだ。

沈船の/窓よりのぼる泡よりもはかなきことをいまこそ言わめ

というふうに区切って読むと、「沈船の」が短歌全体のイメージの方向性を規定していると読むこともできるし、

沈船の窓よりのぼる泡よりも/はかなきことをいまこそ言わめ

でくぎって、「の」がない序詞として読むこともできる。

このあたり、短歌の「の」的使い方がわかってくると、異言語を発見したような気持ちになって、ぞくぞくするのである。

加藤治郎は、「の」の達人とでも言えるような歌人さんで、この「の」の感じをいろいろと教えていただいた。

剥製の内なる綿のたまらない暗さであれば眠れずにいる 『環状線のモンスター』

なんじゃこりゃ。。。どういう歌だ? と最初びっくりしたのだが、よく読んでみると、

剥製の内なる綿の/たまらない暗さであれば眠れずにいる

で、「の」がいきなり2句目に出てきている。

おおおっ。びっくりしたー。びっくしたよう。
こんなとこに「の」が出てくるとはおもわなかった。

剥製の内なる綿の/で、たまらない暗さを引き出している。もちろん、
意味的には、「ように」で代用してもいいのだろうけど、それじゃあちょっと「の」が死んでしまう。ここできれいに場面転換している感じを、「の」で出しているのだ。

あれれ、そう考えてみるとこの歌は?

真夜中に剥がれる皮のなめらかに環状線を離れて迷う『環状線のモンスター』

自分、最初は「皮のなめらかに」とつなげていたのだけれど、よく考えてみると、2句目「の」で読んだほうがしっくりする。

真夜中に剥がれる皮の/なめらかに環状線を離れて迷う

ああ、これは、剥製の歌とセットだったのか。

加藤治郎、おそるべし。

          ※

少し雑談を挟んでしまったが、とにかく、短歌というのは、一つの言語なのだ。

枡野浩一の言うように、日常の言葉しか使わない。私たちが知っている口語しか使わない。短歌は57577という選択も、作歌態度としてはありうるだろう。

しかし、それでは「あたらしい言語を取り入れて、それに逐一驚く」という歌が持つもう一つの感動を、完全に排除してしまうことにはならないか。

伝統は、異物である。

だからこそ、それを取り入れて、自分の短歌をもっともっと豊かにしていく必要があるのだ。

私たちの口語の短歌は、まずしい。

枡野短歌なんて、結局10年くらいの蓄積しかないじゃないか。

枡野短歌に縛られる人は、その10年分くらいの蓄積のなかから、自分の言葉を見つけてこないといけないのである。これは、逆に自分の歌の世界をひどくさみしいものにしてしまうだろう。

「あたらしい言葉を知るのがたのしいです!」

そういう人なら、難なく短歌の世界を深めていくことができるような気がする。

短歌の数は多い。

そして、短歌の歴史は長い。

短歌の海は、果てしなく大きい。
スポンサーサイト

批評が詩を矮小化させていくー短歌の読みについてー

先日、未来彗星集・かばん合同歌会に参加していて、ある種の強い危惧を感じていた。その危惧は自分のなかで歌会を重ねるごとに強くなるばかりだ。

いつか書こう書こうと思っていたのだが、昨日ガルマン歌会に参加していて、自分のなかの堤防もとうとう決壊したように感じた。

この場で、ある程度自分のスタンスを明確にしておいたほうがいいように思う。

個人的な記憶になるが、昨年短歌を始めたばかりのとき、塾の授業で「短歌」の時間があったので、私は覚えたての短歌を黒板に書いて、
「今の短歌はこんなに面白いんだよ」ということを伝えようと思った。

そのとき引用した歌が、

・手のひらを器のかたちにしたままで何かが降りてくるのを待った

という伴風花さんの作品だった。

生徒たちはこの歌を見て、「えっ、これが短歌??」というような感想を口々に言う。私はしめしめと思いながら「どんなふうに感じる?」
と聞いてみたら、生徒たちは得意満々の笑顔を浮かべて、口々に

「ゆきっ! ゆきっ!」と答えたのだった。

「………うーん。そうだー。そうなんだよなー。ゆきなんだよなぁ」

と答えながら、私は、生徒たちの笑顔とは対照的に、なんとなく釈然としない思いを抱いたのが強く印象に残っている。

              ※

この歌について言えば、この歌の下の句にある「何かが降りて来るのを待った」

は、あくまで「何か」であって、雪ではない。

確かに、この歌は雪の情景から着想を得て作られた一首であるということは言っても差し支えないかもしれないが、この歌のポエジーの価値を、雪をあえて雪といわず、「何か」と置き換えたところにあるのだ。

「何か」という言葉から漂ってくる漠然とした淡い期待感、そこに自分の身体の一部を「器」と置き換えることから見えてくる「受動的な存在」としての自己像。「何かが降りて来るのを待った」には、祈りのような気持ちも込められているだろう。

この歌を「雪」と答えあわせをしてしまったとき、「何か」という言葉が持つ本来的な喚起力は全く捨象されてしまう。そのことに、なんとなくやりきれない感じを持ったのである。
             
言語それ自体が何かに奉仕するものではなく、「自立的な存在」として様々なイメージを喚起させるのが本来の詩的言語の持つ機能である。

「そこからどのような具体的なイメージを喚起させられたか」というのを延々と述べていくというか、そこで立ち止まってしまう読みは、言語そのものが持つ様々な喚起力を、一元的なものに還元する作業でしかないのではないか。

無論、一元的なものはわかりやすい。だから受け入れられやすい。それはわかる。しかし、わかりやすさに還元していい場合と、よくない場合があろう。

特に、それが批評の場であるならば、なおさらだ。

              ※

彗星集・かばん合同歌会、でわたしは「歌会」の場で、このような読みがふつうに行われていることに、強い危機感を持った。

そこで私が感受したかばんの読みの特徴は、一言で言うと、「長い」。

私はその長さそのものに、なんとなく「やりきれないなあ」という気持ちを抱きながら、ずっと聞いていたのである。

あくまで私が感受した印象であるが、かばんの歌の読みの場合、「この歌について私がこう思った、こう感じた」ということが何よりも重視されている。時折、その歌から感じ取ったイメージを、やや一元的な形で、具体物に還元して読むことがかなりの程度許容されている。

「ん? これは雪じゃないかな。」
「いや、これは○○だと思う。」

というような意味で、作品について「自分が感じ取った具体物」そのものを、お互いにぶつけあう、というような場面も見られた。

無論、この姿勢でも、作品そのものを感受できない、ということではないだろう。しかし、「読み」の自由が許容されるあまり、議論そのものは、その具体物の妥当性を問うような瑣末な結果に陥りかねない危険性を孕んでいる。

本来の詩言語としての「喚起力」が、十分伝わっているかどうか、十分にその場にいる多くの人に広く受け止められたのか、という本質的な「評」を行う場にはなりえない可能性もある。

また、最も危険な問題なのは、やはり作品そのものよりも、「作品を読むわたし」の価値のほうが優位であるという構造そのものにあるのだろう。

80年代以降、テクスト論が全盛となり、作者の聖典化の廃止、読みの自由ということが大いに称揚された。

しかし、読みの自由は、「どのように読んでもいい」ということでは全くない。テクストという言語そのものをそのまま受け入れながら、「どうしてこのように表現したのか」という深層を探っていくのが本来の読解であって、そこから感受した「私の印象」などというのは、そもそもどうでもいいものなのだ。

これは「かばん」という会の構造的な問題なのかもしれないが(先生がいない)、どうも作品に対する個人個人の読みの優位性が、ときに作品そのものよりも際立ってしまっているのが気になってしまったのである。

              ※

黒瀬珂瀾は、未来4月号の時評のなかでやはり同様の危機感から、「具体物に置き換える」読みの危険性を語っていた。短歌が本来有する「無意識のエネルギー」「ダイナミズム」は、具体物に還元することで損なわれてしまう。これは何も比喩に限った問題ではなく、すべてを技法論で説明したり、韻律論で説明したりしてすますような読解にも、同様の危険性があると考えてもいいだろう。

比喩、韻律、技法などというものは、あくまで短歌そのものに副次的についてくるものであり、短歌本来を全て体現するものにはなりえない。

以前彗星集の歌会で、

・職場にはどうしやうもない力学があると思ふよ、割れるくちびる(宮野友和)

という歌にかなり立ち止まって、「どういおう、どういおう」と戸惑った経験があったが、本来短歌に受ける圧倒的な衝撃は、「どういったらいいかわからない」種類のものである。

批評は「どういったらいいかわからないもの」を、なんとかして言語化しよう、言語化しようという人間の営みのようなものなのだ。

そこで、「割れるくちびる」は一体何の隠喩か、などということは考えないほうが、自分のためだろう。

私はよく自分の立場を、「言語ベース」という言葉で説明しようとするが、それはこのような考え方に基づいている。それを説明するものとして、一応この文章を置いておきたい。

言葉の力

国語力の低下は、ほんとうに著しいような気がしている。

国語力が低下したというか、言葉に対する想像力が著しく低下しているのではないか。

たとえば、マスコミは首相に対して、「あなたはそれを言ったじゃないか」と強くいう。

あるいは、「だれだれさんがこう発言をしました」ということだけがクローズアップされて記事になったりする。

仕事をしているときも、勉強をかつて教えていたときも、そういう実感を持った。

職場では、「上司はこう言ったから…」ということで、言われたことだけをみんなしようとする。

勉強でも、先生がこう言ったから、という理由で、言われたことだけをやろうとする。

なんでみんな、その人が「言ったこと」だけが大事になってしまっているのだろう。

こういうふうな考え方をする人は、「場」に対する想像力が著しく欠けている場合が多い。

こういう局面で、こういう言葉でるということは、その人はほんとうはこういうふうに言いたいのよね。というような想像力だ。

仕事の上でも、だれかがこう言った、目的はこれこれこれ、ということであれば、目的達成が主題であって、「こう言ったこと」はそれほど重要じゃないということが理解できるだろう。

そういうことを、ほとんど考えようとしない。

いつのまにか、その一語一語の意味を理解することだけが目的になってしまって、文脈がまったく無視されているのと同じ現象だ。

国語を教えていたとき、よくこういう実感を持ったけれども、
その言葉の「意味」がわからないと、そこで文章を途中で放棄してしまう国語嫌いがなんと多かったことか。

今の日本の国語力と、この場の問題は関係しているような気がする。

日本では短歌や詩といったいわゆる圧縮度の高い文芸は地位が異常に低いのだけど、これは少ない情報量から、多大な意味を読み取ることのできるというようなリテラシーが、日本から失われつつあることの証明ではないだろうか。

言葉の力を守りたいものだ。

国語プロパーな人間として、そう強く感じた一日だった。

イン&アウト/第5回ニューウェーブ短歌コミュニケーション

本日は歌葉新人賞授賞式兼ニューウェーブ短歌コミュニケーション。

加藤治郎・穂村弘・荻原裕幸というインターネット短歌を牽引してきた3人の「最後の」ディスカッション、ということで、これは絶対行かねば、と心に決めていた会である。

今回の受賞者である廣西さんの表彰式のあと、

第一部 鼎談「短歌は新人に何を求めるか」

     加藤治郎・穂村弘・荻原裕幸

第二部 「新人は短歌に何を求めるか」
    司会 穂村弘 
     生沼義郎・ひぐらしひなつ・石川美南・廣西昌也

という二部構成。
場で交された議論を、自分の印象からではあるが整理させていただきたいと思う。

前半のディスカッションでは、加藤治郎作成の「感覚の箱庭を越えて」
というレジュメを基調にして、三人で討論する形。

2001年から2006年までで出版された歌集をずらっと並べて、最近の短歌の状況について語っていく、というものだった。

ほぼ2001年から2004年までの間に、私が影響を受けて短歌を始めたきっかけになった方たちの第一歌集がずらっと並んでいることに驚く。

-----------------------------------------------------------------

2001年、飯田有子『林檎貫通式』、玲はる名『たった今覚えたものを』、加藤千恵『ハッピーアイスクリーム』

2002年、佐藤真由美『プライベート』、生沼義朗『水は襤褸に』、
黒瀬珂瀾『黒耀宮』、笹岡理絵『イミテイト』、佐藤理江『虹の片脚』

2003年、盛田志保子『木曜日』、魚村晋太郎『銀耳』、錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』、笹公人『念力家族』、佐藤りえ『フラジャイル』、ひぐらしひなつ『きりんのうた。』、矢部雅之『友達ニ出会フノハ良イ事』、石川美南『砂の降る教室』、今橋愛『O脚の膝』

2004年、菊池裕『アンダーグラウンド』、斉藤斎藤『渡辺のわたし』

2005年、松木秀『5メートルほどの果てしなさ』、伊津野重美『紙ピアノ』、佐藤羽美『100の呼吸で』

2006年 宮野友和『バラッド』、兵庫ユカ『七月の心臓』

-----------------------------------------------------------------

「自分たちの世代のときと比べても格段に多い」という三氏の実感をもとにして、話が始まっていった。

加藤、荻原両氏は歌集のなかに出てくるものを修辞の側面から分析しようとしていたが、穂村氏は、歌壇自体の場の変容の問題としてこの「量の多さ」を捉えようとしていたようだ。

三氏とも、この問題を自分の論点にひきつけて論じようとしていたため、話自体は拡散したまま終わる。

「90年代は「修辞ルネッサンス」であり、水原紫苑、米川千嘉子、吉川宏志といった90年代までの歌人たちは、修辞と絡めて社会的な問題を歌う、という傾向が非常に強かった。あるいは、水原紫苑なら、「水原ワールド」というものが存在していて、歌人個々の作品世界が屹立している印象があった。ところが、2000年以降の歌人たちにはこの傾向がすくない。「自分の手の届く範囲のことだけを歌おう」といういわゆる「微視的小世界」の作品群に見える。」(加藤氏)

「米川、吉川といった歌人たちは、いわゆる歌壇のスーパーエリートといわれるような存在であり、ある時期までは、結社のなかである程度地位を認められないと歌集を出版できない、という傾向があった。現在ではほとんどそのようなものがなく、場の変容といわれるものが起こったのが、2000年以降の問題である。」(穂村氏)

「結社は新人に何を求めるか、という問題と、結社は初心者に何を求めるか、では大きく違う。私は初心者に短歌の話をするとき、「自分が歌っていて気持ちいい地点をはやく見つめなさい」ということにしている。ところが「新人」というのは、それとは異なり、いわゆる歌人集団のなかにどのような作品を投げ込むか、というポジショニングが求められる。」(荻原氏)

だいたいこのような基調講演のなかで、お互いの擦り合わせ作業が行われるが、修辞の側面と「場」の側面から論じようとする空気は埋め合わせられず。

ある地点で、いきなりほむほむワールドが炸裂する。

「いわゆる短歌共同体というのは、その新人が自分たちの「IN」にあるのか、それとも「OUT」にあるのか、という価値判断を行う。

新人たちが短歌共同体の「IN」にいるということを証明する手段というのが存在している。

 ① 他の人の書いた作品を読んでいますか?
 ② 歴史につながる覚悟がありますか?
 ③ 短歌にまつわる評論をかけますか?
 そして、ある地点になると、
 ④ 他の人を啓蒙していくという、啓蒙的な意志がありますか?

ということを、あるステップを踏んで試されていくことになる。もちろん、これに対しては全て100点で答える必要はないのだけれど、少なくとも60点程度でこなさなければ短歌共同体、いわゆる歌壇の「IN」にいる人だというのは証明されない。

最近は、2000年からの朗読ムーブメントの起こりや、インターネットの登場、アカデミズムの低下などで、このかつての場がゆるんできている印象がある。しかし、結局のところ、歌人はこの短歌共同体のなかに入ることを要請されている。

共同体というのは不思議なもので、このINなのかOUTなのかボーダーラインにいる人を内に取り込んでいこう、取り込んでいこうとする傾向がある。共同体自体は非常に賢い生き物で、INだけで存在するとその共同体は脆弱化していくことがわかりきっているので、たとえば馬場さんや岡井さんといった超一流の歌人たちは、ニコニコしながらボーダーラインにいる人をつかまえてきて、「君いいねぇ。君いいねぇ。」といってINに引っ張ってこよう、引っ張ってこようとする(笑)。基本的に超一流の歌人たちは、ボーダーラインにいる人たちが大好きだ。ところが、その下の二流の歌人みたいな人たちはボーダーラインにいる人たちを捕まえて「あんなのは短歌じゃない。短歌じゃない」という(笑)」


穂村氏の「自分は短歌共同体のINにいるのか、OUTなのか」という
まとめは非常に的確に場の雰囲気を掴み、みんな自分がINかOUTかという話にひっぱられはじめる。

それにしてもなぁ。穂村さんという人は、不思議な人だ。どの場所へいっても、必ず全体の人を納得させてしまう的確なものを持ってきてしまうからなぁ。「歌葉」のときの不気味スイート発言叱り。

いくつか、場についての問題提起がなされ、これがなかなか面白かった。

「朗読ムーブメントや、こういった形での批評会が興隆しているが、どちらかというとその「場」で全てが語られていく、という傾向が強くなったのが2000年以降。毎月の結社誌や総合誌からは、このような短歌についての議論というのは消える傾向にある。当然、批評会で語られることというのは全く記録に残らないので、若い世代が短歌についてどう考えているのか、というのが全く見えない傾向が強くなった。もしかすると、若い世代が短歌についてどう考えているのか、というのは、二次会の飲みの席上では語られているのかもしれないが、それは先行世代には全く見えない。」(加藤氏)

「ボーダーラインというのもいろいろと変容する。80年代に俵万智が出たときなどは、「こんなのは短歌じゃない」という「アウト」の判定が非常に多かった。ところが、ぼくが出てきたとき、「俵さんはいいけど、穂村は短歌じゃない」というようにボーダーラインがうつった。(笑)「最近になって枡野さんが出てきたので、穂村さんはまだいいけど、枡野はちょっと」という声が出てきて、ぼくは助かっている(笑)」(穂村氏)


「結局、IN(短歌共同体)とOUT(ネット短歌などの短歌共同体外のもの)が、2極化したままどちらもうまくいっていく、ということはないでしょうか」〈発言者失念)

「いやー。それはほとんど可能性としてはないような気がする。」(穂村氏)

「たとえば、枡野さんの歌論がでて、意外とあのムーブメントはふとっていくのかなぁ、と思っていたら、今はそれほどでもないような気もするしね」(加藤氏)

この辺の議論がなかなか面白かった。


今回、なんでこんな議論の途中経過報告みたいなことをしたのかというと、わたし自身も、それこそ加藤氏がおっしゃられるように、こういう「場」のなかで語られていく発言というのがまったく記録に残らず、忘却されていくことに強い危機感を覚えるものの一人だからである。

あくまで個人のまとめなので、2時間に及ぶ全ての議論を、整理し、記録していく作業を行うのはほとんど不可能だが、自分個人でできる範囲で、「あくまで重要な話が行われている」と感じているときにだけ、このような作業を少しずつ行っていこうと思う。

私自身もこれらの文章をまとめながら、少しずつ自分の考え方を整理していきたい。

このブログは、最近完全に題詠100首という本義から外れているような気がするが、私自身も、いわゆる文章という目に残る形で、世代の考え方が残され、共有化されていくことを強く希望している。

文章リテラシーを持つものの使命として、やっていきたい。

(自分の意見、まとめは第二部で)

----------------------------------------------------------------------
お読みいただいて、ありがとうございました。
もしこの記事がお気に召したら、ぜひブログランキングを拍手かわりにクリックしていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

最後は静かな場所だと決めて

 今日は、未来短歌会の岩田儀一さんの歌集『内線201』の勉強会に参加してきた。毎号の『未来』のなかで、岩田さんの短歌は幾度か拝読してはいたけれども、まとまった形でお歌を拝読したことはあまりなかった。

今までも未来のなかではほとんどお話をしたことがなくて、格別のお知り合いというわけでもない。

普段なら絶対に行かないし、そもそも存在すら知らなかったであろう小さな勉強会にどうして参加したのか、というと、ある一首を偶然発見して、衝撃を受けてしまったからである。




春畑茜さん歌集「きつね日和」











これはご紹介しておかなければ…と思って、書いています。

春畑茜さんの歌集『きつね日和』

春畑茜さんは去年の題詠100首ブログではじめてお名前を存じあげて、

「ああ、これはいい歌をお読みになっている方かもしれない」

と思って、今年になって歌集を買いました。

いや。やっぱりいい歌集だ。
いい歌集だよう。

いい、いい。と連発すると、褒めてるんだかなんだかわからなくなるみたいだけど、いい歌集なんです。ほんとにいい歌集なんです。


・晩年はいつとは知らにおとづれむ夕闇に眼が慣れゆくやうに


これは、今年に入ってから覚えた歌のなかで間違いなくマイベスト5に入る歌です。ぐさっときました。ぐさっときました。

ああ。そうか。晩年というのは、気がつかないうちにやってくるのか。

「夕闇に眼が慣れゆくやうに」

これは安息ではない。
晩年は、やすらかにやってくるわけではない。

自分でも気がつかないうちに、それに慣れていくように。
ぼんやりと、やってくる。

怖いわけでもない。
ほんとうに、気がつかないうちにやってくる。

そして、その感覚を、あくまでしずかにうたう。

しずかだ。この歌はしずかだけど、とてもせつない歌だ。

             ※

巻頭の連作、『天蓋花』

これは絶対にまとめて連作として読みたい作品。

ごんぎつねを読むお母さんの立場になって描かれた連作ですが、連作の途中ですごい展開になっていく。どうなっていくかは書くのはやめておきましょう。

・雨の日の母子の遊びさびしくてわが描く花を子は塗りつぶす

・描かれてきつねのごんは見てゐたり絵本の秋をゆく葬の列

・ごんぎつねけふを撃たるる身と知らず絵本の山に栗を拾へる

・秋草はひかりと影をゆらしをり栗を運べるごんのめぐりに

・そののちを本は語らず 裏表紙閉づればしろく野の菊が咲く

ここには、核心的な歌は入れなかったけど、「連作って、こうやって構築していくんだ」、という見本のような展開にいきなり息を呑むことになるでしょう。

その他の歌もいいです。
いくつかご紹介。

・何処もみな遠いところに思はれて日なたへ陰へ子の手を引けり

・黄昏のみづの記憶は濃くあはくモネ亡きあとを浮かぶヴェネツィア

・たましひのけ寒き夕べかがやきは鶏卵を割る手よりくだりぬ

・売られゐる風船はみな寡黙なりガスに膨らむ身をつながれて

・パヴェル・ネドベド秋のひかりに名を呼べば海のむかうの塔のごとしも

きつね日和は、こんなとてつもない秀歌がいくつも収められた歌集です。うつくしいです。うつくしいけど、とてもさびしい。

人それぞれ、選ぶ歌が全然違ってくる歌集なのではないでしょうか。

それもまたいい歌集な理由でもあります。

----------------------------------------------------------------------
お読みいただいて、ありがとうございました。
もしこの記事がお気に召したら、ぜひブログランキングを拍手かわりにクリックしていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。