2008年11月 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

2008年11月

田中庸介詩集『スウィートな群青の夢』




『スウィートな群青の夢』






最近マイミクさんの間でちょっと評判になっていたので、田中庸介さんの第二詩集『スウィートな群青の夢』を買ってみた。詩がまったく専門外の僕が素人ブックレビュアー丸出しな感じで批評するのも恐縮なのだけれど、なかなかに一筋縄ではいかない詩集のような気がする。

最初、まったくおもしろさがわからなかった。

こんな詩、どこが面白いのか。と思った。

面白くない詩の代表は、たとえばこんな詩だ。



下北沢の夜はアジアン・スイートに始まり
アジアン・スイートに終わる
カレー屋の二階のこぢんまりしたベトナム・カフェに上がり
(タバコ、OK)
冷房のない夏の夜の風に吹かれながら
アジアン・スイートとベトナム茶を注文する

なぜ下北沢がベトナムなのか
それはよくわからないのだけれど

脳が混雑していると剣呑だから
すかさず白玉タピオカ入りの熱いぜんざいを
食べにゆく

(白玉ぐっちゃぐっちゃ
(ぜんざいぐっちゃぐっちゃ
(白玉ぜんざいぐっちゃぐっちゃぐっちゃぐっちゃ
(とても甘い、

で、終わって、最後のひとしすぐまでスプーンでなめとると、
ぼくは熱風の吹く下北沢の町を肩そびやかせて下っていきました。
(「アジアン・スイート」)




うーん。なんといえばいいのだろう。どうしようもなく、「ふつう」な感じがする。。。
たとえば詩の一行のどこかに、「感動する単語」がある、とか、何かぐっとくる
フレーズがあるとか、そういう「よみどころ」がものの見事に含まれていない。

この詩、下北沢でアジアン・スイートを食べた、というだけの詩じゃないか。
それだけで本人が完結してて、「ああ、よかったね」という感想しか、出てこないじゃないか。。。

うーーーーーーーん。

あやうく詩集を途中出放り投げそうになったけど、我慢しながら読むと、途中からおもしろい詩がでてきた。たぶんこの人は、長い詩のほうが面白いタイプの詩人のような気がする。

ちょっと長い詩になるけど、こんなものを引用してみる。



離婚してから、
いつもよりシリアスになっているような気がする。
喪失感とか、
別れた哀しみとか、
理不尽な状況に対する怒りとか、
そういうものがおれの心を責めさいなむ。
あとやっぱり、説明がうまくできていない。
どうして離婚したのかと聞かれても
興味をもってくれる相手に納得のいく説明ができない。
財産もない(貯金がない)、親権もない(子どもいないから)、不貞もない、
それではシホ-の出る幕はないよと幼なじみのイケダ弁護士は言った。
そして一分で電話法律相談は終わった。
やれやれ。

東北の、真ッ白にかがやく無人の笹原、
その風景が脳裏をかすめる。
むこうに黒い林がある、

よっ離婚者、
やっぱりかなりキテますねとヒグチさんは言った
離婚のキズはね、四年かかるけど、
きっと癒えるからだいじょうぶよとイトーさんは言った
はじめてのザセツ? とヒラタさんは(メールで)笑った
みんなうれしそう、
嬉しそうに夜が更ける

アメリカシロヒトリは毛虫の名前
たくさんのアメリカシロ(一人)、
ひとりのアメリカシロ(たくさん)が
うじゃうじゃ
うじゃうじゃと
枝にむらがり
植物の葉、
葉という葉をしゃぶりつくし
食いつくしていく
シロヒトリが去ったあと
どうでもよくなった
木の枝がある

説明できない、
自信をもって説明できない、もちこたえられない
新婚から卒業しようとしたら結婚からも卒業してしまいました
とか言ってもなかなか理解してもらえないしねぇ
自分の見かたにかたよった
ひとりよがりな説明
そうして黒い革の服を着て高い椅子に座る男に向かいあって
ただテンパってしゃべり続けるだけの男(三十八歳)。
皆さん、この男の内部のろんりはチーズのように穴だらけなんですよ
人生の詰めが決定的に甘いんですよ
だがことばが止まらない、止まらない、
噴流のように次から次へと沸いてくるのに
穴だらけ

キノクニヤキノクニヤ。
本を買うならキノクニヤ。
ゆがんだ愛や性のことに一所懸命になって
人生のプライオリティがぐちゃぐちゃになってしまいましたとさ
しかしこれほどまでに精神がとらわれたことは今までにない。どうしても
どうしてもそのことを考えてしまう、
(「武蔵野」部分)




この詩のなかで本人が言っている(?)けど、噴流のようにことばが出てくるあたりというか、いきなり離婚の話かとおもったらキノクニヤということばがぽんぽんでてきたりするあたり。長い詩になると小刻みにことばが連発してくるあたりに、けっこうな読み応えががある感じがして、引き込まれた。

朗読とかでかなり早口で絶唱すると面白く聞けそうなことばの数々。

短い詩だとうまくこういう「ことばの早口」感がうまくつたわらなくて、ちょっと読み手としてザセツしてしまいそうになる。面白いことは面白いけど、このことばの背景は、どうしようもなく「ふつう」だからだ。




うな丼食べた。九百円だった。金を払おうとしたら金がなく、
すみませんすみませんと言いながら銀行に走った。
金を持たずにうな丼を食べてしまったのは三回目。
どうしてうな丼の時だけそういう恥ずかしい目にあうのか。
どうして財布に金がない時だけうな丼が食べたくなるのか。
(「蒲焼あります」部分〉




しらねえよっ、と思わず突っ込んでしまいたくなる蒲焼の話も面白かったけど、うどんを食べたり、「夏野菜のカレー」と詩のなかで連呼する田中庸介さんは、もしかしてただ単に食べ物が好きなのではないかと考えて見たりする。

詩って、もっと「どろどろしているもの」という前提があった僕には、この「ふつう」のことばたちには馴染むのに苦労がいった。

でも、読み終えるとだんだん、この詩集が許せるようになってきたというか、このことばの速射砲のような長い詩のことばのつなげ方が、面白くなってくるように感じられるかもしれないかも。

今三回か四回繰り返し読んでいるけど、もうちょっと読むとまた違った印象の詩も目についてくるようになるかもしれない。

引き続き、本棚のなかに格納して置くことにする。

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見えないものを見るちから(佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』)

変換 ~ 200607000256



佐藤弓生歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』






・閉じられてねむる深夜の地図帳に紅海ふかくふかく裂けおり




夜。みんな、おそらく眠っている。しずかなしずかな真っ暗闇のなかで、地図帳が一冊置かれている。その閉じられた地図帳のなかで、「紅海」が紅海の形でふかくふかく裂けているのだという。

歌人というのは、見えないものを見ようとする人種なのかもしれない。

閉じられた地図帳のなかの、誰も見えない紅海の裂け目を、わざわざ思い描く人は、なかなかいない。この本のなかには、日常生活のなかでは絶対に見ることができない場所を見ることができる不思議な能力をもった人の作品がたくさん収められている。



・人工衛星(サテライト)群れつどわせてほたるなすほのかな胸であった 地球は

・体内にひろがる庭へひとつぶの葡萄の種をのみくだしおり





一首目。地球をとおくから見ていると、まるで人工衛星をほたるのように身に纏っている胸のようだと感じる、その感受性。

二首目。たんに葡萄の種を飲んでしまった、といっては、あくまであたりまえの現実になってしまうけど、この人は、そんなことすら、「体内の庭へ葡萄の種を植えた」んだと表現する。その瞬間、歌は急に、力強い生命感に満ちあふれてくる。

佐藤弓生さんの第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』 には、そんな日常とまぼろしがほどよく調和された詩の世界がひろがっている。どのページを開いても、おそらくそんな「びびっとする」イメージの歌が一首か二首は見つかるはずだ。




・かんたんなものでありたい 朽ちるとき首がかたんとはずれるような

・三日月のうごめきかすかいつか地にめれんげいろの蛾の群れるまで

・真夜中にポストは鳴りぬ試供用石鹸ふかく落としこまれて

・死んでゆく女ばかりが美しいものがたりあり絶えることなし

・水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし





どの歌も、なんだか不思議なイメージが満ちていて、そのうえ、すこし哀しい感じを漂わせている作品たちだ。どうやら、佐藤弓生さんは、「にんげん」じゃないみたいだ。とつぜん首がかたんとはずれるような、かんたんなものでありたいと歌う佐藤さんは、少しさみしい。

そんな「にんげん」でない佐藤さんのこの歌たちが、とても好きだと思った。

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歌集 岡井隆『ネフスキイ』





岡井隆『ネフスキイ』





もはや誰も岡井隆を止めることは出来ないだろう。
岡井隆というひとはかいぶつである。

たぶん人間ではない。

なんだか皮膚もすこしにんげんらしくない。
ぺにゃぺにゃしている。

このままずっと歌を書け、と誰かが命じても、よろこんで書きそうな気がする。

いや、書くなといっても、書き続けるんだろうな。

いったい、いつまで書き続けるんだろう。岡井隆は。

1928年生まれだから、もう80歳か。

そういえば誕生日はぼくと一緒の1月5日だった。

もうちょっとで81歳になるだろう。

しかし、短歌の世界には年齢は関係がない。

今、短歌界のなかで、もっとも元気な歌人を言え。

と言われたら、文句なく「岡井隆」と言うだろう。

もっともクリエイティブな歌人を言え。

と言われたら、やっぱり「岡井隆」と言うだろう。

そのくらい岡井隆はすごい。

人間ばなれしている。
というか多分もう人間ではない。

なんだか最近、そんな岡井隆に、「もういい加減にしてくれ~」と思いはじめ
ている。

僕は、2年前に短歌の結社というところにはいった。

(岡井隆は、ぼくの入っている未来短歌会というところの主宰をしているので、
ぼくの短歌のうえでの師匠の師匠ということになる)

会員になって驚いたのは、
入会すると、必ずその岡井さんから、歌集を出版するたびにダイレクトメール
がとどくということだ。

「この度、歌集○○を上梓しましたのでどうぞよろしく買ってください」

みたいなやつだ。

最初のころは、「あ、岡井先生の歌集だ。買わなきゃ買わなきゃ」

とおもってほいほい買っていたのだけど、途中になって、だんだん腹が立っ
てきた。

だって、本の出版ペースが、とても人間のなす技とは思えないくらいハイペー
スなんだもん。

去年だったか、『2006年水無月のころ』を出版したかと思ったら、冬場には
『家常茶飯』という歌集を出していた。

その前に確か 『初期の蝶/近藤芳美をしのぶ会以後』という歌集も出して
たっけ。

さらにさらに、歌集以外では『わかりやすい現代短歌入門』などというよくわか
らない入門書を出し、さらには詩集『限られた時のための二十四の機会詩』を
出した。『新輯けさのことば』なんていう分厚い本もある。そういえば『現代詩入
門』なんてのも出してたな。。。(ちっともわかりやすくなかったけど…)

そのたびに、「このたび○○という本を上梓しました…」

とかいうハガキがくる。。。;

おいおいおい。一体、何冊出せば気が済むのだ。
このおじいちゃんは。

「なんか去年はすごかったねー。岡井さんの本すごい勢いだったね-」

なんて仲間うちでいいあって、

「やれやれ…。ようやく一段落したか…」

と言った矢先である。

またしても岡井隆の最新歌集『ネフスキイ』が出たのである。

げげげっ。である。。。

ぼくなんて、毎月10首つくって1年で120首。

がんばって3年で400首くらいつくって、そこから半分くらいけずって
ようやく200首。

それでやっと1冊になるかならないかというのに、この人は、1年で
歌集3冊もだしちゃってる。

そのあとに、また歌集をだすとは。。。

なんかこの前、「本を同時に何冊も出すと、疲れちゃって…」みたいな
ことを大会かなんかで言ってなかったか。

うーん。

歌集は高い。

今回は、一冊3500円もする。

買うか、買わないか。と思って迷ったが、やっぱり買ってしまった。

届いて、さっそく封を切る。

「いつになく瀟洒なデザインだなあ」

とかいって、手に持つ。

いつになく分厚い。

「ひ、ひえー。840首も入ってるのか、この本」

このげんなり感がわかるだろうか。

それは作る側にとっても、一年で3冊歌集作ってそのあと840首
作るのは大変だろう。

しかし、読む側のことも考えてほしい。。。

400ページ近くもある分厚い歌集(ほとんど辞典だ)をめくりながら、
とっても疲れているのである。

なんなんでしょう。岡井隆は。どうやって歌を作ってるんだろう。

あとがきによると、2006年8月16日から2007年8月17日まで
、毎日数首ずつ歌を作っていたという。

それでも半分くらい入れなかったといっているから、一年で1500首
くらい作っている計算になる。

うむむむ。多作すぎる。。。

ちょっとげんなりしながらも、じゃあその840首はクズか。というと、
ちっともそうじゃないのだ。

ちょっと何首かひいてみよう。



・うつし世は秋のくらがりへ入りゆきてその入口のゆるやかな坂

・ひろげある本のあひだに紙のべて歌書かむとす、寄り道は善

・好きでない詩人の詩集 向うから差し込まれたる鍵の重たさ

・やはりしづかに撫づるのがよい下りて来た荒いけだものの背であるにせよ

・照らされてゐる絶壁が数十個(いや、もつとかな)心つて場所は

・夕日づかれといつてもいいか長き影先立てて帰る黄いろの刻(とき)を

・展望台みたいなところが一日のどこかには在る 正午の車中

・凶暴な気持に少しかたむいてゐるそれなのに底はしづかだ





840首もあると、引用が大変なのだけど、どの歌もさらさらっとしていて
読みやすい。

あえてちょっと明るめの歌を選んでみたけど、なんだかわかりやすいじゃ
ないか。

すごくものごとを軽くつかんで歌っている感じがする。
それでいて、決して一首一首は軽くはない。

とっても人生のふかいところまで掴んで歌っている。

ぼややーんとしながら、すごくゆたかな読後感があふれている。

うーむ。

やはり岡井隆は人間じゃないかもしれない。。。

歌人たるもの、80歳にもなると、浮世離れしてすらすらすらっと
歌が出てくるようになるんだろうか。

いやー。

今回の歌集も、実際間違いなく「買い」に入る歌集だ。

むしろ、去年の3冊よりずっと完成していて、トーンが統一されている。

もしかすると、この840首。

岡井隆の後期の大きな仕事の一つになるかもしれない。

そんな感じがしている。

(それにしても、もうつかれたよ)

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水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』




『黒山もこもこ、抜けたら荒野-デフレ世代の憂鬱と希望』





11月29日にあるイベントの予習というわけではないけど、詩人で社会学者の水無田気流さんの社会学系の著作、『黒山もこもこ、抜けたら荒野』を改めて読む。



 先にお断りしておくが、ここで述べたいのは単なる「世代論」ではないし、ましてや近年流行(はや)りの「階層論」の類でもない。しいて言えば、私の生まれ育ちがひどく凡庸であるがゆえに浮かび上がってくる「高度成長期後の日本社会の幸福史」を、主観と俯瞰(ふかん)の両方を交えつつ記録しておきたい、というものである。




という「はじめに」から始まるこの本は、自分の個人史と、世代論、階層論のようなものが複雑に折り重なった不思議な書物だ。ときどき、詩人らしい感性の鋭さで、現代日本について鋭い指摘をする。

だからといって、それが別に何らかの「結論」に達するという感じではなくて、ときおり作者個人の「憤り」が噴出してきて考察が終わる、という、社会学の本とも人生についてのエッセイとも断定しにくい、とても複雑な内容が盛り込まれた一冊になっているように思う。

といっても、非常によみやすい。

たとえば、こんな調子で、冒頭の文章が始まる。



 忘れられない光景がある。
 幼稚園に入院した初日、帰りの送迎バスを待っていて、私は鼻血を噴いて倒れてしまった。なぜか、と問われれば「恐怖」のせいである。
 幼稚園児はみな同じ紺の制服に紺の帽子、黄色い鞄をもって整列し、バスを待っていた。その、「同じ格好をした人たちが大勢きちんと並んでいる」光景に、すさまじい恐怖を覚えたのである。思うに、当時から気の小さい子どもであった…。
       (中略)
 どうしてそんなに無性に恐かったのか、といえば、当時見ていたアニメや戦隊ものの影響のような気がする。そう、無意識のうちに、同じ格好をして並んだ人たちが、「仮面ライダー」に出てきた悪の組織、ショッカーの戦闘員のように見えていたのである。しかも、私もみんなと同じ格好をしているという事実が、恐怖に拍車をかけた。
 もし正義の味方というものがこの世に本当にいるとすれば、たぶん、やっつけられるのは、私のほうなのだろう。




この人、相当生きづらかったんだろうなあ。幼稚園のときにこんな発想になってしまうと、その後の苦労がしのばれる。これを書いている僕も、幼稚園から小学校、中学、高校と、まったく学校に対しては良い思い出はない。そもそも体育の時間にひとりで服を着替えられないすごく「不器用」な子供だったし、着替えられるようになったあとも、相当走り方とか動き方で多くの生徒たちに笑われた。

気がついたら、こんなふうに鬱屈して三十歳にもなるのに短歌なんて書いている人間になっちまったぜ。べいべーー。

…なんて、脱線はいいや。

こんな調子で、自分の個人史と重ね合わされて、現代社会のことについて俯瞰的に論じているのだけど、この人が体感で引っ張ってくるものが非常に鋭いのである。

たとえばこういう指摘はどうだろうか。



「現在の日本社会の特徴の一つに、「スクラップ・アンド・ビルド」があるが、これは建築物や行政機構に限らない。あらゆるものが、すさまじい速度で書き換えられ、同時に書き換えられたという事実それ自体もまた消去されていっている。
 新しいビルの前を通過する人が、以前そこに建っていたものが何であるのか思い出せないように、今の日本では、誰もが「それ以前」にあったはずの「何か」を常に忘却している。いや、正確には「忘却している」ということへの漠然とした不安感だけは浮遊しつつ残存しており、その隙間にメディアがひっきりなしに代替物を注入し続けているように見える。」




確かに、僕たちはスイカが出来てしまってから、スイカ以前に切符を買うのにあれだけ並んでいたことをすっかり忘却してしまったり、もっと前に窓口で切符を買っていたころのことなんて、ほとんど忘れてしまっているだろう。新しいものが登場してきて、それに馴れてしまうと、もう過去のことなんてどうでもよくなる習性が、日本という国にはあるような気がする。

ビリーズ・ブートキャンプが出来る前にあれほどはやった健康器具の数々や、(たぶんビリーも、もう忘れられているらしい)24時間営業の店が出来る前の僕たちのライフスタイルなんて、とっくの昔に忘れている。そうやって、新しいものにどんどん馴れて、その代わりに古いものを忘れていくというのは、日本という国が持っている特性だと、水無田さんは言う。このあたりの認識は非常に鋭い。

ぼくは今三十歳になろうとしているけど、二十歳の学生たちのラノベへの異常なこだわりとか、強烈にカルチャーギャップを感じるしね。十年違うと、もう世界の見え方そのものも全部違ってしまっているのかもしれないなあという感慨を持ったりした。

そういえば、僕、ブログができたりmixiが出来たりする前は、どうやって自己表現していたんだっけ。。。思い出せない。。。

                     ※ 

水無田さんは、短歌についてもちょっとだけ触れていて、これが僕が以前論じた「インターネット短歌と少女ゆうれいたち」のテーマとぴったり一致したりすることに驚いたり。。。

まあ、一読してかなり29日が楽しみになった本だったと言っておきたい。
ゆるい筆致で書かれているけど、とても読みやすい90年代社会学の本だと思う。

詩集『Z境』も、ぜひまた紹介したい一冊。

あ、一応このイベントについても、もう一回告知しておきます。

それではーー。今日はこの辺で。



新人会 presents パネルディスカッション
〈わたし〉氾濫時代の表現―若者/当事者のハイパーインフレ畑でつかまえて―

そんじょそこらの、特別なワタシ。
〈わたし〉にとって特別な一人のはずの〈わたし〉は、実は大勢の中の一人にすぎない?

格差問題、就活、ケータイ小説、ブログ、消費社会、戦後日本、言論など。冷静に、かつ熱く〈わたし〉をとり巻く「イマ」/「イマ」がとり巻く〈わたし〉を浮かび上がらせる、前代未聞のディスカッション!
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【Introduction】
ブログやSNSには、〈わたし〉の日記や表現が溢れかえっています。それは誰かと繋がれるときもあって、ケータイ小説もそのひとつ。一方でそんな〈わたし〉が溢れかえっていて、なにか行動したり表現したりしようとすれば氾濫する他の〈わたし〉表現の中に埋もれてしまいます。就職活動では自己分析が求められ、確かな唯一の〈わたし〉を作り出して売り出さなきゃいけない。マジメに労働・格差問題を議論しようとしたって、自分の生活の苦しさを訴えれば当事者それぞれの〈わたし〉の立場がぶつかりあい、切実なコノ苦しささえ伝わりづらい。そんな中求めたくなる過剰な共感。そして、そんな世界に本当の〈わたし〉なんていないと思って自分探しに奔走したり旅立ったりする多くの人々。でも果たしてその先に「本当の〈わたし〉」がいるのでしょうか?

【ゲスト】
水無田気流(詩人・社会学者。詩集『音速平和』で第11回中原中也賞。他の著作に『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』など)

速水健朗(編集者・ライター。主著に『ケータイ小説的。 “再ヤンキー化”時代の少女たち』、『自分探しが止まらない』など)

八柏龍紀(作家・歴史教師。主著に『「感動」禁止! 「涙」を消費する人びと』、『戦後史を歩く』など)

OPEN 12;00/START 13:00
前売¥1000/当日¥1200(ともに飲食別)
※前売券はローソンチケットにて発売中(Lコード:39028)
※ネット予約もあり。(以下URLにて)
(入場順は、前売チケット→ネット予約→当日券の順になります)
http://www.loft-prj.co.jp/PLUSONE/reservation/




※追記 マーケットプレイスでは58円で出ているようです。安いなあ。

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喜多昭夫第一歌集「青夕焼」

変換 ~ 青夕焼


喜多昭夫『青夕焼』(絶版)





喜多昭夫さんの第一歌集『青夕焼(あをゆふやけ)』は、1989年に砂子屋書房から発刊されたが、現在は完全に絶版となっていて、図書館でしか手に入らない貴重な歌集になっている。(横浜市の図書館にはかろうじてある)

喜多昭夫さんの20歳から26歳にかけての作品がおさめられているが、短歌マニアの間では、この歌集を80年代を代表する青春歌集の一つに上げる人も多い。

本当に美しい青春の歌の数々。。。



・オレンヂを積む船に手を振りながらさびしく海を信じてゐたり

・海越ゆるましろき蝶のはばたきに少年の日はきらめきやまず

・目つむりてきみの水脈さぐるとき短篇小説のごとくさまよふ

・霞たつパウル・ツェランの胸処にて脚韻の詩を恋へり少女は

・水底に硬貨のごとき星を擁き春のセーヌのむらさきの闇





なんといえばいいのか、「脚韻の詩を恋へり少女は」とか、「少年の日はきらめきやまず」とか。。。
思わず「ああ、青春」と叫んでしまいそうな、美しい美質にあふれた歌の数々ではないだろうか。

しかし、喜多昭夫という人はたぶん「単なる青春歌人」にはとどまらない。

喜多昭夫は、自分の歌の源流を寺山修司に見ながら、それを巧みに自分のなかに取り込んで、歌をコピーして自分のものにしてきた。たとえばこのような歌には、きわめて忠実に寺山修司の抒情を再現して歌を作ったあとが見られる。



・晩夏(おそなつ)の埠頭に置かれたる母の麦藁帽子のなかのソネット

・いもうとの涼しきこゑは修司祭のビラ配りゆく林檎園まで





ここまで綺麗に寺山のコピーができるというのは、ほとんど才能に近いだろう。喜多昭夫は、言葉をコピーする天才だったのだろうと思う。

その一方で、こんなタイプの歌もある。



・水着着てマネキンのやうな君ですねまはりの空気ごと移動する

・「がんばるわ」なんていふなよ息をふきかけるときみはまはりはじめた




ここには、口語の文脈をとりいれながら、歌をカッコよく「きめる」歌いぶりとは少し違った、なだらかな「はずす」歌いぶりが見られる。

こんな「はずし」方が、たぶん極点まで達すると、こういう歌ができてしまうのだ。



・すれちがひざまに天才バカボンのパパかもしれない岡井隆は

・二代目の仮面ライダーやつてきて「ライダーキック!」と叫びつつ蹴る

・あなたしかしらないやうな樹ですからこえだにふれるとき気をつけて




一番始めにあげた5首と、この3首の落差は一体どこから来るのだろうか。おそらくこちらの文脈は口語とか、広告のコピーといった流行の言語に耽溺した結果生まれたものなのかもしれないと思う。

一冊の歌集のなかで、かっこよくキマった文語の青春歌と、こうやったゆるい口語脈の「歌い下げた」歌たちが同時に混在する喜多昭夫の第一歌集。喜多昭夫は、ふたつの言葉に引き裂かれた歌人として出発したのだ。

ライトヴァース・ニューウェーブの時代を語ろうとするとき、喜多昭夫という歌人の出発は、絶対に避けては語れないものだろうと思っている。

そういえば喜多には、寺山修司と春日井建を論じた、入魂の歌論集がある。amazonで1円(!?)というすごい値段で売っているけど、この論集と読んでいくと、喜多昭夫が寺山をどういう歌人として見ていたのか、よくわかる。

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はやくこの歌集、『青夕焼』が復刊にならないかなあ。喜多昭夫は、ニューウェーブの時代のなかで、おそらくおそろしいほど過小評価された歌人だと思う。熱烈に復刊を希望します!!

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文学フリマで発掘した同人誌の紹介

変換 ~ CCI00006


「delay No.0」(発行:NPO法人学生団体新人会広報部






この前の文学フリマへ行ったときに購入した同人誌のなかで、一番早く手に取ったものに「delay」という同人誌があります。

例のゼロアカとは全然関係のないブースで売られていたのですが、これが掘り出し物だったというか、かなり企画のしっかりした同人誌で、読んでいて非常に興味を持ちました。

発行団体は「NPO法人学生団体新人会広報部」というところで、ホームページを見に行ったのですがどんな団体なのかはいまいちはっきりせず。

ただ、やっている企画はなかなか面白かったです。

『ケータイ小説的。』で有名なライターの速水健朗さん、今年晩翠賞を受賞された詩人で社会学者の水無田気流さん、『「感動」禁止! 涙を消費する人びと』で有名な歴史学者の八柏竜紀さんという3本のインタビューが特集されています。

たとえば"社会の郊外化"はかなり以前から問題視されていたのですが、それがとうに進行してしまった現代では、「何がリアルになりうるか」というのがこれからの社会学の議論になるでしょう。それをふまえて、ケータイ小説論や浜崎あゆみ論、コミュニティの崩壊論、「ピュア」な若者論あたりまでを広範に押さえている雑誌になっていました。

他のジャンルの文学ではとうに「文化」と結びつけてその作品が成立してきた背景を読み取る技法が一般化しているのに、どうして短歌というジャンルにはそれが起らないのか不思議でなりませんが。。。

まあ、それはともかく、とりあえず、速水さん、水無田さん、八柏さんの三人の議論は、押さえておかねばならない大切な議論のように思います。

来週の土曜日29日には、新宿のロフトプラスワンでこの三人を招いたトークイベントがあるそうです。
全然宣伝する必要もないのですが、面白そうなのでご紹介。



新人会 presents パネルディスカッション
〈わたし〉氾濫時代の表現―若者/当事者のハイパーインフレ畑でつかまえて―

そんじょそこらの、特別なワタシ。
〈わたし〉にとって特別な一人のはずの〈わたし〉は、実は大勢の中の一人にすぎない?

格差問題、就活、ケータイ小説、ブログ、消費社会、戦後日本、言論など。冷静に、かつ熱く〈わたし〉をとり巻く「イマ」/「イマ」がとり巻く〈わたし〉を浮かび上がらせる、前代未聞のディスカッション!
お招きしたパネラーの方々は、全員気鋭の論者の皆さま。この組み合せはココでしか見られません!聴けません!

【Introduction】
ブログやSNSには、〈わたし〉の日記や表現が溢れかえっています。それは誰かと繋がれるときもあって、ケータイ小説もそのひとつ。一方でそんな〈わたし〉が溢れかえっていて、なにか行動したり表現したりしようとすれば氾濫する他の〈わたし〉表現の中に埋もれてしまいます。就職活動では自己分析が求められ、確かな唯一の〈わたし〉を作り出して売り出さなきゃいけない。マジメに労働・格差問題を議論しようとしたって、自分の生活の苦しさを訴えれば当事者それぞれの〈わたし〉の立場がぶつかりあい、切実なコノ苦しささえ伝わりづらい。そんな中求めたくなる過剰な共感。そして、そんな世界に本当の〈わたし〉なんていないと思って自分探しに奔走したり旅立ったりする多くの人々。でも果たしてその先に「本当の〈わたし〉」がいるのでしょうか?

【ゲスト】
水無田気流(詩人・社会学者。詩集『音速平和』で第11回中原中也賞。他の著作に『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』など)

速水健朗(編集者・ライター。主著に『ケータイ小説的。 “再ヤンキー化”時代の少女たち』、『自分探しが止まらない』など)

八柏龍紀(作家・歴史教師。主著に『「感動」禁止! 「涙」を消費する人びと』、『戦後史を歩く』など)

OPEN 12;00/START 13:00
前売¥1000/当日¥1200(ともに飲食別)
※前売券はローソンチケットにて発売中(Lコード:39028)
※ネット予約もあり。(以下URLにて)
(入場順は、前売チケット→ネット予約→当日券の順になります)
http://www.loft-prj.co.jp/PLUSONE/reservation/




かなり社会学的な90年代論、2000年代論が聞けるのではないかと、ちょっと楽しみに思っています。
とりあえず予約はしておきました。

しばらく最新の社会学の議論をおっかけていきたいと思っています。


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光森裕樹「空の壁紙」レポート

11月22日 さまよえる歌人の会(渋谷勤労会館)
第五十四回角川短歌賞受賞作
光森裕樹「空の壁紙」:発表原稿



ーD・E・Lー光森裕樹の名を呼ぶためのphonetic alphabet
レポート 西巻  真
    "Detail"
 
   "TYO-REK"
・試験予約の目的都市はそれぞれに違(たが)ひて遙かなりレイキャビク
   正しく伝達するための Phonetic Alphabet
・指示をだす ケネディ国際空港(JFK)を"Jack-Fox-King"と呼び替へ
   "Dog-Easy-Love"
・建物として名が遺るかなしみのインディラ・ガンディー国際空港(DEL)
   それはPCのレジストリに"Melissa?"といふ痕跡を残す
・行方不明の少女を捜すこゑに似てVirus.MSWord.Melissa

   "Engineering"

・人を待つ吾はめぐりの街燈に暗き展開図を描かれて
・六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか
・あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず
・空港と呼ばるるみなとに錨なき船の離陸をしばし眺めつ
・一晩を眠らずあれば震へだす指を鎮めつ「閉」のボタンに
・ビル背面をゆきてふたたび出て来ざるツェッペリン忌の飛行船かな
・友の名で予約したれば友の名を名告りてひとり座る長椅子

・空港に一日(ひとひ)を過ごす万物にキャスターがつく日を想ひつつ
・吊革のいづれを引かば警笛が鳴るかと試す最終電車に

    "Liryc"

・友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず
・ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか
・自転車の灯(あか)りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち
・屋上さへあらばそれでも生きてゆける うそぶくことがちからに変はる
・あなたならきつとできるといふことを冬ながくしてできずにゐたり

・明日も春、そのことのみのたしかさに曲がるべき角ひとつまちがへ
・ムービングウォークの終りに溜まりたるはるのはなびら踏み越えてゆく



今日は光森さんの作品を批評することになって、どのような形で表現すれば作品の本質に近づけるかかなり迷いました。近年にないくらい迫力のある新人賞受賞作を見せられた感じがしていて、まさに新人賞にふさわしい「新しい人」があらわれたと思います。

あれこれと考えたのですが、この主知的で、遊び心があって、それでいて非常にリリカルな詩性を湛えた一連を表現するために、光森さん自身が使っていたphonetic alphabet(音標文字)を使ってその特性をまとめてみようと思いました。やや気取りすぎな感もありますが、そのくらいの遊び心はこの歌人の評には許されるかな、という気がしています。

ご存じの方も多いと思いますが、”phonetic alphabet”というのは無線などでお互いが交信するとき、その文字を間違えないようにするために音で表す単語のことです。この音標文字を素材として、連作の細部にちょこちょこっと仕組んでくるあたりに、細部へのこだわりを感じます。

奇しくも作者が授賞の言葉で、「パリのみどり」を大切にしていきたいという趣旨のことを述べていますね。それは、僕なりに解釈すると、言葉が持っている音声と文字の組み合わせがもたらす、非常に些細な違いのようなものとか、微差というようなものにこだわっていきたいということだと思うんです。この連作ではその作者の覚悟が、一番目の連作の「detail」に表れているような気がするんです。

(牧野芝草さんより、このphonetic alphabetは、第二次世界大戦中のイギリス軍で使われていたもので、現在の一般的なものではないという重要な指摘あり)

まず作中主体がどんな人物なのかということを解析していこうと思います。選考会では、この作中主体が空港の関係者、というような読解が多くなされていましたが、細かく呼んでいくと、この作者がプログラマか何かの仕事を主にメインにしていて、空港へはおそらくそのシステムを構築しに行っているような感じがします。

  "TYO-REK"
・試験予約の目的都市はそれぞれに違(たが)ひて遙かなりレイキャビク

この”試験予約”という言葉は、「試験を予約しに行く」のでなくて、この人の仕事上、空港のチケットをプログラム上で「試験的に予約」しているという意味だととらえました。

まず冒頭近くでこのように、TYO-REK(東京-レイキャビク)と準備をしておいて、その後しばらくしてからJFKとDELが続けてで出てくる。こういう詞書で、”空港の一連ですよ”ということをやや判じ物のように小さいところにちょこちょこっと仕組んでくる。

「このこだわりはあくまで小さいところなので、そんなに大事ではありませんよ」という表情をしながら、何気にこのphonetic alphabetにつよい執着を持っているような感じ。これを「detail」と表現していいのではないかと思います。

                           ※

次に作品の中身についてなのですが、どの歌にも非常に知的な認識の操作がなされている感じがします。上手いことは上手いんだけど、その「うまさ」を表現するのに、テクニシャンという用語は全くあてはまらない。むしろ、工学的といったらいいのか、アーキテクチャルな感じがしますね。

一首目

人を待つ吾はめぐりの街燈に暗き展開図を描かれて

などは、その感覚が非常に強く匂う。たしか初期の近藤芳美に、自分が技師として製図しているような歌がありましたが、この"展開図"にも同様の香気がします。ただ、この人の場合、ちょっと違うのは、職業でこうしているのではなくて、「私の感覚」そのものに「展開図」を描いたり、マッピングしたり、アーキテクトしたりする感じがあるのが重要だと思います。

あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず

この三首目も秀歌ですが、ここにはマッピングに対する深い偏愛のようなものを感じます。

この感覚を指して、「engineering]と名付けましたが、なんというか、世界を設計しにかかっているような感覚が漂っているのです。

六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか

どういうことかというと、次に引いたこの歌に顕著だと思うのですが、普通僕たちがバスを見るときに、
「六面」という言い方であらわしたりはしないはずです。普通は三面の部分しか見えないから、見えたままを書く。しかし、この人の場合、すでに頭の中に直方体というイメージが所与のものとしてあって、そこから逆算していって三面というようにあらわすわけです。あたかも自分のなかでの設計が先にあって、それから事物があるんだ、というような、認識の転倒をしているように思います。

空港と呼ばるるみなとに錨なき船の離陸をしばし眺めつ

同様のことは四首目にも言えて、この歌は「空港」という言葉から先に発想された歌です。言葉に「みなと」がふくまれているということを、この人はあらかじめ知識として知っているので、飛行機のことを「錨なき船」だという表現が出てくる。これも、言葉や図形を先に認知して、それから「後付け」で事物が表現されているような感覚の歌。

一晩を眠らずあれば震へだす指を鎮めつ「閉」のボタンに

五首目の歌もそうですね。エレベーターの「閉」という文字が先にあたえられていて、そのあとでその「閉」という言葉によって、感情がしずめられていく。と、同時にエレベーターがしまっていく。という情景と知が一致した歌だと思うのですが、こういうように認識を先行させて、そこから逆算して現実をあらわすような操作を徹底している秀歌が多いのも、特徴のように思います。

                      ※

最後に"lyric"です。なんだか、これだけ認知の歌、認識の鎧につつまれているようにみえながら、光森さんという人は意外に「いいひと」なんじゃないかと感じさせるような良質な抒情性というか、ぐだぐだな抒情も反面として持っているんじゃないか、という気がしました。

友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず

この歌などは、かなりそういった抒情性が前面にあらわれているように感じます。特にこの「二月の雪ふりやまず」のあたりですね。

・「友人のひとりを一人の母親に変へて」というのは、認識の歌であるといえなくもない。(※オカザキなをさんより、lirycとまとめた歌に対してもうすこし具体的な説明を、とご指摘をいただく)

たしかに上句の感じからすると、友人というカテゴリーから、母親というカテゴリーへと「ひとり」が変化したというような、認識の歌であるようにもみます。しかし、注目しなければならないのは、「二月の雪降りやまず」という言葉の「二月の雪」がもたらす、あるドラマティックな抒情性だと思うのです。

私がレポートで"liryc"としてあげた三首とも、ある共通点を持っていまして、それは、「ひとり→一人」「深さ→ふかさ」、「灯り→あかり」というように、漢字書きとひらがな書きを意図的に変換させるような操作がなされていることです。

友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず
ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか
自転車の灯(あか)りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち

この変換の「ひらがな」の部分が醸し出すあるゆるい抒情質のようなものに、僕は個人的にぐっときてしまいました。

さらにうしろの2首

屋上さへあらばそれでも生きてゆける うそぶくことがちからに変はる
あなたならきつとできるといふことを冬ながくしてできずにゐたり

などは、かなり率直に抒情性のほうへ傾いた歌だと思うのですが、こういう良質な抒情性がときおり顔をのぞかせるあたりも、この作者の大きな特徴だと感じました。



※発表原稿を用意していなかったため、途中からやや当時の発表の様子を再現して構成したところがあります。

※発表にあたっては、途中の牧野芝草さん、オカザキなをさん、黒瀬珂瀾さんのご意見やフォローにかなりすくわれました。どうもありがとうございました。


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新彗星2号発売予定

http://shinsuisei.blog25.fc2.com/

ここのところ毎日更新がつづくこのブログ。
一体いつまで連続更新記録が続くのか(まあ、無理でしょうが…。)

今日はまたもやお知らせです。

未来短歌会彗星集の「会報」である「新彗星」
第2号がまもなく発刊予定です。

11月30日発刊予定ですが、
発売になるのは12月に入ってからになるでしょう。

今回は、ちょっとがんばって100ページのまま値段すえおき。

「修辞の死・再生を巡って」という特集企画に、西村旦さん、
澤美晴さん、そして、僕がそれぞれ長編評論を寄稿しています。

メインは、穂村弘さんと加藤治郎さんの対談。

作品も、第一号では登場していなかったメンバーがほとんど作
品を寄せる形になり、これで、ほぼ全ての新彗星メンバーの作
品が出そろいました。

また発売になったら、発売開始の告知をさせていただきますが、
とりあえずはお知らせということで。

前号よりさらに強力になった「新彗星」にぜひご期待ください。

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「pool」vol.6が面白い

pool.vol.6


←ご購入は「pool」のサイト





久しぶりに短歌の話題です。

斉藤斎藤さんのそのつど誌「風通し」の創刊をきっかけに、若手歌人の間ではちょっとした同人誌ブームが到来してきているようです。

私たち彗星集の会報「新彗星」もまもなく2号が発刊されますし、昔からある「歌クテル」、「豊作」、「sai」なども既刊、あるいは近刊予定のものが数多くなってきています。地方では「アークレポート」や「太郎と花子」といった若手の同人誌も回を重ねていますね。

さらには変わったところでは、今橋愛さん、雪舟えまさんの「snell」や、加藤千恵さんの「ハッピィマウンテン四之巻」、yukkyさんの「ivory」など、今までにないタイプの短歌同人誌まで登場して来ました。

こういった創刊・復刊・続刊ラッシュをどう考えるかという議論はひとまず横において、一つ一つの同人誌について個別にご紹介させていただくことにしようと思います。2008年11月9日に発刊された、石川美南さん、清水寿子さん、松本隆義さんらによる短歌同人誌「pool.vol 6」。

今までの「pool」と違い、編集ソフトが入ったことで、誌面、デザインともに非常に瀟洒な雑誌に仕上がっています。

また、新同人として加わった内山晶太さん、多田百合香さん、堂園昌彦さん、中田有里さんといったメンバーも、既に他の短歌賞や結社誌などで活躍している方ばかり。

短歌作品の見せ方も、デザインも、論考・対談も、バランスよく配置されていて、誌面として非常に読者に優しい、読みやすい雑誌に仕上がっていると思いました。

「風通し」は、見た目の印象からするとまったくユーザーフレンドリーではない同人誌ですが、「pool」はとても「ユーザーフレンドリー」な雑誌ですね。しっかり雑誌として作っているという印象があり、好感を持って読みました。

まずは短歌作品からいくつかご紹介しましょう。

ゲストで登場した永井祐さんの「日本の中でたのしく暮らす」



・日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる 

・たよりになんかならないけれど君のためのお菓子を紙袋のままわたす

・ゆるくスウィングしながら犬がこっちくる かみつかないでほしいと思う

・二十五歳になって体がやせてくる夜中に取り出すたばこといちご
 (永井祐「日本の中でたのしく暮らす」)




永井さんの作品は、相変わらずフラットに、やや57577の声調をかるくずらした口語文体を非常にうまく使いこなして、現実から少し覚めているけど「「ほどほど」に前向きな主体像をうまく作っているように感じました。永井さんの作品は好きだけど、作品が出てくるにつれて、次第に癖みたいなものが見えてきているのかな、という気もします。



・楠の木はこんなにでかくなるのかと、行き止まりかと仰ぐ曇天

・万馬券散って秋空 この次は牝馬が勝ちそうな秋の空
 (五島諭「酔ったというと」)




五島諭さんの作品。
一首目。上句の「楠の木はこんなにでかくなるのかと」、という言い方に、非常にポエジーを感じます。
石川美南さんが同人評で、「感慨というにはあまりにもささやかな、ふっと出てきた思い」と表現されていますが、これは的確な批評だと感じました。

希望のような希望以前の何かがふっと上の句でおとずれて、それがやはり「曇天」とうまくひびきあっているような、非常に淡い屈折したポエジーがある作品だと思いました。二首目の「散って」にも、なにかそんな屈折感があります。「万馬券」ですから、本人が買ったに違いないのです。これは、一つの誰にも届かないモノローグのように読める歌ですが、それでも本人は「さわやか」なのです。そのギャップが面白いと思います。



我慢している
風が吹いて
揺さぶられたりふるえたりするのは
気持ちいい
 (中田有里「バス停の前の木」)




この、淡い屈折したポエジーは、中田有里さんにも共通しているように思います。今回は短詩を引用してみました。この短詩は、「我慢している」がないと成立しない短詩のようにおもいますが、この「我慢している」が、何かかるい挫折感からぎりぎり手前のある感覚を、読み手に届かせようとしているように感じました。



・壁や床くまなく水びたしにして湯浴みを終ふる夕暮れの王

・うろこ雲のひとつひとつを裏返しこんがり焼いてゆく右手かな

・口移しで分け与へたし王国のさみしい領土浅き領海
(石川美南「夕暮王その後」)




石川美南さんは、王国を歌う歌人なのだなあという印象を深くした三首目。石川美南のなかには、おそらく帝国はありません。「王国」であることが、石川美南にとって重要なのでしょう。自らの内部の王国を、「口移しで(でもいいから)分け与えたし」、と述懐するところに、石川美南のポエジーがあると感じます。これらの歌群は、近年の石川さんの作品のなかでも、もっとも心に響いた歌でした。



・美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している

・振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う

・秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは

・追憶が空気に触れる食卓の秋刀魚の光の向こうで会おう
(堂園昌彦「やがて秋茄子へと到る」)




堂園昌彦さんの歌には、非常に硬質な「光」の感触があふれています。それは、硬質な、他者との関係性を拒む「光」だと思います。これらの歌群は、美しい青春歌ではすまされない関係を拒否する「痛み」のようなものが巧みに定型に練り込まれている一連だと感じました。

僕はこの「硬質さ」に、今一歩自分を重ね合わせることができないように思いますが、これは良く結晶化された痛みなのではないでしょうか。



・雪、しかも明るく月はありながら永遠(とわ)の残存歩行者を照らす(清水寿子)

・わらじむし湯船の底にゆらめけりさながら冬のはじまりにして(内山晶太)

・ひとりまたひとりと抜けてまたひとりひとりと来たりカフェテリアには(多田百合香)




他にも、良い歌がたくさんあって、引用に苦労するのですが、この辺で短歌の引用は打ち止めにしたいと思います。作品がしっかりしているので、購入にして損はなしの同人誌だと思います。

評論についても一言だけ。
対談は個別には示唆に富んだ発言が繰り返されていますが、全体として感覚的で、やや物足りなく感じました。松澤俊二さんの評論は、三枝、菱川、篠といった歌人たちの議論をしっかりと追いながら、新風十人世代の「内面の美」を強調することで再評価しようとする菱川の短歌史観を批判するという、力作評論です。

ただ、結論には賛同ができません。

「来るべき暗澹の時代」というのが、どのような事象のことを言うのか、はっきりと示されていないように思いました。これでは、「戦争になると人間は間違いなく口をつぐむ」という、ごく当たり前のことを言っているにすぎないのではないでしょうか。

長くなりましたが、以上です。

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信頼できる感じ-安川奈緒『MELOPHOBIA』




安川奈緒『MELOPHOBIA』





この詩人は信頼できる。
こういう感覚は、どこから起こるのだろう。
安川奈緒の詩集『MELOPHOBIA』には、そんな信頼感が言葉全体から満ちていた。

この詩集のあとがきを引用してみよう。




「自分が必要とした言葉を他人も必要としていると根拠もなく信じること。それ以外に私は他人との関係をもう想像することもできないぐらい友達がいない。(中略)
 中学、高校、大学と朝から晩までテレビばかり観ていた。それ以外何もなかった。明石家さんまの輝く歯を見つめながら、「空耳アワー」のタモリのサングラスの向こうにある目を想像しながら、音楽と詩は無関係だと思った。紙面から囁きかけてくるような詩は下劣だと思った。音楽的快楽から身を引き剥がした詩以外は信じられないと、いつでも甘くなろうとするナルシスティックなリズムを殺した詩以外は信じられないと思った。音韻論とかそういう難しいこととはまた別の次元で、詩の内なる敵は何よりもまず音楽なのではないかと思った。 だからMELOPHOBIA(音楽恐怖症)、有言実行できていたらとてもうれしい。この世は音楽を愛しすぎている。」






この文体。一読すると読みづらいが、この加速感が次第に伝わってくると、この人はものを本気で言っている。この詩人は信頼できる。というような感じに変わってくるように思う。確かに安川の詩にはナルシスティックなリズムとは全く違う、もっと暴力的な、たたみかけるような言葉のリズムが流れている。この文体の加速感が、ある種のカタルシスとなっておそってくるまで、そう時間はかからなかった。




「畜生が美へと傾いていくのを食い止めたい 空間を言葉で汚したい おまえとだけは一緒に死にたくない敵に包まれて死にたい 燃え上がる山に取り残された二人の男 塹壕のラジオ・ニュース 最後に彼らはどこかの部屋で破廉恥な鏡と向き合う 櫛をちょっと借りたい すぐ返してくれよ夏の夜だから」 (「玄関先の攻防」より)






こんな加速する文体の強度に支えられながら、やがて言葉は意味から剥がれ、より飛躍したイメージへと言葉を上滑りさせていく。この詩集は、かぎりなく早口で朗読すべき詩集だ。そんなことを考えながらいつのまにかこれを書いている僕も、加速という言葉の魔力にとらわれていっているような気がする。

MELOPHOBIA。

良いタイトルだ。

この若い女性詩人はものすごく孤独で、信じられないくらいにカッコよく、信じられないくらいに強力な「何かを語りたい」という衝動だけで詩を作っているように感じられた。

おそらく僕は連帯できないだろうけど、孤独だということを理解することができる。
僕は孤独な詩人が好きだし、切迫感のある詩が好きだ。一生懸命な詩が好きなのだ。

この詩人がもっと早口で、もっと強靱な言葉のイメージを見せてくれるのを、楽しみにしたいと思った。
最近の詩集のなかでは、かなり気になった一冊だった。

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どうしてBK1で本を買うのか

さて、今日はちょっと書評とは関係ないのですが、私が今BK1に強くはまっている理由をひとつ。

私の場合、大体月にかける書籍代は二万円から三万円ほど。古本と新本の割合はだいたい五分五分というところです。

読むジャンルとしては、圧倒的に歌集・詩集が多くて全体の8割を占めます。あとは思想系の本が続く感じ。美術系の本もたまに買います。

BK1は雑誌がおいていないのが非常に残念なのですが、それでも新刊本をぎりぎりまで安く買うことができると思います。

BK1では毎月、週刊ビーケーワンというメルマガが送られてきますのが、そこで毎月1回、3000円以上300円引きのサービスを行っています。

歌集1冊の値段は、3000円前後なので、これを駆使すると300円引きになります。

さらに、アフィリエイトをやっていると、もう一つ300円引きのギフト券が付いて来ます。

2回にわけて、それぞれの注文を3000円以上にして注文すれば、300円引きで購入できてしまうわけです。

もう一つ大切なことは、BK1には、「コンビニ払い」できる制度があって、これがまたバカにならないくらいポイントをためるコツの一つになります。

たとえば、ファミリーマートのTポイントクレジットカード。

ファミマかTSUTAYAを利用している人なら、このカードをお持ちの方も多いと思いますが、BK1で買ったものは、すべて「コンビニ払い」を選択して、送られてきたコンビニ払いの注文書を、さらにファミマのクレジットカードで支払うというテクニックを使えば、クレジットカードのポイントがたまるだけではなく、BK1のポイントもちゃんとたまります。

「あ。今週買いすぎた」

という場合は、そのときの都合で支払いを2週間までならのばせるので、翌月のクレジットカード払いにして、分割払いっぽく使うことも可能です。

ということで、本を買うときは、僕はほとんどBK1のコンビニ払いを使います。

さらに、自分でアフィリエイトをすれば、自分で本を買ってもアフィリエイト扱いになるので、合計すると
直接買うよりも300円~500円ほど安くかうこともできるようになります。

さて、BK1のギフト券は、これをお読みいただいたみなさまにもお使いいただくことも可能らしいので、
ここに添付しておいちゃいます。

BK1のギフト券。バカになりません。
ぜひご活用ください。

「風通し」創刊

お知らせばかり続いてすいません。
このところ仕事も忙しくて、なかなかまともな文章を書く余裕がありません。

近いうちにしかかり中のものは仕上げようと思いますのでよろしくです。

さてさて、今日は斉藤斎藤さんの個人誌といったらいいのか、新しい同人誌
が発刊になったので、こちらでご紹介させていただきます。

誌名は、「風通し」

見ただけで豪華メンバーとわかるメンバーが参加しています。

私もさっそく予約しておりますです。
ご興味のある方はぜひ。

これは期待できる仕上がりになりそうですね。

読んだらどこかで、ちゃんと書評にしたいですー。

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風通し創刊

説明しよう

●「風通し」とは、一号ごとのメンバーで一号ごとに企画を立ち上げる、
一期一会の「そのつど誌」である。

●第1号の企画は、連作歌会である。

●メンバーは30首の連作を提出し、
インターネットの掲示板でおよそ一ヶ月にわたる
血みどろの相互批評を繰り広げた。

第1号メンバーは

 我妻俊樹
 石川美南
 宇都宮敦
 斉藤斎藤
 笹井宏之
 棚木恒寿
 永井 祐
 西之原一貴
 野口あや子

の9人。

【連作歌会超ダイジェスト】
永井さんの歌はロックだなあ、と思いながら僕は読んでいます/この連作はどの口から語ろうとした短歌なのか、判断しかねました/山口より帰還。復帰します/作者と作中の人物がイコールでない書き方をする場合、作者は、それが「自分ではない」ということに、ものすごく責任を持たなくてはならないのではないか/いや、端的に言って斉藤さんの読み方は「作者萌え」なんじゃないの?/出たっ、野口あや子の「無知の知」攻撃(笑)/でも、そういった評価軸は、ア・プリオリな「私」を疑うだとか、〈生〉の一回性だとか、言い尽くされた価値観の域からどれほども出ていないのではないか/からんでもらえてうれしいっす!/完全な偏見ですが、わたしよりちょっと上の男性に共有されているノリがあるような感じがしました。偏見です/最後から2首目には、泣きそうになりました/うまく作ることを禁じ手にするなんて、あまりにも過酷なことではないでしょうか


B5版100ページ。
定価1000円(送料込、振替手数料は別)です。

お申し込みは

kaze104@gmail.com

まで。

メールの件名は「風通し購入」とし、

1)お名前
2)ご住所

をお知らせください。
折り返し、お支払方法などお知らせいたします。

よろしくお願いいたします。

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歌クテル4号に評論を寄稿しました

utakuteru



←「歌クテル」のページへ








本日は書評をお休みして、少し活動のお知らせなどをさせていただきたいと思います。

約1年くらい前に書いたものになりますが、最近発刊になった短歌同人誌「歌クテル」
4号に約30枚程度の評論を寄稿しています。

・ケータイ短歌、ネット短歌と言われるものの感受性とは何から来ていたのか

・俵万智・東直子の口語短歌とは何だったのか

と言うことを主な問題点として、過去のインターネット短歌の歴史をふまえながら、
ささやかながら自分の意見を述べています。

残念ながら、この1年くらいで「ネット短歌」という言葉も、完全に賞味期限切れになっ
てしまったかのような印象がありますが、ぎりぎり間に合ったのか、アウトなのかは
判断のしづらいところです。

11月9日の文学フリマなどで販売するそうです。あと、通販も受け付けておられる
そうです。

お手にとる機会があれば、ぜひ目を通してやってください。

花山多佳子『木香薔薇』を読む(愉快な花山一家のこと)










本日のご紹介は、花山多佳子さんの第七歌集『木香薔薇』

花山多佳子さんは、不思議な感覚を持っている歌人だと思います。
その不思議さがうまく表現できるか自信がないのですが、たとえばこんな歌はどうでしょうか。



・閉めた蛇口にふくらむ水がぶるぶるとふるへては落ちふるへては落つ

・抽出しにずつとありたるライターに立ち上がる火のむやみに高し





何と言えばいいのか、ありありとした物事の描写と、ユーモラスな感受性のちょうどあいだぐらいを歌っているような感じといえばいいのでしょうか。

蛇口の水が「ぶるぶるとふるへては」というひらがなづかいには、なんとなくこちらの気持ちまでぶるぶるゆさぶられそうなおかしみを感じますし、実際の描写といえば描写といえなくもない。

ライターの歌も、ひきだしにずっと放置しておいたライターの火が、突然「しゅぼっ」と大きな火が出て、びっくりする、という経験は私たちにも感じられる状態だとおもいますが、この歌の場合、「むやみに」が面白いように思います。この「むやみ」には、作者のユーモラスな感覚と一緒に、現実の光景が立ち上がってくるような印象があるようです。



・日々にながめて息子が怒るすさまじき女二人の散らかしやうを

・戻り来て畳に倒れ込むわれに「そのまま」と言ひ、むすめ写生す

・わが眉毛すぐ抜きたがる娘ゐて夜ふり向いたときが危ない

・折をりにつかめなくなる夫の所在そのときにのみ夫はあるも

・マイナスの額(がく)の大きさに驚きてもはや記帳せず記憶せず





この歌集には、家族を歌った歌がけっこうたくさん出てくるのですが、この家族がまた、なんというか「愉快な花山一家」としかいいようのない一家です。いったい、この一家はどんな暮らしを送っているのだろうと想像したくなってしまいます。

このお宅では、ときどきだんなさんがいなくなるらしい。家は散らかしっぱなしらしい。そして娘さんが絵をやっているらしい。ときどき疲れたお母さんを写生しているらしい。眉毛を抜きたがるらしい。そして家はどうやら大赤字らしい。。。

もう、よくありそうですが、仲の良さそうな家族の生活がそのままユーモラスに歌われています。

そういえば、花山多佳子さんの娘さん、花山周子さんも歌集を出されており、第一歌集『屋上の人屋上の鳥』が、今年の「ながらみ書房出版賞」を授賞されています。(どうも市場ですでに売られていないのが残念です)



蒲団より片手を出して苦しみを表現しておれば母に踏まれつ(花山周子)

私と弟が言い争うとき母の集中力がアップするらし(花山周子)




なんというか、この母にしてこの娘あり。という感じのほほえましい家族なのです。花山周子さんの
歌集は、歌の数では800首以上もあるというすごいお得感のある歌集なのですが、なかなか読み応えがある歌集でした。

花山多佳子さんの歌集も470首。それでも最近の歌集としては、数はかなり多いほうでしょう。どの歌もひとつひとつ、時間をかけて読みたい感じがします。これ以外にもいくつか好きな歌を引いてみましょう。



・ばかでかくなつてラインの真つ直ぐな苺はいちごといふ感じなし

・春となり毛のぬけかはる白うさぎ凹凸のあるかたまりとなる

・すべらかな幹は下へとゆるびつつ肉感もちて根のもりあがる





楽しそうな歌を3首ひいてみました。これらの歌は「楽しそう」というよりも、作者の視点が、あるいは発想がとても「自由でのびのびとしている」感じがします。

1首目、言われてみれば確かにそうですが、「ばかでかくなつて」っていうすこし乱暴な言葉づかい、あんまり女性が使う感じの言葉ではなさそうですよね。作者は全然気にせず、逆に自由にありのままに歌った感じが、おもしろい歌だと思います。

2首目、3首目ともにぼくの好きな歌です。2首目、うさぎがもこもことしたかたまりになるというのは、なんともかわいらしいですが、ほんとうのことのようですね。ものごとの見方をちょっとずらすと、こういうふうに見ることもできるという例ではないでしょうか。

3首目。短歌の世界では、「肉感もちて」というようにあまり説明的にしないほうがいいとよく言われるのですが、この歌の場合、「肉感もちて」ということで、逆にものすごく肉感があるような感覚におそわれます。不思議な力強さのある歌です。



・摘まれたることを知らざるひるがほが夕べの卓に花閉ぢてをり

・三叉路にたつてゐるゆめ三方の道に一つづつ柩置かれて

・夕空に高く帽子を投げ上げよ蝙蝠がつられて落ちてくるゆゑ





こちらはどちらかというと、少し翳りを帯びた雰囲気のある歌たち。3首目の蝙蝠の歌は、夢想のような本当のことのような味わいがあります。

とりあえず紹介としてはこのくらいにしておきましょう。

たとえば歌集というのは、短くて量が少ないように見えますが、一首一首を読み解いていく時間を考えると、意外と長く楽しめるものだと思います。

すこし集中して、丹念に時間をかけて何かを読みたいとき、こういう歌の一つ一つを、じっくりと自分のなかで消化してゆくというのは、なかなか楽しい作業だと、私は思っています。

歌集としても、装丁も字体も少しレトロな感覚で、なんともいえず良い手触りのある歌集だなと思いました。持っていたい歌集の一冊だと思います。

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2冊の詩集と1冊の歌集についてのメモランダム(最果タヒ、キキダダマママキキ、飯田有子)

今年の中原中也賞の選考で強く印象に残ったのは、小説家の
高橋源一郎さんが、一番最後にこんなことを言っていたこと
でした。

「やあ、きみはこんなところにいたのかい。おはよう。おはよう」

選考の言葉として、なんとも粋な言葉ではないか。と。

受賞した詩集は最果タヒさんという方の『グッドモーニング』
受賞が決まった直後、版元が品切れになるほど売れたようですが、
最近やっと手に入りやすくなったようです。

その詩を一目見て、買おうと決めたのは
こんな詩編に、ぼくが惹かれたからです。

  ※



最果タヒ『グッドモーニング』








いつでも怒りにおおわれている、
根本的に理解がない
けれど
説明をする以前に脳と脳を
なぜ交換できないのか
なぜあなたたちは予測できないのか
口を動かすことがいつもわずらわしく
なによりも言葉にすれば向こうの思い通りになる

激痛が走り
会話が不可能になり
耳をふさぎ叫んだとき
やっと
わたしはあなたと正座で向き合い
どんな話でもしようと思う
指先をからめれば
もう通じているだろう
なあ そうだろう
そう、
そうなるとわかっている

   (「夏のくだもの」より抄出/最果タヒ『グッドモーニング』




なにかぎりぎりのところで言葉を出しているというか、
そんな感じがする詩人さんです。

「激痛が走り
会話が不可能になり
耳をふさぎ叫んだとき
やっと
わたしはあなたと正座で向き合い
どんな話でもしようと思う」

この詩句にぐぐっと惹きつけられました。
コミュニケーションが持つ痛みをすごく肉感的に言葉に
できている、感じがします。

同じようなタイプの詩人に、キキダダマママキキという方
がいらっしゃいます。この方、名前からしてなんだか失語
症の比喩のような感じです。キダマキでいいのに、なんで
こんなに名前で「どもる」の?

この「どもり」が、ただものではない感じがするのです。

まあ、それはそれとして、やっぱり自分の肉体を激しく突
き刺すような強い痛みを感じる詩だと思います。




キキダダマママキキ『死期盲』









たどり着いたのは墓穴
それならまだしも滑り台が
ああ巨大滑り台を眺めるわたしの目には銀河
が突き刺さっている
肉片が飛び散っているし
なんだか瘠せているわたしのからだ
いつのまにかたっぷりと
赤いカラスが飛んでいる
纏わりついている
わたしは
タオルの全滅を防ぐために
惨めな残滓を抱え続けてきたのではなかったか
かつて人は母乳の攻撃にやられていった

毛羽立った羽、に銀河を貼り付けてはばたくというのかきみよ!
きみの鏡の向こうは水浸し、滑る
わたしが水浸し
太陽
影だけのからだ
口を開く影
淋しく臭い光が糸を引く、熱帯雨林
は液晶
無数の水子が眩暈を起こしているみたい
暖かい手のなか
蟹が燃えているではないか!
よい香りの汁が足元に滑り落ちる
のを足がうまそうに飲んでいる
と足が切れて地面へ突進していった
心臓がスポイト、
蜘蛛の巣状の水の網
あのからだを見てごらんなさい
まるで腐った土
寝たら死ぬ
ここで目蓋を切り取って、
酢に浸して膝に与えてやる


「見知らぬ男にざくざくと鳩尾をナイフで刺され」/キキダダマママキキ『死期盲』




この詩の

「心臓がスポイト、
蜘蛛の巣状の水の網
あのからだを見てごらんなさい
まるで腐った土
寝たら死ぬ
ここで目蓋を切り取って、
酢に浸して膝に与えてやる」

という言い方、なんかすごいですね。

あんまり詩の批評ってどういうふうにしたらいいのかよくわからない
んですが、とにかく自分を痛めつけて、そこからわき上がってくる
いろいろなばらばらなイメージを、そのまま詩にしている、そんな
印象を持ちました。

短歌の世界でも、今やっぱりこういうタイプの歌い手さんが増えて
いるような気がします。しかし、現代詩のこの徹底ぶりには、ちょ
っとかなわないかな。と思う。

自分の身体とのぎりぎりのせめぎあい。

それは90年代に飯田有子さんという歌人さんが、こういう世界を短歌で表現しかけた、ような気がします。歌集『林檎貫通式』から。

林檎貫通式

←ご購入は歌葉のサイトへ







・たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔

・婦人用トイレ表示がきらいきらいわたしはケンカつよいつよい

・新発売のファンタのげっぷしつつみな人工呼吸にあこがれている

・なにもかも何かにとって代わられるこの星で起こることはそれだけ

・オーバーオールのほかなにも着ず春小麦地帯をふたり乗りで飛ばそう

・まりこさんまりこさんなら誰でもいいきゅうりパックの隙間より笑む

・折り重なって眠っているのかと思ったら祈っているのみんながみんな

                           『林檎貫通式』より



一首目の「たすけて~」はかなり話題になった歌です。が、短歌の
文脈からあまりにも切り離されすぎているので、賛否両論、悲喜こもごものまま、すでにやや古い歌集となってしまいました。

遅ればせながら、今の現代詩のぎりぎりの身体への痛めつけのような表現を前提にすることで、僕たちはこれからようやく短歌の批評もできるのではないか。現代の口語短歌と、現代詩はぎりぎりのところでつながっているのではないかと思えています。それは、共通するある感受性に支えられているのかもしれません。

〈過去にmixiに登場した日記を再稿しました)

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