2010年03月 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

2010年03月

短歌時評更新と、メールマガジン発行のお知らせ

こんにちは。

果たしてライターなのか、歌人なのかよくわからない感じで挑んでいる純響社さんの短歌時評。
更新されました。

http://junkyosha.com/


江田さん、川本さん、よろしければお付き合いいただければ幸いです。

今回はペースが速いですが、
速いのはネットの特性なので最大限に活用させていただきたいと思います。
ただ、なんやかんやで続けるのも大事と思っているので、不定期ながらも2年は続けたいですね。

あと、純響社さんのご好意で、メールマガジンを発行していただけることになりました。
一回目の「ネット上での時評とは?」というお題で考えたときの、ぼくなりの答えです。

つまり、訂正とか一切なし。HPで訂正しても、メルマガだとみなさんのメール上に残るので、
「残るおしゃべり」ということになります。

実はHPと全く同内容のものをただ転写していただくだけなのですが。

よろしければ、こちらもご購読ください。引用される場合は、こちらが正確だと思います。

http://archive.mag2.com/0001114160/index.html
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短歌時評はじめました

どうも。お知らせお知らせです。

青磁社の時評、

万来舎の時評、

その他いろいろなところで「ネット時評」があふれているなか、

短歌苑を発刊されている純響社さんでも「短歌時評」

が始まることになりました。

初回の執筆者はぼく。不定期連載ですが、基本的には、僕が一人で回します。

いつもカタイ文章しか書いていないので、見られる方はびっくりするかもしれませんが、

かなり「寝技」に持ち込んだ時評になってます。

http://junkyosha.com/

さて、こちらの時評がどのくらい面白くなるかは執筆者のぼく次第なのですが。

とりあえず、大暴れしたいと思います。

よろしくお願いいたいます。

井泉3月号

2010年の井泉3月号に「今日の家族の歌?」と題するややエッセイ的な固めの文章を寄稿
させていただきました。お読みいただければ幸いです。

今号の「井泉」、手にとって熟読していますが、小高賢さんの講演記録は、現代の歌人なら
誰でも関心があるであろう問題について、かなりわかりやすい、フランクな語り口で語られて
おられます。

かなり重要な号に名前を連ねることができたこと、光栄に思っています。

わたしが聞いたことと、あなたが言ったこと

昔、批評会での皆さんの発言をかなり詳細に再構成するという形で、批評会の模様をブログ上にアップするという作業をときどきやってました。

こんな感じ

http://cocoatalk.blog94.fc2.com/blog-entry-30.html

なんだかあちこちで紹介されている感じで、つい最近も思わずあるサイトとか見てしまったとき、「穂村弘のイン・アウト論」に引きずられてるんじゃね。

みたいな書き込みをみたときに、ちょっと「がくっ」となった。

まあ、参考にしてくれるのは嬉しいんですよ。(もちろん、この批評会の模様はあちこちでアップされているので、別に僕の功績というわけではないんですが…)

最初、ぼくはある種の地方とのアクセスの格差というか、その場に「当日行けなかった人もいるだろう」とか、「あまりに地方すぎて、情報にアクセスできない人もいるだろう」という感覚で、自分なりの無私の精神のつもりで始めたことではあるんですが。。。

ただ、決定的に理解して欲しいのは、「穂村弘が言ったこと」と、「わたしが聞いたこと」は違う。

ということです。

そう。人間は、自分の面白いと思ったことだけを、無意識のうちにつまみぐいしてしまう習性があって、それがどんどん伝播していくことはちょっと怖いな、というか。

批評会記録は個人のサイトだからできる、という開き直りもあるんですが、実は当日あんまり目立たなかったけど、すごい重要なことを指摘していた可能性というのもあるわけで、そういうものを聞き手はノイズとして一瞬のうちに無視してしまいがちです。

僕の発表(というか発言)は、完全に僕が自分の責任で乗せているので、それでいいんですが。

ただ、人の言ったことをそのままブログに書き写すのは、本当はあんまりよろしくない。

人間は誤解の可能性をつねに意識的に孕んでいる。

わたしは、わたしが他者の発言をつねに恣意的に誤読しているのではないか、ということに、ちょっと自覚的にならざるをえません。

それはtsudaる行為にしてもなんでもそうで、そのことに意識的にならないとなかなか「正確なレポート」というのは難しいかと。

報道系の方がツイッターやってるのはいいんですが、文学系の方がツイッターをやっているときに、「その発言」の意図とか重みということを全く考えずに、「わたしが聞いたこと」に固執するのは、ある意味危険なことではないかと思います。

特に文学系、言葉を最重要に考える方たちにとっては、安易な「レポート」というのは避けるべきではないか。そんな気持ちにちょっとなっています。

辻井竜一さんの批評パーティ、ちょっとアップすべきかどうか悩んでいるのは、そういう可能性を考えるのが一番大きいからです。

しかもまた冒頭穂村さんだし。

うーーーーん。うーーーん。

「公益性」ということと、「誤解可能性」という二つの狭間で引き裂かれている自分がいます。

あと、著作権というものも考えますね。

会場に居合わせたからといって、その発言全てを記録していいのかどうか、ということは、まったく別問題。

確かにパネリストは「お金をもらってる」われわれは「お金を払ってる」ということで、パネリストにはそういう責任がある、という議論もないわけではない。

しかし、演劇や映画では撮影禁止、というのも明記されているところも多いので、短歌というジャンルはこの辺の区別は非常に緩い。

シンポジウムや批評会といったものが一つの「即時性の文芸」であるということを考えると、これはある意味公演の無償提供になるんじゃないか、という非難も、考えないわけではない。

ただ、あれだけ批評会やシンポジウムが乱発されている現状を見ると、
誰かが形に残さないと消えてしまう、という危機感もあるわけで。

ぼくは最終的には主催者側が(恥ずかしさをこらえて)youtubeや、USTREAM、megavideo、ニコニコなどの画像コンテンツをもっと活用すべきではないか、という意見を、今は持っています。

いずれにしろ、僕が批評会記録とう形でコミットするのは、今回が最後になるか、それとももうやらないか、でしょう。

あ、自分の発言は遠慮なく全方向に公開しますよ。

それでは。
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