2012年09月 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

2012年09月

田村元さん、『北二十二条西七丁目』

田村元さんの第一歌集、『北二十二条西七丁目』を拝読した。

硬質な文語旧かなで、非常に内容の充実した歌集である。

丁寧に編年体で組まれていて、2000年以前から2012年までの十数年間、作者が23歳から、現在までの歌の履歴がきっちりと並んでいる。僕が1978年生まれなので、ちょうど一個上の先輩で、歌集からは、おそらく実社会でばりばりと活躍されておられる作者の像が浮かぶ。歌は人生の履歴だと主張するかのような丁寧な歌集の作りと、明朗ですぱっと言い切るような歌い口にとても好感をもった。

 幸福にならうと思ふ一枚のシャガールの絵を壁にかけつつ

青春歌として、また歌集の巻頭歌としてこれほどふさわしい歌があるだろうかと驚く。「幸福にならう」というフレーズに、ある種の予兆、予感めいた感覚を纏わせることに成功している。それは下の句の力にあるのだろう。シャガールの絵を壁にかけるという行為は、おそらく新しく買ってきたか、引越ししてきたぐらいのときにしか行わないのだろうけれど、その清新な気分が、過不足なく丁寧に一首のなかに織り込まれている。いい歌だと思う。

若書きの歌には逆にこう言う歌もある。

 たましひに引き潮おとづれ星月夜 涙の水位保たれてゐる

 青春は干草まみれだつたさと嘘ついてfar east of Eden

これは若書きの歌らしい失敗のような気がする。ややロマンティシズムに流れすぎた感じがする。一首目、引き潮、星月夜、涙の水位ときれいな言葉が並んでしまい、歌の重心がどこにあるのかがわからない。二首目は、far east of Eden と逆にかっこよく決まりすぎてしまった。やややりすぎな感じがするというのは正直な感想だ。しかし、こういう歌も、若書きらしい歌として素直に好感を持って読めるだけの魅力を作者は持っている。

 西日さす部屋の真中の憂鬱かわれも昭和に生(あ)れたるひとり
 
 くれなゐのキリンラガーよわが内の驟雨を希釈していつてくれ

どちらも、男らしい歌である。かすかに懐古主義的な響きをもつ一首目は、昭和に生(あ)れたるという表現が微妙な発見である。これは昭和生まれと平成生まれの隔絶がだんだん激しくなってきた今だからこそさらに心に響く煩悶ともいえる。それを「西日さす部屋の真中の憂鬱」とややセンチメンタルに受け止めるところに、歌としてのよさがあるのだと思う。

二首目は、男らしい叫びである。「驟雨を希釈していつてくれ」とキリンラガーというアイテムにむかって叫ぶところにこの歌人の男ぶりというか、若さと男らしさの混交がある。後半の職場詠にもつながっていくいい歌だ。

 わがために斉藤茂吉が何をしてくれたといふのだらう、椿よ

 来たるべき新時代など春の夜のラーメンほども信じてをらぬ

 われを置きて発ちたる友よアフガンに桜(はな)は、短き歌はあるのか

 もし、といふ仮定の前に立ち止まる思想とは言はぬまでの思ひよ

 ふりがなをわが名に振りてゆくときに遠くやさしく雁帰るなり

 弘前の桜を咲かせゐるころか前線はきみへと北上しつつ


「芹と思想史」まで一気に6首を引いてみた。

「わがために~」これはキリンラガーの系統に入る歌。かっこいい叫びである。そしておそらくこの作者の代表歌と言えるだけの響きを持っている。斉藤茂吉に対してすぱっとこう言い切る迫力は感じるし、何より純粋である。「来るべき新時代~」の断言も心地よい。そしてその男らしい響きは、思想へ哲学へと拓かれていく。このあたりのドキュメントは読者を引き込む力がある。

一方でこの時期の作者は、優美な佳作も多く持っている。

「ふりがなを~」の歌は比喩が巧みに効いて優美な歌に仕上がっている。ふりがなという言葉の響き、そして何よりも遠くやさしく雁帰るという情景の斡旋が見事で、心が落ち着く仕上がりの歌だ。「弘前の~」の歌は実際の歌なのだが、どういうわけか景として美しく仕上がっているように思われる。前線という言葉と「きみ」との取り合わせが新鮮でうつくしい。

この「芹と思想史」までの歌は淡麗な青春詠とか思想詠という風に考えてもいいだろう。このあたりを境に作者は職場の歌を数多く残すようになり、おそらく東京に越して来たのであろう、東京の歌が増えてゆく。それは青春の喪失なのだろうか。「芹と思想史」以降の歌を取り上げてみよう。

 ものの芽が闇に突き出す 一介の月給取りであるといふこと

 もづく酢の酢に咽せてをりこれ以上われから何が搾り出せるか

 マークシートの円をわづかにはみ出して木星の輪のやうなさびしさ

 俺は詩人だバカヤローと怒鳴つて社を出でて行くことを夢想す

 地下鉄のほそき光にたどりゆく日に二十ページほどの読書を

 いまだ何者にもあらず冬の日の雲ひとつなきあかるさのなか


仕事と歌の間で煩悶している姿が目に浮かぶ。一首目、会社員である自分をややシニカルな視点で見ている。一介のという表現がそう感じさせるのであろう。二首目、これ以上われから何が搾り出せるか、というのは職場詠としても歌人の煩悶とも読める。こういう煩悶がいい。三首目は美しい修辞の歌で、私も集中で最も好きな歌の部類に入る。「マークシートの円をわづかに」という初句七音の加速感にもたれて、突如「木星の輪のやうなさびしさ」という意外性のある比喩が出てくる。この新鮮な響きに私は心うたれた。俺は詩人だバカヤローという直球の言い回しも快く響く。少しコミカルに響く感じもあるが、それでも日常と格闘する姿が見える。この歌はぎりぎり、俗をはなれて短歌の世界に踏みとどまっている。「地下鉄のほそき」の歌「いまだ何者にもあらず」の歌は、ゆたかな世界だ。かすかな光、そのなかで二十ページほどの読書をするという日常の動き、雲ひとつなきあかるさのなかという澄んだ響き。いずれも好感を持って読んだ。

歌集が後半に入ると、やや俗っぽい歌が増えてくるように思う。僕は文語旧かなでこういうことをやると、一遍に歌集の美しさが台無しになるような気がして、賛成はできない。

 疲れたらチカレタビーと言つてみる春のでんしんばしらに凭れ

 ゆふぐれに燕のやうにやつて来て飲みに行かうと誘う鉄道員(ぽつぽや)
 
 疲れ果てわが寝室に入り行けばシェーのポーズで熟睡の人

どれも歌が俗のほうへ向いている。確かにチカレタビー、シェーのポーズ、読者を納得させられる力はあるのだろうが、世界と闘う気力というか、美と闘う気概のようなものが感じられない。鉄道員と書いてぽっぽやと読ませるルビというのはあきらかに小説からきている。この辺の言葉の選択のセンスのまずさは、後半の歌、つまりは近作にあきらかに表れているような気がするのは私だけだろうか。

田村さんにはもっともっと叙景詠を作ってほしい。日常の優美さや豊かさが広がる世界をもう少し見せてほしいと注文をつけさせていただきたい。近代短歌の持つ透明感や抒情の美しさといったものをこれから手にすることが出来るはずの歌人なのだ。実際にこれからの第二歌集への萌芽が、ところどころに見えてきているのだから。

最後に後半から好きな歌を引いて感想を終える。

 口語へとほぐれゆきたる民法を春まだ浅く読み進めをり

 ガラス辺未明の道に散らばりて光にも欠片(かけら)といふものはあり
 
 添付ファイル添付し忘れもういちど春の闇へと「送信」を押す

 藤棚のやうに世界は暮れてゆき過去よりも今がわれには遠い

 こんなにも冬の日差しが明るくてさみしさの底にふるさとはあり

 旧姓を木の芽の中に置いて来てきみは小さくうなづいてゐた


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内山晶太さん『窓、その他』

内山晶太さんの第一歌集『窓、その他』をよむ。

内山晶太さんは、「移動する歌人」という印象がある。

僕が初めて内山さんの歌を読んだのは、ある歌会でのことだったと思う。歌集にも収められていてはっきりと覚えているので、この一首から鑑賞してみよう。

 夜(よる)の窓にすきとおる胸を沿線のしろき枯生がながれていたり

作者は夜の電車に乗っていて、おそらく立っているのだろう。帰宅の光景だろうか。電車の窓ガラスを見ている。そうすると、夜の電車に自分の胸がすきとおってみえていて、そのうしろにさらに電車のひかりでしろくなった枯草がぼんやりとながれている。こういう光景を歌った歌だ。

しろくという言葉がものすごくうまくて、まるで死後の世界のような灰色の外の情景を歌っている。そして歌人である作者はそのなかをただ動いている。一首のなかでモノクロームの映画のような静謐な世界を醸し出していて、ときおり死も意識させられる、そういう微妙なところ歌った歌だとおもう。歌会で、ああ、この人はただものではない。そう直感的に感じ取らせてくれた歌だった。


歌集を読んでみると、内山さんはやっぱり「移動する歌人」なのだろうなあと思う。おそらく歌を作るのは出勤とか退社の合間にされておられることだと思うので、こういう歌が多くなるのは当たり前なのだが、なんだか動いている印象がものすごく強い。

 掲示板に電光ながれゆくさまのなめらかなりき冬を思えば

 通過電車の窓のはやさに人格のながれ溶けあうながき窓見ゆ

一章目の「たんぽぽ」から引いた。

別にこれは作者自身が動いているわけではないのだが、ながれたりうごいたりするものに敏感に反応する作者の感受性が見て取れる。一首目は電光掲示板のひかりがなめらかにうごいている、ただそれだけのことを詠ったうたなのだが、この韻律感覚がたまらなくここちよい。掲示板に電光ながれゆくさま、まで一気に描ききっている感じ。

二首目はやはり破調の歌だが、よくホームに立っていると、確かに通過電車の窓はながくのびきっているし、そこにいるひとは溶けて混じり合うようになっているだろう。そういうところをよく見ていて、人格の流れ溶け合うと表現した感受性は素晴らしい。こういう現代的な発見が巧みに歌になっている。

たとえばこんな歌も、内山さんの手にかかるとものすごく説得力を増してくるから不思議だ。

 コンビニに買うおにぎりを吟味せりかなしみはただの速度に過ぎず

悲しみがなぜ「速度」にすぎないのか、ここでは全く説明されていないけれども、ものごとが移動していき、過ぎ去ってしまうものだというのを直観的に内山さんは感じているのではないだろうか。この歌の説得力について考えてしまうと、前にあげた三首のような感受性について考えてしまうのである。

やや我田引水しすぎたかもしれない。もう少し歌をとりあげてみる。

 遮断機の警鐘なりていくつもの余韻はくらき海を見せたり

 春の雨こすれるように降りつづくほのあかるさへ息をかけたり

 海に来て菓子をひらけば晩年はふと噴水(ふきあげ)のごとく兆しぬ

 テーブルの脚のくらがりひそかなる沼ありてひたす日々の足裏を

 わが死後の空の青さを思いつつ誰かの死後の空のしかしらず

 ぶらんこの鎖つめたくはりつめて冬の核心なり金属は

 藤の花に和菓子の匂いあることを肺胞ふかく知らしてめてゆく

遮断機の歌はかなりぎりぎりのところを見ている感じ。遮断機の警鐘はたしかにファンファンファンファンとなるわけだけど、それを余韻と表現するあたりが言葉のうまさを感じさせる。遮断機の警鐘のあいまあいまにくらき海をずっと見続けているという作者に共感できる一首だった。

「春の雨」これはじんわりとだが「こすれるように」という表現がうまい。ひらがな表記がじんわりとこころに沁みてくるような穏やかさをたたえた歌だとおもう。

「海に来て~」唐突に何かを思い出す、そういう経験はだれでも持っていると思うのだが、お菓子の包み紙を開いてその瞬間ぱっと噴水のように「晩年」が兆してきた、そういう絵を描けることはほんとうにすごいと思う。瞬間をきれいに歌にしている。

「テーブルの~」決して派手ではないが、微妙にエロティックな情感を感じさせる歌。きれいに決まっている。テーブルの脚のくらがりのなかに足を浸す、確かに人はだれでもやっていることだが、それを発見することができる歌人はそう多くはない。地味だけど味わい深い一首。

「わが死後の~」これもきれいに決まったいい歌。人が死んだときの空しか知らない、自分の死んだときの空の色を知らない。それは自分の死が無であるということなのだろう。しんとしたいい歌だと思った。


「ぶらんこの~」これは「冬の核心なり金属は」という破調が不安定感を醸し出すと同時に、冬と金属という取り合わせが巧みだ。たしかにつめたいきりきりしたぶらんこの鉄の鎖と、冬はきれいにとりあう。過不足なく、うまいところを歌っている。

「藤の花に~」 藤の花が和菓子の匂いがするというのは上品で繊細な発見で、それを肺胞深く知らしめてゆくというのは非常に丁寧な表現だ。歌全体として派手さはないけれど、上品で繊細なところをうまく歌にできるというのが内山さんの歌の根元的な魅力なのかもしれない。

とりとめもなく書いた。こにあげなかった歌で付箋をつけた歌はまだまだたくさんあるのだが、長くなるのでやめておく。日常が微妙な陰影で歌いこまれている。深い感銘を受けた一冊だった。
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