2012年10月 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

2012年10月

廿楽順治さん、『化車』

僕は現代詩のことはまったくわからない門外漢なので、変なことを書くかも知れないということをあらかじめお詫びしておく。

廿楽順治さんの詩集『化車』を拝読した。

詩を批評するのにうまい言葉は見つからないが、廿楽さんの詩は、思想や政治、抽象的なものごとをあまりにも容赦なく、俗っぽい言葉でかくことに特色があるとおもう。

しかし言葉の一つ一つに芯の通った強度があり、詩の一編一編を読むたびに、

「うむむ。そう来るか」

という言葉のつよさ、しなやかさみたいなものを感じさせられる。
たとえばこんな一連。まるまる引用する。

   具伝

ぐでんぐでん
きみはわたしをからかっているんですか
戦争になりますよ
のどがかれてどうにもならない
血の雨よこちょう
ぬすまれてやってきた
ろうどうのたましいにも衣をかけてやろう
ずっと
きみのしらないところを浮いてきた
のぎさんは
だいたいなっとらんよ
どうしてちょうちんがそんなにしゃべるのか
それからおれは素足になった
ぐでんぐでん
勝ったのになんだたったこれだけか
われわれが何人だったか
かぞえられるものならかぞえてみよ
後世で
べらべらかたる詩人たちは信用できない
ぐでんぐでんと
いみをすててつたえてみよ
(鬼のぱんつは)
いいぱんつ
きみにはわたしのお経がわかるまい
だって ひとのなまえしか書いてない

さて、これをどう読むか。
ひらがな書きで一見わかりやすいところをついているように見えて、
非常にふかいところを突こうとしている感じがする。


後世で
べらべら語る詩人たちは信用できない
ぐでんぐでんと
いみをすててつたえてみよ
(鬼のぱんつは)
いいぱんつ
きみにはわたしのお経がわかるまい
だって ひとのなまえしか書いてない

これは言語論のようにも見えるし、
深いところで断絶しているようにも見える。

「べらべらと語る詩人たちは信用できない」

「きみにはわたしのお経がわかるまい
だって ひとの名前しか書いてない」

と、この結句にいたるまでに、
「ぐでんぐでん」と「鬼のぱんつ」がはさまり、まるで俗っぽいところと深い断念が同居しているような不思議な気分に僕はさせられた。

この一連からもわかるように廿楽さんは批評性があって、それでいて平明で、決して詩の一行一行の気を抜かない詩人なのだと感じさせられた。

「いみをすててつたえてみよ」



「だって ひとの名前しか書いていない」

という言葉には対応関係があるようにおもう。
ずっと表層的なものを追い求めているが、それはまちがっている。

もっと

「ぐでんぐでん」

を求めよ

ということなのだが、この詩が一筋縄ではいかないのは

具伝



ぐでんぐでん

が一緒くたになってしまって、俗情なのかそれとも本質論をもとめよということなのかがもはや混交されてしまっていることにある。


                   ※

廿楽さんの詩のもう一つの美点は、気持ちのいいところで場面がぱっと変わるということにあると思う。

血の雨よこちょう

と言う詩句や、

のぎさんは
だいたいなっとらんよ

という詩句がいきなりぽんと投げ出されるので、読者はひとつの詩を読みながらまるで多声的な言葉を聞いているかのような気分にさせられる、そういう深みももっていると思う。

さて、なんだか僕の文章も詩みたいに短くなってきてきてしまったので好きな詩をもうひとつだけご紹介してこの拙い感想を終えたいと思う。多分連詩のなかの一行なのだろう。【借家論】という一連である。

脚で揃っているのだがブログでは脚そろえがどうしてもできないようなので前揃えでご紹介する。



にほんごでは読んであげられないから
つまり
となりの中国のひとの名は
この時空の下駄箱のなかにはいなかったことになる
(どういう理屈だろう)
奥さんがかわりに
すべてのことばを代筆した
なにを書かれていたのかわからない
こわいお父さん
(だろ?)
いわれてみればそうだ
時代のなかにいなかったひとはみんなこわい
くらい階段の下を覚えています
あきらめて
そこで
生きていくのである
という あそびかたをした
そのとなりの子とわたしで
世界の容量はふたつにわけられた
(だろ?)
たぶんはんぶんくらいは死んでいる町のこと

ここではかっこうつけて語っています
その子の
お父さんの中国
もはんぶんくらいに縮んでいることだろう
けんかして置き去りにすること
そのはんぶんの容量として
かれは満身でおこった
わたしたちのいたことをおぼえているか
死んでしまうと
なんどもおんなじ日々をくりかえすしかなくなる
びんぼうひまなし
のこりのはんぶんを詩にかけても

じゃあるまいし
まったく相手にされない
いまでは
階段の下ごと世界の容量は駐車場になってしまった
いちじかん
ごひゃくえん
いるだけでお金をとられてしまうんだよ
うちの子は
はるかな外にいってしまった  
訪ねていくと
わたしはそこでまた死んで待たねばならなかった
この時空の下駄箱のなかにいないひと
(というけれど)
それはどっちだろう
こころのないものは容量としてわからない
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石川美南さん、『裏島』、『離れ島』

石川美南さんの双子の歌集、『裏島』『離れ島』を拝読する。

石川美南さんの魅力を一言で説明するとなんだろう。なかなかうまい言葉がみつからないのだが、「あはれ」よりも「をかし」の歌を作る人、そしてときおり女性らしさ、優しさを感じられる歌を作る人と表現すればいいだろうか。

石川さんはコミカルにもの事を見せることも出来るし、抒情性のある歌も作れる、そして奇想に走った歌もうまくまとめられるという器用さがある理知的な歌人だ。きっちりと短歌の枠組みを踏まえているところには強い信頼感がある。

短歌以外のところでも、定価を抑えて価格を出したり、本の装丁にこだわったりというところにも独自の美学があって、本当に読書を、本を愛している方なのだろうというイメージがある。

短歌愛好者だけではなく、本好きの方にも多く愛好されているというのも頷ける。

僕は抒情性と一首の屹立性を大切にしたいと考えるところがあるので、石川さんの良い読者ではないのかもしれないが、特に『裏島』では、石川さんは詞書を膨大に使い、連作性を重視する方向で歌をつくっている。前の歌が次の歌にかかっていることが多いので、一首単位で鑑賞するとなるとなかなか難しいものがある。ただ歌数ほど読みにくい感じはしない。すらすらと読み下せる一連が多くて、基本的には読みやすい歌集だと思う。

 『裏島』から10首を引いてみる。

 恐怖映画の終はり辺りでぱつと死ぬ男が好きで何度も観たり

 街灯のともる頃まで賑はへり葬儀屋、花屋、石屋、小鳥屋

 水鳥が羽を動かす場面のみ無音の映画 これはかなしみ

 ゴミ置き場掃除してゐる腰つきのペンギンめきて阿部さん優し

 何だみんな私から離れたとこで勝手に恋とか育みをつて

 めんるいのすきなおっとがするすると書斎からぬけでてくる音す

 遠目には 光る夜汽車の内側に怒つたひとは一人もゐない

 月がビルに隠されたなら遺憾なく発揮せよ迷子の才能を

 移民史のはじめに海があることをひらめかせひとすぢの灯台

 色つやの良い海ですね不機嫌は話さなくても伝はりますね

 『裏島』は非常に連作性の強い歌集になっており、タイトルも「荻窪グッドマン、午後八時~」とか「大熊猫夜間歩行」とか、なんだか大胆でキャッチ-な一連が多い。連作ごとの評価は別として一首の鑑賞からまずは始めたい。

一首目、「ぱつと死ぬ男」が効いているとおもう。「恐怖映画の終はり辺りで」と上の句7音の韻律の加速感を感じながら、「ぱつと死ぬ」という言葉が意外性を持って立ち現れてくる。この感触が気になって採った一首。

二首目、この歌は「葬儀屋、花屋、石屋、小鳥屋」というセレクトの意外性が効いている。「賑はふ」という言葉のあとに付く言葉としては「花屋」だけはふつうなのだが、葬儀屋はおかしいし、石屋と小鳥屋は完全に奇想である。この奇想をちょっと混ぜるあたりが石川さんの本領であると思う。

三首目、これは「かなしみ」という言葉をうまく使った秀歌の分類に入る歌。「水鳥が羽を動かす場面のみ無音の映画」というのは美しい情景だ。そこに「かなしみ」という言葉を入れることによって一首が非常に美しく仕上がった。モノトーンの光景のなかに読者を誘うような静謐な味わいのある歌だ。

四首目、可愛く仕上がった一首。ガーリッシュな感じとはまた違う可愛らしさなのだが、「阿部さん」を見るときの「ペンギンめきて」という表現には、奇想とも女性らしい発見とも言えるような不思議な味わいが良く出ている。集中ではこの歌のできばえはすばらしい部類に入ると思う。

五首目、作者の自己表白といえば自己表白なのだが、「何だみんな私から離れたとこで勝手に恋とか育みをつて」と口語で一気に読み下すときの読後感が心地よい。作者は自分の知らないところで恋を育まれることを嫌っている、という散文にしてしまうとつまらないが、「何だみんな~」以降一気に書き下される勢いにこの歌の魅力はあると言っていいだろう。

六首目、「するすると書斎からぬけでてくる音す」と、というサ行の表記のなめらかさを採りたい一首だ。かなり工夫が凝らされた一首で、こういう音韻を音韻ともつかないような形で自然に短歌に投入してくるあたりに作者の技量を感じる。この歌はそれがきれいにはいった一首で、美しいサ行のつらなりをとりたい。

七首目、やさしさがにじみ出ている一首。遠目には と一旦据え置きしながらも、「光る夜汽車の内側に怒つたひとはひとりもゐない」とあえていうところに、世界を優しく見ようとするまなざしが感じられる。本当は世界には怒りやかなしみのようなものが満ちあふれているはずなのだが、それをあえて「遠目には」と見るところにやわらかい視線がある。

八首目、「遺憾なく発揮せよ迷子の才能を」というこの迷子の才能が思いがけない発見。ふつう迷子というのは才能で語られるものではないが、それを遺憾なく発揮せよと言うあたりに作者の思いがけない視点があり、「をかし」の部類に入る奇想がある。

九首目、移民史という言葉が美しい。石川さんの場合、はっきりと社会詠に寄るということは美意識として絶対にしない作者ではあるが、ときおり見せるこういう「移民史」とか「王国」という言葉の裏側に異国への憧憬を感じさせる。ひらめかせひとすぢの灯台、というあたりまで着地がきれいに決まっていて、良い歌だと思う。

十首目、この「晩秋」という連作は出来がよく、どれをとっていいか少し迷ったが、「色つやの良い海ですね」という断言のあとに「不機嫌は話さなくても伝はりますね」という言葉が、微妙にくっつくかくっつかないかというあたりで着地しているのがうまい。作者は海ですね、と海に向かって言葉を投げかけ、そのあと人に向かって「不機嫌は」と言葉を投げかける。この辺の微妙な言葉の使い方のうまさが目立つ一首だ。

さて、『裏島』に関して言うと連作性という側面でもものごとを見ないといけないと思う。僕はたとえば、集中の「大熊猫夜間歩行」はちょっと押しつけがましい感じがしてあんまり好きにはなれない一連だった。

死んだパンダのリンリンが突然竹芝桟橋まであるくという一連なのだが、なんというか、リンリンを物語のなかに押し込もうという感じが非常に強くでていて、その視点を僕のような読者はときどき嫌らしく感じることがあるのだ。

たとえばこんな歌。

 安住の土地・愛すべき仲間たち探し当てた、と誰もが言ひき

 手を振つてもらへたんだね良かつたねもう仰向きに眠れるんだね


このあたりは連作の下限でもあると思うのだが、石川さんの特質である「優しいまなざし」で一見リンリンをとらえようとしているかのように見える。しかし、たとえば二首目の「良かつたね」に非常に押しつけがましい嫌らしさを受けてしまうのは私だけだろうか。リンリンの立場にたってみれば、死んだあと勝手に竹芝桟橋を歩かされ、さらにその作者に対して「良かつたね」と言われてしまってはたまらないのではないか。石川さんは物語を構築しようとするがゆえにときおり物語の対象に対して傲慢になってしまうことがあると思う。

やはり動物に仮託してものごとを捕らえようとした「旅の途中」という連作からも引いてみよう。

 ホラ今日の分ダ(尾を振る)ヨク食ベルノダヨ(尾を振るしかないおれは)

これは犬のことを詠った一連だが、犬を「尾をふるしかないおれは」と言ってしまったあたりに、犬自身がやや窮屈な感じを受けているように感じる。これは作者の「われ」が犬に仮託されてしまっているために起こる現象なのだと思うが、成り代わられた犬の立場からすると一体どうなのか、という視点がごっそりと欠落してしまっているような印象がある。

本来短歌は「われ」という容れ物をどう扱うのか、というところに美しさを取りにいくのが直球の作り方ではあるだろう。しかし、石川さんはリンリンを登場させたり、自分を犬に仮託させたりと、短歌の「われ」を意識的にではあるだろうが外す。そういうときに「ちょっとこれはどうなの?」という歌が無意識に生まれてきてしまうように思われる。ただ、犬を主人公にしたり、パンダを主人公にするという発想は面白いので、あとは完成度ということになってくるのだろう。「大熊猫夜間歩行」にはこんな一首も入っている。

 バタフライ泳ぎしのみにこの夜のインドネシアを津波が覆ふ

 これは作者としては「バタフライを泳いだだけなのにインドネシアが津波になった」、という奇想としてとってもらいたいという歌なのだろうが、実際にインドネシアに津波が起こっている以上、これを奇想としておもしろがって受け取る読者はほとんどいないだろう。はっきりいって危険だと思う。「風通し」の相互批評のときに落とせばよかったのになぜこれをあえて歌集に収載したのか意図がわからない。

 まあこういうふうに「あえて」、ときどきうっかりやってしまう感じのある作者像もまた、石川さんらしさなのかもしれない。

 続いて『離れ島』に移ろう。

『裏島』は詞書を膨大に用いて長大な連作を、という意図が感じさせられる歌集だったが、『離れ島』のほうは詞書は全く付いていない。こちらはじっくりと作者の「われ」を味わってほしいという意図で構成されているような感じがする。一首一首が等身大のわれで構成されているために、安定感があるし、歌材も吉田秀彦から、選挙、競走馬と、非常に幅広くとってあって、逆に一首一首に構成された緻密な奇想が断然に生きている感じがする。『裏島』がもしお気に召さなかったらのならこちらのほうを見て欲しいという感じだろうか。断然『離れ島』のほうが出来が良いように僕としては感じる。

一首一首、鑑賞してみたい。

 息を呑むほど夕焼けでその日から誰も電話に出なくなりたり

情景のうつくしさと不思議な奇想が高度に混じり合った秀歌。「息を呑むほど夕焼け」というのは夕焼けに対して非常に圧倒的な美しさを感じているのだろうが、それでみんな沈黙してしまった、という感じの下の句にするところを「誰も電話に出なくなりたり」という発想の面白さでまとめる。しんとした感じがきれいに歌にはまっている。

 人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす

歌としては「なり」が面白いのだろう。この「なり」が、何となくロボットのように睫毛を一本一本外すという行為をコミカルに演出する役割を果たしている。作者は人間のふり~を非常にいやがっているが、それが悲しい独白にならず少しユーモラスに感じさせるあたりにこの作者の味わいがある。

 うろこ雲のひとつひとつを裏返しこんがり焼いてゆく右手かな

うろこ雲をこんがり焼いてゆく、というのはなかなか出ない発想で、これも不思議な味わいのある歌。こんがり焼いてゆく、という表現は「うろこ雲」とあい混ざって、なんだかうろこ雲がおいしそうな質感を伴って出ている印象がある。

 窓枠に夜をはめ込む係にてあなたは凜と目を凝らしたり

ふつうは窓枠のほうが夜を縁取っているのだが、窓枠に夜をはめ込むとしたところに認識を逆転させた作者の「をかし」さがある。そういう「係」があるというのもおもしろい。下の句はきれいに流れているが、「にて」はちょっと「なので」という感じを出し切っているかどうかは疑問な気もする。

 ゐるだけで絵になるといふ感想をけやきにも友だちにも持てり

この歌の面白さは、「けやき」と「友だち」を並べたところにあるのだろう。非常におかしみがあって面白い発想だ。韻律もきれいに流れており、ゐるだけで絵になる、という上句の「ゐる」からの入り方も面白いし、「けやきにも友だちにも持てり」という何気ないさらっとした歌い口にも好感を持った。

 鳩に礼、冬空に礼、これからは寂しがらずに生きると誓ふ

鳩に礼、冬空に礼、という上の句に、そこはかとない心情が伝わってくる一首だ。これはわりあい正統的な語り口で作られているように思うが、鳩に礼、冬空に礼、はなかなかでてこない発想なのではないだろうか。何のための礼なのか、と一瞬考えてしまうがこれは自分自身にけりをつけるための礼なのだろう。そして「これからは寂しがらずに生きる」と作者は誓う。きりっとしていて良い歌だ。

 「きらきら」の定義について論じ合ふシンポジウムに識者が集ふ

実際の作品批評会の場面とも、何か異世界のシンポジウムともとれる。そう読者に思い込ませるのは作者の景の切り取り方がうまいのだろうとおもう。「きらきら」の定義という言葉使いが丹念に効いている歌。実際は「きらきら」を定義としてどうとらえるのか、というのを論じ合うのは多分詩や短歌のような文学の世界でしかありえないだろうが、こうして一首にまとまると不思議と違和感がなく伝わって来る。

 恋人の家までの坂 鉄板をだし巻き卵ゆるく転がる

これは正統的な歌の作り方。鉄板をだし巻き卵ゆるく転がる、というあたりの「ゆるく」が非常によく効いていて、おだやかな景の転換を見せている。上の句の恋人の家までの坂との対応もきれいで、よくまとまった歌としてとりたい一首だ。

 紫へまつすぐ暮れてゆく路地に泣(な)き袋(ぶくろ)ある出店ありたり

泣き袋という袋が実際にあるのかどうかはわからないが、不思議な奇想がここでも見受けられる。おそらく泣き袋を売る出店は実際にはないのであろうと思うが、「紫へまつすぐ暮れてゆく路地」という言葉使いに、夜店の感触がうまく伝わっている。泣き袋は、ここにしか入らないというような奇想で、楽しい言葉遊びとして受け止めた。

 営業職の人らほどよくかしこまり帽子交換してをり真昼

ふつうは名刺交換だがこれを帽子交換とするところの面白さである。実際の情景が目にみえてくるようで、名刺を交換するよりも帽子を交換していたほうが面白い。ほどよくかしこまりという描写も、帽子交換にたたみかけるようにおかしさを醸し出させる言葉として機能しているように思う。

最後の二首は物語集から。

 午後二時のロビーに集ふ六人の五人に影がなかつた話

レイアウトのなかでこの一首だけぽんと一ページが費やされていて、非常にインパクトがある一首にしようとする意図が伺える。これは光景としては残りの5人が霊体なのか、とか考えると歌がつまらなくなってしまう。六人のうち五人に影がなかった、これは本当にそうだったのだろうととる。うまく言葉にできないが、五人に影がなかったという即物性に何か奇妙なおどろおどろしさを感じる一首。


 犯人の好物はパフェ 緻密なる調査ののちにわかつた話

かわいらしい一首だ。犯人の好物はパフェ、というのが歌として効いている気がする。ここには石川さんらしい奇想と女性らしいかわいさの混交が見受けられる。物語集のなかではこの一首が一番効いていて、面白いと思った。

『離れ島』の一集は、どの歌からも作者のこれでもかというような心配りが感じられ、見ていて非常に気持ちいい一集だった。おそらく石川さんはこれからもさまざまな媒体で表現の幅を拡げていくだろう。今後の活躍に期待したい。

花山多佳子さん、『胡瓜草』

 もはやすっかり感想が遅れ気味になってしまったが、

花山多佳子さんの第八歌集、『胡瓜草』を拝読した。

どの歌もうまく、何よりも歌に勢いがある。花山さんの技量は『木香薔薇』を詠んで以来折りに触れて感銘を受けているのだが、前回ご紹介したときはやや変化球気味にご紹介したので、今回は一首一首を吟味して鑑賞してみたいと思う。

 並み立てる冬の欅の梢(うれ)けぶり真横につらぬきゆく鳥のかげ

 なべて忘れなべて一挙に思ひ出す雪の朝の夢の記憶は

巻頭の二首である。一首目が非凡な感じがするのは、「真横につらぬきゆく」という大胆な情景の描写である。「並み立てる冬の欅の梢けぶり」までは通常の韻律にのせてすいすいと読めていくが、いきなり「真横につらぬきゆく」という描写があらあらしく、しかもびしっという感じで韻律に入っていく。この描写があまりにも大胆なために、読者である私は一瞬のけぞった。

二首目も作者さんの魅力をさらに補強する歌になっている。凡百の歌人で在れば、雪の朝(あした)の夢の記憶というややロマンティックに流れがちな歌材に、「一挙に」にという思い切りの良い描写は絶対にできないであろう。夢の記憶をすべて忘れて、すべて一挙に思い出す、という。この対象の把握の力。そして決して安易なロマンティシズムにながれない短歌的な強度。

 これが花山多佳子さんを説明するときの魅力になってくるだろう。


 目の弱りおぼゆる夜を刻みゐる水菜は白し息呑むほどに

 音ともなふ照射といふは不気味なり電子レンジに供物はまはる

 新玉葱をあらたまねぎと読む人あり何か畏(かしこ)きもののごとくに

 電線のなかりしころは鳥たちはあんなに並んで止まることなかりけむ 

 人間の顔ひといろに犬の顔いろいろ歳晩の篝火に照る

 
 前半から5首引いてみた。一首目、おそらく老年のために目が弱って(ただ感じていているだけの)夜に刻んでいる水菜が息を呑むほどに白かった、という感じの歌意だとおもうが、この「水菜は白し息呑むほどに」、という把握に新鮮さを感じて立ち止まった。感覚で白さを把握する作者の鋭敏な感受性がここにはある。

 二首目、電子レンジで「おそなえもの」をまわすというのはなかなか見られない光景だと思うのだが、その上の句、「音ともなふ照射といふは不気味なり」という作者の把握が、「電子レンジに供物はまはる」という光景をなんだか不思議な、実体験とは違う世界に誘うような気がする。優れた把握の歌だと思う。

 三首目、新玉葱(しんたまねぎ)をあらたまねぎと読む人がいるというのはとても平凡な見立てなのだが、その下の句「何か畏きもののごとくに」という発見がこの歌に鮮度を付け加えることに成功しているとおもう。畏れおおいもののように、「あらたまねぎ」とよむ。この感触が不思議な歌で思わず目をむけざるを得なかった。

 四首目、言われてみればそのとおりなのだが、電線のなかったころは鳥たちはあんなに並んでいることはなかっただろう、というのは散文にしてはつまらない。しかし、この下の句破調は不思議な読後感をもたらしてくれる。あんなに並んでゐることなかりけむと文語で描写されると、破調が破調として生きてくるように思われるのだ。この辺は僕の個人的な感覚なので破調が嫌という人はこの歌は採らないかもしれない。

 五首目、これも発見がすばらしい。人間の顔ひといろに(人間の顔はみんなおなじいろで)犬の顔いろいろ/で一回区切るのだろう。それらが歳晩の篝火に照らされている。僕は破調になっても言い切ってしまった方がいいという感じの考え方の持ち主なので、人間の顔が一色なのに犬の顔が色々な色があるという発見に思いっきり心が寄ってしまった。

 朝のひかりさし来る側がどの幹も剥がれゐるなり並木の欅

 ひとしきり鴉のこゑが過ぎゆきて破(や)れ蓮垂るるごときしづけさ

 咳をしてまた咳をするまでの間隔に時間の感覚がある

 明治生れの祖父母の孫でありしのみ わたしは誰のむすめでもなく

 そこここに金蛇(かなへび)すべるけはひせり黄あやめの間(あひ)ゆく木道(もくだう)に

 足のどこかに本のとがりが触れてゐる 何の本かと思ひつつ眠る

 中盤から引く。この辺の歌のものの見方は、さすがに写実の系譜を継いだ歌人、という感じがして「とてもかなわないなあ」という気になってしまう。一首目は、並木の欅の幹が朝のひかりが射してくる側が剥がれている、という発見を歌った歌なのだが、少しも一首のなかで濁った感じがせず、きれいに「剥がれゐるなり」までで体言止めされている。

 二首目、破れ蓮(やれはちす)は俳句の言葉のようだ。ぼろぼろになって垂れてきた蓮という感じで、この場合はやれはすと四音で読むときれいに定型に収まる。鴉のこえが去っていって、そのあとに破れ蓮が垂るるごとき、と比喩をつけるのはなかなか俳句や季節に対する素養がないと出来ないことなので、ただただ感服する。

 三首目。不安定な字足らずが効いているとおもう。「咳をしてまた咳をするまでの間隔に/」までは辛うじて575で読めるが、そのあとの「時間の感覚がある」という発見をあえて字足らずで投げ出すところにこの作者のうまさがあるように思う。「咳をしてまた咳をするまでの間隔に時間の感覚がある」と一息に読んだところに、「感覚」という言葉のもつ具体的な何かが捕まえられたような気がするのだ。韻律を自在に操る高度な詠風だと思う。

 四首目 わたしは誰のむすめでもなく、という強い断言に驚く。父や母を拒否する視点なのだ。この一首は作者のエピソードを辿っていくと深く読めるとおもうが、そこに踏み込むことは避けておこう。この「わたしは誰のむすめでもなく」という強い断言が、歌に力をもたらしていることは言うまでもない。思わず心を打たれずにはいられない。

 五首目 「けはひ」を敏感にとらえる作者の感受性に心が打たれる。黄あやめの間をゆく木道に、金蛇をみたのではなくすべるけはひを感じたのだ。ここにおそらく花山多佳子さんという歌人のもつ鋭さが立ち現れているだろう。最初の「目の弱り」という歌もそうだったが、ものを見るだけではなく「けはひ」や感受性を歌にきれいに読み込むことが出来る歌人なのだ。

 六首目 非常に敏感な、「本のとがりが触れてゐる」という言葉。それを何の本かと思いながら眠るというのは受動的だが、美しい発見だ。これも敏感に「触れてゐる」という気配に立ち至った歌だろうとおもう。シャープな感覚が胸をうつ。個人的には寝るではなく眠るとしたところに、深い味わいがあるように思った。ただ寝るだけでは定型にはあうが、雑然とした感じが出てしまう。この辺も作者の美意識なのだろう。


いづこにも桜はあらず渡し場にくろぐろと夜の水盛り上がる

銀座地下駅コンクリート壁に配線管露出してをり芸術的に 

夜を鳴く鳥にあらずもやはらかく烏のこゑの二つ聞こゆる

原爆忌・七夕 秋の季語なるを確かめしのみ歳時記を閉づ

太き蔓は木を締めつけてゐるならむ遠目に淡き藤のむらさき

泥の中の肺魚のごとく眠りゐる人らに淡く外光の射す

後半からも6首引く。一首目。渡し場にくろぐろと夜の水盛り上がる、という力強い把握が目を引いた。ふつうは桜を生命力の象徴としてとらえるのだがこの歌は渡し場に「くろぐろと夜の水盛り上がる」という様をまとめて一首としている。いづこにも桜はあらずは、やや説明的に入った気もするが、力感が伝わってくる一首だ。

二首目。この歌も破調が素晴らしい感じで入っている。すべて漢語なのだが「配線管露出してをり」までを言い切る感じが素晴らしい。一見奇をてらっているようだが、びっしりと定型感覚に裏打ちされた破調をする作者なので、信頼してこの感じに身を任すことができる。

三首目。一見平凡な歌だが、やはらかく烏のこゑの二つ聞こゆる、はおだやかな時間の流れを読者に指し示してくれるとおもう。烏のこゑという一見うるさそうなものがやはらかく聞こえるというのは繊細な発見のような気がして立ち止まった。

四首目、余情がでて、社会詠というカテゴリに入るかもしれない歌のなかではこの歌が一番好きな歌。七夕と原爆忌は秋の季語であるという発見をたしかめただけだった、そして歳時記を閉じる、この行為のなかに戦争を読み込むことはできないが、何か深々と人の悲劇に刺さってくる感じがして好きな歌だ。

五首目、太き蔓は木を締めつけてゐるならむ、というのはゆったりとした韻律だが、らむが使われていることに注意したい。作者は遠くから、太い蔓が木を締めつけているだろうと感じている。そのあとに遠目に淡き藤のむらさき、と淡い藤のむらさきを見ている。ちょっと入り組んだ景の切り取り方が成功していると思う。

六首目 花山さんは決して直喩がうまい歌人という印象を受けないが、この歌の場合、下の句の「淡く外光の射す」が上手にはまっているので、泥の中の肺魚という上の句が丁寧な印象を与えて良い感じに入っていると思う。

以上ざっとだが『胡瓜草』を読んだ印象を受けて筆をとった。あまりにも拙い鑑賞なのであとから読んで恥じ入ることになるかも知れないと思いながら、筆を置くことにする。このなかではあまりとらなかったが、家族の歌のユーモアさと、時事詠の鋭さにも目がいった歌集だった。

優れた歌集を読むと短歌を作ろうという励みになる。この作品世界に間借りしてまた来月の歌稿を考えようと思う。

岩尾淳子さん、『眠らない島』

こちらもブログでは初めての紹介になる。やはり彗星集の同門である岩尾淳子さんの第一歌集、『眠らない島』を拝読した。

口語短歌は厳しい局面を迎えていると思う。

ある程度の技法や修辞の修練が終わると、口語短歌は平板さだけが目立ってしまい、どういう形で「新しさ」を付け加えるのか、というのがますます見えづらくなって来る。

現代詩に近づける方法もあるだろうし、あえてフラットな口語のまま突き進むという方法もあるだろう。景の転換や斬新な措辞など、さまざまな試みをする方法もあるだろう。とにかく何らかの詩的な鮮度をもつ歌でなければ、口語で歌う価値というのは見えづらくなってしまう。

そのなかで岩尾淳子さんの第一歌集『眠らない島』は、短歌的な素地を残したまま口語で歌うという非常に難しい課題に挑戦した歌集だ。

短歌的な素地とは何だろう。

僕の考えではそれは現代的な「歌枕」である。

水、ひかり、海、風、雨、ゆるい、ほそい、かなしみ。

こういう美的な言葉を並べると短歌は現代短歌らしくなる。

この歌集の悪口を言うとそれが自分にそっくり跳ね返ってくる感じがしておそろしいのだが、岩尾さんの歌集の特質をひとことでいうと、もうこの既存の短歌美の世界に踏みとどまって自分は口語の歌を作る、という宣言のようにも見えて来る。

この「歌枕」をあえて多用し、平明で美しく、そして時に退屈でもある世界を作り上げようとする意図がこの歌集には見受けられる。

 あたたかいコンクリートに自転車を寄せておく海のねむりのそばに

見事な巻頭歌である。下の句、海の「ねむり」のそばにという言葉からは「あたたかい」という上句と共鳴するようなやわらかで上品な息づかいが感じられ、優しい雰囲気へと読者を誘ってくれるであろう。これは平明な言葉づかいから詩的な感興をもたらすという点では、ほかに類例をあまりみないほどよく仕上がっている歌だと思う。

 遠ざかるものはしばらく明るくて二本の白い帆を張るヨット

海という歌枕からすこし離れて、過不足なく「ひかる」光景を入れた歌。この歌が美しく見える私は、相当程度現代短歌に汚染されているといっていい。「遠ざかるものはしばらく明るくて」という表現、特に「しばらく」が素晴らしい句の入れ方で、上の句だけでは遠ざかるものが何であるのか、はっきり書かれない。そして下の句になって「二本の白い帆を張るヨット」が登場する。下の句の安定感と、上の句のややはかないな感じが過不足なく一首におさめられていて、よくまとまった叙景歌だと思う。

 添付して送られてくるほそながい花火を眠りのはざまに映す

これも見事な叙景歌である。「ほそながい花火」というのは日常の携帯電話のメール写真だろうが、それを「ほそながい」と省略することによって呼吸や体温のある語に変えてしまう。われわれは添付だけで意味がとれるので、ほそながい花火を映すという光景のあたたかさ、純粋さを楽しめばいいと言う形になっている。

 こぼされた砂糖の最後のひとつぶのかなしいひかり降りしきる ガザ

これは師である加藤治郎の「ガザ地区につもるちり幸福のちり朝のロールパンつかむほかなく」をふまえた歌だろう。この歌は社会詠というよりも、ガザが「降りしきる」にかかる完全なオノマトペに転化しているので、「砂糖の最後のひとつぶのかなしいひかり」という言葉の並びの美しさを見て欲しい歌だと思う。言葉に負荷をかけない上品な仕上がりだ。

この歌集で特徴的なのは、章立てが全く見られずにひとつひとつのタイトルの連作が延々と並んでいることだ。

ふつうⅠ、Ⅱ、Ⅲ、となんらかの章立てを作って歌集を作ろうとするものだが、この歌集は、そういった章立てを拒否し、淡々と美的世界が記述されていく。おもだったストーリーらしいものは見受けられない。

あるとすると「象のあそび」に見られるようなかすかな背徳感のようなものだろう。

 ひどいことをしてきた春の夕暮れにわたしの名前が外で呼ばれる

 情欲のなごりを寒い陽がさして駅階段を跳ねている鳩


これらの歌もひどくぼかしてあって、作者が本当に性愛で悪い事をしてきたのかが判然としない。ただ、そういう「感じ」だけが歌として刻み込まれる。まるで出来事のない世界を生きているような、そういった淡々さだけがこの歌集からは感じ取られる。

 もう少し、この澄んだ世界を紹介する役割を自分に課そうと思う。


 ときどきはぴくっと動くこの鳥の最後のことをひかりのことを
 
 知らされていないがゆるい勾配はたしかにあった明るさのなか
 
 黒い眼のゆりかもめらはうっすらと脚をしずめる春の潮に
 
 あけがたの霧をしりぞけようとする平らな水のゆるいひろがり

 いちにちは中州のようにぼんやりと二つの橋をゆきもどりする

 

 一首目は死について歌われた歌。ときどきは「ぴくっと動く」というこのフレーズが生々しいリアリティを発揮している。作者は鳥の死に際を見ている。そこでときどき「ぴくっと動く」鳥の死んで行く様子を見ているのだが、さらにそこで下の句に「この鳥の最後のことをひかりのことを」と、畳みかけるような「を」の連鎖をつけくわえて、この歌にさらにドラマティックな要素を継ぎ足している。僕がもっとも気になった歌だ。


 二首目。完全に歌枕のなかに言葉を没して、かすかな世界を汲み取ろうとする意志が見受けられる一首だ。「知らされていないがゆるい勾配は確かにあった」というのはやや何かを思わせる思わせぶりな感じがするが、心の内面のことを歌っているような気がするし、半分実景のようにもとれる。この「歌枕」は使うと非常に便利で、こうして心象風景と喩を混交させることができる仕掛けになっている。


 三首目。本当は古典文法に通じていて、和歌的な世界も作れる作者だが、この一首ではその素養が少し発揮されている。春の潮に「うっすらと脚をしずめる」ゆりかもめという描写は丹念で奇をてらっていないし、韻律もゆっくりと流れていくために時間のおだやかさを感じられる一首だ。

 四首目。この「水のゆるいひろがり」がやはりおだやかな時間の流れを読者に提示する。明け方の霧をしりぞけようとするという上の句でほんとうに繊細なことを歌っているのだということが読者に明示され、さらに平らな水のゆるいひろがりが、おだやかな時間の流れを読者に提示する。このゆったりとした韻律感覚にしばらく佇んでいたくなる一首だ。

 五首目。これも心象と実景が解体されて一つになった歌だ。「ぼんやりと」二つの橋を行き戻りする、のは一日なのだろうか、それとも一日のなかにいる「われ」なのだろうか。どちらの読みも成立するが後者をとりたい。「ぼんやりと」というのが一首のなかで効いていて、二つの橋をいきもどりするという「われの心」におだやかな平穏を告げている。そこで「中州のように」という直喩が何気なく入っているのだが、これは「中州」と二つの橋をつなげている「ように」であって、実景を補完する役割も果たし、さらに作者の心的な状態も表すという、優れた比喩の機能のさせかただ。

ここまで歌を引いてきたが、かなりわかりにくい歌をわかりにくい解説をしてしまったような自分への危惧も感じる。この歌集はこうして歌意を尽くして説明することが、そのままこの歌集の批判にもなってしまうという危うい二文法を兼ね備えた歌集なのである。

とりあげてきたうたどの歌にも、僕が先に述べた「歌枕」的な使われ方が高度に入っていて、短歌の修辞技法に習熟した読者をうならせるだけのできばえの歌になっているのだが、いかんせんこの歌集は武器が少なすぎる。

この作者に対して水、ひかり、かなしみ、ゆるい、ほそい、海、雨、風。を引いて歌を作ってくださいと要求したら、一体どんな作品になってしまうのだろうか。

この歌集にはビルディングスロマンが持つある種の成長はもう既になく、もはや歌の形も「これで決まった」としかいいようのない歌われ方がをされている。完全に成熟した口語というべきだろう。

この作品に学ぶことは大きいが、この作品を全面的に肯定することは可能なのかどうか。

そういう問いかけは、問いかけのまま残っているといって良いだろう。

この世界が短歌の読者にどう受け入れられるのか、僕は興味を持って見ている。

柳澤美晴さん、『一匙の海』

mixiなどではすでにちょっと触れていたが、今年の前半は文章を書くのは控えていたので、こちらのブログでの紹介が遅くなってしまった。

同じ彗星集の仲間である、柳澤美晴さんの『一匙の海』を拝読した感想を述べて置かなければとおもう。

一読して驚いたと言っていい。

彗星集で一緒に歌を読んでいるとき、これほどなにげない、やわらかい歌を多く書く歌人だったとは思わなかったのだ。自分のなかの柳澤さんのイメージは、たとえばこんな歌に代表される歌人だった。

浅井健一に習作期なし炎天の獣舎に厚き氷を運ぶ

新しき波を切り裂く評論の滅菌済みの刃を思う

1首目は塚本邦雄の歌に雰囲気が似ている。「炎天の獣舎」という言葉に、ある種のダンディズムを感じさせる硬派な歌だ。「浅井健一」というセレクトもふくめて、こういったダンディズムやある種の「かっこよさ」への憧憬がある。

2首目は、短歌の詩形に対する述志が見られる。滅菌済みの刃というからには、「新しき波=ニューウェーブ」を批判する勢力に対して反対の立場をとっているのだろう。かなりケンカ腰の歌である。僕が毎月見る「柳澤美晴」といえば、こういう歌に代表されるようにかなりぎらぎらしていて、どちらかというと男っぽい言葉を多用した硬派な歌を歌う歌人、という印象が強かった。

ところが、僕が予想していたこういう種類の歌は歌集にはほとんど採録されなかった。それだけではなく、未来賞受賞作も11首(本来は20首)、短歌研究賞次席作品のWATERFALL(本来は30首)も16首、と、既定の歌数よりも収録された歌数のほうがすくない。

受賞した作品からもかなり大胆に歌をそぎ落としてきたのがわかる。

歌集を編むにあたって、 約8年分もの歌をそぎ落としてきたのだから、それは大変な作業だったのだろうと思う。歌集はその効果か、一首一首に外れが少なく、よくまとまった歌が多い。

まずはⅠから自分が良いと思った歌をあげてみたい。

 古書店に軒を借りれば始祖鳥の羽音のような雨のしずけさ

 定型は無人島かな 生き残りたくばみずから森を拓(ひら)けと

 SUBWAYのサンドウィッチの幾重もの霧にまかれてロンドンは炎(も)ゆ

 自衛隊と地域とを分けるスーパーのちらしおそろし 薄く指切る

編年体とはいえ、Ⅰは全体のプロローグ的な部分に当たるものとして受け止めた。地下鉄爆破事件を歌ったSUBWAYの歌を初めとして、かなり修辞牲の高い歌が並んでいる。個人的には、1首目、いきなり「始祖鳥の羽音のような」という瑞々しい直喩に打たれた。始祖鳥がどのようなものかは見たことがないが、漢語的なぱりっとしたイメージが雨の雰囲気によくあっている。上手な直喩の歌だと思う。

2首目の歌は、歌集の帯と一緒に読みたい。「定型への野心と志」という加藤治郎の言葉に象徴されるように、短歌定型に何かを付け加えたい、そういう野心と志に溢れた歌だ。プロローグとしてはこれほど相応しい歌はそうそうないだろう。

3首目は短歌的な「の」を活用していきなり実景から遠景へと展開する歌。これはSUBWAYとロンドンの地下鉄が掛詞のようにかかっていて、「幾重もの」という3句目がサンドウィッチとロンドンをつなぐ鍵みたいな機能を果たしている。技法的に洗練された社会詠と言っていい。

4首目、この歌も「分ける」と「薄く指切る」が掛かっている。北海道の日常生活に自衛隊の駐屯地があるのだろう。理知的な感じがするが、歌意としては自衛隊のいる区域にはスーパーのチラシは配達されず、「地域」にはチラシが配達される。その不気味さを「おそろし」と表現したものだといえよう。薄く指切るはやや技巧ばしった印象もあるが、まずは成功しているといえる。

Ⅰは柳澤さんの特徴である修辞の鋭さや、社会に対する視点のようなものが良くでているように思う。この時期の柳澤さんは、硬質な表現を好む歌い手なのではないかと感じさせられる側面がある。韻律はどちらかというとごつごつしていて、あまりなめらかな印象を受けない。


Ⅱの歌には、こうした柳澤さんのごつごつしたまなざしとともに、より平明な日常詠が多く見られるようになってくる。

 生きなくていいとは誰ひとり言わず繃帯のごとく吐息流れる

 満ち潮の函館駅で読み返す付箋だらけの『ルバイヤート』を

 夏の水やわらかし冬の水硬し白とうきびが母より届く

 呼び捨てにする甘やかな声ひとつ灯台として暮らしてみたし

 昆布漁する生徒らにアルバイト届けを書かす初夏の教室

 刺繍針ざむざむとわが内をゆきどこからどこまでがきみだろう

 かすかなるためらいの後てのひらにそっと切符を置く券売機



1首目、繃帯のごとくという直喩が効いている。生きなくていいと言う無力感のある上の句に対して、「繃帯のごとく」というだらっとした吐息が流れるのだという。修辞のセンスが効いた良い歌だ。

2首目、これは言葉の連なりが美しい一首。「満ち潮の函館駅」という上の句に、「付箋だらけのルバイヤート」を読むという一見ありえない付け合わせの固有名詞をもってきて、歌に美しさをもたらした。これだけ固有名詞を入れて歌が濁った感じがしないのは、この作者の言葉のセンスの良さだろう。

3首目、これはどちらかというと近代短歌的なよろしさがある。夏の水やわらかし冬の水かたしという表現のあとに、白とうきびという言葉の質感を持って来た歌。日常の些細な事柄の発見だが、この歌は短歌的なよろしさを十分に発揮して一首としている。

4首目、この歌集には恋の歌が多いのだが、僕はⅠの相聞歌をほとんど採れず、逆にこういう喩性の効いた恋の歌のほうを採りたいと思った。「灯台として暮らしてみたし」というのは自分が守られていたいという一種の願望だろうか。おそらく灯台としては暮らしてはいないのだろう、どちらかというと積極的な柳澤像が垣間見える一首である。

5首目、これは意外性で一首に仕上がっている。都会のアルバイトとは違う、もっと暮らしとか営みに密着した仕事として昆布漁があり、それに「先生」としての作者はアルバイト届けを書かせる。都会では絶対にお目にかかれない光景だが、作者の目を通して一首に仕上がっている。

6首目、刺繍針がざむざむとわが内をゆく、というのはややごつごつした身体感覚が詠われた歌である。自分の体内に他者という刺繍針が「ざむざむ」とささっていくというような認識は、おそらく柳澤さん以外の歌人では表現できまい。

ちょうど同じ時期に短歌研究新人賞を受賞した野口あや子さんの歌集にも

 真夜中の鎖骨をつたうぬるい水あのひとを言う母なまぐさい

という、他者への嫌悪を自分の身体感覚に投影した歌があったことを一瞬思い出した。

この歌は、野口さんのようにウェットではなく、むしろドライに、あらっぽく自分の身体感覚が歌われていることに注目したい。柳澤さんのわれはいつも、一歩覚めたところから世界を見ようとする。

7首目は優美な仕上がりの歌。かすかなるためらいの後てのひらに…という擬人化された姿がこの歌の主眼になっているが、その発見だけをぽんととりだして一首にまとめている。

さてここまで読んできたところで、ふとした疑問が頭をかすめてくる。「柳澤さんはどっちに行きたいの?」
という疑問である。たとえば歌集の61ページは僕の疑問をいやます結果となっている。

「昆布漁届け」の歌と、「滅菌済みの刃」の歌が同時に並んでいるページなのだ。

僕のような読者から見ると、「滅菌済みの刃」とニューウェーブを批判している勢力に対して否定的な見解を述べている作者が、うってかわったように「昆布漁届け」の歌を書くというのは美意識として考えられない。

この昆布漁届けの歌は、固有名詞を出して恐縮だが、多分松村正直さんが喜んでとる、(しかもとっている)はずの歌である。そして滅菌済みの刃の歌は、おそらくたとえば彦坂美喜子さんのような論客が好んでとっているはずの歌である。これは同じ時期に制作されたからといって同時に並べていい歌なのだろうか。

つまりは、柳澤さんは日常を描写するときには「ありふれた写生詠」の技法を使い、歌の歌を作るときには「加藤治郎」的な価値感でものごとを考えていることになる。

柳澤さんの考える「リアリズム」とは、日常詠のときはおもいっきり写生、修辞を使うときだけ修辞、というポーズをとっていることになるが、それは柳澤さんの歌論に影響しないのだろうか。

僕ははっきりとこのような作品の並べ方には違和感を表明したい。

むろん、「修辞」というレベルでものごとを考えてしまうと考え方がせまくなるのだが、柳澤さんの歌には述志なら修辞、生活なら描写、という何か隔てられた歌の作り方があるように見えてしまう。「修辞とリアリズム」を同居させるのを志向するのならば、日常生活と歌とが高度に混じり合ったような歌の作り方をしなければならないのではないか。

むろん修辞というのは歌のレトリックだけに留まるものではない。同じ景の切り取り方でも、違う韻律で見せたり、もっと形を変えて見せたりという歌全体(てにをは)をふくめた高度なアプローチが必要になってくるはずなのだが、柳澤さんは歌柄としてはどちらかというと真面目で几帳面な印象を受けるので、もやもやっとした心の動きがあまり反映されない硬質な響きに見えてしまう。

これは柳澤さんの美質でもあるが、どう「硬質」に生活を歌っていくのかが、柳澤さんの今後の課題のように思われる。

Ⅲはそんな柳澤さんの文体の弱点があらわれてしまった近作に仕上がっていると思う。

何首か引いて感想を終えたい。

常連の生徒数名 帰巣するように保健室に来るなり

「包帯」は、日常詠としてはきわめて平凡な仕上がりになってしまった一連。保健室と自分というテーマで詠われた平凡な日常詠である。修辞も効かず、韻律もふつうとなると、掲出歌の出来のように平板な仕上がりの歌が多く生まれてきてしまう。

涙には「恋水」の表記あることをきみの辞典を借りて知りたり

この歌は発見を歌った歌。こういう発見を繰り返していかないと柳澤さんの日常詠の詠風は厳しい。

怒りより逸れてゆくのが躾なり家々に刃のひかり鎮まる

これはうまい歌。怒りと刃のひかりというのが対応関係にあって、なんだかひとつの景として決まっているのが面白い。

処女歌集処女地処女雪しろがねの血液あらば美しからん

北海道という特質、しろがねという響きをふまえて一首が構成されている。こういう漢語を生かすと柳澤さんの歌風はだいぶ良い感じになってくるように思う。

コンビニでしずかに朽ちてゆくものへバーコードほそき墓碑を並べる


コンビニの商品を「朽ちてゆくもの」とする見立ては新鮮だ。そこにバーコードがほそい墓碑を並べるのだという。巧みな練れた発見の歌だ。

いじめっこの名前わたしに記憶なしあんのんと生きていろよ名無しで

こういうむこうっ気の強い歌を作る柳澤さんのことである。第二歌集にはおそらくあまたの「気の強い柳澤美晴像」を前面に出した歌を並べてくるに違いない。柳澤さんには響きのなめらかさはないかもしれないが、はまったときの迫力を感じる。

日常をどう強気にすくってくれるのか、これが柳澤さんに僕が大きく期待していることである。

何よりも柳澤さんは今年の現代短歌協会賞受賞者なのだ。僕の拙い感想など気にせず、堂々と王道を歩まれるであろう。今後の活躍を心からお祈りしている。

『汀暮抄』をできるだけ丁寧に全力で読む

(この文章は初出がミクシィ日記、「レ・パピエ・シアンⅡ」2012年6月号に再掲させていただきました)

僕が個人的に敬愛している大辻隆弘さんの第七歌集、『汀暮抄』を読む。この歌集は読んでいる最中に衝撃が走ったので急いで読みたいと思った。 あまりにすごいので、どうすごかったのか説明をする必要があるとおもった。

しかし、自分の批評能力でアララギ的な歌を説明できるのか自信がない。ただ、第五歌集の『夏空彦』のときにあった「ちょっとどろっとした身体感覚」のような物が抜けて、完全に清澄でしづかな作品世界に移行していると思った。 もう歌についていって、勉強させてもらうしかない。と思って、ひたすら丁寧に読み込む練習をしようと思った。

 ということで、この歌集はかなりゆっくり歌を選んでゆっくり読んで見ようと思う。

目次通りにいくと、「稲生」から「帰国」まで。「蒲郡」から「リム」まで。そして最後が「香貫」から「天ヶ瀬」までになるとおもう。三回にわけて、一種の秀歌鑑賞的なものにさせて頂きたいと思います。


1「稲生」から「帰国」まで


 背の裏に日がまはりきて白樫の樹が凹凸を帯びはじめたり


自分の背の裏に日差しがさしこんできて、白樫の樹がへこんでいるのがじょじょに見えはじめたという歌意の歌だとおもう。その日が差し込んできた感じを、帯びはじめたりとしているあたりがうまい。何かを発見したときの感動がおだやかに歌になっている。僕だったらぱっと日がさしてぱっと凹凸になった、と歌ってしまうかもしれない。丹念な描写のうまさが光っていると思う。


 真夜中の花舗のガラスを曇らせて秋くさぐさのしづかな呼吸


イメージの冴えとわずかなロマンティシズムを感じる歌。ただ、微細なものを感じ取っていることに注目したい。真夜中の花屋さんで秋のくさぐさが(おそらく)しづかに呼吸をしているのだろう。その呼吸でガラスが曇ったというのだ。これはイメージととるべきだ。ただ、大辻さんのどの歌にも感じられる微細なものへの愛着がこの歌にはある。


 踊り場に残れる熱を靴に踏むきよらかなりし昼の日ざしの


わずかに残った踊り場の昼の日差しの熱を、靴で踏んだという歌なのだが、これも非常に微細なものへの愛着がある。靴をとおしておそらく作者は熱を感じ取るか感じ取らないかぎりぎりの感覚だったはずだ。それを歌にする。そしてそれを「きよらかなりし」と歌う。清明で澄んでいる作品世界だ。


 海峡の曇りをわたる速きあめ手帳の歌を濡らして去れり


はるかなものからちいさなものへというのは短歌の王道のような気がする。手帳の歌というのはものすごく小さいものだが、それを上句の「海峡の曇りをわたる速きあめ」というはるかなものが濡らしてしまった。海峡のと言う見立てにもリリシズムがあり、「曇りをわたる」という上句もうまいが、そこから一気にフォーカスしていった下句もうまい。


 子をおもふ誠がやがておのづからナショナリズムを帯びゆくあはれ


これもぼくは秀歌だとおもう。確かに横田さんの子を思う気持ちは切実なものだが、拉致被害者たちの主張は非常に北朝鮮に対して辛くなってしまった。ナショナリズムを帯びて状況的にむずかしくなってしまった、そういう難しいところを歌っている。それをあはれと言う一言で適切に表現していると思う。ときどき大辻さんにはこういう秀歌がある。


 ゑのころの穂はむきむきに傾きてひかりとなりし雨をまとひぬ


むきむきという表現が一瞬よくわからないが、向き向きのことであるとおもう。思い思いの方向にゑのころの穂がかたむいていて、それが雨に濡れて輝いている。そういう情景を「ひかりとなりし雨をまといぬ」とロマンティックに歌い上げている。この歌では作者の立ち位置がよくわからないのだが、かなり遠方から見ないと「ひかりとなりし」雨は見えないと思う。遠景を歌った歌と読んだ。


 逝く秋の総てを神に於いて視てニコラ・デ・マールブランシュさびしゑ


ニコラ・デ・マールブランシュはフランスの哲学者。「総てを神に於いて視る」のは彼の主張らしい。この歌は響きに清明さがある。ニコラ・デ・マールブランシュが画家であってもやはりこの歌はいいと思うだろう。歌意としては、逝く秋を総て神に於いて視るであろう、マールブランシュはああなんと寂しいのだろうかという感じだろうか。詠嘆がうつくしい。


 藁を焚く火のかたはらに静かなる馬立ち昏れて影となりゆく


山水画のようなというのか、やはり情景のうつろいを見事に歌にした一首として興が深いものがある。立ち昏れてというのが非常によくて、馬が立ったではなくて、立ってだんだん暗くなっていったのだから、藁を焚く火の馬は影になってゆく。しずかで、一首のなかであざやかに情景がうつろっていく。


 箔かろく圧(お)したるごとき雲はゆき風明かりする午後となりたり


雲の表現をするのに「箔かろく圧(お)したるごとき」というのはあんまりない。どういう雲なのかというのを考えてみるのだけど、やはり薄い雲でそれがすこしへこんでいるような雲だろう。そうすると、あおぞらである。多分。雲は流れてゆくのがはっきりと見えるほどの強い風が吹いている。歌は「箔かろく圧(お)したるごとき」である種の感慨をもたらすが、あくまで風景描写としてごときが使われていることに注目したい。比喩が感覚に流れない、いい歌だと思う。


 満ち潮がしづかに動く河の底に牡蠣の殻しろく捨てられてあり


これは視た歌なのかイメージなのかが微妙な歌だが、河の底に「牡蠣の殻しろく捨てられてあり」というのは、水の中のことを歌っている。その上で満ち潮がしづかに動いている。あくまで作者が視ているのは満ち潮がしづかに動くなのだが、そのなかのことまで細かくみている(感じている)あたりにこの歌の良さがあると思う。しろくもすごく状況を体現させたうまい表現だとおもう。



 ハンガーを左にずらし干すシャツのひらめきのなかに妻の朝あり

 空ふかく揚がる雲雀のあるときは二分三連音符(にぶさんれん)をまじへて鳴けり


この「童貞聖」の一連はどれもいいのだが、こういう軽い歌も集のなかに含まれている。ハンガーの歌は「ひらめき」がいい。雲雀の声の高いトーンを二分三連音符と読んだのはすがすがしい感じがする。どちらもかろやかな佳品。


 藤暗(ふぢぐら)といへば涼しき風は来てみづのほとりの石は乾けり


藤暗という表現が新鮮だ。藤棚のなかが暗くなっていてそれを藤暗というのだろう。歌に即していうと作者が藤暗のなかにいたのかどうかは定かではない。ただ、藤暗といったら涼しい風がふいた、という何か幻想的な光景だ。そして魔術のようにみづのほとりの石が乾いた、というふうによむのが歌に即した読みではないか。やや異色な作品として読んだ。


 死ののちの帰国といへりそれをしも帰国といふか否か知らねど


死について深く考えさせられる歌だ。立ち止まる一首。これもマスメディアのある種の表現に対して違和を感じている歌だと思った。メディアが言う帰国と言う言葉に対して、自分は帰国と言うのかどうかしらないがと言う風に止めて、歌に余情をもたせている。


2 蒲郡」から「リム」まで

少し「稲生」「帰国」とは趣きが違い始めた気がするのは、自分の歌のひき方が悪いのかもしれない。イメージを触発される歌のほうを選んでしまった。


 夕時のひかりしづかな雑司ヶ谷ホルンを抱いた女が通る


「解夏」はもしかして少しさだまさしなのか。聖橋を歌った歌もあって、ファンとしては少し色めきたつ。それはちょっとおいておいて、この一連からはどの歌を引いたらいいのか非常に迷った。

思い切ってこの歌を選んでみた。「ホルンを抱いた女」という言葉に意外性があって、「夕時のひかりしづかな」と言う上句とうまく連結している。いわゆる言葉が響き合っている歌。丹念に描写した歌も好きだけど、こういうちょっと言葉の斡旋に工夫がある歌も好きだ。


 夜が朝に移るはざまのうすあかり蜩ひとつ啼きそめにけり


連作「薦生」にはひぐらしの歌が二首あって、どちらもすばらしい。こちらを選んだ。蜩が夜が朝に移るはざまにひとつ啼くというそのままの歌意で通じるが、夜と朝をわけるうすあかりのなかに、何か警笛のような、こちらとあちらを分ける彼岸のような、ある種の幽玄さを感じる蜩の声を感じた。


 紫の木槿が咲きてかの夏の告知されたる朝をおもひぬ


これは告知という言葉がドラマチックな雰囲気のある一首。何を告知されたのかはわからないが、わからないままでいい。本来の大辻さんの歌とは違う趣きがあるのかもしれないが、かの夏の告知されたる朝という表現は詩的にインパクトがある。これは個人的な好みで選んだ。



 雨粒が斜めに窓をのぼりきてわが飛行機は機首を下げゆく


「イラ・フォルモーサ」より。おそらく中国を旅した時の旅行詠。この連作からもどれを選んでいいのかわからない歌が三首ほどあって、大いに迷う。これは情景を「発見」した歌で、飛行機が機首を下げてゆくとき、雨粒の向きが変わるという状況を歌い込んだ歌。確かに些細なことなのだけど、この些細なことを歌にする詩精神が大辻さんらしいとおもう。


 命終に間にあはざりし祖母(おおはは)はベッドにまるく口あけてをり

 命なきひとのからだは揺れやすく後部座席に祖母を抱いてゆく


二首、南京櫨から引く。自分も祖母を亡くしている経験があるので、この一連はひとごとでは読めない。死んだ人が口を開けているという情景は実は僕も体験したことがあるのだが、この軽く掴んだような感じの結句が哀感を漂わせている。

二首目。後部座席に抱いてゆくというのは多分祖母の身体を本当に抱いていったのであろう。これは実際に抱いた人ではないと歌えない非常事態の歌だ。命なき人の身体は揺れやすくというのは発見なのだが、その発見は強い哀感を伴っている。


 亡きひとの携帯電話の契約を解かむとしたり深く礼(ゐや)して


これもしずかだが哀感がただよった歌だ。どういうふうに言えばいいのだろうか、歌としては解くと言う言葉の選択がうまいと思う。死んだ人の携帯電話を解約するという行為は、実際にはやることなのだろうが、なかなか行われないさみしい行為だ。それを歌にしたとき、発見とも哀感とも違う微妙なものが漂ってきているとおもう。


 死は死もて贖ふべしと贖ひ得ざらむを知りて人は言へりき

 
これも引いておきたい歌。最近の犯罪厳罰化の傾向に対して歌っている。ところどころ差しはさまれる社会詠に、「偶」というタイトルがついていることにも着目したい。「贖い得ざらむ」という言葉通り、死では人の罪を償えるないということを知っているのかはわからない。ただ、そう感じたというところに大辻さんの優しさが表われていると思う。


 ひつそりと濡れしガーゼが垂れてをり百葉箱の闇を開けば


これは闇を開いたときに、ガーゼが垂れていたというそれだけの歌と言えばそれだけの歌なのだが、そこからたちあがってくる濃密な質感に注目したい。ひつそりとという言葉の選択がいいのだと思う。闇のなかにひっそりと湿っているものがあるというのは、想像をいろいろとさせるやや官能的な表現の歌だとおもう。(確かこの歌、未来の大会かどこかで見たことがある) 


 魚の生(な)る木が校庭に立つといふ風すぎてまどろみを運ぶ木


これは大辻さんには珍しく幻視の歌だと思う。おだやかなゆったりとした幻視だ。風すぎてまどろみを運ぶ木という表現が生き生きとしていて、おだやかさを際だたせている。校庭という舞台設定も下の句にしっかりとついていて、ややおとぎ話的な雰囲気を醸し出しているように思う。


 春の夜にこころやさしく思ふかな種子郵便の割引なども 


これもどちらかというと描写というより語感を生かした感じのいい歌。種子郵便というのは本当にあるらしい。植物種子を通常の郵便物よりやすく送ることができるという制度らしいが、これが語感として本当に感じよく響いていて、さらに春の夜という言い回しがこの種子郵便という言葉を生かしている。一首としてまとまっている。


香貫と下諏訪は挽歌集である。ともに玉城徹、河野裕子の死について歌っている。
こういう一連から引用するのは難しい。感情がひっそりと湧き出てしまうからだ。
特に二連ともよかったのだが、どの歌を引くか、という段になってとまどった。


 狩野川(かのがは)を越えゆくときにはや淡く悲しみは来てバスは弾みつ


歌意はその通りなのだろうが、悲しみは来てバスが弾むという描写に力がこもっているように思う。バスが弾むというのはふつう明るいイメージで使われる言葉だが、この場合ではかなしみをほんのりと慰めるように弾んだという感じなのだろう。見立ては明るい歌だが、ほんのりとかなしみが覗く。



 みづうみは風のみなもと下諏訪の駅に下りの列車を待てば


今度は河野裕子氏の挽歌集から。作者は下諏訪に旅するが、この「みづうみは風のみなもと」という新鮮な表現が下諏訪という土地の風情としっかりマッチした、明るい紀行詠のように読める。実際に思い出を語っている歌たちは哀切で読者の共感を呼ぶところがあるが、こういう歌が差し挟まれているところに読者は救われる。


 秋といふ時の兆しを書き記す少し細身のペンを選びて


これは「下諏訪」最後の歌。感傷的な趣きのある歌だと思う。少し細身のペンを選びてという言い回しがやはり細かい描写力を感じさせている。秋という時の兆しという表現は、ふつうに使うとどうしても甘く流れてしまうところだが、下句がそれを補っているような気がする。ロマンティックな歌として記憶に残った。



3 石榴から天ヶ瀬まで


 すみやかに深まる秋のかたはらに椅子を置く背が垂直の椅子


韻律を途中でぷっと切ったような印象のある歌。すみやかに深まる秋のかたはらに椅子を置くまではしずかな情景を歌った感じだが、突然「背が垂直の椅子」と言われて立ち止まる。このまるで物自体を描いたような感触はどうだろう。描写と言えば描写なのだが、突然にあらわれるこの「背が垂直の椅子」に惹かれた。意外性のある一首。


 静物画ゑがかむとして明るさの集ふ石榴をここに移しつ


静物画という非常に静謐なイメージのなかに石榴がおかれている。それだけで歌になってしまうのが作者の技量だろう。明るさの集ふ石榴という言い方がうまくて、何か石榴が熟しているだけではなくて、ほのかに荘厳なイメージが漂う。


 夜の河はくらがりとしてただ遠く広がりてをりそのうへを越ゆ


夜の河の渺々とした感じが良く出ている一首だ。そのうへを越ゆというあたりに果てしないくらがりとわれの小ささの対比が描かれていて、これははるかなものとちいさなものの対比の一パターンだと思った。ひたすらの暗黒とそのうえを越えていく「われ」が、歌になっている。

以上終わり。

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すきな10首

背の裏に日がまはりきて白樫の樹が凹凸を帯びはじめたり

真夜中の花舗のガラスを曇らせて秋くさぐさのしづかな呼吸

海峡の曇りをわたる速きあめ手帳の歌を濡らして去れり

藁を焚く火のかたはらに静かなる馬立ち昏れて影となりゆく

夜が朝に移るはざまのうすあかり蜩ひとつ啼きそめにけり

雨粒が斜めに窓をのぼりきてわが飛行機は機首を下げゆく

ひつそりと濡れしガーゼが垂れてをり百葉箱の闇を開けば

その内に蓬髪の魔女すまはせて自動販売機は灯りをり

狩野川(かのがは)を越えゆくときにはや淡く悲しみは来てバスは弾みつ

静物画ゑがかむとして明るさの集ふ石榴をここに移しつ


語り残した歌もたくさんある。この歌集はすべてが工夫のある秀歌といってもいい。

多分明日また読んだら違う歌が選ばれるかもしれない。

五年後に読んだら全く違う歌が選ばれるだろう。

そのくらいこの歌集の神髄を理解するのは、時間がかかるような気がした。

ぼくはまず近代短歌の蓄積がないし、偉大な近代歌人の強い影響というものがない。

そこを煮詰めていかないともっと深くこの歌集の理解が出来ないと思う。

「京大短歌」18号

発行されてからかなり時間が経過してしまったが、「京大短歌」18号について軽く感想を書きたい。

今号の主眼は、なかなかまとめて意見を言うのは大変な、大辻隆弘さんと大森静佳さん、藪内亮輔さんの座談会。

これについては意見を差し挟むことはしないでおこう。

とにかく震災と短歌を考える上でこの号は非常に重要だ。

必読である。

さて、僕から感想を述べることがあることとすれば、この座談会のおかげで埋もれがちになってしまいそうな会員のみなさんの短歌。これについて軽くではあるが意見を述べさせていただきたい。

目次にしたがって、野栄悠樹さんまでを会員の作品と考えてまとめて感想を述べたい。


杉山天心さん

一言でいうと「助詞の使い方が上手ではない」「言いたいことをきっちりと定型におさめられてない」。ちょっと評が辛くなるのをお許し頂きたい。歌を作り始めて間もない方なのだろうとお見受けした。

良いと思った歌は、

支配するこんなことしてどうするのわからないのは仕様ですから

だろうか。

 支配する/で1回読みを切って、こんなことしてどうするの/わからないのは仕様ですから と流れる。

自分自身のこととも読めるし、何か大きなシステムにむかって叫んでいるのかもしれないともよめる。ややシニカルな意味を含んだ歌だとおもう。これが過不足なく一首に収まっていて、歌としてはこれが一番完成度が高いと思った。

この作者の場合、ちょっと一首目から見てみようとおもう。


 一文字結んだ手から月のぞく石舞台に舞うたゆき白髪

一文字に結んだ手から月がのぞく、ここまではわかるがまず「一文字」、「月のぞく」は助詞がないので窮屈な印象を受ける。そのあと、「石舞台に舞うたゆき白髪」と転換するが、これははっきり何を言おうとしているのかが分からない。情景としては一文字に結んだ手から月がのぞく、だけでよく、二番目の「石舞台に舞うたゆき白髪」は必要ないとおもう。二つの情景をつなげる読解の鍵みたいなものがないので、読む側としては「ん、何を言おうとしているんだ」とつまづいてしまった。


 濡れそぼつ黒を見下ろすペンタゴン制限速度は60kmか

これもよく分からない歌。濡れそぼつ黒の「黒」って一体何を指しているのかよくわからないまま、いきなりペンタゴンがでてきて制限速度は60kmかと言われ、読解につまづく。はっきりと言いたいことを定型におさめられていないので、まずはきっちり定型におさめる努力が必要だろう。


 愛し君聞き取れないの昨日からイヤホンが断 線したせいね

これは試みは面白いが、「愛し君」が窮屈だ。助詞を57577の定型に無理に収めようとしている感じがあって破調になってもいいから愛しい君まできっちり歌ったほうがいいと思う。さらに言うと、言葉の響きを求めるなら
愛し君よりももっと適切な選択肢があったようにおもう。僕だったらリフレインにしてしまうかもしれない。
「昨日から聞き取れないの昨日からイヤホンが断 線したせいね」


谷川嘉浩さん


連作のなかで名詞止めを多用するのはなんとかしたほうがいいと感じた。特に1首目が体言止めで、5首目6首目体言止めで来られるとちょっと平板になりすぎる印象。15首のうち7首が体言止め。

ただ、連作の全体の印象は清明で澄んだ響きを求めていて好感が持てる。


 劇的な語りも夢も音楽も悲しみもない立ち上る雪

劇的な語りも夢も音楽も悲しみもない/までで1回きって読み、いきなり「立ち上がる雪」という情景の質感を出してくる歌と読んだ。歌意としては日常生活のことを歌っているのだろう。自分の日常生活がそれこそ「劇的な語りも夢も音楽も悲しみもない」ものだと作者はおもっていて、そのあとなにか情景でまとめたよい句を入れたいのだと思う。5757までの言葉の配置が美しく、最後の結句は、喩的な密度を感じさせる歌だ。ただ、「立ち上がる」はよくわからないという読者もいるはずなので推敲が必要かも知れない。

 冬となく春夏となく秋となく光り続けることは墓石

これも同じパターンの歌と読んだ。名詞止めというより連作にこういうパターンの歌が二つ続くとやや苦しいか。ただ詩的な感性はある。これは自分のことを歌っているわけではなく、いわば全体的な喩として機能させようとしている歌だと読んだ。「冬となく春夏となく秋となく」と迷いのように言葉が続き、季節が光り続けることは「墓石」なのだという。

「~光り続ける」までは非常に淡い言葉を選んでいるのに、結句に具体物をいれる(それも墓石という非常に重たい具体物)あたりに、ことばの選び方のセンスを感じる。

 頬を削ぐ冷たさのドア懐かしい空気はないと知っているのに

上句57の「頬を削ぐ冷たさのドア」が新鮮。自分がドアに頬をあてている光景なのだろう。そのドアがあまりにも冷たいので、「頬を削ぐ」と表現している。下の句の自己表白、「懐かしい空気はないと知っているのに」は上の句のインパクトを受け止めるだけの力をもっていないかもしれない。ちょっと感情だけがだらっとですぎてしまっていて「どうして」懐かしい空気はないと思ったのかが見えづらい気がする。

 不自然なペプシを飲んで思うのよ、ローソンと海、空は違うと

発想が面白い。ローソンと海や空が違うということを、ペプシを飲んで思うのだという。上の句の「不自然」はなんでペプシが不自然なのかがそれこそ「不自然」だ。この不自然はどこにもかかっていないので作者の内面のみに残された言葉なのだろう。しかし、確かにローソンの看板と海や空は違う。これは読解につまづきながらも気になって採った一首。


廣野翔一さん

15首全体の印象としてはやや歌のでき不出来にむらがあって平板な印象を受けるが、びっくりするような秀歌が飛び出してくるので何が出てくるのかが気になる作者。おそらく表題にもあった、「ヒカリトミズ」のこの一首が素晴らしいできばえだ。

 水面の光の折れが美しい感情に似ると思えば尚更


水面の光の折れが美しい/で1回切って読みたい。ここに「感情に似ると思えば尚更」という下の句はなかなかつけられない。水面の光が折れていく様子を、「感情に似る」と例えることは意外と短歌の王道のような気もするが、こうまで直裁に詠った例を他に僕は知らない。尚更も効いているとおもう。

 青年は椅子に座ってカウントする通過していく影の枚数

具体的な情景を上げようとすると道路の交通量調査なのかもしれない、とは思うが、これは具体的な情景を思い描かないほうが美しく読めるかなとも思う。「影の枚数」としたところが非常によく、心象とともにややうつむきがちに地面を見ている作者のかなしげな像が見えている。「カウントする」の破調も僕はいいとおもう。

 ひまわりが何も言わずに伸びる朝 空とは垂直になれないのに

これは発想はいいのだが何か平板な感じがする一首。確かにひまわりは空とは垂直になれない。この発想はおもしろいのだが、「何も言わずに」というのはやや「言わな過ぎ」のような気がする。ここに自分の感情なり何か具体的なものなりを入れたら少し味わいが出てくる感じがする。

 逃がされた揚羽を送る心境で遠い夜空の火事を見続け

これも「揚羽を送る心境」という心象の描写はおもしろいが何か足らない感じがする一首だ。「遠い夜空の火事を見続け」という下の句に対して、逃がされた揚羽を送る心境というのが今いちぴんと来ないというか、やや不謹慎ではないかとおもう。おそらく作者はすべての歌を実景に即して作ってはいないのではないだろうか。そう考えるとちょっと喩が浮いてしまって「響いてこない」感じがする。実景と心象のぎりぎりのラインにせまった作品がものすごくできばえがよく、そうでない景だけの作品はあまりよくないと思いながら読み進めた。

小林朗人さん

言葉のかかりが重い、良い意味でも悪い意味でも大げさな歌を作る方だ。その特質はこういう歌に表われている。

 鎮魂歌(レクイエム)その激情の響かざる胸を虚空の闇にさらして

激情、虚空とこれでもかと硬い言葉を入れて、歌に厚みをもたらそうとしているのがわかる。やや言葉使いが大振りなために損をしているような気がするが、これはこれで採りたい一首。歌意としてはレクイエムがひびかないような自分の胸をうつろな空にむけてさらしているという一首だが、この大振りな言い回しは好き嫌いがあるだろう。僕はこれを代表歌にする気持ちはわかる。

 波際の砂城のごとくなだらかに崩れえぬゆえ傷むこころは

これは意味的に1回ねじってある。「波際の砂城のごとくなだらかに」まではすらすらとよめるが「崩れえぬ」と1回ねじっているので、そのようになだらかに崩れないという歌意になる。こころは、砂城のようには崩れないので傷むと言っているのだ。硬質な響きだが成功している歌だと思う。ただ、あんまりこころのことを悪く歌っていると病気になるので気をつけてほしい。

 窓を打つ暁光されどわれにまだ絶望という寄り部はあらず

これはやや言葉が硬くなってしまっているか。一見きれいに決まっているが、窓を「打つ」はちょっとひとりよがりかもしれない。ここは射すでも良かった気がする。それよりも、「されどわれにまだ絶望という寄り部はあらず」という下の句はやや余情を感じない。絶望が寄り部ということは一体どういうことなのだろう。まだそんなに絶望していないということなのだろうが、絶望がないのならそんなに大げさに歌わなくても、という気もする。「されど」があまり上手に機能していないのかもしれない。


 村雨の降りやみそうな虚空から 春雷 やがて言葉につまる

この一字空けは必要だという意見には賛成。春雷 やがて言葉につまる、という言い回しが繊細でいい。しかしここにも虚空が出てくるのだが、これはまずいとちょっと思う。村雨、虚空、いずれも言葉がやや恣意的に選ばれている感じがして上の句が全体的に重い感じがする。

大森静佳さん

非常に澄んだ透明感のある文体ですらすらと読める一連。そして何よりも明るい。健康的な抒情性があるのが魅力。ゆびという題材を歌ったテーマ詠で、それにそった歌を並べてきた。

 踊り場に葉を踏みながらゆるやかに体の軸を取り戻したり

きれいに流れた良い歌。「踊り場に葉を踏みながら」とステップするかのような口調で上句を述べていき、ゆるやかに体の軸を取り戻す、という。大辻隆弘に同案の歌があるが(「やはらかく体の軸が傾ぎたり幼きは足に胡桃を踏んで」)これは自分自身の身体感覚について述べている。三句目「ゆるやかに」は平凡だが歌に負荷をあまりかけないつなぎ方で、うまいと思う。

 すんすんと月夜を伝い降りてくる一茎のそれはひかり 無名指(むめいし)

すんすんはオノマトペ。「すんすんと」から一体何をつなげてくるのだろうという期待感とともに韻律を加速させていく。「月夜を伝い降りてくる一茎のそれはひかり」 これは完全に喩的な光景だろうとおもうが、一見でまかせのように、詩的純度をたかめて、最後に具体物、無名指(くすりゆび)に落ち着かせた。情景のような比喩のようなあわい57573音とそれをすとんと落ち着かせる4音のうまさが光る一首。情景として薬指が一茎のひかりになって月夜を降りて来るという奇想が光る感じがする。


 あなたの部屋の呼び鈴を押すこの夕べ指は銃身のように反りつつ

銃身のようにという比喩は、まずまず効いているとおもう。ここに作者の恋の感情のようなものを読み取ってもいいだろう。指に「反りつつ」という句で呼び鈴をおすことへの緊迫感をだそうとし、さらに「銃身のように」というちょっとぎくっとする比喩を付け足した。すこしだけ景に流れてしまって感情が読み取れない感じもあるが、きれいにまとまっているのでいいとおもう。夕べは勿体ないがしょうがない。これでいい。


 歳月が言葉に移るまどろみのしらかみに飛び交うゆびの影

しらかみはおそらく白紙のことだとおもう。白紙にゆびのかげが飛び交っているという想はおもしろい。そこに「歳月が言葉に移るまどろみの」という上の句をつけた。まどろみというのはほわんとしたうたたね。それを「の」という短歌的な言葉で上手につないでいっているように思える。

ただ、「歳月が言葉にうつるまどろみの」は若干歌意が判然としない。歳月が言葉に移るあいだのまどろみ、という意味だろうか。無理やりによめば、作者は本を読んでいて、そこで歳月が言葉に移る、と感じたのであろうか。
そうするとしらかみの以降も納得ができるが、すこし理に勝ちすぎた感じがしてもったいないように思う。


 つばさ、と言って仰ぐたび空は傾いてあなたもいつか意味へと還る

これは人の死のことを詠っている歌とも読めるし、失恋の歌ともよめる。「あなたもいつか意味へと還る」が若干抽象的すぎるような気がして、上の句との対応も忙しい。「つばさ、と言って仰ぐたび空は傾いて」で、1回情景を意図的に動かしているのに、さらに「あなたもいつか意味へと還る」とすると、上の句がやや作意的に動く感じがして技巧走った印象が強くなる。そして下の句の歌意が確定しないのが残念な歌だ。

藪内亮輔さん

 この歌は岡井すぎると言はれをりほの暗き花の暗喩のあたり

岡井隆さんそのまんまの口調で、岡井さんの歌を読んでいるような錯覚に陥った。ほのぐらき花で完全に岡井調。これは作者が意識してやっていることなのだろうが、「岡井隆を静かに捨てて」ゆくと言っているわりには歌が岡井隆を全く捨てていないというのも面白い。

どの歌もうまいが、完全に岡井調。これはどう説明すればいいのか。先人の岡井さんに意図的にオマージュを捧げている一連ととっていいのか。

 男つて苦いと思ふ。(それはそれ)寒雲に花の栞をはさむ

 散りながら集ふことさへできるからすごい、心つていふ俗物は。

一首目、この「思ふ。」は岡井調だが、「寒雲に花の栞をはさむ」は余技を許さないうまい省略された表現。実景としてとってもよいし心象としてとってもよいと思う。寒雲という言葉の響きの良さと、花の「栞」という言葉使いに非常に魅力を感じた。花を空に散らしていく情景があって、その様子を栞を挟むと表現している。これは非凡な下句だし、上句「男って苦いと思ふ。」という言葉使いには体温が感じられ、バランスがとれている。歌の形を最大限に生かしている作者だ。

二首目、文体が完全に安定していて、ふつう文語旧かなでは「すごい」は入れられない感じがするのだが、この場合はぴったりと合っている。ただ歌意はちょっと読み取りづらい。こころは本当に「散りながら集ふことさへできる」のだろうか。これは完全に歌の韻律だけの力で「ああ、そういうものなのだな」と納得させられるような歌の作り方。言葉に無理がかかっていない。

 詩は遊び?いやいや違ふ、かといつて夕焼けは美しいだけぢやあ駄目だ

このあたりがちょっと連作の下限なのかなという感じがしていて、文体の力は感じさせるが軽く流した感じのある一首。ちょっと一連のなかでは弱く見えるかなと思う。夕焼けが詩の暗喩だということを見せてしまうと歌がつまらなくなってしまうので夕焼けという言葉の選択をもっとぼかしたほうがいいのかな。

 ゆふぐれがつよくなつてく頃合ひに既視感のごと花は咲くんだ

既視感、岡井隆、そういうタームを逆用して鮮やかな詩的世界を展開した作者の技量には感心する。しかしこの一首でいうと、既視感のごとくまで言い切ったほうがいい気がするし、やや「花は咲くんだ」、の口語は甘く(感傷的に)入ってしまった印象がありうまくはいっていない気がする。

この作者の類い希な技法へのセンスを感じる。早めに岡井調から脱却して(もうしているのかもしれないが)次の世界を開拓してほしい。

笠木拓さん

詞書を膨大につかった意欲作。

文体は一定せず、ときどきどきっとするような反応を見せる歌も見られる。不思議なテンションの歌が並んでいると思って拝読した。(詞書は省かせていただいて書いた)

 ほよほよと流れる川の先が海、とは限らない 山の彼方だ

ほよほよというやや頼りない言葉から何を持ってくるのかと期待しながら読むと、「海、とはかぎらない 山の彼方だ」と二回拍あけ(読点含む)を入れて、文体に蛇行感をだすのに成功している。こういう文体だよという宣言のような歌だと思った。ほよほよと、のあとに屈折が入っているのがいいし成功していると思う。

 たそがれは領域というより轍 京都御苑の砂利鳴らしつつ

たそがれに対して「領域というより轍」という発見を歌にした歌。これはあんまり見ない、新しい表現だと思った。認識と認識を対比させているかのような上の句で、これはうまくするとシャープに切り取られるような気がする。ただ、下の句はやや認識に対して平凡についてしまった印象がある。もうすこしたそがれを細かく描写するようにすると、上の句が生きてくるかも知れない。

 お姉ちゃんみたいな人がまたひとり人妻になる 縁石をゆく

インパクトが十分な上の句。お姉ちゃんみたいな人とはどういうことか。自分のお姉ちゃんとも、その辺のはすっぱなお姉ちゃんともとれる。それがまたひとり人妻になるというのは俗っぽいが不思議な発見である。僕は自分のお姉ちゃんだと思った。下の句もきれいについていい歌だと思う。

 河に原、疎水に畔(ほとり) 今日ひらくページをいつか忘れようとも

歌意が取りづらい一首。河に原があり、疎水には畔があるということは、なんとなく類義語をまとめたような印象がある。河にも疎水にもその横にあるものがあるという意味だろうか。そのあとで「今日ひらくページをいつか忘れようとも」というのは何とも意外な詩的飛翔でわかりづらいが、ものごとの横にあるものはずっと覚えていたいという意志のあらわれのような歌の気はする。本を読んでそれを発見したのだろうか。難解歌だ。

 いまでも、という間に過ぎる今があり錦林車庫に市バスは眠る

これはきれいに決まった歌。いまでもという間に過ぎる今がある、というのはうまい発見で、そのあと過不足なく錦林車庫に市バスは眠るという下の句がついた。錦林車庫という響きをふくめてイ音で一首が統一されており、するすると読み下せる。響きのいい一首だ。


野栄悠樹さん

歌にまだムラがあるが、
不思議な読後感のある一連。


 側溝に棄てられたのは弁当の空き箱。蓋のないただの箱

このどさっと投げ出すような感じの読後感はなんだろうか。ふつうは蓋のないただの箱とはいわず、なにか別の情景をくっつけてごまかしてしまうところだが、あえて「蓋のないただの箱」まで踏み込んだ感じはものすごくいいと思う。こういう感じは新しいので大切にしていってほしい。

 合併を余儀なくされて住民は住所の変わる朝を迎える

これもどさっと作ろうとしているのだろうが、平凡に作りすぎてしまっている。住所の変わる朝は当たり前すぎるようにおもう。これは悪い発見にはまってしまった不運な歌だ。

 病院の看板ばかりのホームから静かに去っていかないでくれ

上の句淡々と描写しているようだが、いきなり呼びかける感じが不思議な歌。ふつうの感覚ではしずかにさってゆく○○よなどと詠嘆してしまいがちだが、結句が非常に不思議な読後感をもたらしている。こういう抜いた感覚を大切に歌って欲しい作者だと思う。


 ハンカチをくれたあなたはどの駅の灯りを頼っているのでしょうか

一行詩のような一首であり、かすかに抒情性をたたえた感じでまず成功した歌だと思う。こういう歌は景のとっかかりがないのでむずかしいが、不思議ときれいに見えることがある。ハンカチをくれたあなたに対してどの駅の灯りを頼っているのでしょうか、と呼びかけるのは不思議だが、どの駅に住んでいるのだろうかというのをぼやかして歌うとこういう形になるのだろう。灯りを頼っているという呼びかけが不思議な一首だ。

以上ざっとではあるが京大短歌18号の感想を書いた。

この形では疲れすぎるということに気がついた自分にだめだしをして今日は寝る。

永井祐さん、『日本の中でたのしく暮らす』

永井祐さんの歌集、『日本の中でたのしく暮らす』を拝読する。

長い間短歌の世界で「この一首はひどい」、「この一首すばらしい」などと、「この一首は」、的なかたちで論評されてきた永井祐さんの短歌だが、まとまった形で世に出るのは今回が初めてとのこと。期待して歌集を開いた。

僕は永井さんの最新作はよく知っているが、過去の作品はほとんど知らない。

そういう状態で読むと、おそらく編年体で組まれたのであろう永井さんの歌集の始めの方に出てくる煩悶の「ふつうぶり」にびっくりすることになる。


窓の外のもみじ無視してAVを見ながら思う死の後のこと

ここにある心通りに直接に文章書こう「死にたい」とかも

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな

ミケネコがわたしに向けてファイティングポーズを取った殺しちまうか


こういった歌に出てくるのは、一言で言えば実存感覚をうしなった青年の「生きづらさ」である。

1首目、2首目に関しては歌意の説明は不要だろうと思うが、3首目は、「はねとばされたりするんだろうな」という表現に心の虚ろさを感じ取ることができる。

自分が電車にはねとばされたりするかもしれない、そういう事実を目の前にしても作者はきわめてあっさりとしている。本当に電車にはね飛ばされると言う事実を作者はおそらく想定していない。「はねとばされたりするんだろうな」という表現に、力がかかっていないのだ。それは虚ろさを表現するための意図的な脱力である。

四首目、殺しちまうかにという言い回しに力が入っているのか入っていないのか微妙なところだが、連想させられるのは少年犯罪であろうか。ネコを殺すという行為にある種の残酷さを感じる。

しかしこれらの歌を僕はあまり感心して読まなかった。永井さんの文体はこういう実存的な問題を汲み上げるには平板すぎる。歌集を通読していくと、永井さんがこういう歌材を出来るだけ捨て去り、新しい世界を汲み上げようと口語の文体のを研ぎ澄ませてくるさまがだんだん分かってくるので、読者は永井さんの文体を信頼できるようになってくる、という仕掛けになっているように思う。


その永井さんはおそらく「冒険」と「アイデア」あたりから徐々に短歌らしいことを始める。

明け方の布団のなかで息を吐く部屋の空気がわずかに動く「冒険」

十二月 ライブハウスで天井を見上げたら剥き出しの配線「アイデア」

これも比較的クラシカルな、永井祐さんの歌を鑑賞するには非常にわかりやすい歌だと思う。布団のなかで息を吐いたとき、「わずかに動く空気」と言う些細なもをの歌に詠み込む永井さんは、どちらかというと今まで堆積されてきた「短歌」のやり方を少しずつ試みているのではないかとおもう。

「十二月 ライブハウス~」というのは永井さん特有の初句切れで一字開きの歌。しかし、このうたはきわめて描写的だ。文体的にはもっとも永井節らしいが、「天井を見上げたら剥きだしの配線」で、すべて説明的に描写されているあたりに永井さんが「短歌らしさ」を意識しようとしているのが見て取れる。

しかしこれらの水準の歌も、やっぱり永井祐を永井祐たらしめるにはまだ何かかけている。

永井さんには何かもっと別の魅力があるのだ。

                ※

五円玉 夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう

テレビ見ながらメールするメールする僕を包んでいる品川区


永井さんの美質を限りなく表現し得ていると思った歌を引いてみた。

五円玉 の歌は、夜中のゲームセンターにいる作者が春はとっても遠いと思う、というだけでは日常の散文のレベルに陥ってしまうだろうが、初句切れ一句目の「五円玉」の表現がとてもうまいとおもう。ここに何を入れても良いのだが、永井さんは「おかね」を入れる。五円玉から、春はとっても遠いと思う、までの意外性に詩的な飛翔力がある。

テレビ見ながらメールする、の歌は、なんとなくあわい「ひかり」を連想させる歌だ。するすると「テレビ見ながらメールするメールする僕を包んでいる」、と韻律が加速し、そこで結句の「品川区」に立ち止まる。この品川区は夜の品川区なのだろうか。おそらく僕は夜の光景だろうととった。品川区が包んでいるというのは、きわめて即物的な発見であるが美しい発見である。

永井さんは完全口語を目指すとおっしゃられているようだが、永井さんの魅力のひとつには、こういう「即物的」なものを題材にして詩的世界を巧みに構成できるという点にもあるようにおもう。

「お金」だったり「メール」だったり、完全に日常的なアイテムが詩的アイテムとして機能するとき、永井さんの歌は「永井祐」らしさを発揮する。多くの歌人たちは短歌にこういった語を入れるとき、短歌らしさを意識して季節感を入れたり、比喩表現を使いがちになる。しかし、永井さんが見ているのはあくまでゲームセンターであり、デニーズだったりする。この無機質な都市感覚のなかで即物的に「お金」や「季節」や「都市名」が記録されるのだ。ここにはドライな都市感覚が歌い込まれていると行っていい。

もちろん、永井さんの美質は他にもいろいろある。


 月を見上げて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね

 君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか


上句と下句の関係が、奇抜な形で脱臼された歌だ。

「月を見上げて月いいよねと君が言う」と上の句が推移していったとき、読者はどうしてもこのあとにおさまりのいい下の句を期待してしまうのだが、永井さんの歌はふつうの着地ではないほうへいってしまう。

「ぼくはこっちだからじゃあまたね」

とまるで読者に断絶をうながすかのように、さらりと急所を外すのだ。

この「君」にもうあえるかあえないか、などといったことも、作者はまるで期待していないのだろう。そういう乾いた人間関係をもたらす言葉としてこの「じゃあまたね」は機能している。インパクトの高い言葉の連なりだ。

君に会いたいの歌は、場面転換が2つふくまれているがどれも上手に機能している。

君に会いたい、雪の道、聖書、は3つとも関連はしているがそれぞれ異なった場面の提示で、君に会いたいと思っていたところに、「ふと」雪の道に気付いた、「ふと」聖書はいくらぐらいだろうか、と思ったという日常の意識の動きを歌にした歌だと思う。雪と聖書はイメージ的にはなんとなく喩的なイメージとしてつながる感じがするし、日常にあるふとした意識の動きを3句にわかれて提示されたとき、読者はその中からある種の美しさを感じ取ることができると思う。

さらにはこういうパターンの歌もある。

 ラジカセがここにあるけどこわれてるそして十二月が終わりそう


単純な、そして一見するとなんでもないような平板な歌と言って良いのかも知れない。

しかし些細な抒情、いや些細というよりはもっとかすかな、しずかな情感を湛えた歌だと僕は思う。
言葉にするにはあまりにも平易で、どう感想をのべていいのかちょっと迷うが、一見二物衝突のようにみえる。そして十二月が終わりそう、という下の句はラジカセとは決して対比されていないが、ひじょうにあわい情感のようなものがここには見受けられる。壊れたラジカセと十二月の終わり、この対比からはあわいさびしさのようなものを感じ取ることが出来る。

ここまでやや我田引水ぎみだが、永井さんの歌の中からよいと思った歌を説明的に書いてみた。

ただおそらく永井さんがやろうとしていることはもっと他の所にあるのだろうと思う。
歌集後半はもっと即物的に、もっと投げ出すように歌が歌われている。


僕はかなり即物的にぽんと投げだすだけの歌集後半の歌はほとんどいいと思わなかった。

詳論はここでは省く。永井さんを批判することは、いずれまたどこかで形を変えて行っていくことになるだろう。

このブログでは、以上のように良いと思った歌だけを取り上げて感想を終えさせて頂く。

山田航さん、『さよなら・バグチルドレン』

山田航さんの『さよなら・バグチルドレン』を拝読する。

20代の第一歌集である。
まず僕の好きな歌を三首あげてみる。

調律師のゆたかなる髪ふるへをり白鍵が鳴りやみてもしばし

楽器庫の隅に打ち捨てられてゐるタクトが沈む陽の方を指す

旅行鳩絶滅までのものがたり父の書斎に残されてをり

「夏の曲馬団」より。完成度の高い虚構の美の世界を構築しようとしていることがよくわかる歌群である。調律師、楽器庫、旅行鳩。いずれも現実のものではないが、ぎりぎりのところでリアリティを持っていて、言葉の選択はさわやかでしかも意外性がある。

1首目、これは歌意をどうこうするというよりも「調律師のゆたかなる髪ふるへをり」という上の句の美しさをとりたい歌だ。調律師がピアノの調律をしていて、そのときに髪が動いたのだろう。その「ふるへ」が白鍵が鳴り止んでもしばらく残っているのだという。微細な世界の美しさが上の句に凝縮されていて、それでいて調律師という言葉の美しさが殺されていない。

2首目、すこししんとしたさびしい情景だが、これも楽器庫という言葉の選択のおかげで、「タクトが沈む陽の方を指す」という下の句が美しい情景として立ち現われてくる。ややノスタルジックな感受性を感じさせる歌だろうか。それでも歌の新しさはまぎれもない。

3首目。旅行鳩という生き物がいたことは思いつくが、「絶滅までのものがたり」というふうにはなかなか表現できない。それが書斎の本棚に隠されていたというのだ。そのひそやかな感じと、遥か大昔の出来事を一首に結び付けていく。はるかなものとひそやかなものの対比がこの歌の主眼だろう。


こういう徹底した美意識に基づいて、山田さんは「夏の曲馬団」の一連を書きあげた。僕はこの一連にとても感銘を受けていたので、山田さんはほんとうに透徹した美意識を貫き通したい方なのかなと勝手に思っていたが、どうやらそういうわけでもないようだ。歌集を通読したり、あとがきを読んだり、帯の自選歌を見たりしていると、どうもそれとは違ったピュアな優しい青年という表情が浮かび上がってくる。

 うろこ雲いろづくまでを見届けて私服の君を改札で待つ

 やや距離をおいて笑へば「君」といふ二人称から青葉のかをり

 紋白蝶は二つに折られた手紙だと呟いたきりの横顔がある

 でもぼくはきみが好きだよ焼け焦げたミルク鍋の底撫でてゐるけど

 さみしいときみは言はない誰のことも揺れるあざみとしか見てゐない

 水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ

 雨の朝きみが眠たげに喋るときせめて永遠をぼくの世界に

歌集の全体を通底するのは恋の感触というか、「きみ」との甘やかな交歓が非常に多い。こういう「きゅんとするかんじ」がたまらない人には、この歌集は青春の傑作秀歌ということになるとおもう。1首目は「うろこ雲」、2首目は「青葉のかをり」という語で、歌を詩の水準まで高めている青春歌。3首目、「紋白蝶は二つに折られた~」といううつくしい修辞の巧みさや、5首目、「水飲み場の蛇口を~」の歌に見られるような新鮮な発見は普遍性を持っているし、「でも僕はきみが~」、「さみしいときみは~」、「雨の朝きみが~」の歌は、修辞は全く使われていないが、十分に歌として成立している。全体的に「きみ」へと語りかけるときの優しい息づかいが歌によくマッチしていると思う。

 鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る

 たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく

 いつも遺書みたいな喋り方をする友人が遺書を残さず死んだ

 鳥が云ふ誰にとつても祖国とはつねに真冬が似合ふものだと

 自閉とはむしろ自開だ秒ごとに傷つく胸を風に晒して

歌集の中盤になるとこういう苦しい歌、少し社会への批評性をもった歌が表われてくる。しかし山田さんのこうした歌は、あくまで自分の体温から遠いところへはいこうとしない。親の収入超せない自分、そして友人の死、身近なところから酷薄なものを歌おうとする姿勢には好感が持てる。「鳥が云ふ~」の歌は象徴性を持たせた一首で、あまり高いところから行くとスタイリッシュになりすぎてしまうが、「真冬が似合ふ」という響きがやわらかさを感じさせる。「自閉とは」の歌はおそらく集中で一番かなしい叫びである。「自閉とはむしろ自開だ」と開き直ってみせるところにやや強がったわれを感じさせるが、下の句の付け合わせがかなしい。これらの歌は歌として成功していると思う。

さて、少し気になったことも書き記して置かないといけない。

それはひとつめは旧かな口語という問題である。

山田さんは私が拝読した限りでの前評者である東郷雄二さんや、解説の穂村弘さんの指摘にもあるように、西田政史さんや寺山修司さんから深い影響を受けていることは言うまでもないのだろうが、文体はもっともっと口語的である。

やうだね、さうだね。してゐるといった表記が集中に散乱しているのだが、例えばこういう歌は美意識としてどうなのだろうか。


 いつも同じ作り話ぢや飽きちやふねお気に入りのマグカップも割れて

完全に平坦な口語で作られているのだが、中身は全くの旧かな使い。そして「ぢや」であるとか「飽きちやふね」といった見慣れないかたちの旧かなが見える。ここまで表記が崩れてしまうと、果たして口語を旧かなで詠う必然性がどこにあるのか、という疑問がしずしずと湧いてくる。これはふつうに「じゃ」「ちゃうね」でいいのではないか。口語と旧かなは別のものとしてとらえられてもいいのではないか。

 きやんどるの位置を直して窓ごとにかがよふ夢を鳥に見せたし

これは「きやんどる」という表記そのものが賛成できない。一言でいうとかなり俗っぽく、ふつうにカタカナでキャンドルではだめだったのだろうか。山田さんの美意識が単純に「旧かな表記」に耽溺している程度の美意識だったらどうしよう。ということを心配してしまう。

旧かなには文語の響きがあり、旧かなの持つ文語的な響きを生かしてこそ旧かなは旧かなとして成立するということを、私は持論として言っておきたい。現代の日本で、旧かなで歌を作るというのはかなり不自然なことだ。しかしある程度の歌人が旧かなを選択するのは、旧かなでないと歌いえない響きや感性を求めてのことだと思う。その不自然さを乗り越えてまで、旧かな遣いを選択するのは何故なのか、と言う疑問を山田さんには提示したい。

そしてもう一つは作風の不統一をどう説明するのか、という問題だ。

巻頭に受賞作である「夏の曲馬団」を持って来て、そのあとにその他で読んだ自分の作品を並べる、という方法はおそらく大きな短歌賞を受賞した歌人なら当然そうするであろう歌集の構成なのだが、山田さんの場合、もしかするとこの手法は成功していないのではないか。と思われる。

既に私が取り上げた歌のなかでも、

 旅行鳩絶滅までのものがたり父の書斎に残されてをり

の歌に見えるような世界の構築性を重視する歌と、

 雨の朝きみが眠たげに喋るときせめて永遠をぼくの世界に

の歌に見えるような、完全に直球ストレートな胸キュン恋愛歌では大きな落差がある。

最初から「夏の曲馬団」のように「世界を構築する」ような歌を歌集で一貫してやっていれば、「ああこの人は寺山修司以来の天才」として名前が記憶に残るような気もするが、残念ながら「夏の曲馬団」のような歌は集中にほとんど見受けられない。

「夏の曲馬団」の世界を期待して読んだ私のような読者から見て、後半でそういう「世界を構築するような意志を持った歌」と言えば

 貴族の瞳(め)、長き睫毛はうつむきを知らずや五秒後のダービー馬

など、やや塚本邦雄的な響きを持った歌がちらほらと散見されるばかりで、あとは「日常に密着した甘くすこし苦い世界」としか評しようのない歌が続いている。

有り体に言うと、中盤、後半の歌は喩性というレベルで「夏の曲馬団」から大きく後退してしまっているように見受けられるのだ。

これは、「どう作風を固定するのか」

というのがまだ歌を作っている作者自身にも固まっていないからだろう。

おそらく山田さんの才能であれば、この辺の課題は完全にクリアしてやすやすと次のステップへ移行できるように思われる。「きみ」との甘やかな世界との共感と「世界を構築する美意識」と共存させる喩的な能力の高さが結合すれば、あらたな作品世界を山田さんは手にすることができるであろう。

 フェルディナン・シュヴァルよ、蛾よ、かなへびよ、わがいとほしきものは地を這ふ

 除雪機は未明を進む泣き虫の一つ目巨人(サイクロプス)のごとく唸りて


私は個人的には歌集後半のこういった歌に、その才能の萌芽を見た。山田さんは、その才能が保証された歌人なのである。今後のさらなる健詠をお祈りしている。
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