2012年11月 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

2012年11月

豊島ゆきこさん、『りんご療法』

豊島ゆきこさんの第一歌集、『りんご療法』を拝読する。2008年の砂子屋書房刊。


一読、次のような歌がいいと思った。

①「おさかなの死」を尋(き)く吾子に世にめぐるいのちを話すさんまほぐしつつ

②ものかげに水引の花咲くやうな秋の一日(ひとひ)も店を守れり

③戦ひに天草四郞の掲げたる旗は残りぬいのちもたぬゆゑ

④玻璃一枚隔てて人の営みのすこし向かうに水仙の伸ぶ

⑤銅鐘の響きは長く底ごもり生まれし土地がわが終(つひ)の土地

⑥そのかみの「深屋善兵衛」長き名の二字がとられてわが店「深善(ふかぜん)」

⑦散ることの美のみ歌はれにつぽんのとある時代に冥かりし花

⑧子がひとりゐるといふこと私の興したちひさな会社のやうだ

⑨そのかみに激しき夜戦ありしとふ東明寺(とうみやうじ)かそけく落ち葉掃くおと

⑩ざつくりと柘榴は裂けぬほんたうのことひと息に言つてしまへり



すごく短歌という詩形のなかで自然なことを、この作者は何度も何度も確認しているような印象をもった。

短歌とは人生の履歴であり、記録なのだということだ。

作者像が明快に浮かぶということが、この歌集の良さであり、シンプルではあるが短歌の持つ味わいなのであろうと思う。

作者は埼玉県の川越で「深善」という店をやっているらしい。そして歌集が進むにつれて、飼い犬のことやお子さんが成長していく様子などが次々と描かれていく。主婦として、また店を切り盛りする立場の方として、また母としての日常が描かれている。作者はとても地に足をつけて歌を作っている印象を持った。かなり長いスパンのことを一集に編まれた歌集で、最初に「おさかなの死」を聞いていた子どもが、大学の入試を受けていたりする。長く短歌を続けられてこられた作者なのだろう。

一つ一つの歌の水準は、決して高いとは言えないかもしれない。しかし、何十年にもわたる日常を記録し、人としての営みを大切にするという安定感を一集から感じられる。

1首目から鑑賞してゆく。

①は「おさかなの死」と「さんまほぐしつつ」という上の句と下の句が対応して、納得感を深めている作品。おそらく編年体で並べられたのであろう、この集の最初の頃のお子さんは大分小さいように見受けられる。さかなの死から世にめぐる命の話を子どもに言い聞かせるという、何気ない歌なのだが、「家庭のなにげないやりとり」を読者に思い描かせる。とても納得感の深い作品だ。

②水引の花咲くような、というのは何気ない直喩だが、歌のなかでよく馴染んでいるように思える。どんな光景なのかはよくわからないが、まあひっそりとした秋の光景なのだろう。その一日を「店を守れり」と作者はいっている。店を守れりという言葉にあわいひかりのような感触をまとわせることに成功している。しずかなひっそりとした秋の一日、店のあかりを照らしている、そんな情景を思い描いた。一集のなかで一番すきな歌かもしれない。何気ないが、成功した作品だと思った。

③おそらく長崎を旅した時の作品だろう。「いのちもたぬゆゑ」という下の句が上手に入っていて、一首のなかで深い納得感を感じさせる。仮に「いのちもたぬゆゑ」という作者の視点がなければあっという間に平凡な歌になってしまうのだが、上手に定型のなかに作者の視点が収まっているので、読み手としては納得して読める一首。過去のものに思いをよせたときの歌は総じていいと思う。

④玻璃と言う言葉はややきれいに歌につきすぎたかなという感じはしないでもないが、硝子の異称だという。硝子一枚隔てて、人の営みがある。その向こうに水仙の葉が伸びているのだという。まあ微細なことを掬い取ろうとしているのだろう。こういう人の営みとか暮らしというところを歌いたい作者なのだろうと思って拝読していた。

⑤銅鐘という語感が良く生きていて、そこに長く「底ごもり」、という言葉付きの良さをとりたい歌だと思った。
自分の深いところに根ざしたものとして銅鐘という言葉があり、自分の生れた川越が終(つひ)(自分の最後の)土地だと言っている。上の句の感覚が上手に実感をもって歌に対応していて、とてもよい歌だと思った。

⑥「そのかみの」から一気に「深善」までもってくるところに、韻律の力を生かした作者の歌の技量を感じさせる。その昔に「深屋善兵衛」と言う人がいた。その長い名前の二文字がとられて、自分の店の名前が深善になっている。単純なつくりの歌だが、韻律に一気に力を任せてのっけてきた感じが心地よい。またこの作者の境涯を述べるひとつのテーマを提示する歌のようにできている。

⑦確かに桜は一時期、散ることの美だけが強調されて非常に暗かった時代があった。桜を歌うのは非常に難しいが、この歌は桜の美しい面だけを強調せずに、冥かりしという言葉を入れることで非常に時代性を帯びた奥行きが深いものになっている。こういう歌は歌集のなかでも数は少ないのだが、所々にこういう歌を歌おうとする作者の意識は感じられると思う。

⑧自分の子どもがいるということを、ちひさな会社のやうだ、とする表現に独特の感受性がある。この歌は深い納得感のある歌。実際に子どもを産み、育て、という行為はおそらく実社会でいう「ちひさな会社」を興すことにひとしいくらいの大変さがあるのだろう。この感触はとても響いてくる歌

⑨はるか昔に「激しき夜戦」があったとする過去と「かそけく落ち葉掃く音」がするという今の東明寺の対比が面白い。歌の形として上の句で過去の「激しき夜戦」についてのべ、下の句で「かそけく」とする基本に忠実な言葉の対比のさせ方で、これはよく効いて成功しているとおもった。激しき夜戦という言葉の意外性もいい。


⑩「ざつくりと柘榴は裂けぬ」という言葉の後に、「ほんたうのことひと息に行ってしまへり」、という下の句をつけた。これははなにげない歌だが、ざくろのあざやかな感じと、自分のはかない感じをきれいに対応させているとおもう。総じて上の句と下の句、きれいに対応させようとした歌はうまくまとまっていて、手堅い感じを受ける。


ただどうしても歌集に多くなってしまうのが、「結句がまずい」歌である。歌集の前半に多いが、結句で説明的にまとめてしまう感じの歌で、こういう歌は安易に形にはまりすぎて賛成できない感じがする。


巻き上ぐるブラインドにしろき雪の街あらはるるとき清女の気分

咲き満つる桜の下でボール打つ女生徒のこゑ 春の長調

けふ一日鳥になりたし金の粉をまぶせるごとき木犀日和

夕涼み会の薄暮に紺色のゆかた着こなし少女は桔梗

家ひとつ毀(こぼ)たれしのちしばらくをすみれ生ひたり むらさきの領

すべて結句に難があるというか、結句で説明をしてしまっているために余情が生れないという初歩的なミスをしている歌だとおもう。

「清女の気分」は雪の街の説明として働いてしまっているし、「春の長調」もなんだかとってつけたような下の句。三首目はちょっと情景がロマンティシズムに流れてしまっている。「木犀日和」はややポップス的な、平凡な下の句だ。四首目もゆかた着こなしのあと、「少女は桔梗」としているあたりが、ちょっと説明かなあと言うまとめ方。五首目も、きれいな歌だが、最後に「むらさきの領」と下の句でなんだか「まとめ」のように入っている決め方が、あんまり機能しているとは言い難い。

ちょっとこういう感じで「まとめ」に入ってくる結句の付け方は気をつけたほうがいいと思った。

日常のことを丁寧に掬い取ろうとするところにこの作者の本質があるのだろう。技術的な難というのは次の歌集あたりで早めに解消して、作者らしい生の奥深さを見せてほしいと思った。
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「率」2号(2)

率の2号、2回目である。今回は吉田隼人さん、吉田竜宇さん、小原奈実さん、馬場めぐみさんを取り上げる。


まずは吉田隼人さんの一連、「砂漠と幽霊」である。

うーん。率直に言って吉田さんは今回かなり苦戦しているかな。という印象を持った。「率」の同人のなかでは珍しく藪内さんと二人で文語旧かななのだが、吉田さんの連作は文語旧かなの良さを十全に生かしているとは言い難い。正直いって、文語が持つ「余情」が足りていないのである。

①とほく雪降りはじむるを音に聞きからだは咳でふるへる粒子

②眩暈(めまひ)かもしれぬ余震で隠るれば机の影は方形なりき

③故郷しづかにうしなはれをり売薬の錠剤噛んで噛みくだすとき

④体罰のごときあめゆき何処ゆきのバスとも知らず乗りこみにけり

⑤精神をひきずつてゆく 泥濘のそこかしこ薄氷(うすらひ)張るさなか

⑥可能世界のわれを殺むる速度もて通過してゆく特急電車

⑦きみはきみの苦痛を生(いく)在るほかなくば雪の廃墟で傘をさしけり

⑧薬壜洗ひ干されてゐたりけりまるでからだのないひとのやう

⑨屋根ひくきこの町にけさ逃げ場なく無色の風のふきだまりをり

⑩車椅子おさるる少女おす少女 時間差に髪ふはりとゆるる

50首のなかから気になった歌を10首選んでおもむろに鑑賞してみる。

①は悪い意味で気になった歌だ。とほく雪降りはじむるを音に聞き、まではすらすらと読める。おそらく作者は「とほく」のほうで雪が降り始めているのを音に聞いている。しかしいきなり「からだは咳でふるへる粒子」としたときに、なんでそんないきなり具体物を出すのか、がよくわからない。「粒子」という表現は、作者が一首のなかにまるで異物を差し込んでしまうかのように結句に入っているわけだけど、こういうふうに安易に具体物に落ち着かせる感じ、というのか、そういう感触があまりすきになれない。

そう考えていくと、音に聞き、もやや具体物に入ってしまった感じの情景の提示の仕方だ。「とほく雪降りはじむるを聞きゐたり」ではだめだったのか。なんというか、この作者の文語が「なめらかではない」印象を受けるのは、音、とか、粒子、とか、名詞をぶつんぶつんと差し挟んでしまって韻律を阻害させる感じがあるからだとおもう。

歌意をとろうとすると、やっぱり下の句はよくわからず、おそらく「からだ」のことを「粒子」と言っているのであろう。「からだは咳でふるへる粒子」というのは、からだが咳で粒子のようにきらきらと震えている、そういう感触を出したかったのだろうとは思う。おそらくこの作者の特徴として、文語で丁寧に描写するというよりは何か外部から具体物をすぽんともってくる、という感じの書き方をしたいんだろう、とは感じる。

②これはよく見ている歌だと思った。「机の影は方形なりき」という描写はとてもいい。しかし上の句はやはり余計なものが入りすぎているように思える。「眩暈かもしれぬ余震で隠るれば」、というのはちょっと「しれぬ」というあたりの言葉使い、用言があまりきれいに入っているとは思えない。「机の影は方形なりき」にフォーカスさせるための上の句であれば、眩暈、余震という言葉使いはちょっとピントがぼやけるかな。という感じがしてしまう。この辺は感覚の問題なので難しいのだが、僕だったら「眩暈かもしれず」で止めるかな。と思う。ちょっとだらだらっと名詞を差し込みすぎているような感じが気になる。

③うーん。やっぱり響いていないなあという感じがする。「故郷しづかにうしなはれをり」という上の句と「売薬の錠剤噛んで飲みくだすとき」というのは連結していない。僕は、「売薬の錠剤を噛んで飲みくだす」と「故郷がしづかにうしなはれ」るという上の句下の句が、一首のなかで必然性をもって響き合っていないとだめだと思う立場の読者だ。歌のふくらみというのは、上の句と下の句が上手に響き合ってからこそうまれる。そういう骨法を無視しているので、故郷が失われたという表現と錠剤を飲みくだすという表現に必然性がうまれてこない。これも悪い意味で気になった歌。

④①、②、③でなんか盛大にだめだしをしてしまったが、④はいいなあと思った。体罰のごときあめゆきという直喩が作者の心情をかるく乗せていて、下の句で「何処ゆきのバスとも知らず乗りこみにけり」という感触は、すごくよくわかるというか上の句と下の句に必然性がある。あめゆきが降っていたので、自分はまるで流浪者のように「何処ゆきのバスとも知らず」に乗り込んだのであろう。これは感覚がよくわかる。良い歌だと思う。

⑤おそらくこういう概念的なことが表現したいんじゃないかな、という吉田さんの骨法がよく見える感じの歌だ。
「精神をひきずつてゆく」は無理な表現がかかっていない上の句で、これは哲学の用語からきている重たい「精神」なのだろう。その「精神をひきずつてゆく」という上の句に、「泥濘のそこかしこ薄氷の張るさなか」、という下の句をつけた。この歌は悪くないのだが、やっぱり歌としての「必然性」ということになるとちょっと弱い。上の句と下の句を結びつけるキーワードがないので、上の句はいいし下の句もいいんだけど、上と下が対応してないんじゃないのか、という感じにさせられる歌だ。

⑥可能世界も哲学用語。僕はよくわからないのだが、現実世界とは異なる違う世界のことを可能世界というらしい。その可能世界(もしこうありえたらという世界)のわれを「引きずる」速度で、特急電車が通過してゆく。これは概念的だが歌意はとれる。自分はおそらくホームのなかにいて通過して行く特急電車を見ている。その特急電車のなかに「可能世界」(もうひとりの)われがいる。こういう概念的な歌が歌いたいのかな、と思った。

⑦はやや廃墟と言う言葉が大仰だけど、まず成功した歌じゃないかなと思う。「きみはきみの苦痛を生在る他なくば」、というのは人は誰でも自分の苦痛をそれぞれに生きなければいけない、それを「きみ」に仮託して歌っている感じがする。そこに自分は雪の降る廃墟で傘をさしている。これは響き合っているし、やや大振りな言葉使いがめだつけれど成功している感じはする。

⑧⑨はとても良い歌だと思った。⑧薬壜というのは確かになかが空洞になっていて、「まるでからだのないひとのやう」という比喩はよくわかる。上の句の「洗い干されてゐたりけり」も無理な力がかかっていないので、上手に丁寧に響きあっている。こういう感触の歌は好みの歌である。

⑨透明な感じを歌にだそうとしている。「屋根低きこの町」はすごくうまくものを見ていて、そこに無色の風が吹きだまっている。と言う見立てはものすごく自然で、無理なことをしようとしていないのがいい。こういう言葉に力をかけない感じはとてもいいと思う。

⑩最後に一番お気に入りの歌をとっておいた。「時間差に髪ふはりとゆるる」という表現がとてもいい。これは名詞がうまくはいっていて、具体物を差し出す感じとして成功していると思う。車椅子おさるる少女おす少女、までなめらかに上の句がきて、そのあと下の句で「時間差に髪ふはりとゆるる」、と上手に具体物を落ち着かせている。

以上10首鑑賞した。一首のなかの名詞の言葉つきにはほんとに気をつけたほうがいいと思った。なんか概念的にぽんとはいってくる感じがあるので、そういう歌を作らない方向で歌うのか、あるいはそれを全面に押し出して歌うのか、はっきりと分けた方がいいのではないだろうか。

この連作からは、吉田さんの文体は、まだまだ移行期だなあという印象を強く持った。




続いては吉田竜宇さんの作品。「人がいなくても血がながれることがあります。」

加速感のある文体で、名詞をぽんぽんと繰り出してくる感じの文体。

連全体として名詞の連なりが面白くそのイメージの飛び具合が気持ち良く入って来る。どれも高い水準で歌を並べていると思う。非常に面白い一連だと思った。

たとえばこんな歌。

海はその端から滝と流れ落ちそれを支えている亀と象

これは全部二音の名詞で構成されている。海、端、滝、亀、像。この二音の名詞を韻律にぽんぽんと乗せていくことによって、全体的に韻律が加速感をもって読み進められる感じになっていくと思う。歌意をとっていこう。これは地球平面説で描かれた地球の様子なのだと思った。海はその端から滝と流れ落ち、というのは、平面である地球では海が端から滝として流れ落ちてゆく。それを亀と象が支えている。ちょっと奇抜でシュールな情景なのだが、これは名詞の力で一首を構成している。そういうバランス感覚のよさを歌からは感じさせられる。

たのむ料理が同じで笑う赤色の魚の腹に草は詰められ

上の句七音がはやい。「たのむ料理が同じで笑う」はごくありきたりな表現なのだが、こう77の句にきれいにまとまっていると、良い感じで響いていると思う。それで下の句に料理の描写が出てくるのだが、「赤色の魚の腹に草は詰められ」、これも平凡な見立てではあるけれど、きれいにまとまっているとおもう。一見すると散文的な表現なのだが、こういう形でイメージを提示すると効果的だな、というのが作者は体感としてよくわかっているように思われる。あっさりしているけれども非常に好感を持って読んだ。うまい歌を作る作者だなという印象を持つ。

ただ、この一連のテーマは「戦争」なのだと思うのだけど、喩景だけで戦争を描ききってしまって、ちょっと実感のともなわない「戦争」というか、作者のポジショニングがはっきりとしない「戦争」の描かれ方をしているなと思って、そこに賛成できないといえば賛成できない感じがする。

巴里は燃えています落としたのは銀ですちゃんと国旗で包みました

ボランティアで戦争に行ったままなのにamazonからの遺灰が届く

なにごともなかった空に無数の風船そして戦争は終わったの?

うーん。この3首はおそらく戦争について書いた歌だと思うのだが、立ち位置を明確にしないまま戦争について述べたとしても、あんまり説得力がわかないかなとおもう。この戦争とはなんのことなのか。自分がコミットしてないということだけは確かで、そういう実感のわかないところで戦争を歌ったとしても、もうこの辺の表現はニューウェーブ以降で大分でて来ちゃったんじゃないかな、と思う。

一首目

歌としては綺麗に決まっている。しかし、批評性としてはどうなのかな。落としたのは銀ですというのは完全に無意味の意味をあらわすような感じの句の入れ方で、あまりこの句の入れ方には賛同できない。あまりに軽く巴里は燃えている、と歌いすぎている。この作者の場合、イメージをとにかく加速感に委ねてぽんぽん入れていく作風だと思うので、こういう歌に批評性を感じるかどうか、というのはおそらくかなり意見が分かれるところだと思う。

二首目

現実にはありえない光景を歌っている。ただ、この歌は批評性が機能しているような気がする。amazonから遺灰が届くというのは、世の中確かになんでもamazonからものが届くようになってしまっいて、おそらく自分の遺灰もamazonから届くんじゃないかというちょっと奇妙な不安感を入れた歌だとおもう。「ボランティア」で戦争に行った、というのも、おそらく友だちが「ボランティア」で戦争に行ってしまったのだろう、日本人の戦争に対するスタンスというのはどちらかというとこういう意識なのかなあという気がして、ここには少し現代的な感触を拾い上げようとする作者の姿が見えているように思われる。

三首目

これは失敗していると思った。「なにごともなかった」、「そして戦争は終わったの?」

という表現は古い。どの戦争について述べているのかわからないが、結局「ひとごと」のように戦争をとらえる感じ方というのは、もはや挑発の文体としては機能しない。もうちょっと「コミットしない」ならしないで、二首目のように戦争と現実感をうまくシンクロさせるといいのに、と思った。

表題歌はいいと思う。

人がいなくても血が流れることがあり私たちには綺麗な臓器を

これも強引に解釈すれば、なにか臓器移植のような出来事について述べているのだと歌意をとる。「人がいなくても」というのは、おそらく死んでいる(脳死になっている)人のことだと思った。だからその人は「人」としてはもうこの世にはいないのだけれども、当然血が流れることはある。「私たちには綺麗な臓器を」というのは、その臓器を提供してほしいということだろう。こうやってよむと、上の句「人がいなくても」は、とてもリアリティをもってこちらにせまってくる歌の表現のような気がする。

良い歌が並んでいるだけに、表現の題材が惜しい感じがした一連。この作者の才質にも期待しておかなければならないと思う。




招待作品にうつる。小原奈実さんである。この人はほんとうにうまい文語旧かなの歌を作れる作者だと思う。

よく若い人の歌は「わからない」という感想が出ると思うのだけど、この作者の歌はほんとうによく分かる。
文語旧かなの急所をしっかり押さえて歌が作れる作者。やや、旧字に凝りすぎているかなあという感触はあるが、それでも奥行のふかい作品世界を展開できる可能性のある作者だと思う。

①黙すことながきゆふさり息とめて李の淡き谷に歯を立つ

②耳小骨はかつて魚類の顎の骨電話のきみにゆるやかに馴れ

③抱き来し本に移れる身の熱を贄(にへ)のごとくに書庫へ返せり

④病院へ並木つづけり往路、帰路、とはの往路もあらむか樹下に

⑤齧歯類の死後のしばしを冷しおく野菜室あり二匹を加ふ

⑥右耳に近き窓より鈴虫のこゑ痙攣のごとく触れくる

⑦果軸まで濡るる葡萄よ享けたれば水ひといきに腕をくだりぬ

いいと思った歌を7首あげておく。

①は李(すもも)とよむのだろう。自分が沈黙している時間がながい夕暮れ時に、息をとめて李の窪んだ部分に向けて自分の歯を立てる。これは何気ない行為だが、李の窪んだ部分を「淡き谷」と表現したりという細かいところに作者の発見が見てとれる。良い発見の歌だと思う。

②はおもいっきり理系的な発見で歌われた1首。調べてみるとたしかに耳小骨というのはかつて「魚の顎の骨」だったらしいが、ここでは上の句思いっきり意外な発見を持って来て、読者を立ち止まらせる。そして下の句では、自分の耳を電話におしあてながら、他人の声を聞く様子が描かれている。「きみの電話にゆるやかに馴れ」というので、ああ耳小骨を発想したのは電話だったのか、という解読ができる仕掛けになっている。非常にうまい歌で、思わず付箋を貼らずにはいられなかった。

③は「贄のごとく」はちょっと動く感じがするというか、やや大袈裟な直喩の取り方だなあと思うが、自分の体にうつった本の熱を、書庫に返すというあたりの発想に、短歌的なものと親和性の高い「もの」の見立て方がある。うーん。うまいな。ただ本を返すだけではなくて、本にうつった自分の熱を書庫へ返すのである。こういう「われ」の感覚をうまく歌に入れ込んで歌うのは短歌としてとても自然な発想である。

④何気ない日常の描写から、「とはの往路もあらむか」という詩句の挿入で読者をはっとさせる。あわてて上の句を見ると、「病院へ並木つづけり」となっていて、たしかに病院は入院したり退院したりする患者さんもいるのだろうけれども、一回入院したままそこでお亡くなりになる患者さんも当然いらっしゃるわけで、それをやわらかい文体で把握するあたりがうまい。病院とはっきり言わずに、「病院へ並木つづけり」としたあたりが、うまくぼかしが入っていて、往路、帰路もやわらかく韻律を溜めている。非常にうまい歌で一番最初に着目した歌。

⑤これは思いっきり残酷な歌で、ん、なんで野菜室に齧歯類の死後を冷やしておくのか、と一瞬わからなかったが、そのあとの歌でマウスの首を切る様子が描写されている歌があって、ああ、おそらくこの人は実験でネズミを使っているんだな、ということがわかる。医大生か何かなのだろう。だから、「齧歯類の死後のしばしを冷やしおく野菜室」なのである。そこにさらに「二匹を加ふ」としている。歌としてはこの「二匹を加ふ」にとても強いリアリティがあって、ああ、ほんとのことを歌っているな、という感じにさせられた。

⑥自分の身体感覚に根ざした歌を歌うのがこの作者の特徴なのかなと思って読み進めた。西側とか東側とかそういう窓のとらえ方ではなくて、あくまでも「右耳に近き窓」から聞こえてくるのであって、この表現に体感に根ざしたリアリティを感じる一首だ。鈴虫の声が「痙攣のごとく」ふれてくる、というのは非常に直喩としては決まっているとおもう。痙攣か。そんなふうに鈴虫の声をとらえたことはなかったけど、言われてみれば確かに鈴虫の声はうるさい。それを痙攣と表現した発見はいいと思う。

⑦これは「享けたる」という言葉がやや字に凝っていてどうかな、という感じがするのだが、葡萄の房がそれこそ果軸まで水に濡れているのだろう、その葡萄の房を手でうければ、その水が一気に自分の腕をくだっていく。ここにも体感に根ざした瑞々しいリアリティがある。

小原さんは派手ではないが、非常に漢語的な響きに根ざして自分の身体感覚を歌うという点で、とても才能のある作者だとおもう。才質があってしかもわかいというのはとてもうらやましいなあ。


馬場めぐみさん

あんまり感心してよまなかった。どうも連作が情緒に頼りすぎというか、口語短歌としてはもうこのくらいの歌は誰でもやすやすと読めるレベルにあるだろうという気がしていて、こういう感じで今後歌を作っていくとするとかなり厳しいのではないかと思う。

修辞的な新しさも実感的なリアリティもなく、ただ言葉を31音に並べただけです、という感じがあまり気に入らない。

風のなかにいるということだけがわかる気がするのだけど気のせい

ピンヒールを履いて背筋を伸ばして何故にそんなに生きようとする

そんなにも赦さなくていいそんなにも愛さなくていいそれでもきみは

境界がわからなくなるところまであなたとおととことばとわたし

夜が明けて日々が続いていくことは残酷だからしがみつくだけ

希望と呼ぶ薄っぺらさに縋るしかもう術が無いお願い生きたい

切実と名付けられる度醒めていく言葉が力を持つわけがない



あげるとすれば6首目、7首目だろうか。お願い生きたい、とか、切実と、という言葉にかろうじてこの作者の「表現したいリアリティ」のようなものが見てとれるけれど、もうちょっと「生のままの言葉」を並べるよりも、なにかこう工夫をしないとやっぱりだめだろうという感じがしている。ちょっとありのままの言葉のならびだけで勝負しつづけるためには自分のなかでの「具体的なテーマ」が必要になってくるだろうとおもう。具体物を出さずに感触で勝負した歌はやっぱり弱い。

今後の作品に期待したい。

さて、率2号、藪内さんと内山さんだけが残った。まあ自然な成り行きでこうなってしまった気がする。。。。

このお二人については折りにふれて述べる機会があるだろうということを期待して、今後の作品に期待することにしよう。二人とも歌質はあきらかに受賞作や歌集収録歌とくらべて歌質が落ちているので、今回はとりあげないことにする。

「率」2号(1)

文学フリマで購入した同人誌の紹介。今回はその続きである。

今回は、本命の「率」2号を拝読する。

実は以前、ここに集う人たちがどういう短歌を作る歌人かということをほとんど全くと言って良いほど知らず、紹介でもできなかった。(「町」のときはやむをえず書けなかった)ので、一体ここに集まる人たちはどういう歌を作っているんだろう、という興味が湧いて、これを買うために文学フリマに行ったといってもいい。

招待作品は内山晶太さん、小原奈美さん、馬場めぐみさん。同人会員は藪内亮輔さん、瀬戸夏子さん、川島信敬さん、平岡直子さん、松永洋平さん、吉田隼人さん、吉田竜宇さんである。

評論は一切なし。

もう短歌しか並んでいないので、これは「短歌の鑑賞をせよ」ということなのだと思う。

粛々として、短歌の鑑賞にうつる。

一体どんな世界を見せてくれるかなのだが、内山晶太さん、藪内亮輔さんは「知っている」作者なので、いいかなあ、とは思うが体力に余裕があれば。という感じにしようと思う。僕のなかで「どんな短歌を詠うのかがよく分からない人」を優先してとりあげたい。とりあえず興味を持った人「順」という取り上げ方をするが、目次ページとは違う感じで短歌をとりあげる。

まずは「率」を僕に売ってくれたという個人的な理由で、

平岡直子さん「装飾品」から取り上げる。

「感想書きますね」、と約束をしたのも平岡さんだ。

正直にいって、「わからない」という印象が強い口語の歌だとおもう。この鑑賞もあっているのか間違っているのかさえよくわからない。ただ全体的に「詩」のほうへと歌をひっぱってきた感じのする一連。

「装飾品」とはかなり無骨なタイトルが投げ出されているが、中身はとてもきらきらしている感じがする。



①速度計の針はふるえて絶対にほんとうに泣くか何度も聞いた

②撒いたのは母のはははとははとはの立つ人しゃがむ人おめでとう

③夜と窓は強くつながるその先にひとりぼっちの戦艦がある

④きみが思うわたしの顔を思うときそこにぽっかりあく空洞の

⑤バス亭でひととき虫に懐かれてどうせ誰にでも降る雨だった

⑥炎、歴史、美しい脚、三面を持つ心臓を尾行するだけ

⑦歌を甘くみなさい まずい珈琲に浮く埃すらああ光ってる


①、作者がどちらかというとエモーショナルな言葉使いを強く志向しているということがわかる下の句になっている。「絶対にほんとうに泣くか何度も聞いた」、というのはかなり厚ぼったく言葉を塗りつけている感じがするが、なんというか、感情のそそりたつままに一点突破しようという感触の歌だと思った。上の句、「速度計の針はふるえて」、は、車に乗っているシーンなのだろう。一定したスピードでずっと走っている。この速度計の針の「ふるえ」と、下の句はきれいに連結できているように思える。自分が運転しているのか助手席に座っているのかはわからないが、もう一人の相手に「絶対にほんとうに泣くか」と何度も聞く。この行為にははじけんばかりの情感の強さが感じ取られると思う。とにかく感情のほうが先にたって、ぐいぐいとひっぱっていくような感じのする一首だと思った。それは、「速度計の針はふるえて」の「ふるえて」と言う言葉がそうさせているのだとおもう。本来なら速度計の針はずっと震え続けているものなのだろうとおもうが、作者はまるでなんでもないことのように「速度計の針はふるえて」と針のふるえを枕にしたような言葉使いをしている。どちらかというと一瞬を切り取ろうとした歌だと思った。


②これは面白い言葉使いの歌で、修辞的にはオノマトペと意味の中間ぐらいを歌っている感触のある歌。あえてひらがなでひらいてあるが、上の句の、「撒いたのは母のはははとははとはの」は、おそらく母の「ははは」(笑い声)と、「はは」(母)と、「は」歯というふうに実際の光景にも還元できるように作ってあると思う。そして、そのあとを短歌的な「の」でかるく接続して、下の句には「立つ人しゃがむ人おめでとう」という句をつけている。ここには、完全な口から出任せというか、言葉の感触に身を任せて作りました、という感覚を強く感じる。こういう歌は成功しているのか失敗しているのか判断が難しいところだが、僕は成功しているように思った。母の「ははは」と「はは」と「は」のは、何かコミカルな感触を実景として受け止めて、母の笑い声とその「はは」の歯という状況を説明しているととり、下の句では実景としておそらくコミカルに立つ人しゃがむ人おめでとう、とつけたのだろう。このタッチが軽いので、良い言葉つきの「口から出任せ」として受け止めることができるように思う。


③は一読して最初に立ち止まった歌。夜と窓は強くつながるという言い方に何か強いポエジーを感じ取って立ち止まった。ふつう、夜と窓がでて来たら、そこに「いかに」夜と窓が強くつながっているかという描写を入れて、そのまま一首を終わらせてしまう感じのところだが、この作者の場合、イメージをさらにだぶつかせるというか、「夜と窓は強くつながる」とあっさり説明して、そのあとに強引にぬりたくるように「その先にひとりぼっちの戦艦がある」というさらに強力なイメージを提示させることで、歌を濃密にさせようとしている。イメージが「飛ぶ」感じのする作者なのだ。実際の光景としてもとれるだろうが、おそらくは心理的な光景だろう。本来ならば女性の口語文体からは戦艦という言葉はなかなか導き出せないとおもうが、「ひとりぼっちの戦艦」という表現はちょっと異質な感触が漂っていると思う。歌としては、「夜と窓は強くつながる」、と上の句のほうがポイントになると思う。おそらく窓のこちら側にいる作者の視点からは「夜と窓」というのはとても濃密に見えているのだろう。その先にあるのは「はるかなもの」というか、自分には触れ得ない感じのものである。その象徴としての「ひとりぼっちの戦艦」だろうと思った。「強くつながる」という言葉のほうに逆に新鮮さを感じる。

⑥炎、歴史、美しい脚と一見関係のない三つのものを提示してきて、そこに「三面を持つ心臓を尾行するだけ」、というさらに複雑に絡み合わせたようなイメージを提示していく。とにかくイメージを塗る人だなあと思うが、そのイメージに必然性がないと一首が瓦解してしまう危険性を孕んでいる。ただ、この歌はイメージの必然性という点からみて、成功している雰囲気が漂っている。

「炎、歴史、美しい脚」というのは強引に解釈するとすると、人類の発祥の期限である「炎」、そして人類が記録される様子である「歴史」、そして最後に未来に歩いてゆくための「美しい脚」という3つのイメージの提示であるように思う。そうすると「歌意」の解釈にはなるが、僕はこういう「何を指しているか」という解釈ゲームはあまり好きではない。

この歌は「炎、歴史、美しい脚」というイメージの連鎖的な提示をしたあとに、「三面を持つ心臓を尾行するだけ」、という詩句で、自分の内面について述べている。「三面を持つ心臓」というのは、上の句を受け止めるために「三面」としたのだろう。心臓は何の比喩かとかとは考えないことにする。何か生き物のように脚をもって歩いている「心臓」を連想した。それを「尾行するだけ」というところに、自分の心情の説明が入っている。人間の歴史とか炎とかそういったものが面がある心臓を自分は「ただ尾行するだけだ」、というあきらめのような心境が語られている。歌としては相当な難解歌だが、個人的には好きな歌の部類に入る歌だ。


④も不安定な情感を漂わせている。「きみが思う私の顔を思うとき」というのは「思う」がふたつ重なっているが、あえてそうしているのだろう。不自然な感じはない。きみが思う私の顔を思うとき、というのは、相手が思いうかべている自分の顔、つまりは自分自身の顔とはイコールではない、相手のなかのイメージとしての自分の顔ということになる。そのあとの下の句で、「そこにぽっかり開く空洞の」という言葉には、「相手に浮かぶ自分の顔のイメージ」のなかにぽっかり空く空洞がある、と言っているように思える。結句は「の」でとめているが、これは無力感を醸し出すための「の」のつくりであるように思う。非常に不安定な感じがして、作者の不安感がつたわってくる「の」の止め方だ。結句に強い無力感を感じて立ち止まった。こういう悲劇的な感じの歌の立たせ方はいいと思う。

⑤どうせ誰にでも降る雨だった、という言葉に、この作者のエモーショナルな言葉の立ち上げというか、情感をともなった強い詩句表現を感じる。確かに雨は誰にでもふる。しかしそれを「どうせ誰にでも降る雨だった」と歌い上げることで、「私」が固有にもっているもののの無力感、「私」の思いの強さのようなものが見えている。この下の句は非常にいい。上の句は情景の説明としてはかなりざっくりとしすぎているような感じで、「バス亭でひととき虫に懐かれて」というのは、下の句の雨とは関係がなく、歌としては下の句に連結していないので、失敗しているととしてもいいのかもしれない。ただ、バス亭でひととき虫になつかれるという情景の瞬間のなかに、「いきなり」自分の思いをぽんと「飛ばす」ように詩句を入れている感じが、この場合は際だっているように思った。バス亭で虫になつかれる、そんななんでもない光景のなかに、「どうせ誰にも降る雨だった」という作者の「ただ、どうせ誰にも降る雨だ」という断念のような投げかけが入っているので、それが一首の思いの深さのようなものを補強している、結果的に下の句のエモーションの持ち上げが生きる、という形になっていると思う。これは成功していると思った。

⑦。やはりエモーショナルな言葉の立ち上げ方が目につく一首。「歌を甘くみなさい」、というのはかなり大胆な言葉の挿入で、そのあとに、「まずい珈琲に浮く埃すらああ光ってる」という。結局作者はなんで「歌を甘くみなさい」と思ったのかも、「まずい珈琲に浮く埃すらああ光ってる」といったのかもよくわからないのだが、「まずい珈琲に浮く埃すらああ光ってる」というのは何か身の回りにあるものから大きなものを想像しようとしている作者の雰囲気というか心性のようなものだけが提示されている。「歌を甘くみなさい」という言葉の立ち上げからは想像がつかないくらい、「穏当ではない」イメージの飛ばし方である。とにかく平岡さんの短歌はイメージがよくあっちこっちに飛ぶのである。そして情感がちょっと悲劇的で胸を打つ感じに仕上がっている歌が、総じて胸にうつのである。

逆にはっきりと良くないと思った歌はこの一首。他の歌はいいのか悪いのか、僕には正直判然としない。イメージがなめらかに連結する歌は良い感じで読めるのだが、イメージが連結しない、判然としない歌は僕には解釈そのものがよくできない。

ただこの一首はイメージに頼りすぎているように思う。

ピアニストの腕クロスする 天国のことを見てきたように話して

この歌は、ちょっとピアニスト、クロス、と天国の、がきれいすぎるかな、という気がするのだ。平岡さんがこういった歌のほうを主眼に作られているのであれば申し訳ないのだが、ふつうきれいに対応する、というのは作者の美点とか技量ということになるのだけど、平岡さんの場合はきれいに対応させるということが必ずしも「成功」したとは言えないような気がする。

なんというか、上の句でクロスという言葉を出し過ぎてしまったので、下の句の「天国のことを」というのがイメージとしては、ものすごく陳腐なことを言っているのではないか、という気分にさせられてしまった。ちょっと歌としても、感情の立ち上がりがそんなにはっきりとは見えず、あまりにも妥当すぎるラインに落ち着いてしまったかなあという感じがする。

ただ、おそらく平岡さんの一連の場合、読み手によって多分良いと思う歌に相当な幅が出てくると思うので、どの歌も捨てずにもっておくといいと思う。僕は「平岡像」として、エモーショナルで感情の表出がとてもうまくて、それでどことなく悲劇的な感じのする作者像、イメージの構成力で勝負するタイプの歌人。と言う印象を受けた。こういう僕の「平岡像」も、多分新たな平岡さんの作品によって更新されていくことになるだろう。今後の作品が注目される作者の一人だ。




続いては瀬戸夏子さん。

「二上」というタイトルがついている。長い連作である。

一読しておののいた短歌がある。

魚とスーパーどちらも美しい袋につめる夜にあたまのなかからわかってく

夜、作者はスーパーマーケットにいた。お魚を美しい袋につめる、ここまでは行為としてわかる。その上に、さらにスーパーまでうつくしい袋につめてしまう。これは尋常ではない。ここからいきなりゆっくりと「詩」が動き始める感触がある。「魚とスーパーどちらも美しい袋につめる」、というのは実は実際にお魚を袋につめながら、何かスーパーまで頭のなかにつめていくような雰囲気のある上の句だ。

そしてお魚とスーパーを、頭の中の袋につめながら(これで実はリアリティがあるようで十分にリアリティを欠いた表現なのだが)「あたまのなかからわかってく」としている。一読して、2,3,秒考えた。うーん。ふむふむ。

ん?? この作者はとんでもなく深い発想の持ち主なのではないか????

滞留時間が長いというか、こうやって日常のことからちょっとずつ異化されて詩になってゆく感じが強いので、読者がふーん、そうか。という感想に辿り着くまでにちょっと時間がかかるというか、ワンテンポ遅れた感じで感動がやって来るのである。この一首に似ているのはなんだろう。中澤系さんのポエジーともちょっと違う。今橋愛さん感じともちょっと違うが似てる感じもする。

夜にあたまのなかからわかってく

というのは、普通出てこない発想で、この作者はどちらかというと口から出任せのように歌をつむぐ傾向のある作者なのだとおもうが、はまるとすごい深い歌になる。整理されていないものごとがあたまのなかからだんだんわかっていく、その行為を、お魚とスーパーを袋の中につめながら、だんだんはっきりさせてしていく。。。なんだかこの作者の「認知する」という行為そのものを、一首のなかで見せられているような、すごい哲学的な一首だなとおもう。

これは、凄いインパクトがある、と思った。

おれの新聞をとってくれ りんごはいい りんごは体によくないからな


これはりんごを、「とてもいい」といっているのか「いらない」といっているのかちょっと読みがぶれる。ただやっぱり感動があとのほうからやってくる文体なのである。おそらく作者の父か何かが言っているような設定で仮託されている文体なのだろう。そう考えるとりんごは「いらない」といっているほうの説をとりたい。

しかし、

「りんごはいい りんごは体によくないからな」

という文体のリフレインにものすごく効果を感じる。

何でこの人はりんごは体によくない、なんて思っているんだろう。そんなことはどうでもいいのだ。とにかく「りんごはいい、りんごは体によくないからな」と言われているのだ。ここには日常の会話から取材してきて、それを突き抜けちゃった呪術的なポエジーみたいなものを感じさせられる。

うーん。すごいなこの人。いったい何者だ?

という感じにさせられた。

どうやら作者も、このフレーズが効果的なことを自分でも自覚しているらしく、最終歌でやっぱり同じフレーズをもう一度つかっている。これはちょっと癖になる、いい文体を手に入れてしまわれたように思う。

僕はこの作者に関しては今回この二首だけでいいと思っている。他の歌はちょっと脇道にそれるというか、この二首に比べるとインパクトが薄い。

ただ、発想としては日常的なところを歌いながら、口から出任せ感に身を任せて歌が「はまる」のを待つというタイプで歌を作る作者だと言ってもいいのではないか。

強いて連全体について感想を述べるとすると、一首目、二首目、三首目、五首目あたりまでで完全につかみには成功しているが、途中のいろんな出来事でどんどん韻律が早くなってしまっていて、それがだんだん読者である僕には掴みづらい感じに見えているように思える。



夕映えのみちひとすじにさしてからぼくの復讐よろこんでいる

似た文字でたましいを信じゆくべきのひとさし指でよごした金貨

強盗は消防士にはやさしいと狂いかれらの腋毛を愛していると

思い出や記憶もないことが 冬にうまれたこととはなんの関係もないと



これは1首目、2首目、3首目(スーパーの歌)、5首目、7首目なのだが、歌としてはすごく舌っ足らずな感じで、これは韻律がゆっくり進んでいく感じで受け止めた。この作者は、すこし文体のテンポを遅くしたほうが読者に響くと思う。

1首目は、舌足らずな表現が何か逆に気になる感じの歌。「夕映えのみちひとすじにさしてからぼくの復讐よろこんでいる」という詩句からは、助詞が完全に省略されている。夕映えのみち(に?)ひとすじにさしてからぼくの復讐(を?)よろこんでいる、という感じでところどころ助詞がないのだが、それがこの作者の場合、歌のペースを遅くさせるような効果を発揮していていいと思わせるところじゃないかと思う。

2首目、たましいを信じゆくべき「の」という「の」の使い方はあえて間違わせているような印象を受ける。こうたどたどしく一首をつなぎ合わせてから、3首目に最初に細かく書いたお魚の歌である。

この文体というか、間違えた文体のまま進んだほうが一連としてはいい感じになったかもしれない。

たとえば中盤のこういうつくりの歌ははっきりとよくないと思う。

踏みこむ心臓に髪生えて花はさかりにそう血液をさかのぼる水

年をとりどんな愛でも許されない風邪っぴきの星のやわらかいうんち

 (だれかの家のバスルームにつづく自分の家のバスルームの扉?)


ちょっとリズムがはやすぎるというか、上の二首はかなりいろいろイメージを詰め込んでしまったがために、文体が急迫になりすぎてしまった。一首目。踏みこむ心臓に髪生えて、まではわかるが、花はさかりにそう、と一回花に場面転換して、さらに血液をさかのぼる水ともう一回今度は血管のことにもどる。この場面転換が忙しすぎて、読者が余韻を味わっているひまがない。

もう一首目は、年をとり、から風邪っぴきの星のやわらかいうんち、までに着地させる感じの飛躍の仕方は、やっぱり体感として「速いなあ」というふうに感じてしまう。この歌はある意味秀歌なのかもしれないが、ちょっと僕には「速すぎる」ように感じた。三首目もわかりやすい歌なのだが、助詞がきれいに揃ってしまっているのと下の句一音足らずで、リズムがはやくなっている。僕はこういうリズムのはやい瀬戸さんの文体は、ちょっと忙しい気がして、うまく言葉にのれなかった。

ただ、既に述べたとおり、はまったときにものすごい破壊力を秘めているタイプの作者だと思うので、この感覚をぜひ大切にして歌ってほしい。



次は川島信敬さん。「サンデー」。10首。

どちらかというと口語の文体のなかに、日常のドライな感触を読み込むような文体の持ち主なのだろうと思う。まずいいと思った歌を3首あげることにする。


降りだした雨ですこし汚れたヒール 弱さこそが悪だと思う

欺いたり欺かれたりは憂き世の常だから 駅前に迷彩シャツの青年ひとり


この2首はどちらも「箴言的な心情の説明」プラス「情景の描写」で成り立っている歌だと思う。

一首目は、「降りだした雨ですこし汚れたヒール」と、あまり575には入らない状況の説明の仕方をしている。こういう575には入らない状況の説明をすることで、なんというか微妙な屈折感を上の句で提示することになる。そしてそのあとにはっきりと、「弱さこそが悪だと思う」としている。状況の説明と箴言的な言葉のマッチアップが上手に出来ているので、この歌は読んでいて深い納得感がある。

もう一首は、上の句で箴言的な心情の説明が入る。

欺いたり欺かれたりは憂き世の常だから

これも575にはあんまり入っていないが、やはり屈折が感じられる文体だと思う。その「憂き世の常」のあとに、「駅前に迷彩シャツの青年ひとり」という情景の説明がやはりかなりシャープに577に入っている。その情景のシャープさが心地よい。この2首はとてもうまくいっている感じだとおもう。

もう一首あげよう。これはかなりクールというか、じぶんがはっきりと世の中から「覚めている」ということを自覚している一首なのだとおもう。

重なりあう唇と唇 あたらしい服を買うほどの高揚もなく

これはキスをしていて、それがまったく高揚がなかったという日常の覚めたワンシーンを描いている一首なのだと思うが、あたらしい服を買うほどの、とする言い回しにものすごくクールな感じが出ていると思う。日常をとにかく覚めた視点で捉えようとしている。その覚め方がほんとに何の高揚も感じさせないほどにクールなので、思わずそんなに覚めて歌わなくても、という変な慨嘆を覚えてしまう。これは良い歌だと思う。

逆によくないと思った歌も3首。

つぎに来る悲しみがこの悲しみを掻き消すだろう なんてね、てへぺろ

この「なんてね、てへぺろ」は僕は「俗っぽい歌は反対」主義者なので、この「てへぺろ」のふざけている感じがあんまりよくないと思う。やっぱりクールならクールに淡々と現実を歌いとるべきで、あんまり詩句としてふざけている歌は入れておくべきではない。という、僕の基本的な前提からこの歌には反対票を入れたい。

何気なくきみがつぶやいた革命家の名を帰りの電車で検索してみた

Sundae(サンデー)ってSunday(サンデー)じゃないんだと制服姿のいもうとがいう

この2首は完全に散文じゃないのか、と思う。何気なくきみがつぶやいた革命家の名を帰りの電車で検索してみた、は、どこにも詩のとっかかりのない、ふつうの散文になってしまっている。塚本英雄に革命歌~の歌があるが、これは句跨りがはいっているから韻文として機能するのであって、この歌は、57577の歌に抑揚が全くなく、韻文の急所がない。

うーん。もしかすると「字あけ」か「破調」の歌じゃないと良い歌にならないのかな。という余計な心配をしてしまう。僕は最終的には字あけはなくすべきだと思っているので、これはあんまり良い傾向ではない。

Sundaeの歌もどちらかというとだらっとした散文になってしまっている。さらにこの歌の場合、「いう」が不自然に受け止められる可能性がある。表記にしないとSundae(デザート)とSunday(土曜日)の違いはわからないはずなのに、「いう」としているところに、やや表記の便利さに頼りすぎたかなあという気がしなくもない。

もうちょっと色々句をムーブさせて、韻律に抑揚がついてくるとなおいいと思った。むしろ全部定型をはずすぐらいでちょうどいいのかもしれない。韻律と自分との距離をどう図っていくか、がこの作者の課題になるだろう。




対照的に松永洋平さんの歌は、どの歌も韻律がのっていて全部韻文として機能していると思った。几帳面な韻律感覚のある作者。連の途中で韻律を微妙に外し始めるが、これは芸として受け入れられる感じがする。

いいと思った歌。

①紅つばき揺れてあなたに伝わればいいなくらいでレーザービーム

②買い物は世界を救う救わねば神の見えざる手の放射線

③掃除機でパンダを倒す夢を見て身近な人がパンダに見える

④アフリカの骨になるって背を伸ばしあなたは白いブラウスを着る

⑤青い鳥飛ぶことのないさみしさのバスケットコートの錆びた柵

⑥革命の号令としてTシャツを着せたらハチ公も生物兵器


わりと良い歌が連続して出てくる感じがあって、付箋を張り出すとちょっととまらなくなるのでこの辺でやめておくけど、どの歌も一首としてうまくまとまっていると思った。即物的な素材を扱ってもきれいにまとまるし、叙景的な歌を歌ってもとてもきれいにまとまる。それはこの作者が韻律に対して絶妙のバランス感覚をもっているからだと思う。韻律へのバランス感覚というのは、作者によってさじ加減が違うのでなんともいえないのだけど、この作者はほんとにバランスがいい。こういうことはすごく大切なことなので、ぜひ韻文を歌いつづけて欲しいなと思いながら読み進めた。

①紅つばき揺れてあなたに伝わればいいなぐらいでレーザービーム

は、鑑賞するとなると結構難しい。このレーザービームは、もちろんほんとうに出したわけではなくて、あなたにむけて心のなかで出したのだろう。「あなたに伝わればいいなぐらいで」という詩句、とくに「いいなぐらいで」というあたりの感触がこの歌の急所になる。紅つばきが揺れて、あなたに(自分のこころが)伝わればいいなと思う。そういう段階でいきなりあなたに向けてレーザービームを出す。これはおかしみのあるコミカルな内面の歌で、どろっとしたところがないのがいい。

②買い物は世界を救うという描写から神の見えざる手を連想するのは、おそらく経済学の発想なのだろうけど、これは歌としてきれいに入っている。「買い物は世界を救う」で一回切れて、「救わねば」で溜める。そして「神の見えざる手の放射線」といきなりまるで連続しているかのように言葉を77に入れている。この溜めてからまだどばっとだすという韻律上の感覚はなかなか努力でどうにかなるわけではない。これは即物的な「買い物」という素材から発想しているが、「神の見えざる手の放射線」とまるで連続した語であるかのように見せるテクニックはすごくいいと思った。放射線から、読者はじんわりと世界を統べている「神の手」のなまあたたかさのようなものを感じると思う。ちょっと新しい感じの状況詠として受け止めた。

③これも即物的な発想から良い感じで韻律が流れている歌。「掃除機でパンダを倒す夢を見て」というのは意外性のある夢の見方だが、ここは奇をてらっていてとてもいい。そのあと、身近な人がパンダに見える、としているのは、掃除機で人を倒したいという欲求のようなものが歌い込まれているのだろう。まあみんな倒したい、そんな破壊衝動をちょっと感じる歌だ。

④⑤は抒情歌。しんみり見せることが出来る良い歌だ。

④アフリカの骨になるって背を伸ばしあなたは白いブラウスを着る

は、「骨」と「背」と「白いブラウス」がうまく一首のなかできれいに歌になっている。「あなた」は、骨になるって背を伸ばす。ここから作者があなたの後ろ姿を想像している様子がイメージとして受け止められると思う。まるで逆光のなかで「あなた」が背を伸ばしているような印象を受け取った。それはこの歌の、「背を伸ばし白いブラウスを着る」という表現の周到さから来ているのだと思う。作者が「背」を伸ばし、白いブラウスを着るという表現は、非常に爽やかな印象を一首として読者に提示する。上の句、それを「アフリカの骨になるって」と言っているが、ここには下の句の「背を伸ばし」という表現とリンクする上手な歯切れの良い修辞を感じさせる。背の骨が「アフリカの骨」という大胆な描写とうまくリンクしていて、意外性とはるかな感じを読者に提示することになる。周到に計算されたとても良い歌だとおもった。


⑤青い鳥飛ぶことのないさみしさのバスケットコートの錆びた柵

これはさみしさのは少しベタな表現だが、下の句「バスケットコートの錆びた柵」が非常に意外性をもっていて、青春の抒情というか、淡い感じを読者に提示している。下の句で「バスケットコートの錆びた柵」にフォーカスさせるあたりに、しんみりとした抒情を感じさせる。その上の句で、「青い鳥飛ぶことのないさみしさの」としているが、これは平凡だがバスケットコートのの意外性を際だたせるための表現。「青い鳥飛ぶことのないさみしさ」までで読者は一回空の様子をイメージして、そのあとに下の句のバスケットコートが意外性をもって響いてくるので、読者は非常に爽やかな感触をもって歌を受け止められると思う。淡く練られた青春歌で、これはとてもいい表現だと思った。

⑥ちょっと社会詠に降りていった感じの歌だが、これはハチ公も生物兵器、という言い回しがとても生きているとおもう。まあ実際に革命を志向しているわけではないと思うが、ふつう革命という重たい語を入れてしまえば、ハチ公という表現はなかなか出てこないと思う。「ハチ公も生物兵器」というあたりにこの作者の軽い、「神の見えざる手の放射線」のような斬新な発想の核がある。これはとても遠いところを歌いながら、ハチ公というとても軽いものに降りていった着地の感触がうまい。良い歌だと思う。

一連全体とてもいい感触の歌ばかり並んでいるのだが、ちょっと露骨過ぎるかな、という歌もいくつか並べて置こう。

外国人と私は違う 速報で流れる犯人逮捕の知らせ

君たちの死ねよはみんな冗談で空想上の生き物はいない

前屈のままでテレビの音を聴く やっぱ女は死ねって思う


これらの歌は、ちょっと露骨に社会を歌いすぎていて、「死ね」という言い回しもこの作者、ほんとに「死ね」って他者に対して攻撃的な衝動があるのではないか、というあたりに危うい感じを感じた。あまりにも露骨過ぎるので、もうちょっと抑えて用意周到に歌った方が良いと思う。連作として歌数がおおいのでこういう歌も入ってしまうのはしょうがないのだが。

一応ここまでで一旦前半戦を終わらせる。

「うたらば」総集編Ⅰ

文学フリマで購入してきた同人誌を紹介していくことにする。

「うたらば」総集編Ⅰを拝読した。

これは紹介していいものかどうか大分迷った。できればこのままそっとしておいてあげたいというか、この世界観で完結させておいてあげたい、と言う気持ちで、余計な鑑賞など加えない方がいいのではないかという気持ちが大分先にたった。

ただ一応作品として買ったものなので、しっかり紹介はしておかないといけないと思い、筆をとる。

これは写真の美しさと詩文の美しさもだいぶ入って来るので、全体的にトーンが統一されて読みやすい。

こういうものなら「売れる」というか、「売れる」という言葉も大分微妙なのだろうけれど、少なくとも僕が最近やっている文語短歌などよりははるかにポップな仕上がりになっている。


「春恋」
「夕刻」
「細雪」

の三部構成で、写真と短歌と詩文で、投稿者の方たちの作品をまとめたもの。

僕はとりあえず、この詩文集は、僕が読むというよりもできるだけ短歌を読んでいない友だちに紹介するというスタンスで行こうと思っている。誰か僕の人脈でひっかかってくれる人がいればいいのだが。何か良い形に発展することを祈っている。

さて、この世界観をどう読むのか。難題である。

全体的に制作者の意図は明快で、

「この総集編を手にして「短歌って面白いかも?」と思ってくださる方が一人でもいてくださることを願って。」

と書いてある。つまりは、明快にテーマをベタな方向にもっていって、それで短歌の読者の間口を拡げようとする試みなのだろう。この種の試みというのは、枡野浩一さん、加藤千恵さん、佐藤真由美さんが始めて以来、女性では伴風花さん、男性では千葉聡さんのような作者が繰り返し繰り返しトライしてきては結局は枡野浩一さん以外の成功者を出してこなかったという「伝統」がある。

鬼門といえば鬼門なのだ。

僕自身、こういう感触の口語青春歌はもう2000年代に結構な数読まれていて、僕はちょっとその手の大衆性に限界を感じて、それでこの手の口語歌からは離れたという経緯がある。恋、夕暮れ、雪、いずれもイメージを拡げやすい、作りやすいテーマで投稿歌を並べてきている。歌としての鮮度は、完全にイメージに頼り切っている分、かなり落ちるような印象を受けた。

僕はとりあえず散文と写真はとっぱらって、歌だけで鑑賞する。歌人としてはそのほうが誠実な切り口になるだろう。作者を誰一人として知らない状態から鑑賞に入る。鑑賞にむっとされるケースも多々あると思うが、お許しいただきたい。

「春恋」の鑑賞から。活字にされている10首を全部鑑賞する。

春に恋するのが一番良いでしょう風が強いと尚良いでしょう(伊藤夏人)

①わかりやすい歌だが、写真と詩文をとっぱらってこうして載っけてみると極めておだやかな歌だと自分は思う。まったく謎みたいなものがない。「春に恋するのが一番いいでしょう」と作者は上の句とても散文的にいっていて、「風が強いと尚良いでしょう」というあたりに、かすかなポエジーの核心みたいなものがあるのだろう。うっすらとした恋の感触を漂わせることになるが、この歌はやや情感がおだやかであんまりつよく自己主張しない。これはこれで良い歌にはなっているとは思う。


咲くことも散ることもなく満開のあたしは重たい女なんだね(さかいたつろう)

②歌としてはちょっと「重たい」の歌意がとりずらい。咲くことも散ることもなく満開の、といっているからには、「わたし」をさくらに見立てて満開だと言っているのだろうが、どうして満開だと重い女になるのか、この辺は何か女心コードというものがあるのだろうか。「私は重い女なんだね」と言うことがいいたいのであれば、咲くことも散ることもなく満開の、という上の句はやや関連性がなく、強引につけすぎた感じが強く出ている。

まって、って言葉も届かないくらいあなたとあたしのあいだにさくら(こゆり)

③まって、って言葉もとどかないくらいの距離にわたしとあなたのあいだにさくらが咲いているという感じの歌意でとりたい歌だが、この歌も言葉としてはやや道具立てが演出的すぎるようにおもう。「まって、って言葉もとどかないくらい」の距離の間にあるものとして「さくら」が咲いているというのは、まるでドラマのワンシーンのようで道具立てが強すぎて感心しない。これは結句に「さくら」以外の言葉を入れた方が歌としては完成度が高くなると思う。

わたし世紀もっともさむい春がきた さよならなんて習ってないのに(ムラサキセロリ)

④わたし世紀、という言葉が斬新で、おそらくこう表現することに作者の全体重がのっかっている。二十世紀でも二十一世紀でもなく、「わたし世紀」なのだ。そこには社会に対する視点などはのっけからなく、ただひたすら「わたし」と恋を歌うと言う作者の開き直りみたいなものがみえて逆に感心する。下の句、さよならなんて言ってないのに、ではなく、習ってないのに、としたところにぎりぎりセーフな屈折があるとおもう。やや受け身な作者の姿が連想される。おそらく「さよなら」という言葉を相手に言われた失恋の歌なのだろう。そうすると、この歌は感興をもって読める感じがする。

好きな人はいないと首ふる十歳の髪に触れればうまれる光(イマイ)

⑤現代短歌の水準としては、この光は凡庸すぎる。好きな人はいないと首ふる十歳の少女がいて、その少女の髪に触れたら光が生まれたというのだが、この「うまれる光」というのは完全に演出にかかってしまった句。歌を演出しようとすると、わざとらしさが生じてしまう。この歌は、好きな人はいないと首ふる十歳の少女の髪に手を触れた、と言う情景だけでよく、あえて「うまれる光」とまで踏み込んでしまう必要はなかった。ちょっともったいなかった歌。

はじまると思ってなかった 潮風に揺らされている菜の花なのはな(田中ましろ)

この歌は歌の核心がぼやけすぎていて何に焦点が当たっているのかが見えづらい。おそらく恋のはじまりを告げているということは写真と散文でわかるが、もしそれがなくこうやって歌だけならべたとしたら、この「はじまる」が恋の感触であるということがはっきりとわかるだろうか。「潮風に揺らされている菜の花なのはな」という表現は非凡な感じがするが、上の句がぼやけすぎてしまうように思う。恋だとしてはっきり読んだとしても、下の句で一回「潮風に揺らされている菜の花」と情景の説明が入って、そのあとに「なのはな」ともう一度細かくリフレインさせた意図が字数合わせ以上のものになるだろうか。ちょっと細かいところで賛成できない感じの歌の作り方をしている。やや芸が細かすぎたような印象がある。

ふるえつつ抱きしめあった春のなか一緒に酔ってもいいと思った(藤野唯)

⑦完全な散文。「ふるえつつ抱きしめあった春のなか一緒に酔ってもいいと思った」、これは情景はすぐに思い浮かぶが、韻文としての急所みたいなところが何一つない。二人は、「ふるえつつ抱きしめあった」のだろう。そして春のなかで「一緒に酔ってもいいと思った」という下の句には、単純に気持ちの説明だけがあってそれから一歩先の読者を感動させる韻文の核みたいなものがない。これは完全に失敗しているとおもう。

去年から凍らせていた告白がベビーピンクの街で溶けそう(文月郁葉)

⑧ベビーピンクの街、という表現があまり納得できない。ベビーピンクというのはおそらく実際の光景ではなく、単純な心象の投影としてだけあるような気がする。普通「街」というのはたくさんのひかりに満ちているもので、そのなかからベビーピンクだけを取り出して街と表現するのは強引というか、やや作者の意識が過剰に出過ぎてしまった光景の説明だとおもう。やや人工的な、つくりものめいた街を連想させる。そのなかで、去年から凍らせていた告白が解けそうだと作者は言っている。それは解けるだろう、多分。作者は人為的につくられた「ベビーピンクの街」という世界のなかにのみ身をおいている。ここには外部がないので、どんな物語でも成立するだろうと思わせる。こういう作り物めいた感じが出た「ベビーピンクの街」という表現にあんまり納得がいかなかった。

桜色に塗ったばかりの指先があなたの髪に絡まってゆく(rieco)

これはおそらくマニキュアか何かで、指先を桜色に塗ったのだろうと思う。そしてその指先があなたの指に絡まってゆく、としているが、これもいくぶん散文に近い、しかもかなり説明的にはいってしまった散文のような気がする。これは叙景を歌いたいなら、「桜色に塗ったばかりの指先」では読者のなかで簡単に解凍できすぎてしまうので、もうちょっとぼやかした感じの何かが、「あなたの髪に絡まってゆく」という感じにしあげたかったところだ。説明と叙景は幾分意味あいが異なる。


春を病み芽吹く気持ちに水をやる係に君を任命します(中森つん)

歌としては上の句5音の状況が分かりづらい。春を病み芽吹く気持ちに水をやる、というのは春を病み、で一回区切って読むのだろうか。つまりはこの作者は病んでいるのだろうか。春を、で一回きれて、病み芽吹く気持ちだろうか。「病み芽吹く」という表現はあったのだろうかと考え込んでしまう。おそらく作者自身が病気になってしまったのだろうというふうに僕はとった。それで「春を病み」として、一回マイナスなことをいって読者をひきつけ、そのあとで芽吹く気持ちに水をやるのだとプラスの方向にもっていきたいのだと思う。「芽吹く気持ちに水をやる係りに君を任命します」、までは比較的詩としてうまく言っているように思うので、上の句5音をどう処理するかで伝わり方が大きく異なってくるとおもう。この歌は比較的言葉を詰め込みすぎというか、情景を動かしすぎてしまった感触がある。 

以上で「春恋」の鑑賞を終える。

続いて「夕刻」である。

夕ばえにだけうまくいく作戦があると聞かせて握る手のひら(むしたけ)

 うまくいっている歌だと思う。夕ばえにだけうまくいく作戦というのは、何か具体的なものではなくて作者の心のなかでひそかにうまれた「作戦」なのだろう。この「心のなか」に生まれた作戦を、「詩」として機能させることに成功している。ある種のわくわく感を歌から感じ取った。下の句の「握る手のひら」もうまい。作者はうまくいく作戦があると内心で感じ取った。それを自分に言い聞かせて手のひらを握る。ここに気持ちの忖度が入っていて非常にうまい歌だとおもった。

乗りなれた助手席にいて命まで君にゆだねるやさしい日暮れ(紗都子)

 状況はよく分かるし、適度に短歌的な感じが出ている歌だとは思うが、乗りなれた助手席にいて命まで君にあずける、「やさしい日暮れ」とまでしてしまった言葉使いがすこし重たい。命まで君にあずける、までで十分「やさしい」感じが出ているので、あえて「やさしい」にまで踏み込む必要はなかった。ここでやさしいという言葉を使わずにどう優しく表現できるかがおそらく中級から上級にあがる一歩手前ぐらいの表現だとおもう。気持ちは良く伝わって来るのでいいといえばいいのだが、まだ少し甘い感じがしてしまう。


シーグラス何度夕陽を浴びたのか傷つくことを忘れたように(文月郁葉)


この作者は綺麗な言葉でものごとをまとめようとする癖があるようだ。シーグラスというのは海岸に打ち上げられている波打ち際のガラス片ことで、アクセサリーとしても収集されているという。そのシーグラスにむかって、何度夕陽を浴びたのか、としている。ここまではよいのだが、傷つくことを忘れたように、というのは平凡に入りすぎてしまった結句。まさに作者自身があまり傷つきたくないと感じているように思う。そういうちょっと控えめな感情が歌に入り交じってしまっていて、冒険心がなくなっているように感じた。

終わりなど告げずに沈む曇天の太陽みたいなやさしさだった(野比益多)

終わりなど告げずに沈んだのは、太陽が雲に隠されてしまっていて、まさに日没を作者が感じられなくなってしまったからだと思う。これは新しい発見のように思える。ただ、この歌の場合、終りなど告げずに沈む曇天の太陽、という言い方が生きているかどうかは検証してみる必要があるだろう。「終わりなど」の「など」という言葉使いが少し字数合わせ気味かもしれない。「終わり「を」というふうにしっかりをでとめたかったところだ。あとは下の句のやさしさだった、というまとめ方も少し大雑把だ。細かいところに雑な感触はあるが、発見の新しさは買いたい歌。


何匹の鬼転げ出る夕暮れのコスモス畑揺らして呼べば(いらくさ)

この鬼という言い回しは新鮮だと思う。かくれんぼをしているか、あるいは実際に鬼が棲んでいるように作者は感じたのかもしれない。そこで、夕暮れのコスモス畑を揺らして呼ぶと、何匹の鬼が転げでるのか、というふうに作者はものごとを見据えている。これは発想が新鮮な歌で、いい感じにまとまっているように思われた。

夕焼けに伸びていく影いつの日か大人になるのは知っていたけど(都季)

これは「いつの日か大人になるのは知っていたけど」という詠嘆の前の、「夕焼けに伸びてゆく影」はあまりにも平凡につきすぎてしまった上の句だろうとおもう。まあ、この前後に上の句と下の句に対応関係はないけれど、夕焼けに伸びてゆく影」というのはもう何度も短歌の世界では使い古された感じがしてしまう表現で、インパクトが足りない。そのあと「いつの日か大人になるのは知っていたけど」とまとめる。このまとめにもやっぱり新しさが足りない感じがする。全体として平凡な仕上がりになってしまった歌。

悲しみを捨てにくるとうこの海に沈む夕陽はすこし大きい(幾代)

「悲しみを捨てにくるというこの海に沈む夕陽は少し大きい」、やっぱり散文っぽく入ってしまった一首。「沈む夕陽は少し大きい」という大きいのあたりに歌としてのポイントをみてほしいのだろうと思うのだが、「悲しみを捨てにくるとうこの海に沈む」、という表現はあまりにも平凡で、歌にインパクトが感じられない。まあそのインパクトのなさというか、既存のイメージにたよったベタベタ感が「うたらば」の「うたらば」らしさなのだろう。

潜水夫は装備を脱いで夕暮れの眠りの底へ沈んで行った(徳毛圭太)

これは雰囲気はいい感じの歌。潜水夫はふつう海の底へ潜る仕事をしているのだろうが、それをあえて海の底へと言わずに「装備を脱いで」「眠りの底」へ沈んで行ったとしている。つまりは仕事が終わったあと眠りの底へ沈んで行ったのだろう。これも素直に詩としてたちあらわれていて、いい感じがする。やや夕暮れのはきれいすぎかなとは思うが、題詠なのでしょうがないのだろう。綺麗に出来ている歌。


さよなら夢の鯨が群青を泳ぐ 明日も良い日でありますように(ヒラタ)

これは上の句、さよなら夢の鯨が群青を泳ぐ、という表現に意外性があって良い歌だと思った。「さよなら夢の鯨」と無理やりに破調にしあげた感じの歌柄が抜群によく、詩的な説得力がある。そのあとに、明日も良い日でありますようにというまったく関係のない下の句がはいる。この詩的な飛翔力がこの歌の魅力なのだろう。好きな歌だ。

黄昏のひかりに包まれ歩いていた どんどん出逢って忘れていこう(鳥海牧子)

まあ歌意はとりやすく、いろんな人に「どんどん出逢って」そして「忘れていこう」という恋をあらわした下の句が生きている感じはする。ただ、上の句はインパクトがやっぱりたりない。黄昏のひかりに包まれ歩いていた、というのはどちらかというとおだやかな表現。そのあとに「どんどん出逢って忘れていこう」というのはやや加速感をもった表現。なので上の句と下の句の対応がまったくばらばら。この下の句にはもっといい上の句がつけられる感じがする。

以上「夕刻」終り。

最後、「細雪」の歌を紹介する。

革命はしずかに起こる手をひかれ君と走った粉雪のなか(紗都子)

この作者の歌は「夕刻」の歌のときよりも出来がいい。革命はしずかに起こる、というのはたとえばほんとの革命とかそういうものではなくて、単純に自分の気持ちのなかでおこった大きな恋の「革命」なのだろう。革命はしずかに起こる、というあたりに、歌としての鮮度があるように思う。「手をひかれ君と走った粉雪のなか」というのはドラマティックな道具立てだが、上の句の意外性を受け止めているので成功していると思う。


初恋に気づいてしまう取り合ったチョークでちいさく書くゆきだるま(こゆり)

見立てが平凡。初恋に気づいてしまうのは作者なのだろうが、取り合ったチョークでちいさく書くゆきだるま、というのはこの「初恋に気づいてしまう」の説明にしかなっていなくて、歌に詩的な飛躍なり発想の転換なりが見受けられない。完全にイメージにながれたベタな印象のする短歌で、これでいいといえばいいのだろうが、僕のような読者からはこの歌は完全に失敗しているように思える。

語らない唇のため降る雪を刹那消し去るコンビニの灯は(飯田和馬)

下の句の情景の把握がうまい。「降る雪を刹那消し去るコンビニの灯」というのは、おそらくコンビニの蛍光灯のひかりが眩しくて、降ってくる雪がその瞬間だけ見えなくなってしまうということなのだろう。その表現が非常に鋭くて、「見立て」の生きた一首に仕上がっている。ただ、上の句は、わかりづらい。語らない唇とはなんのことだろう。男女が恋の話を「語らない」と言っているのだろうか。この上の句は勿体なく、「語らない唇」というのは表現が荒っぽすぎて損をしているような気がする。

すぐに消えてしまうことなど分かってて、それでも(だから)雪は降るんだ。(龍翔)

この歌は平凡な感じがすると思う。すぐに消えてしまうことなどわかってて、それでも(だから)雪は降るんだ、ってあらためて短歌で確認するまでもなく、多くの人がそういう感じのことをポップスとかドラマのなかで共有してきたはずのものではないだろうか。この発見は今さら言うまでもないという平凡な土台の上に立ってしまった歌だと思う。従って、歌としてはまったく立っていない。

午前二時の事故を目撃した人を求む看板に細雪舞う(太田宣子)

うーん。これは「」をつけたほうがよかったかもしれない。「午前二時の事故を目撃した人を求む」看板に細雪舞う、というように。これだと「求む」と看板にがくっつきすぎてしまっていて、もとむかんばんにささめゆきまう、というふうに韻律的には切れ目がなくだらだらっと続いていってしまうような感触がある。そうすると読み取りが難しい。ただ、「」をつけた歌として読むと、過度に言いたいことを歌に押しつけていなく、情景としては一首まとまっている良い歌になるかなと思った。

あしたにはやんでる雪を窓越しにひとりで見てる窓際の席(篠原謙斗)

難しい歌だ。窓越しにひとりで見ている窓際の席、というのは、言葉が二重説明みたいになっている。「窓際の席」というだけで具体の説明としてはわかるので、「窓越しにひとりで見ている」、というのは歌としては言い過ぎなのではないだろうか。そしてもっと難しいのは上の句。あしたにはやんでる雪を、というのは、どうして作者は断言することができるのだろうか。多分天気予報か何かで、明日にはやむはずの雪をとしたかったところなのだろうが、あしたにはやんでる雪をという説明はやや無理筋な感じがする。なんとなくぽつんとした情感を歌いたかった歌なのだろうとおもうが、言葉がうまく説明仕切れていないようにおもう。勿体ない歌だ。

バスの窓駆け上がる雪 ねえ、あのさ サビしか知らないあれ歌ってよ(とびやま)

この歌は成功していると思った。「バスの窓駆け上がる雪」というのは突風か何かが強くふいていて、それで外の光景がぶわんぶわんと荒れ狂っているのだろう。バスの窓駆け上がる雪、という歌いぶりにも勢いがあっていい。そのあとに、全く関係のない「ねえ、あのさ サビしか知らないあれ歌ってよ」という「きみ」への語りかけが出てくる。この上の句と下の句が離れた感じがとてもいいと思う。こういう感触に,歌としてのリアリティというのがある気がするのだ。

春を待つ方法としてわたしなら真っ白になる覚悟はあるよ(ミボツダマ)

うーん。この歌はわかりづらい。春を待つ方法として、わたしなら、真っ白になる「覚悟」があるというのは、ちょっと日本語的におかしいのではないだろうか。「方法として」の「方法」と、真っ白になる「覚悟」というのは関連性がない。もうちょっと言葉をうまく斡旋したほうがいいだろうとおもった。自分がまっしろになる覚悟があるよというのがこの歌の核心だとおもうので、方法のほうはもう少し推敲したほうがいいのかな。

雪だるまさん そばにいて欲しいけど同じ世界じゃ解けてしまうの(ショージサキ)

これも発想としてはきわめてベタな感じ。雪だるまさんにそばにいてほしいけど、同じ世界じゃとけてしまう、というのは全体的に描写が散文化していてあまり好きな表現ではない。ここにあらわれているあわい「一緒にいられない感」みたいなものを雪だるまというようなありきたりな表現を使わずにうまく形にできたらいいのかな、と思った。もうちょっとうまく歌えるだろうという感じはする。

さらさらと降りつぐ雪におおわれてスノードームの町のともしび(纏亭写楽)

これもスノードームという響きを面白いととるかどうか、ぐらいが歌のポイントで、発想としては平凡かなという気がする。さらさらと降りつぐ雪におおわれて、の「雪におおわれて」というのは四句目でスノードームと言い換えてしまっているので、二つ言葉が重なっていることになる。スノードームという言葉付きが面白いか、ぐらいで他には表現として凝ったところが一つも見受けられないのが難。


さて今回はあくまで「歌」としての感想を書いた。

全体的に「うたらば」に言えることだが、こういう青春の「きらきら感」みたいなものに頼って歌を作っていると、歌が感覚に流されやすくなってしまう、というところだとおもう。

それは決して冒頭の「短歌は、もっと自由になれる」という意味での「自由」などではなく、むしろ決まり切った「感覚」の紋切り型なのだ。ポップス的、そして演歌的といってもいい。

で、それを肯定して全面的にその世界に身を委ねている人たちに対して、僕がいくら「それ紋切り型だよね」といっても、渦中にいる本人たちは自覚して選んでいるのだから、特に批判はできないのかなという気もする。

一点制作者目線でなにか参考になることを申し上げられるとするなら、もっと「短歌って面白いかも?」と思ってくださる方が一人でもいてくださることを願って。」ということを目指すのなら、最初からフリーペーパーという方式意外の「儲かる」方法で出版されることをお勧めしたい。「うたらば」の編集方針からは、歌をポップにしようという意図は感じられたが、「売れたい」という意識があんまり感じられなかった。

このままずるずる原価割れ、みたいな方向で編集をつづけず、書籍化なり写真画集化するなりして、もっと高値で売り出すことを考えないと、多分お金がどんどん消えていってしまうということになりかねないので、ぜひペイ出来る形で流通されることをお勧めする。

そのためには作品がもっと強度の高いものにならなければならないだろう。ぜひ「投稿者のみなさん」と制作者の方で頑張って、もっといい作品が作れるようになったら面白いんじゃないかと思った。

加藤治郎さん、『しんきろう』

加藤治郎さんの第八歌集『しんきろう』を拝読する。

最初、たとえばこんな歌に注目した。

 定型に喩がたまるのを待っている静かな夜に扉はひらく

 リアリズムとは重荷なり黄金の果実を囓りながら思えば


ああここにいたって、我が師の口から「リアリズム」という言葉が出てくるとは思わなかった、、、とちょっと慨嘆する。しかし、なんやかんや言っても作者はあくまでも「リアリズム」のほうにはいかないのかもしれない。うーん、どっちなんだろう。。

「定型に喩がたまるのを待っている」という言葉は、作者がもっぱら喩をあくまでも主眼として歌を作っている、ということを指し示すだろうし、「黄金の果実を囓りながら」思う(提示される)主題は、「リアリズム」そのものが重荷になっているという作者の姿である。

今回の加藤治郎さんの歌集から流れて来る主旋律は、「リアリズム」を歌うのか、それとも「喩」の世界に踏みとどまって歌うのか、という葛藤のようなものであるように感じた。

 リアリストそれとも俺はわたつみの白い帆船の蜃気楼か


この歌は表題の「しんきろう」の中に入っているわけではない。「カマイタチ」という連作に収められた一首である。歌意を解釈すると、(自分は)リアリストなのか、それとも海の白い帆船の蜃気楼なのかとちょっと自問している感じのある一首だ。「わたつみの」は海をしめす言葉であると同時に、短歌的には「歌枕」に属するものである。自分は「リアリスト」なのか、「それとも「海の白い帆船の蜃気楼」なのか」と自問自答する姿に、僕は加藤治郎がリアリズムと「わたつみの白い帆船の蜃気楼」(つまりは修辞)のなかで苦悩している姿を読み取った。

もちろん、このリアリストはそういう短歌的なリアリズムだけではなく、社会のなかでリアリストとして振るまっている自分の姿を思い描いてもいいのだろう。自分が社会のなかで「リアリスト」としてふるまっている、しかしそんな自分も社会のなかで「わたつみの白い帆船の蜃気楼」にすぎないのかもしれないという疑問を抱く。そういう情感を湛えた歌としても読める。

二重性を湛えた喩の水準の歌をつくるというのは、加藤治郎の加藤治郎らしさと言えよう。

さて、そう思って全体を読むと、まず目についてくるのはやはり喩景に工夫を凝らした歌の技術的な水準の高さである。


 ①やわらかな椅子を重ねているばかり海の見えないゆうぐれの部屋

 ②加湿器の吹き出す霧があしもとを漂う夜にあきらめること

 ③竹細工のこころであれば涼しかろうに、水の波紋のようにゆうやみ

 ④夕顔のひらくゆるさに愛しあうきみを病舎におくるしるしに

 ⑤鶴の息遠くまで飛ぶ明け方の夢のなかにはわたくしひとり

 ⑥つややかな指の記憶に海光のカードを闇にさしいれにけり

 ⑦ぼくが今ここにいないということのクローバーの野のしずかな眠り

 ⑧かさぶたの小さな島が膝にでき明るい雨がふりそそぐのです



特に加藤治郎らしいと思われるおだやかな歌を8首並べてみた。どれも技術的には手堅い歌が多いし、言葉の感触を繊細にしあげた歌が目につく。これは修辞の歌のひとつの水準というべきものだろう。

①、この歌は何気ない、一見すると平凡に見える歌だが、「やわらかな椅子」という表現に妙な質感がこもっている歌だ。どんな椅子を連想すればいいのだろう、たとえばよく歌評会などで目にする折りたたみ椅子だろうか。いや、この歌は具体的な情景をあげるべきではないのかもしれない。ただ、「やわらかな椅子をかさねているばかり」という表現の「やわらかな」が持つ質感を楽しめばいいのだろう。海の見えないゆうぐれの部屋は平凡だが、手堅い下の句だ。

②夜にあきらめること、という三句目以降の処理が新鮮で目立つ歌だ。「加湿器の吹き出す霧があしもとを漂う」までで非常に微細な情景の描写を入れてきて、そのあとに「夜にあきらめること」という下の句が入る。この結句の処理に情感が入っている。「何を」あきらめたとか、そういう余計な描写は入れない。ただ漂う、という言葉の不安定さと「あきらめること」という言葉の感触を読者はそのまま受け止めればいい。結句にやや美しく不安感が凝集される。そういう作りの歌だ。

③きれいに入った歌。「竹細工のこころであれば涼しかろうに」、というのは自分のこころが竹細工のようなこころだったら涼しいだろうにというふうに言っている。「竹細工の」という表現が新鮮で、ちょっと心に入って来るような表現になっている。そのあと、さらに竹細工を補強するかのように繊細な描写を下の句にもってくる。「水の波紋のようにゆうやみ」というのは「竹細工のこころ」という上の句と上手についていて、なにかきらきらした感触が上手に竹細工と絡み合うように出来ている。

④病舎という表現は既に加藤治郎の歌集で何度も繰り返されてきた表現だが、今回もわかりやすく王道を言っている感じのある歌。この歌も①同様、景のうつくしさをそのまま受け止めればいい表現だろう。夕顔のひらくゆるさに愛し合うという上の句から、きみを病舎におくるしるしに、という下の句まで淀みなく一首が流れていて、透きとおった印象を読者に与える。歌意をどうこうすると言うよりも、夕顔のひらくゆるさに、という言葉にはかない感じを受けて、そのはかない感触のまま下の句へ移行する。夕顔と病舎という表現が可憐な感触で一首にまとまっていて、非常に透明感を感じさせる歌になっている。これも手堅い感じのする歌。

⑤ふつう鶴の息を「遠くまで飛ぶ」というふうにはなかなか表現しない。鶴の様子を描写するか、鶴の首とかしてしまうところだが、これを「遠くまで飛ぶ」としたところには歌の発見がある。その明け方の夢のなかにわたしはひとりでたっているというのだ。下の句は言葉に無理をかけない表現で、インパクトにはやや欠けるが手堅くまとまっているとおもう。

⑥「つややかな」、という表現と「海光の」と言う言葉がやや掛詞的に響き合っている。というと説明しきっているだろうか。「つややかな」という表現は「カード」にもかかっている。作者はカードをどこかに差し入れようとしている。それを「つややかな指の記憶」、という表現で美しくしあげた一首。海光のカードというのはわかりにくいが、意味よりも美を優先させようとする加藤治郎らしい表現で、つややか、海光、カード、闇といったことばが自然な形で歌のなかに織り込まれている。

⑦「の」は短歌的な切れ字で、場面転換を表す言葉。僕はいまここにいないということの/で一回切れて、クローバーの野のしずかな眠り、とやはり美しい方向に場面を転調させる役割を果たしている。これも手堅くまとまった歌で、総じてインパクトはうすいがさらりとこころのなかに入って来る感触の歌といえようか。

⑧「かさぶたの小さな島」というのは、やはり自分の身体感覚を美しく表現している。自分の膝にかさぶたという名前の小さな島ができて、そこに明るい雨がふりそそぐというのは、やはり美意識に基づいた自分の身体感覚の把握の仕方であって、美しい。しかし、ここにもやはりある種の隙のなさ、手堅さを感じさせる。

さきほどから歌をあげて感想を言ってきて、手堅い、手堅い、といっているが、僕はこういう手堅い作りの歌はこの歌集のほんの一側面に過ぎないと思っている。こちらはどちらかというと「喩景」の方向に振れる加藤治郎であり、リアリズムというか、境涯のほうにおりていった今の加藤治郎の表現とはやはり違う。これは加藤治郎を読み慣れない読者がまず目にして「いいかな」と思う感じの歌だと思うが、今の加藤治郎の水準はこのレベルでは留まってはいない。

①何も救えずなにもすくえず雨の日の郵便受けの休会届け

②定型は国境である あしたの雨のかなたの微光

③付箋のように死は貼りついているだろう家族の歌を俺は探して
  
④向日葵の種は迷惑メールほどみっしりならぶ みなごろしだ

⑤産道に締めつけられてわたくしの頭はゆがむ雪のあしたに

⑥病葉の日本語一語くちびるに貼りつきながら普通の暮らし

⑦ひしひしと葉書を捌く霜月の選歌の蜜はわれのみぞ知る

⑧残業のざんのひびきが怖ろしい漏洩前のくぼんだまなこ

⑨鬱病の男を監視する義務は俺にはあらずセロリを囓る

⑩これが最後の一つぶという自覚なく食べ終えた、そんな死もあろうよ

この連からは、加藤治郎の「生」がどちらかというとあらわになっている歌を挙げてみた。この歌集の白眉とも言える歌群であり、どちらかというと前半に挙げた歌よりも「リアリズム」へと傾斜しているような歌の作りになっている。

①はおそらく「未来」の会員で「休会届け」を出してきた歌人がいたということだろう。短歌を辞めるという人も当然多い。そうはいいながら、自分は何も救えなかった、そういう無力感を醸し出す上の句「何も救えず」のリフレインである。これがうまくはいっていて、「雨の日の郵便受けの休会届け」を補強している。

②は新しい試みにチャレンジした作品。57577の間の5をとってしまって、5777の文体にしている。これはきれいに決まっていると思う。定型は国境であると言う断言のあとに、「あしたの雨のかなたの微光」という非常にはるかな、地平線をあらわすような比喩的な描写を入れた歌。国境という響きとあい混ざって、とても成功していると思う。

③はこの時期、加藤治郎は確かに「家族の歌」という連載をもっていた。その家族の歌に付箋をつけながら、付箋のように死は貼りついているだろう、としていくことで、「家族の歌」という言葉そのものも何か陰惨な印象を持つものに変えてしまう。さらりと流した印象の歌だが奥行は深い歌だと思う。

④みなごろしだ、という断言がいかにも加藤治郎らしい。「向日葵の種は迷惑メールほどみっしりならぶ」という上の句からは、向日葵の種があの白黒模様のままみっしりと並んでいるという様子を表現している。みっしりならぶという表現が非常に気持ちが悪く、確かに向日葵の種はそういうふうに並んでいるなあと思わせる実感を伴った感触がよく出ている。そのあとに、「みなごろしだ」という断言がつく。ものごとを陰惨な方向へもっていこうとする加藤治郎の特色がよく出ていると思う。

⑤「産道に締めつけられてわたくしの頭はゆがむ」という表現は幼児体験ともいえないもっと原的な「胎児体験」を歌っている。その原初的な胎児体験、「産道に締めつけられてわたくしの頭はゆがむ」という表現がなまなましいリアリティをもって響いてくる。こういう陰惨な感じが加藤治郎らしいのだ。「雪のあしたに」という言葉は情景を補強するためにつけられた一種の補完的な喩のようなものだが、この体験のなまなましいリアリティを上手に下の句で補っていると思う。

⑥病葉、は加藤治郎がよく好んで使う修辞だが、病気のために変色した葉っぱのこと。それを枕詞として「日本語一語くちびるに貼り付けながら」としているが、ここから感じ取られるのは「病葉の」と言う言葉がもつ独特の鬱勃とした感触だろう。そのあとに「普通の暮らし」とあまりにもぽんと言葉がでて来ているので、一瞬とまどうが、この歌もひっかかりとして「普通の暮らし」というべたっとした落ち着かせ方が独特で、うまいのだろう。

⑦加藤治郎は毎日新聞の選者でもあり、NHK短歌の選者でもあるという。「ひしひしと」と言う言葉がうまい。かなりすごいスピードで歌を選ばなければならないということを指しているのだろう。そのあと「霜月」の「選歌」の「蜜」とするあたりに、加藤の歌人としての言葉使いのうまさが際だっている。うまい一首だ。

⑧残業のざんの響きがおそろしい、という言葉にはインパクトがこもっている。漏洩前のくぼんだまなこ、というのはおそらく仕事で疲れ果てて、目がくぼんでしまった様子を現しているのだろうと思う。まるでまなこが漏れてしまいそうなくらいくぼんだまなこをしていて、そこにやってくる残業の「ざん」の響きがおそろしいとするのには強いリアリティを感じる。

⑨これはインターネットか何かで鬱病だとカミングアウトした男の日記を読んだときの歌だろう。鬱病の男を監視するという言葉は、おそらくSNSか何かで他人の日記を見ているときの歌ではないかとおもう。そんな義務は俺にはないと良いながら、セロリを囓る、このセロリを囓るがやっぱりうまい結句の付け方だなとおもう。

⑩そんな死もあろうよ、という言い方にだらりとした無力感を感じる一首。何かを食べたり飲んだりしているなかで、これが最後という自覚を持つことは人間にとってそれほど多いことではない。そういう自覚もなく食べ終えた、というのは面白い発見だ。そして、そんな死もあるだろうと慨嘆する。これは不思議だが実感のこもった歌だ。

「しんきろう」の歌のなかから喩景に徹した歌と、どちらかというと生の実感に根ざした歌の二つを取り上げて鑑賞してみた。どちらかというとやはり、生の実感に根ざした歌のほうが、暴力的ではあるがリアリティを感じさせる表現で、成功していると思わせるような歌が多いように感じた。

ただ、加藤治郎の歌をあえて批判すると、もう社会詠はほんとうに歌わないほうがいいんじゃないかというぐらい、社会を歌うのがへたくそになってしまっている。

黒瀬珂瀾さんがちょうど未来の11月号で震災の歌について批判していたが、僕は震災が起きようが起きまいが、加藤治郎は社会詠が限りなく下手な歌人、という印象を雨の日の回顧展以来持ち続けている。

ほんとに治郎さん、社会詠はもうやめたほうがいい。

 一日艦長はチンパンジーなりちょうかいはゆく日本海まで

 紙ミサイルを水鉄砲で撃ち落とすのどかな午後にわれは働く

これは北朝鮮のミサイル発射についてのべた歌だが、一体この歌のどこに批評性があるのか。一日艦長はチンパンジーとするあたりははっきりいって、「ちょうかい」の乗組員を侮辱しているとしか思えず、僕が自衛隊員だったら怒って怒鳴り込みにいってもいいレベルの歌である。

紙ミサイルを水鉄砲で撃ち落とす、というのもはっきりいってひどい。要するに自分はのどかに感じている訳だが、つまりは歌人としてこの事件にあまり実感をもっていないのだろう。それであればなんでこういう歌をわざわざ作るのか、紙ミサイルを水鉄砲で撃ち落とす、は比喩の面でも大きく水準を下回るし、実感の面でもリアリティを大きく欠いている。

 洪水が押しよせてきた洪水が顔を破った ペーパーナイフ

これも社会詠という以前に歌としての水準を大きく割り込んでしまっている。このペーパーナイフが全く効いていない。洪水が押しよせてきた洪水が顔を破った、という表現からどうしてここにペーパーナイフという言葉が入るのか必然性をまったく欠いた表現になってしまっている。

ぼくの私見だが、加藤治郎は自分の内面から押しよせてきた社会詠というか、オウム真理教事件や少年連続殺人事件のような、ある種の内面的な心の闇がもたらした表現については多分非常に得意としていて喜々として歌う事ができるが、ミサイル発射事件の歌や今回の大震災のように、外から押しよせてきた出来事を自分の内面に取り入れて歌うことができないタイプの歌人ではないのだろうか。

だから、「外から押しよせてきた出来事」を歌うのはものすごく下手で、想像できる「内部の闇」について歌うのはものすごく上手な歌人ということになるのではないか。

笹井宏之さんへの追悼詠も外からやってきた出来事である。

必然的に、どうしても言葉遊び的なほうへ行ってしまう。

笹百合のさやさやゆれるBlogには永久(とわ)に承認待ちのコメント

これなどは、笹百合とした必然性がほとんど感じられず、笹井さんの笹を百合にみたてただけというきわめて平凡な追悼の仕方をしている。こういう感じで追悼されても、僕だったらあんまり嬉しくないかなあ。と思う。

治郎さんはできれば、歌うテーマを、自分の得意な方向で歌っていくような努力をすべきだと思う。

なんでもかんでも歌にする、というのではほんとうに「下手」な「苦手」な部分が各所から叩かれると言う結果に終わるだけである。

そろそろ第八歌集になる。『環状線のモンスター、』『雨の日の回顧展』ときて、まだ加藤治郎の「これはっ」

という「レイトワーク」をまったくみれていない。

さすがに弟子としても、そろそろ短歌史に残る決定的な仕事をこの辺でしてほしい、という半ば焦りのような祈りのような気持ちで、治郎さんの歌業を眺めているのである。

川本千栄さん、『深層との対話』

川本千栄さんの評論集『深層との対話』を拝読する。

評論について論じよ、というのはちょっと難しい課題なので、感想を書くのが大分遅くなってしまった。

「短歌は評論によって文学となる」というあとがきにかなり気合いが入っている。川本さんがどんな作品批評を展開してくれるのか、期待しながら全体を読む。

概括的に述べると、一番面白かったのは河野裕子さんについて論じた「光れる闇」という評論だった。河野さんの短歌が持っている「瑞々しい、健康的」といったイメージとは相反する、「色濃い死の影」に注目している。

 「産むといふ血みどろの中ひとすぢに聴きすがりゐて蝉は冥かりき」

と言った歌を引きながら、河野さんの短歌の読み直しを図っている。

やっぱり師系というものがあるのだろうか、河野さんの短歌を論じるときの川本さんの語り口にはちょっと違う気合いがはいっているような気がする。この「光れる闇」という評論のあと、「変容する身体感覚」へと続き、「〈われ〉の境界線」へと続いていくのだが、このあたりの女性歌人を論じた視点というのには迫力があり、一瞬ぞくりとするような鋭い指摘が続いている。

「主体とモノが共鳴し会い、主体の身体がモノにまで拡大していくような感覚」(河野裕子歌集『家』から
『歩く』にかけての指摘)

「主体がモノに転移するのではなく、〈略)モノが主体の身体のなかへ入り込んで来るような感覚」(河野裕子歌集、『季の栞』から『庭』にかけての指摘)

そして最終的には、

「自己と他者〈モノ)との境界線が曖昧なままモノに同化し、その全体を大きな〈われ〉として捉える、またその大きな(われ)から自己の深層に直接降りていく回路がある、これらは近現代短歌の「私性」の枠組みを超える、新しい私性のあり方ではないだろうか」と結んでいる。

河野さんを筆頭にした女性歌人を論じたときの川本さんの評論は、引いている歌もいいし、鑑賞も行き届いている。『深層との対話』という表題も、ここからとられているのかもしれない。こういう「感覚」を掴もうという回路へ手を伸ばした評論にはとても好感をもった。

逆に、吉川宏志さんや加藤治郎さんについて述べた文章には奇妙な違和感を感じざるを得なかった。

詳細はすっとばして結論だけ紹介するが、

「華やかな修辞に飾られてはいるが内容の希薄なニューウェーブの歌はもう要らない。女性の恋愛の歌ももう飽きた。二十一世紀の短歌を拓くのは、自己を客観的に見つめる骨太な知性と冷徹な批評精神に支えられた社会詠である」

塔の歌人に一概に言えることなのだけれども、僕には、さすがにそれはちょっと、と踏み込めないところがある。

「短歌を拓くのは社会詠」

「個人の小さな声である短歌を、時代と世界の中に位置づけるのが評論」(あとがき)

こんなに構えちゃって大丈夫なのだろうか。川本さんは。と思ってしまうところがある。

僕もかつて、3年ぐらい前は、評論を書かなければならないと思っていたし、社会詠をつくらないといけないと思っていた時期もあった。しかし、これは何かそうせざるを得ないような歌壇的な「空気」を感じてのことだった。

果たして評論を書かなければ歌人はいけないのか。

社会詠をなんでつくる必要があるのか。

そもそもの根源的な疑問はこの2点にある。

ここには、短歌を何か「オフィシャルで影響力の強いモノ」に変えて行こうとする焦りのようなものを感じ取らずにはいられない。


僕が最近とても納得した歌に

光森裕樹さんのこの一首がある。

だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて(光森裕樹)

ここには、ぎりぎりのところで、社会詠を歌わざるを得ないような感じが「力」になっていくような、短歌の世界の微妙な空気感と、それに抵抗しようとする作者の「あぶないあぶない」という感じが出ている。

川本さんのこの評論集では、一番新しい光森さんや永井さんといった世代の歌人たちが全く触れられていないので、今の川本さんの見解はよくわからないのだが、僕は最近の空気感では、「ニューウェーブは要らない」→「これからは社会詠を」という言い回しも完全に昔のものになってしまっているような気がしてならない。ぼくの感じ方では、むしろ「社会詠さえ要らない」のだ。個人の声だけでいいのだ。世界や社会に繋がっていこうなんていう意識はさらさらないので、純粋に何か感動をもたらしてくれる歌を読者として鑑賞したいという意識になってくる。

そう読むと、おそらく川本さんが力を入れたであろう「社会詠、その二十一世紀の視点」という評論は、歌の鑑賞というよりも引用の仕方にややバイアスがかかっているように見えて、あまり実感として立ち上がってくる評論ではなかった。

加藤治郎さんに対する見方は、僕は数段『昏睡のパラダイス』のほうが出来がいいと思っていて、(「加藤治郎のオノマトペ」)これはまた形を変えてブログに見解を表明することになるだろう。

まあ、意識の点で少し乗り切れないところがある評論集だったが、「近代短歌やまざくら考」や「前田透ーその追憶と贖罪の日々」など、戦後意識という点でも、川本さんが一貫した思想を持っている論客なのだなということが伺い知れる好評論も少なくない。

まとめて読んでみると、やっぱり評論に意識を入れている人の評論は違うな、と感じさせてくれる評論集だった。
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