2013年05月 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

2013年05月

「岡大短歌」創刊号

「岡大短歌」創刊号を拝読する。

これを拝読しながら、ツイッターで、岡大短歌の上本彩加さんが、

「指導者の正しさの中で成り立つしかない歌はどこかで限界を迎える気がする。学生だからいい歌、学生だから許される表現、学生の中で多い言い回しだからダメ、そんな「学生」のあり方としての短歌会を立ち上げたわけではないしそこでしか生きない歌なんて作りたいとは思わない。決して。」

とかっこいい決意表明のツイートをしていたことを拝見した。

もともとの文脈がどういうものだったのかはちょっとまぎれてしまって、よくわからないのだけど、おそらく「指導者のいない短歌会は危うい」とか、「新興の学生短歌会は読みが危うい」とか、無責任にも言う年長の歌人がいたんだろうと推察した。(間違っていたら申し訳ないけど)

すこしこれに関連して感想を書くけれど、はっきりいってこれは岡山大学短歌会が背負うような問題ではなくて、今まで地方の新興の学生短歌会が「私もやりたい!」と思わせるような空気を作って来なかった年長の短歌の先輩たちに問題があると思う。

少し自分に引きつけて話をすると、自分のころ〈当時は29歳でした)というか、自分が短歌をはじめる、と決意したときは新潟に住んでいて、なんとなく短歌をやるためには東京に出ていかないといけないんじゃないか、的な感じがすごくあった。

周囲で少し短歌でも、というサークルを検索してみたんだけど、ほとんどが年配の方ばっかりで、若い人がいない。。。

ネット上に「地元ですごい歌人がいる」なんていう情報は全くあがっていなかったので、地方に住んだまま短歌を始められる、という気が全くしなかった。(つまりは、自分が作るような歌をちゃんと読んでくれそうな人がいなそうだった)。そもそも短歌始めたころなんて、文語?、何それ、おいしいの? というレベルだったし。

はっきり言えば、今、地方都市の短歌会なんて、どこも読みが危ういんじゃないか。

70歳とか80歳の「先生」が、若い感受性を発見できる可能性なんて、皆無に等しいのでは??

そういう自分たち(というか短歌界全体)の問題を棚に上げて、新興の短歌会は読みが危ういとか言っても、全然お話にならないと思う。むしろ短歌界の求心力の低さ、柔軟性のなさのほうが危ういのではないだろうか?

僕が東京に出て短歌を初めてみても、「ああ、こいつら地方都市のことをなんも考えてないな」という雰囲気は如実に感じた。多くの若い歌人たちが東京近辺に在住で、地方在住者の文化的なハンデキャップとか、そういうことに全く関心がない。なんか善良な人たちがつどって、歌会というクローズドな場所でのみぼそぼそと自分の意見を言う。そんな風潮は僕は嫌いで、できるだけオープンな場所で歌についての話をしていきたい。と思った。

岡山大学の皆さんが、おそらく中国地方、四国地方というかなり文化的なハンデキャップを持っている土地柄で、
それにもかかわらず自分たちの短歌会を開き、こうして創刊号まで出せたことに敬意を表したい。

いただいた創刊号については、謝意を込めて、真剣勝負を挑ませていただきます。
もちろん、歌に関しては学生だからOKな表現とかそういうのは一切ないと僕は思う。

「同人誌」、基本的には僕は全部感想を書くことにしているので、今回の岡大短歌も「同人誌」の扱いで読みます。

。。。

あと余談を自分で言うのもなんですが、このブログはいただいたものを律儀に全部返しているつもりです。。。

いただいたものを無碍にするわけにはいかない。
かといっておはがきでお礼状なんて書いて適当にすませるなんてことも、できそうにない。

打ち込みのほうが楽だし、読みたくない人は別に読まなくていいし、お礼状のようにもらった相手が逆にかしこまって返事を出す必要もないから、ブログに全部書くことにしている。僕が体力があって、時間に余裕がある限り、このブログ形式でのお礼状を続けます。大体お礼状で絶賛されても作者がうれしいだけで何の得にもならないし、さらにお礼の手紙を返す、なんて体力的に作者側の負担になるだけだから、していません。

という訳で、逐一お手紙やメールで感想を、なんてことはしていません。もし岡大に限らず、この感想が作者に届かない、ということがあったら本当に申し訳ないです。僕がもっと忙しくなったらこのブログも更新は停止して、お葉書になるかも。それもさらに申し訳ないですが。


                         ※


ということで全体をぱらぱら読むと20首連作を出している方が、3人。駒井早貴さん。森下理沙さん。上本彩加さん。

8首の方が稲岡沙織さん、高谷由貴さん、安良田梨湖さん。


ちょっと前置きが長くなりましたが、8首の方からいきます。

稲岡沙織さん「タブラ・ラサ」

8首拝読して、歌になる衝撃を見つける能力はすごく高いけど、まだ歌のつくり方とか推敲の仕方が未成熟だな、という印象を受けた。

「これはいい歌になるんだけど」という歌がいくつもある。
たとえばこんな歌。

・盲目は青を氷で知るというなまぬるい青を君は知らない

これ上の句は非常にいい発見をしている。そうか、盲目のひとは氷に触れて青を知るのか、というのはちょっと発見として斬新というか、面白いところに着目したなとおもう。だけど、そのいい発見を受け止めるだけの強度を下の句がもっていない。「なまぬるい青を君は知らない」というところで、この「君」が「盲目」のことなのか、普通の人のことなのかわからないし、何よりも「なまぬるい青」というのがどういう青なのか、歌としてはちょっとぼやけてしまった感じがする、青をもう一回繰り返しで使うのはよくなかったのかな。多分、盲目の人が「氷」を感じて青を知るから、「なまぬるい青」というのを知らないということを言いたかったのだろうけど、何分、言葉つきが丁寧すぎるのではないか。


そこで推敲するんだけど、この歌の場合は、上の句で十分な発見をしているので、下の句はなんとなく、関係のないさらっとした言葉を入れて上の句の発見が生きるようにするというのが一つ方法としてある。

あといろいろ方法があるのだけど、君をわかりやすくするか、自分の感情を盛り込んだりするのも一つの方法としてはあるかな。

あと上の句、盲目は、って言ってしまうとちょっと盲目の方に対して失礼かな。

そこで上の句は「盲目のひとは氷で青を知る」くらいで止めたほうがいいと思う。

そこで、ちょっと下の句を何か考えたほうがいい気がする。僕が推敲してしまうと稲岡さんの歌ではなくなってしまうので、この辺で止めておく。 

・白き道踏み荒らすごとくタブラ・ラサに刻む余生はひとりぶんだけ

タブラ・ラサというのはおそらくまっさらな何も書いていない白紙状態のじぶんの人生のことで、哲学用語だという。惜しい歌なんだけど、これだけで「まっさら」とか「白い」というイメージが出てくるので、上の句で白き道の白きは比喩としてはあんまりうまく機能していない感じがする。それを「踏み荒らすごとく」っていうあらあらしい言葉が入っていて、結句は「余生はひとりぶんだけ」となんかぽつんとした、さびしい言葉が入っている。ちょっと言葉のあっせんが、荒々しくいきたいのか、さびしくいきたいのかわからない。歌としては、なんかすごい発見をしそうな作者なんだけど、イメージの統一感に欠けてしまうところが惜しい。

あとの歌でちょっと悪いと思ったも引きます。ちょっと言葉が重複するのが悪い癖かな。

・夢うつつ掴んだ手?は赤色だった目覚めてもモノクロの世界で

・呼び出して。特別だったあの日々は読めない日記に埋もれているから


一首目、赤色っていっていて、モノクロの世界、っていっていて、これ言葉の対応があまりにも同じトーンすぎる気がする。

二首目、あの日々、といっていて読めない日記、っていっているけど、これも言葉がだぶつきすぎると思うですよ。

まずは発見をきれいに歌にまとめるところからだと思う。いい発見はしている。あとは一首としてどう折り合いをつけていくか、だと思いました。僭越ですがそんな印象を持ちました。こういう人は鋭さで勝負するタイプになるのかな。先が楽しみです。

高谷由貴さん「永遠、ではない」

同じような女性の口語のきらきらとした文体なんだけど、高谷さんの歌は発見をきれいに歌にまとめることができていて、いいと思った。どの歌も渋く一個、いい発見を入れているなあという感じがして、好感を持って読んだ。

・終わりとか破滅とかいう歌詞を書くこのバンドもう二十五周年

・足と足が触れそうになるあたたかさ絶対ではないけれど好きです

・さよならが永遠じゃない幸せを測りかねつつひと駅歩く


一首目はもう発見をぽんと投げ出した感じだけど、「終わりとか破滅」という歌詞を書くこのバンドがもう二十五周年も続いている、というのにはかるい発見の衝撃があって、いいとおもいます。ざぶとん、一枚。という歌だと思いました。

二首目 絶対ではないけれど好きです、という言い回し、いいですね。なんというか不安定な感じがして、自分のこころのなかでちょっともやもやっと滓をためている感触というのを、「絶対ではないけれど」、からは感じました。でそのもやもやっとした「絶対ではないけれど」という言い回しを、上の句がうまく表現してるな、と思います。「足と足が触れそうになるあたたかさ」これは「あたたかさ」ていう言い回しがちょっと平凡だけど、足と足が触れそうになる、というこの「触れそうになる」のあたりに、すごく危うい感じ、不安定な感じがでていて、絶対ではないけれど」というもやっとしたものとうまく対応していると思いました。


三首目もひと駅歩く、がとてもよくて、実感がこもっているなあ、という気持ちになりました。このひと駅歩く、でだいぶ歌が救われたというか、上の句の「さよならが永遠じゃない幸せ」という漠然としたものをうまく具体物に落とし込んで表現できている、そんな印象がありました。実感が入っている歌が、いいなと思います。

なんか目を細めてたらですます調になっちゃった。

あとは悪いところも指摘しておくけど、やっぱり言葉のあっせんがうまくいっていない感じの歌も結構あって、

.・望みを問う口の形の花たちに こっそり水をこぼしてみる朝

とか

・たんぽぽのロゼット君は顔上げてやっと私に微笑んでくれる

とかはちょっと言い足りてない感じがする。

上の歌は歌意としては一つ目は、花が水くれ、って言っている歌だと思うんですが、「望みを問う」という言い方が言葉として適切かどうかはちょっと考えるところだと思います。望みを「問う」でいいのかな。そうすると、なんだか花のほうが逆に私に「何か希望はないの」と聞いているような歌になってしまっていて、これは歌意が真反対の意味になってしまう。多分花が水が欲しがっている、というところから発想が生まれてきて、そこでうまく望みをという言葉までは出てきたのだろうけど、ちょっとどういう歌意にするか自分でも迷って「問う」とか入れちゃったんじゃないかなと思う。歌意が二通りになってしまった。この水は自分が涙をこぼした、という歌意でとれてしまうんだけど、それだとちょっと上の句が固いなという印象。あと真反対の意味になる歌意の歌はさすがにぶれすぎという印象がして、これはちょっと言い足りてないというか、もっといい歌に化ける可能性がある歌だと思う。


もう一首目は、僕はロゼットという言葉を使ったことがないのでよくわからないんだけど、たんぽぽのロゼットって、たんぽぽってそもそもロゼットじゃないですか? (wikipediaで調べましたが。)たんぽぽの葉のことをロゼットといいたいんだろうけど、なんかこの上の句がうまく機能していないなあという印象です。

それは上の句と下の句が対応していないというところから来るんだろうけど、たんぽぽの葉、として読んで、

たんぽぽの「葉〈ロゼット)」 きみは顔上げてやっと私に微笑んでくれる

これ、どういう発想で上の句と下の句がついたのかわからないです。なんか、情景というよりは説明として「たんぽぽの葉(ロゼット)」が置かれてしまった感じがすごくしてしまう。これ、下の句は「やっと私に微笑んでくれる」とおさまりよく動作を歌っているので、こういうぽんとおかれた説明というよりも、なるべく心象をあらわす情景をあげたほうがいい。と思いました。「咲いていくタンポポの花」、でもいいし、「タンポポの広がる野原」、でもいいし、何か動いた情景であったほうがよかった。かな。まだ上の句と下の句をうまく対応させる技術が足りてない感じがしました。ケースバイケースだから難しいんですけど。

安良田梨湖さん「なれる、なれない」

この作者は今回テーマに沿って歌を並べてきた。面接前夜という具体的な情景を歌にするあたり、いいと思った。文体としては岡大のみなさん女子力がとても高くていらっしゃって、きらきらした口語なんだけど、どの作者にも独特の個性があるように思った。

・履歴書の四角い枠に収まってシュレッダー行きを知らない私

・腕時計はずしてつるんとした手首これから何に縛られるだろう

・ぶつかった人に小さく謝って最短距離を行くのをやめる


かるい、若い作者独特の憂鬱というのか、ちょっとした青春の不安というのかな、そういうものを歌にできていると思った。面接という人生のテーマに沿った発見がどの歌にもあると思うんだけど、一番いいとおもったのは最後の歌。

これは連作からシングルカットして一首の歌にしてもすごくいいところに目線が行っている。情景としては、実景としても読めるし、心象風景としても読めるし。これすごく大事で、実際の風景としてもよめて、心象にもなっている、という歌が、読者が共感できる歌の条件の一つではないかと思うんです。

これ、実際の風景としては駅のホームとか雑踏のなかで人ごみにぶつかってしまって、最短距離で目的地にたどりつくのをやめたという歌にもなるんだけど、もっと心の中のことかな、最短距離で人生のゴールへ行くのをやめるというか、何か人生の障害に作者がぶつかってしまって、それで「最短距離」を行くのをやめた、という全体のテーマとしても読める歌。すごく完成されていて、この一首は飛びぬけていいと思った。

あとの歌はちょっと言葉がざっくりしすぎてるというか、共感を得るにはまだ至っていない感じ。

2首目にあげた「これから何に縛られるだろう」は、ちょっとなんというか、腕時計ときれいにくっつきすぎてしまっているというのもそうだし、感情の表白としてはすごくシンプルで。いや、会社に入るとか結婚するってことはそんなに縛られるとかそういうマイナスイメージだけではないよ、という反論が聞こえてきそう。気持ちはわかるけど、これは「学生だから許される歌」になっちゃってないかという感じ。

もっと前向きに歌って、いいんじゃないですか。なんか作者本人はすごく明るい方なんじゃないかな、文体もどちらかというと軽いし。

1首目は、これもうまいところに着眼したんだけど、文体が「私」で着地しているところがどうも説明っぽいというか生々しさが欠ける感じがしました。

シュレッダーでわたしが切り刻まれていく! とか。もっと現在形で手放して、歌をうごかしたほうがこの歌はもっといい歌になる気がするんですよね。この歌は下手するとすごいなまなましい歌に化けるかもしれないので、それはずっと大切にもっておかれたほうがいいと思います。


あと何気ない歌だけど、

・眠るなとポニーテールが言うからさ座席を起こして天気予報みる

も、なんだろうとおもって付箋をつけました。なんでもない歌なんだけど、天気予報ということばがなんとなく詩的に響いてきて、いいんじゃないかな、と思います。日常のなにげないところに詩を見つけるのは難しいけど、こう散文的な文体のなかにときおりこういう歌が混じっていると、ちょっといい意味で気になります。

続いて、20首と8首を出してきた方。

駒井早貴さん「友人S、そしてケイ君」「台北行き157便」

8首のほうは相聞歌で、20首のほうは台北旅行から取材したと思われる紀行詠かな。
この作者は落ち着いた文体だ。文体から感じる落ち着き具合という点では岡大の中でも目立っていると思う。

「台北行き157便」は、丹念に台北への旅中をデッサンしていて、落ち着いた雰囲気の紀行詠となっている。

歌としてというよりも連作として、まずしっかり書けているというところ、非常に好感を持ちました。

・山上に九分(チョウフェン)はあり煉瓦にはのんびり腹を掻いている猫
(※分はにんべんに分)

・提灯を灯すのはだれ階段が闇を持つから早めに帰る

・人ごみを避け路地裏で串ものをほおばりたまにこぼして笑う

・タクシーを降りれば雨だ動かない衛兵の前で静かに傘を


どの歌も過不足なくデッサンしているのがいいし、淡い抒情もある。まずは完成度の高い一連だと思いました。これといって難癖をつけることもなく、素直に「ああいい歌が並んでるな」と思って読みました。ただ衝撃力というか、これはすごいのをもってきた、という感じが弱い、といえば弱い。もっとひらたくいうと、言葉の選択に幅があんまりない。で、それを補うために漢字とかいろいろなものを持ってきたのであれば、少し危険かな、という匂いはします。ただ、、作者の文体というかデッサン力が落ち着いているので、この一連はこれで、いいと思う。

掲出の4首はどれもいいと思った歌のなかからあえて引っ張ってきたのだけど、たとえば4首目、雨だ、しずかに傘を、という感じの呼吸の落ち着き具合というか、文体の持っている呼吸を最大限に生かしていると思いました。雨だ、傘をという言いさし、ちょっと口語の歌としてはもうたくさん見たかなあ、という形ではあるんだけど、
自分の視点で捕えられているというか、自分の呼吸で歌うことができていて、これは雰囲気が出ていてGOODだと思います。

3首目、あんまりいろいろなものを詰め込みすぎると歌ってよくないっていう批評があるんだけど、この歌の場合、逆にいろいろなものを口語でつめこんだからいい感じになっていて、すごく情景を動かしていていい感じ。「人ごみを避け路地裏で串ものをほおばり」には勢いが生まれていて、特に中の句の「たまにこぼして」がうまく効いている感じがしました。とてもいい感触の口語の歌で、好感を持ちました。

あとは1首目もとてもきれいに書けているかなとおもいます。モチーフと文体(歌いたこと)が良くマッチしていて、とてもいいと思いました。

気になった歌は、そうですね。8首詠のほうがあんまり出来がよくないというか、ん、これ「晴れのち神様」(田丸まひるさん)みたいな世界観なのはまあいいんですけど、ちょっと概念語を扱うのがあんまり上手でないな、という印象を持ちました。

ゆるーくデッサンしていったほうがいい歌になる感じがするんです。

・恋人を友人Sに還元し自由になった身体のしずく

とか。

これ還元っていうことばを無理やりいれちゃったので全体が固くなってしまった、というか、読者が躓いてしまう原因の歌になってしまった気がするんです。不自然な漢語を入れて、途端に歌意が広がらなくなってしまった、というか、初歩的なミスをしてしまっている歌のように思います。

たどたどしいなあ、あやういなあ、という感じの歌他にもあって、

・気付いたら生協にある好きだったチョコのお菓子がなくなっていた

これ、短歌の生理として、初句と3句目に、気付いたら、って一回作者の感想みたいなのが入っていて、そのあとに好きだった、ってまたもう一回作者の感想みたいなのが入っていて、なんだかこれは説明しちゃいました、という感触が出てしまっていて、変。

あとはそうだなあ、べったりと説明したような歌が並んでいて、8首詠は完全に初心者の作品というクオリティだと思いました。こういうところは歌いなれていくと消えていく箇所だと思うので、まずはゆるーくデッサンというところを心がけていかれると、いい作者になるんじゃないかなという印象を持ちました。

森下理沙さん「Softly,as in a Morning Sunrise」「ところにより、ドロップス」

とても才能のあるきらきらした歌が作れる作者。20首詠、今回読んだ岡大のなかでも「おおおっ」という歌が一番多くて、付箋がたくさんつきました。

ただこれだけは言いたいんだけど、旧かなと新かなの混交は絶対に避けてほしい。歌を旧かな表記にするっていうのは、ある程度、歴史性を背負うというか、伝統の重みを一身に受けると言うか、そういう部分があります。ぼくは旧かなで作るとき、確かに結構間違いもしたし、選者の先生から「これは正しい表記ではない」というふうに言われて、そこは何度も何度も怒られ続けてきたところなので、口が辛くなるんですが。。。


多分「Softly,as in a Morning Sunrise」は連全体が新かな表記で、

一首だけ旧かな表記の歌が混じっています。

山頭火の引用だから旧かなにしたのか、という感じなんだけどこれはまずい。

・人間いたるところ青山ありわけいつてもわけいつても私の茂み

こういうところ、誰かの評言にもあったような気がするんだけど、言葉とか歴史性をツールとして使うというか、表記の重さということにまで考えが言っていないのではないか、という感触があります。絶対一連のなかでは新かなは新かな。旧かなは旧かな。混ぜこぜにするのは校正者に不親切だし、伝統性とか歴史性という言葉を引き受けるだけの覚悟があるの?? という疑問が寄せてくるので、やめたほうがいいです。

この作者は新かな表記の歌のほうが迫力があります。

・あの人をふしあわせにしてハラキリのように引ききるアイラインは黒

なんでしょうね。このハラキリが出てくるあたりの言葉の斡旋のすごみというのは。引ききる、というあたりまで言えているのがこの歌はよくて、ハラキリのように、という言葉が唐突に出てきても、読者は納得できてしまいます。とても、すさまじい歌だと思います。

・春光の ロボトミー手術受けてみたけれど川面のそれはきらめき

ロボトミー手術という言葉がいきなり挿入される感じ、すごいっす。ロボトミー手術というのは精神病の人に行われていて(今は禁止されている)手術方法なのだけど、春光の、で一旦きれて、言葉付きとしてはやわらかい感触なのにいきなり「ロボトミー手術」が入ってくることでおどろおどろしさを表現しています。

・ゾンビ的悲劇のヒロイン自意識の香りは腐臭に似ている

これもなんかすさまじい歌。ゾンビ的と腐臭はやや言葉の配置が似ているのかなあ、という気がしないでもないけど、まあ自意識を、これでもかっ。っていう感じで腐臭とかゾンビとか入れてきたあたりにこの作者の強烈な個性があります。インパクト十分。字足らずも、いいんじゃないでしょうか。


・最後からX番目の思想を導きだすための漸化式

漸化式ということば、数学用語なんでしょうけど、これをここで挿入されてくるあたりというか、もう韻律無視、一発の迫力で勝負しました、という感じ、僕は好きです。こういう感じを大切に歌ってほしいです。

・結末を知ってる映画の結末に流す涙のように好きだよ

これ直喩がすぱっと効いていると思います。せつない歌ですね。

こういうタイプの迫力で勝負する人に共通する欠点と言えば欠点なのだけど、読者に届かないというか、届くときと届かないときの落差が難しいんじゃないでしょうか。

世界の終わりとか、何もかも死ねばいいのにとか、こういうあたりの歌は、もう結構表現としては見慣れているなあという感じがして、そういう歌は迫ってくる力がちょっと弱いのかな。

まあ独特の言葉のセンスを持っている作者なので、貴重です。大事に歌ってほしいです。

20首詠出した人は、どうも8首詠が。。。上本さん以外は8首のほうでなんか突っ込みどころがたくさんあります。

この人は文語旧かなにしたいのかなあ。この文体だと新かな口語のほうがいいと思います。口語で3年か4年続けて、それで満を持して文語にシフトしたほうが、いいと思うんだけどな。固有名詞の迫力とか、言葉と言葉がぶつかったときの凄みとか、そういうものを出せるのはどちらかというと口語のほうだから。文語って「調べ」が入ってくるでしょう。あんまりこの作者には調べのよさというのを感じないので、思いっきり口語で、新かなで歌ったらいかがかと。

まだ、文語を使うだけの迫力がないです。あんまり深く突っ込む体力が僕のほうにないので、この作者はここまでとします。

最後、上本彩加さん。「街にいる」「「風が吹く」

ひとことでいえばおだやかでゆったりとした歌い口ですが、濃密な抒情を感じとることができました。かなり言葉を選ぶセンスというか、詩のセンスはいいのではないでしょうか。頑張ってほしい作者です。

8首詠から。

・信号を待っている人ふたりいてとりあえず待っている人になる

・耳たぶの穴をこじ開けられながら風が存在する街にいる

1首目、穏やかな何気ない感じの歌ですが、静謐なポエジーがあると思います。信号を待っている人がいて、とりあえず待っている人になる、というのは、なんとなく自分がその空間になじんだ、というのかな、そういう感触を歌であらわすことに成功しているとおもう。待っているが二回使われていて、この場合は、リフレインが「自分が」待っている、という感触になるあたり、非常にいい言葉つきをしているなあと思って読みました。

2首目、概念語を入れるのは難しいんですが、この歌は成功しているかな。「風が存在する街」というのはとても雰囲気があって、何気ないことを歌っているんですが、そこから醸し出されるポエジーを感じました。穏やかだけど詩的なセンスを感じます。

20首詠から。

タイトルは無骨だけど、どうも無骨なタイトルのほうがなんか中身がいい感じはしますね。

岡大のなかではかなりハイレベルな勝負をしてきてるとおもいます。

どれも成功していると思った歌を。

・合鍵をもたない風が玄関のドアを揺らしている音がする

・ひとつはやい角を曲がればいつもとは違う景色に生活がある

・春色のニットをまとうマネキンも冬の寒さを知っている人

・薄暗い空気にそっと溜息を混ぜても気づかない街がすき

・もう今日は昨日へ変わる この道にわたしを残し影は眠った


一首目、擬人化がうまく効いていて、風は確かに合鍵を持たないのですが、とてもいいところに着眼して詩を作っている感じがいいと思います。歌意もすぐとれるし、なんだか静かだけどとてもいい雰囲気の歌です。

二首目、この歌は生活、っていう言葉の響きが買える歌だと思います。言われてみればそうなんだけど、いつもとは違う景色に生活がある、って発見としてはなかなかそうは歌えない印象があって、おだやかで、とてもいいと思いました。すんなり心に入ってくる歌ですね。定型の生理とか、そういうものをよくわきまえている作者だと思います。


三首目の発見もいいと思います。「マネキン」が「冬の寒さを知っている」というのは、まあ自分の心象が投影されているわけだけど、おだやかなつくりだけど詩情があって、せつないです。

四首目、これもいいところに目を付けたなあという感じ。自分の身体感覚が歌われていると思います。そんなに歌のなかの「わたし」がでしゃばった印象はないんですけど、「溜息を混ぜても気づかない街」というのは、おだやかでいい発見があると思いました。とてもやわらかい詩情があって、いいです。

五首目 もう今日は明日へ変わる、の「もう」と、「この道に私を残し」というあたりに少しせつない抒情が響き合っている感じがします。「影は眠った」もすこし大雑把だけど、詩情を醸し出す文体としては成功しているのではないだろうか、と思います。どの歌もおだやかで、こちらが無理くりに歌意をとりにいかなくても、十分に詩として機能している感じ、好きです。

あとはハイレベルな話になってしまうのだけど、微妙なところで言葉のあっせんが失敗している感じの歌、結構あります。

・遮断機がつくる空間 砕き散るその瞬間まで見守っておく

・それはみな足跡である道をゆく踏み出してまた広がった過去

・魂が細く吐き出される場所を向かい合わせて会話をするね


1首目は8首詠からですが、空間と瞬間と概念語を二回入れたあたり、言葉のあっせんの仕方としてどうなのよ。という雰囲気。うーん。うまい批評が見当たらないんですが、岡大のひと、基本的に概念語にあまりにもルーズだと思います。瞬間とか空間という言葉をうまく回避して、デッサンしていかれたほうがよろしいかと思います。ちょっと素人っぽく見えちゃうんですよね。

2首目も、過去がちょっとなあという感じ。レベルは高いんですよ。でもなんというか、それ「は」よりも「が」のほうがいいだろうし、過去で着地させるとどうしても「うん、そうですか」、という雰囲気になって歌の形としてまずく見えちゃうあたり、もうひと踏ん張りできるでしょ、という感じです。

3首目 これは判じ物のような歌で、「魂が細く吐き出される場所」ってどこですか? どこですか? って考えて行って、「口だ」、とわかったら、それで一辺に歌がつまらなくなってしまいます。こういうなんか表現が判じ絵みたいになってしまうあたり、いい歌だとは思いませんでした。

上本さんはまだ2年生? これからの歌を、とても楽しみにしています。

さて、これでながながと書いたぼくの岡大短歌への感想も終了です。

読み手が必要ならいつでも僕はネット上で書きますので、頑張ってください。岡大短歌のこれからの発展と、会員のみなさまのご健詠をお祈りしています。
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「外大短歌」3号

「外大短歌」3号を拝読した。
昨年の暮れごろだったか、ちょっと時節ははっきり覚えてないけれど丁寧な肉筆のお手紙を添えて送っていただいた。

学生のみなさんの短歌を読むのは楽しい。
未知な方との出会いとか、新たな若い表現を発見する楽しさ感じとることができる。

各地で学生短歌会が活発になって、いろいろな大学の短歌誌が届くようになってきている。
ツイッターとかでの交流もどうやら活発なようだ。

僕自身は、学生時代には短歌に触れて来なかったので、学生のときから短歌を続けるアドバンテージというのを痛いほど知っている。

ぜひいろいろな方のご意見を頂いて、「自分の作品が読まれる」ということの楽しさと、難しさを、是非感じていい作品を作り続けてほしい。学生短歌のアドバンテージは、なんといっても学生が終わってからも短歌を作り続けることで、仲間とつながっていくことができることだろうか。

ぜひ短歌、続けてくださいね。そう心から思っています。

こちらのブログでも、ささやかですが僕はこう読んだという個人的な意見をできるだけ丁寧に述べていこうと思います。

ブログは、しばらくまた学生短歌紹介シーズンに突入。

学生の皆さんの短歌、丁寧に読んでいこうと思いますので、「逆にこの批評はおかしい」ということがあったら、みなさんもぜひ遠慮なく仰ってください。ご指導ご鞭撻くだされば幸いです。


山崎春蘭さん「街」

とても好感を持って読んだ。落ち着いた静謐な抒情というのを一連から感じとることが出る、非常に雰囲気を持った作者だと思った。

・水鳥の頸のかたちの親指が吊革にあり首都冬に入る

・サンフランシスコの大きな妹に笑われているような静けさ

・曇り窓から透ける照明のごと かたわらにひとが来ている



一首目、多分、おそらく親指だけを吊革にひっかけている人がいたのだろうか。それを水鳥の頸のかたちの親指、と表現しているところが面白い。電車とかバスの吊革というのはもうちょっと殺伐とした光景なのだけど、それを詩的に押し上げるというか、「水鳥の頸のかたち」と表現することで、静謐な雰囲気を漂わせることに成功している。下の句、首都冬に入る、これは「いる」と読んだが、首都という言葉は一見遠いようだけど、少し硬質な響きが詩としてリンクしている表現なので、成功したいい表現なんじゃないかなと思った。うまく静謐な感じを歌に織り込んでいるとおもう。

二首目、あんまりみない瑞々しい直喩で、サンフランシスコの大きな妹に笑われているような、という言葉からは、そうだな、何を感じ取ればいいんだろう。これは「笑われている」と書いてあるから、ほんとうは明るい雰囲気の歌だととりたいんだけど、どうもそういう感じではなくて、何か遠いもの、はるかなもの、そこから漂ってくるほんのちょっとした寂しさ、みたいなものを僕は逆に感じとった。サンフランシスコも現実のサンフランシスコでもいいが、音感からすこしほんのりした抒情を感じる。一連のなかで一番好きな歌。

三首目、一時空けがきれいに決まっていると思った。これも直喩の歌なのだが、曇り窓から透ける照明のごと、で一旦一時空けが入ることで、上の句の映像がきれいに立ちあがってくる。そして韻律を一回字あけでやわらかくためて、かたわらに人が来ている、とくる感じ、温かさを醸し出していて、いい表現だと思った。上の句の字足らずも気にならなかった。おだやかで温かい気持ちになれる歌。

山崎さんの歌は、いい感じなんだけど少し音数あやしいところがあって、たとえば後半のこういう歌はあんまりいただけない。


・何ひとつ声にだすことないことの夕べ牛乳(ミルク)でパンを煮詰める

下の句が言いたかったんだろうけど、それにあわせるために何ひとつ声にだすことないことの、と「ことの」を2回連続で入れているような感じがどうもよくないかもしれない。「何ひとつ声にだすことない夕べ 牛乳でパンを煮詰める」とすればきれいに定型。この「ことの」の二回詰め合わせにあんまり必然性が感じられないので、ちょっと無理やりすぎる印象。ここが面白いという意見もあるかもしれないけど。

・暗がりに胃を横たえる 隣人の電話の声の止んだ後の


これは逆に字足らず。字足らず、結構冒険なので、あんまり安易に字足らずにはしないほうがいいかなというのが個人的な見解です。この歌の場合「の」っていう結句は不安定な結句なので、まあ入れられる、って言えば入れられるんですが、その前にも「隣人の電話の声の」と「の」が連続するので、ちょっとまずいのかなあという感じ。結句、「声が止まった後の」、ぐらいで定型に納めておいたほうがこの歌は「の」の浮遊感が生きる感じがして、少しもったいない印象。

・微笑もて彼女とガールフレンドと指輪とわたしと夜のうち

これも2音欠落。まあ指輪とわたしとが8音に読めてしまうので、夜のうちが5音。夜のうちがわ、ぐらいで7音定型におさめたほうがよかったとおもう。あと、この歌は上の句の微笑もて、がなんかふいっと文語っぽくて、ここも音数合わせで入れたのかなあという雰囲気がしないでもない。これは全部口語で、と、と、と、と。でつなげていったほうがよかったような気がする。あと歌意ですが、彼女とガールフレンドって同じ意味?? ちょっとそこだけわからなかった。

ただこの作者の詩的表現の鮮烈さというのは十分感じとることができた。ぜひ続けてほしい作者。


高畠亮輔さん「地面で暮らす人」

勢いのある文体。そしてなんかドライな世界を歌おうとしているのかな。力強い印象を一連から感じた。


・はんざいしゃなりたかないですスリッポンシューズのかかとを踏んで歩くも

・野菜ジュースが死体の如くどろどろと注がれている私の口に

・祇園寺にマヌケな鳴き声響かせるフクロウは体がなくてもしあわせ


1首目 勢いがあるのがいい。スリッポンシューズというのは革靴の、要するにひもで結ぶ必要のない靴のことだそうだが、すごくかっこいい韻律だな、と思って引かせていただいた。歌意としてはすごく明瞭で、ひらがなで開いた「はんざいしゃなりたかないです」というのがなんだか実感を持った手触りがあって、そのあとにスリッポンシューズという言葉のもつ固い語感かな。それがうまく響き合っていると思う。

2首目 ちょっとこの作者オノマトペにあんまり癖がないかなとおもっていて、その癖のなさがちょっともったいないという気がするんだけど、このどろどろと「死体の如く」という比喩がまずはきれいに決まっている感じがしていいと思った。野菜ジュースという本当は健康の象徴のようなものを、死体の如くと表現するのはとてもいいと思う。

3首目 この歌が一番好きな歌。祇園寺ってどこにあるのかなと思ったら、これは京都ではなくて調布とか高槻にあるのだという。もし京都をイメージして作っているのなら正確じゃないから変えたほうがいいと思うけど、多分調布にある身近なお寺のことを歌っているのだろうと思って読んだ。マヌケな鳴き声という言い方がちょっとドライな感じで、フクロウは体がなくてもしあわせ、という発見というか作者の思いの強さのようなものが破調とあいまって成功していると思う。かっこいい感じの歌だ。

あとはそうだなあ、しいてという感じになるんだけど、ちょっと平板な歌もあるかな。と思う。

・真っ青に空を映せる水の中逃げろよ逃げろオオサンショウウオ

勢いがあっていいんだけど、これどちらかというとやや散文的、っていう批評をされてもしょうがない歌かなあと思っている。読む人によっては、そのまんまじゃん! というか、わりと平坦な感じで、一首の詩的な密度が低い。あと口語調の歌なのに、空を映「せる」って、文語が一か所だけつかわれてるのも僕はちょっと気になった。


・コロンブスの潰しし卵の割れ目よりどろり白身の沁みゆく世界

うーん。これもまとめちゃったかなあ。という感じ。世界っていう言葉で、短歌の結句を終わらせるとどうしてもああそういう「世界」なのか、ということで結句が「まとめ」っぽくなってしまって、読者に「そうですか」という印象をあたえてしまう。やや説明的な感じが惜しい。

・梅雨に濡るるものみな生の途上なり蛙も烏も鬱々として

これすごくいい歌に化ける予感がするんだけど、生の途上なり、まではすごくいいと思う。ただ、結句、「鬱々として」という感じで、下の句に何か主観的というか、心情告白的な描写を入れちゃったのが惜しい気がする。「鬱鬱として」という言葉が入ると、余情がでなくなっちゃう。気持ちはわかる。ただ上の句の発見はすごくいい歌。

本馬南朋さん「曳航船」

うーん。雰囲気はすごくいいです。雰囲気はすごくいいし、才能、力量ともに十分なものがある作者だと思うんだけど、今回の連作でいえば、文法と仮名遣い、なんか変だ、と思った。僕も歌人のなかでは仮名遣いがおかしい、文法が相当おかしい、って言われてきてここまできてしまったので、僕が指摘するっていうのは筋違いな気がしないでもないんだけど。一連としては読みごたえがありました。

・ワイシヤツと夏のかげらう もつと手を伸ばしてゐれば、走つてゐれば

これまずいい歌なんだけど、カタカナは表音主義なのでワイシャツでしょうか。そのまえの歌がシャベルになっているので、ここだけ大きいヤを入れるのはおかしい。あとかげらうも、かげろふでは? かげらうという表記をしているのは梶井基次郎あたりで、もしかしたらそちらの影響なのか、ともちょっと考えた。

歌意としては、ワイシャツと夏のかげろうという何かはかないものを持ってきて、そのあとで、もっと手を伸ばしてゐれば、走つてゐれば。という作者の切実な思いが伝わるいい青春歌だと思う。ドラマティックな歌を作れる作者だと思って感心した。

・あの日よりヘッセに栞を置きしまま灯台守の帰らぬ岬

ちょっと下の句が意味を取りづらいが、実景としても読めるし、なにか心象風景としても読める。落ち着いた、たとえば洋書屋さんのような香気が漂う歌。灯台守の帰らぬ岬、で、自分の心の中のことを述べていると読んであげたほうがこの歌はいい歌になると思う。要するに自分のこころのなかの空洞のようなものを岬と表現しているんだと思う。いい歌だとと思った。

・港までの三等客車に背を丸めキリンにまたがる夢を見てゐし

港とか、三等客車とか、ちょっとなつかしいというか異国のフィルムのような雰囲気の漂う歌で、実際の光景ではないだろう。そのイメージの立たせ方がとてもいいと思う。ただ結句は、これ、連体形でとめているけど、こういう止め方して大丈夫なんだろうか。見てゐき、としっかり終止形で止めたほうがいいんじゃないだろうか。きが過去できついなら「をり」とか。道具立てはそろっていて雰囲気も出ているだけに結句の止め方はこれでよかったのか悩む。

・「私(わたくし)は生きてゐます」と瓶手紙したためど猶ほ異郷に沈む

困ったな。感じはよく出ている歌なんだけど文法があやしいところがあって、したためどなんて聞いたことがなくて大いに悩む。古語辞典ではしたたむはマ行下二段活用の動詞。どは已然形につくので、したたむれど、という言い方のほうが適切のような気がするんだけど。これ新しい表現なのかな。見たことがないです。

瓶手紙っていうのは島か何かで瓶に詰めて流す手紙のことだろうとおもう。いつか陸の人に海を越えて伝わるだろうという願いを込めて手紙をしたためる。その手紙を書いたけれども、自分の心は異郷に沈む、そういうのは感慨としてわかるが、この文法のことと、あと異郷に沈むは作者の情感をすこし盛りすぎた印象があって、本当はここで感慨をどばっと流すよりも、かるく描写しておいたほうがよかったかもしれない。たとえば「「私は生きてゐます」と瓶手紙したため海の向かうに流す」、とか。(あくまで拙い改作なので…参考にしなくていいです)

その辺が気になった。ちょっと旧かなの人、ほんとにあってるか、外大短歌内で揉んでほしい。

で、旧かながあやしいという点で、少し順番を変える。

すごい違和感のある文体で50首連作を発表した作者が藤松健介さん。
藤松さんの歌は文法が変というより文体が変わっている。

「幸ひにも生かされて来たること」50首。


すごく最後のほうに不思議な一首があって、それにしばらく考え込んだ。

・川を見に行かうと言つてくれし時のあなたの顔を思ひだしたり

言つてくれし…。

しばらく考え込んだ。これもともとの発想、口語、ですよね。
言ってくれた、っていう。それを文法だけ「し」にした?

この口語と文語が混じり合っている旧かなにしばらく考え込む。

んー。もしかして気分で、旧かな使ってないですか。
なんかもやもやっとした歌が続くので引いてみる。

・ごみ処理場の要塞のわきの川べりでとほくの花火見き 音のなき

これも言いさしで文語で「なき」とくるかあ。という前に、これは口語で歌ったほうが情感が出ると思う。

ごみ処理場の要塞のわきの川べりでとほくの花火を見た 音のない

という発想だよな、と、おもう。とほくと言っているのだから、実はこの歌「音のなき」がすごく不必要で、情感を盛ろうと計算したのだろうが、逆に不自然になってしまったのかなと思った。

発想が口語なのに、突然文語旧かなに変わるというあたりが、納得して読めない。


・神の鳥の翼が焼けそむるまでの煙草を吸つてただ吸ひ終へつ

煙草を吸つて、が口語調。なのに吸ひ終へつ、が文語調。これ、どう解釈すればいいか。こういう口語、文語混じりの歌、あんまりいい歌に見えなくて、ただ考え込む。。。

あと。の、もあやしくて、これ何にかかっているのかよくわからない。焼けそむるまで煙草を、でつながる歌。韻律にも貢献しておらず、どう解釈していいか悩むのである。

ののあやしい歌、まだある。

・もうながく動悸のやまずとりあへず寝転んだままじつとしてゐる

これははっきりと「動悸が」とか「は」のほうがいいでしょう。「の」は不安定な主格なので、あんまり僕は使わないです。

この50首連作では、逆に作者の口語調と文語調のおさまりの悪さというか、不安定すぎる文体が露呈してしまって僕は楽しく読めなかった。文語を入れるのをそもそもやめて、荻原裕幸さんのように旧かなだけど安定感のある口語にするのか、それとも近代短歌の文語調を摂取して文語をシャープにしていくかのいずれかだと思う。この文体はちょっと僕は納得できない。これを指摘せずに褒めるのも、納得いかない。

とりあえず作者がフジファブリックが好きで、志村さんにオマージュをささげていることと、いい歌もいくつかあったが、この作者はここで褒めるとよくないという気持ちが働いて、褒めるほうをなくなく割愛する。


続いては、黒井いづみさんの歌。

2000年代の口語短歌、ぼくが短歌を始めたのは7年前だが、そのときには口語が全盛期で、何人もきらきらとした口語短歌を作る作者が歌集を出していた。

天野慶さん、伴風花さん、佐藤りえさん、そして大先輩だけど、東直子さんとか。

その人たちの口語短歌には共通した特徴があった。ちょっと例を出してみる。僕が短歌にはまったきっかけになった歌たちだ。

・歯みがきをしている背中だきしめるあかるい春の充電として(伴風花)

・この道は春に花降る道となる パラダイスとは変化するもの 〈天野慶)

・キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる(佐藤りえ)

ちょっと表記があいまいなのだが、まあ軽い感想だと思って書いているのでその辺はご容赦を。

棒立ちの歌、とかいろいろと批評用語が飛び交っていたような気がするけど、この人たちの歌は僕は全然「棒立ち」だとはおもわなかった。一首のなかで、言葉の、あるいは発見の核心みたいなものがあるから。伴さんの歌では、「充電として」が効いているし、天野さんでは「パラダイスとは変化する」という発見がきいている。佐藤さんでは「キラキラ」をそのままもってきた発見がいい。


こういう歌にあこがれて僕は口語短歌から短歌に入ったのだけれど、黒井さんの歌は僕があこがれてきたこういう口語短歌に比べて、衝迫力というか、何か発見したから歌ができた、という感覚が弱いと思う。

むしろ言いたいことが先にあって、それに向けて韻律を乗せて言ったような感じ。

以前、馬場めぐみさんの歌を「率」の感想で思いっきりスルーしたことがあったけど、そのスルーした意味というのは、やっぱりこれは僕が憧れていた口語短歌ではない、少なくともそれの進化形ではないな、という印象を持ったからだった。

発見とか感動があって、それを伝えるために短歌を作る、というのがやっぱり最低限のルールで、ことが先にあって短歌を作る、というのはちょっと違うんじゃないか、と思う。

・あの人はこういう歌が好きじゃない だけどわたしは好きだし歌う

・捨てられる側でもいいのもっといい人に絶対拾われるから


こういう歌、完全にことが先行していて発見の気配が全くしない歌だと思った。
こういう歌をいいと思って作り、それが評価される基盤が整っているのならば僕はまったくこういう流れの外にいることになる。

僕がある時点から口語に見切りをつけて文語短歌を作るようになったのは、正解だったと自分で思うことにする。

黒井さんの歌のなかには、淡いが、発見の核みたいなものが透けている歌もあった。


・見たくても見られないのが虹なんだ きっとあなたに会えてよかった

・次もまためくるかどうか分からないページにばかり栞をはさむ

・お守りを買い集めてるみたいです 日々を真面目に楽しく生きて


連作「おひとりさま」の後半の3首。特に2首目はとてもよいとおもう。淡いがしっかりしたものの手触りがあって、その感触が一首をひっぱっている。

3首目とか、上の句はいいんだけど、下の句で短歌として、「真面目に楽しく」なんて挿入しても大丈夫なのかな。こんなに形容詞をじゃかじゃかつかって気持ちをつたえたら、逆に余韻が伝わって来ないだろう、と思う。

黒井さんは評論をすごくしっかり書いていて、その結語で

「豊かなイメージと、愛情に裏打ちされた弱さと強さが織りなす世界」と雪舟えまさんを評している。

ぜひ黒井さんにも、まずは豊かなイメージのようなものを歌に刻印させてほしいと願っている。


最後はOBの作品だが、石川美南さんはもう取り上げたので割愛させていただきます。


千種創一さんの作品は、はじめて拝読したが、

「完璧な連作」

「口語でなし得る今の短歌の限界のすべて」

「たとえるなら、全部幻燈機のような秀歌」

という、最高の手ごたえを感じました。

10首全部、完璧です。この10首のためだけにでもぜひ外大短歌を。と思いました。

とにかくおすすめします。引用も具体的な感想もいいません。

長々とお付き合いくださって、ありがとうございました。

生沼義朗さん、『関係について』

読んでいて説明に困る歌集というのが、ある。いや面白いことは面白いのだけど、その面白さをどう伝えればいいのかわからない歌集というのだろうか。ただ読者として読むだけならいい。この『関係について』は、おそらく読みたいときに、まっさきに手に取る歌集だろうと思う。

だけど、この歌集の感想をかけ、ということになると話が別というか、うーん。読み終えたあと、どう面白さを説明すればいいのか、言葉に詰まる。

こういう歌がいい歌だよ、と言って説明を終える、ということは紹介の仕方としては一番簡単だ。

こういう構成になっているよね、と説明して終えるというのも簡単だ。

しかしこの歌集にはなんか全体を語りつくすときにどのような方法論で説明すればいちばんしっくりくるのか、ということがなかなか図りにくい部分がある。

読んでいて

「ああ、この人はすごく丁寧で几帳面な人だ」

という作者の「人柄」のようなことが問題になる。

そんな歌集のように感じた。

この歌集を作った人はまぎれもなく「生沼義朗」という作者そのものなのかもしれない。あまりにも「生沼善朗」という自己が過剰に立ちすぎていて、なんだか全体が「生沼義朗」というハンコが押された一つの風景のように見えてきてしまうというか。

「生沼義朗」は短歌を作るだけではなく、構成を決め、さらには装丁を決め、さらに後記にも律儀にも製作年代や歌集を作るにあたった経緯などもすべて記している。まるで設計技師が自分の家を作るときのような丁寧さ、几帳面さで。おそらくすべての歌人が構成を決めたり、装丁を決めたり、後記を書いたりということは普通にするのだろうけれど、「生沼義朗」はそのどれもすべて几帳面に丹念にすすめてしまったため、もはや歌集から残ってくるのは歌ではなく「生沼義朗」というその人のてざわりのみなのではないか、というような印象を持ってしまった。

                      ※

こういう印象を感想に書くのは、一応作者の死を宣告したはずのテクスト論的読みを展開する僕のような評者にとって、あまりいい傾向ではないかもしれない、と思いつつ、慎重に歌を見ていくことにする。

まず一点気になったのは、あまりにも几帳面すぎるために「まるで歌に奉仕してしまった」かのように見える連作をどう評価するかという点だと感じた。

たとえば「東京地裁四ー二号法廷」という連作がある。

「二〇〇四年二月某日、東京地方裁判所へ行く~」

というながい詞書が据えられたこの歌群は、「一体この作者は何のために、裁判所へ行ったのだろう」ということが全くわからない連作だ。

・あまりにも古典的なる顛末と女に法廷で淡くかかわる

・生きるとは所詮リスキイ なればこそ彼女は法を犯したるらむ

冒頭と最後の歌を引用したが、そもそもこの連作で扱われている事件自体、それほど目新しいものではなかったらしく、一体どういう必然性を持って作者がこの連作を歌ったのかがよくわからない。これ、単純に、「短歌を作るためだけに行った」のであれば、それはかなり危険なことで、ただ裁判を傍聴してぼおっと短歌を作っただけ、の連作に見えてしまう。もしかして、標題にもある「物語の失効後の世界を生きるため」にこんななんでもない裁判の傍聴などということをしたのだろうか。なんでこんな連作が入っているのかがわからない雰囲気の連作になっている。

次の「祝祭以後」も似たような手触りがある。

「一月某日、有明へ行ってみる」ではじまる長い詞書が寄せられたこの一連には、結局この作者がコミケのスタッフをやめてしまったこと、コミケが開かれる会場である有明へ向かったことが書かれているが、肝心の「コミケ」は開催されておらず、ただコミケの会場が開かれている有明に景色を眺めにいった、ということだけが描かれている。この連作は、先の「東京地裁四一二号法廷」と違って、幾分荒涼とした雰囲気が流れているために、連作としては読みごたえがあるのだが、「なぜそもそも」コミケが開かれていないコミケ会場の景色を見に行く、なんてことをわざわざしたのだろうか。何か「物語の失効後の世界を生きる」ことを表現したいがために、無理くり「コミケが開催されていないコミケ会場」という舞台設定を選んだのではないか。という疑念がひしひしと沸き起こってしまう。


そういう意味では連作としては、黒瀬珂瀾さんの「結婚式のために」富山へ向かった、という「北流まで」という連作のほうが出来がいいと感じる。ここには、連作とするだけの必然性が見えるからだ。

連作としての必然性が見えるところに、逆にこの歌集の核心と感じるだけの秀歌が次々と現れてくるように感じた。

「北流まで」から2首引く。


・北流を渉る橋桁 かくまでにはわが境涯は鮮やかならず

・つまらない日々へと帰る車中にて明日の昼食のこと考える

一首目、「かくまでにはわが境涯は鮮やかならず」という断言がとてもよくて、ほんとうに荒涼とした日々を生きているんだな、という感慨が一首から感じられる。「北流を渉る橋桁」という言葉のあっせんも派手さはないが渋くてとてもいい。二首目の「つまらない日々へ」という言葉もさりげない歌だが、明日の昼食のこと考える、というほんとになにげない日常の言葉の挿入が、読者を荒涼とした終末感のようなものへといざなう。単純に結婚式を褒めている一連ではなくて、その行き帰りの何気ない「日常」のことを描写するあたりに、生沼さんの生沼さんらしさがあらわれているのではないか。

ここらへんまで書き進めて、ようやく一首について感想を書ける時期が来たかも知れない。

たとえば1の歌でいいと思うのはこういう歌だ。

・水溶性では決してなきかなしみはかぼそき嘔吐をいくつも産みぬ

・トマトの皮を湯剥きしながらチチカカ湖まで行きたしと思うゆうぐれ

・動詞よりつきし地名をかりそめに過ぎることありたとえば押上

・人のせぬ仕事ばかりをせる日をばサルベージとぞ名づけてこなす

1首目は、あまりみない「かなしみ」の表現の仕方。「水溶性では決してなき」という言葉が妙に実感を伴って見える歌で、そのあとのかぼそき嘔吐という表現もとてもよく効いていると思う。なにか水溶性ではない、ということは油性のサインペンのようなものを思い描けばいいだろうか。そのイメージのあとにかぼそき嘔吐と出てくるので、ああ、油脂分にやられたのか(これは卑俗な解釈だが)という実感を伴ってくるあたりが面白い。


2首目はチチカカ湖という言葉のあっせんが巧み。歌としてはそれほど際立って新しい発見があるわけではないのかもしれない。たとえば日常のことをおもいながら非日常のことを思うというのは歌としてはよくみる構造だ。

しかし、「トマトの皮の湯剥き」という言葉と、チチカカ湖という言葉の飛翔力はちょっとみないくらい独特の響きをこもらせている。

3首目、なんというか発見を歌った歌なのだけれど、「たとえば押上」と韻律にのせてぐいっと押し出してくるような感触が見事だ。「動詞よりつきし地名をかりそめに過ぐることあり」という上の言葉から、一気に「たとえば押上」と引っ張ってくる、この押し出すような韻律の魅力を体感できる一首。

4首目 作者の実感が伴っている。いい歌だとおもう。「人のせぬ仕事ばかりをせる日々をサルベージとぞ名付けて過ごす」というのは、下手をすると単なる散文のような気がしないでもないのだが、この歌は独自の視点を持って歌われた「サルベージ」という言葉のあっせんが響いてくるので、その感触がとてもいいと思って読んだ。

逆に1から。これはだめだと思った歌。

・浮力なる理屈に体(たい)をあずけたりまずは読むべし水のテクスト

・越境という語を思う埼京線に乗って赤羽過ぎてゆくとき

・永遠に来ぬ革命に焦がれつつわが口ずさむフランス国歌

これらの歌は理に落ちすぎてつきすぎている。湯船に入ることを、理屈に体(たい)をあずけて、水のテクストを読むべしというのは発見としては面白いのだが、なんというか、歌として無理やりに「テクスト」という言葉を挿入してしまったかのような印象。

2首目は赤羽過ぎていく、と越境が付きすぎ。わりと発見が平凡なのではないか。

3首目も、革命に焦がれつつ、という言葉で何か期待させられるのだが、わが口ずさむフランス国歌ときたところでちょっとがくっとなった。革命とフランスが付きすぎだろうと思う。

                 ※

ここまで慎重におもにⅠについてみてきたが、なんだか褒めているのかけなしているのかわからない感想になってきたことをちょっと後悔している。

僕は個人的には生沼さんの歌集、かなり面白いと思っている。

Ⅰはやや、作り込みすぎてあざといかな、と感じた部分もあったが、

特に構成としてはⅡとⅢのほうに、読み応えのある歌が並んでいると思った。

・居間のテレビつけっぱなしに台所に立てば低音のみが響きぬ

・隣室で水使う音が漏れている生活感と言えばそれだけ

                        (「関係について」)

・おのずから出でにし水をきっかけとして室温に苦瓜(ゴーヤ)は濁る
                        (「生活の鳥」)

 駅前再開発事業キャッチコピー
・東北線ひたすら下る車窓には〈これでいいのか北上尾〉とある

・葱畑過ぎてなお夏、本庄にかつて保険金殺人ありき

                         (「信州行」)

最もおもしろいと思ったのは「中国の地図 〈差異をめぐって〉」の一連だろうか。

・教養の敗北としておさなごに当て字のごとき名前の増える

・信教を持たざるゆえに教会へは行かず精神科を訪いぬ

たとえばこれらの歌は、日本社会の内部へと分け入ってくるような批評性のあるリアリティを持った歌だ。

1で、「日本人は刻苦勉励をこのむゆえ最終回にクララは歩く」という歌があったが、ぼくはこの歌は日本人は、というくくり方が大雑把で、自分が含まれていないような気がして、あまり好きにはなれなかった。それよりも、この中国の地図の2首は、自分自身が日本社会に降りていって歌ったという冷え冷えとしたリアリティがある。教養の敗北、信教を持たざるゆえの精神科、いずれも冷え冷えとしたリアリティを感じて立ち止まった。


Ⅳ以降も見ていきたい。派手さはないが、着実に細部をつかむというか、いいところを渋く見る、という感じがして僕はその感触がとても好きだ。


・体育会系から右翼へ至るごとき父の思考をはつか羨む

・関係をひとつ見送る日曜に一回性の雨は降りおり

                         (「一回性の雨」)

・選挙速報見ては気づけり万歳は背広のかたちが崩れることに
                         (「リリシズムの行方」)

・インディアン・ペーパー一枚ずつめくるごとくに春の失調は来る

・労働を維持するために一箇月の医療費が二万円を超えたり

                         (「春の失調」)

・突如、脱水モードに入る洗濯機そのように怒りたきこともあり
                         (「東京にいる」)

・透明なひかり満ちいる天空に鳥語圏とはどのあたりまで 
                         (「歩速」)

・ファミレスで深夜に茂吉読んでいるわれはおそらく晩婚ならむ
                         (「何川})

・暑いからか暑いからなのか買ってきたオクラの先が一晩で割れている
                         (「やじろべえ」)
・ソフトバンクに変わりしネオンは帰り路に喪の家の紋のごとくかがやく
                         (「チキンファーム」)
・要はつまり肩書きのあるその日暮らし、自分で会社を営むことは

・率(い)るものも養うものもなき身なれどそれでも働くほかにあらざる
                         (「働く」)
・物語の失効という物語ひとかかえにして表に行かな
                         (「物語」)

僕が面白い、と思った歌は、こういう歌だ。いずれも等身大の生沼さんの姿が、ほんとうに歌集にぴったり寄り添うようにして紡がれていると思う。その意味では、地べたに足をつけた生沼さんの苦悩や生のなまなまとしたリアリティが歌集から漂ってきているように見えて、それを楽しく鑑賞した。

東日本大震災以降の歌は、あえて歌集には掲載しなかったという。

さて、このように荒涼とした風景を、地に足をつけて展開した作者が、一体どのような立ち位置であらたな作品世界を見せてくれるのか、楽しみに待ちたいと思う。

本来なら歌集の批評会に参加するはずだったのだが、諸事情によりうかがうことができなかったので、拙い一文を持ってお詫びに代えさせていただきたい。


高島裕さん、『饕餮の家』

高島裕さんの『饕餮の家』を拝読する。

一読、歌集の印象を一言で述べれば、「底ごもるような重圧感」とでもいうのだろうか。

歌の一首一首から、調べというよりも響きが聞こえてくるような、非常に濃密で重量級の声がする、そんな印象を持つ歌集である。

僕は高島さんの歌集は『旧制度』以降、折にふれて拝読してきたが、その作品世界の濃密さ、歌う素材(モチーフ)のやさぐれ方というか、そういう感じがとても好きで、新たな歌集の刊行を待ち望んでいた。

その作品世界を再び目にすることができて、とても嬉しい。

今回の歌集も一首一首、あいもかわらず低く、重低音のような作品の響きが感じられる歌群である。


たとえばこんな歌が好きだ。

・便所蜂、夜を飛び来て心温(ぬく)し とほき円居(まどゐ)の中の亡き父

いきなりの初句「便所蜂」はびっくりな言葉だろうが、こういうふうにやや「やさぐれた感じ」で言葉が斡旋されるのが高島さんの短歌の特徴だろう、と思う。その便所蜂が飛んできてふっと心が温かくなる。思いはふいに下の句でご自身の亡くなられたお父様のことへと向かう。初句だけはびっくりだが、作りとしてはほんとうに正攻法な歌で、ご自分の家族のことに思いを馳せている。

さてこの歌集は、少し構成のこと、全体のことを触れておかなければならないだろう。

I・Ⅱ・Ⅲと章立てされた全体のなかで、その章立てに作者がかなりの腐心をしているだろうことを読みとることができるからだ。

おもにⅠでは作者ご自身の郷里であるふるさと富山のこと。

Ⅱでは「海市行」とタイトルがつけられているように、富山と東京の移動。

Ⅲでは、おそらく時事詠というか、近作が集められたのだろう。妹さんのことを中心とした日常詠から、原発までを歌った連作までテーマが幅広い。

Ⅰでは自分の根源の部分である郷里のことを歌い、Ⅱでは東京への移動を長い連作で歌い、というようにⅠからⅡの対比があざやかで、章立てにかなり工夫を凝らされたような印象を持った。

冒頭に引用した歌は、Ⅰの最後の歌。

秀歌はいくつもあるが、Ⅰからいくつかの歌を引用させていただく。


①家内(いえぬち)に過去世の匂ひ立ち初めぬ数珠もつ人に茶を勧めれば

②葛切を食めば思ほゆ父かつて生者の側にありて悩みゐき

③もろともに光を抱いて談りゐしきみたちをいつ見失ひしか

④夜の雨を聞きつつ思ふ、わが齢(よ)にてツァラトゥストゥラを書きしニーチェよ

⑤温めて運転席でひとり喰ふコンビニ弁当こそわが至福

⑥消え去りし雪の精(すだま)と思ふまで白木蓮の花潔(きよ)きかな

⑦くれなゐの雨うつくしく降り初めぬ。ふるさと富山ふるさと富山

⑧一色の青き空こそ寂しけれ。鳥行かばその鳥がふるさと



独特の韻律感覚、と言っていいだろう。重く底ごもるような歌の重心の低さのようなものは、たとえば④、⑦、⑧の歌を読んでみるとあきらかになると思う。ふつう三句目でぶつっと韻律を切るというような行為は、歌に流麗な調べを求めるタイプの歌人なら決してしないことだとおもう。

ちょっと順番を前後させるが⑦の歌から鑑賞してみたい。この⑦の歌は、一見すると「ふるさと富山ふるさと富山」、と平板に言葉を重ねただけのような歌に見える。しかし、上の句で歌われているのは、かつて大空襲にあって町一帯が全焼してしまった富山の光景なのである。「くれなゐの雨うつくしく降りそめぬ」、でいったん韻律を切って、そのあとに祈るようにふるさと富山ふるさと富山とリフレインすることで、作者は底ごもるような情感を歌に身にまとわせる。こういう芸当は通常の歌人ならほとんどしないことだろう。この作者の重心の低さというのが、この一旦途切れるような、韻律の「滑舌の悪さ」からきているということは指摘しておいたほうがいいかもしれない。

⑧も同様の構造で、一度、一色の青き空こそ寂しけれ。とわざわざ読点まで打って、韻律を停滞させる。そのあとに、鳥が行けばその鳥にとってふるさとになるという発見を歌う。こういうなめらかでない歌の作り方というのは、作者が独自に、自分の文体の重心を低くするために身に付けた技術なのではないかと考えてしまう。

細部の韻律の斡旋も的確だ。

②は葛切という言葉が、非常に透明でやわらかい質感をともなっているが、それを思ほゆという言葉で一旦伸ばし、そのあとに「父かつて生者の側にゐて悩みゐき」と細かい言葉の連なりを情景としてやわらかく挿入している。これによって一首は独特の哀感を持つことになる。読後感としては、「父かつて生者の側にゐて悩みゐき」、という情景が非常に浮き立って見えるため、「葛切」と対応して情景が光って見える、ということになるだろうか。もう故人となられたのであろう、作者のお父様について、細かい「生者の側にゐて悩」むという行為が歌になまなまとしたリアリティを与えている。

何とも言えない不思議な読後感をもたらす歌だ。

⑤こういう内容に至福という言葉を挿入するのはふつうの作者では絶対に失敗する言葉の斡旋だろうとおもう。しかしこの作者の場合、喰ふ、という言葉がもつハ行の響きと、「コンビニ弁当こそわが至福」という結句のこまかい2音、2音、3音の連なりで、その言葉の挿入をあたかも自然であるかのように感じさせるという非常に不思議な、異端な言葉の作り方をしている。非常に不思議な成功例と言える。


①ディテールが細かいところが好きで、数珠持つ人に茶を勧めるという行為が、「法要の日」という連作のリアリティを押し上げているように見える。そのお茶の匂いと、おそらく法要という独特の空間が持つ線香の香りというのかが、読者に「過去世の匂い」などと言っても違和感がない感触を身にまとわせることができるのだろう。細かいところを歌った歌だ。

③喪失の歌。光というのは、たとえば「青春の光を~」などと改悪すると非常に陳腐なものになってしまうが、上の句のもろともに、でこの光がうまくはまっている感触がする。もちろん読者は青春の光を想像してもよいし、もっと神々しい、たとえば短歌の作歌上光のことを想定してもいいのかもしれない。いろんな解釈の余地を光に残すことで、光が多重性を放っている。そのうえで、「きみたちをいつ見失ひしか」という痛切な悔恨の情に思わず共感するという仕組みになっていると思う。

ここまで歌を引いてきて、ぼくのつたない鑑賞などどうでもいいかもしれない。とだんだん思うようになってきた。

Ⅱの歌は打って変わって、「海市行」というタイトルがつけられた短い一群の連作になっている。作者が高岡から東京に出てきたという描写を歌のなかで入れていて、おそらく東京のコンビナート群というのか、工場地を巡ったのだろう。その様子をまた重厚な文体で描写しているので、読み応えがあった。

やはり句読点の使い方に独特の工夫があって、リズムがある。あえてこの一群からは歌を引用しないが、一連として際立った描写力を感じさせる秀逸な連作だった。

Ⅲは「心無い歌」「竜宮までも」で社会について鋭い視点をはなったかと思えば、「花冷えの花」のようにややユーモラスな視点を持った日常詠。長歌とその反歌など、一連としてバラエティに富んでいて、読み応えのある章になっていると思う。特にラストの原発詠である「終曲/鉛が原」などは圧巻の出来栄えで、連作としてすごいなあと思わせる一連になっていた。

何首か引いて感想を終えたい。

①トイザラスへふいに折れゆくするどさを愉しく追つてハンドルを切る

②どこまでも許されてしまふ予感せり 花の向うになほ続く花

③裡(うち)に飼ふ畸形の蟲を見せ合つて笑ふ、五月の夜の深みで

④壁高く花の屍(ドライフラワー)逆さ吊り。羊歯を活けたる瑠璃皿のうへに

⑤五月闇、運転席に眠りゐる女ゲリラのごとき吾妹よ

⑥かつて花、真つ黒焦げに立ち枯れて夥しくも首ならべたり
  三月十七日午前十時前。福島第一原発。
⑦ヘリの影、霞める空に現れぬ。かかる祈りを国家と呼べり

⑧ふるさとは取り替えられぬ。くれなゐの同心円の中のふるさと

⑨とめどなく「線」を吐きつつ壊れゆく象たちよ いままで楽しかつたよ



1首目は軽妙な日常詠で、トイザラスへふいに折れゆく鋭さ、というのが楽しい見立ての歌。

2首目は同様な甘い感じの歌が多くてどれを選ぶか迷ったが、どこまでも許されてゆく予感、と花の向こうになお続く花、という言葉の対応関係がいいと思ってこの歌にした。

3首目、4首目、6首目は、完全に高島劇場である。畸形の蟲、花の屍といったどすぐろい見立てを通して、一首にする手並みはもはや余人には到達できないとおもう。

5首目、女ゲリラのごときという表現も高島節だが、自分の妹さんへの愛情のようなものがつづられていると思う。歌集を通じて、妹さんへの優しさが伝わってくる歌が何首もあって心に残った。

7、8、9は原発詠。イメージの形象のさせ方が見事な一連で、ドキュメンタリーのような雰囲気を持つ7首目。
8首目に寄せたふるさとへの思い、9首目の原発を「象」ととらえたイメージの形象力、どれも立ち止まって感心しながら読んだ。

この文章を書いている途中に。饕餮の家が寺山修司短歌賞を受賞したことを知った。
修司忌から一日遅れてしまったが、心からお祝いしたい。受賞にふさわしい価値のある、優れた歌集だと思う。

江田浩司さん、『まくらことばうた』

またしてもとんでもない歌集が出てしまった。

という印象を持った。江田浩司さんの『まくらことばうた』である。

昨年暮れは未来にゆかりのある歌人で、高島裕さん、江田浩司さんと相次いで歌集をおだしになられたけど、この江田さんの歌集はとんでもないものである。


「辞書か。これ?」

というのがぱっとみした感想である。総歌数666首。まるで計算したような歌集の分量。


江田さんの新たな挑戦、ということになる。


その新たな挑戦というのは、すごくシンプルで明快。

いろはにほへと順にまくらことばを並べていって、

そのまくらことばに対応させて歌を作っていく、というものである。

江田さんの歌は読者に苦行を強いるかのように、難解で分かりにくいものが多いのだけれども、

今回も一瞬それか、と思った。


「ひえーこれ全部読むのかーー。」


古今東西のまくらことばを全部使って歌を作る、それをいろはにほへと順にならべる。

言葉による試行をこれでもかと繰り返す永遠の実験歌人、江田浩司さんらしい試みである。



『ピュシスピュシス』のときは、その難解さのあまりに僕も思わず匙を投げつけてしまった。

『山中千恵子論』も、もう断裁してやろうか、というくらいわかりにくいクリスティヴァの
引用の数々で、いかに専門が国文学だった僕でもわからんよ、これは。

という何かすさまじい試みだったような気がする。


今回もあまりに濃かったらそのまま感想書かずに放置しようか。。。

と思っていたのだが、目に触れてしまったからには書かねばならない。

「なぜ歌集評を書くのか、それは歌集がここにあるからだ」

と、登山家の一説を妙にもじって、自分を励ましたりする。


中身をぱらぱらと読む。

「あれ、これ意外にわかりやすいな」


枕詞自体はとても古いものなので、もっと古典チックにまとめているのかと思いきや、江田さんはそれをとても現代的にアレンジすることに、成功しているような気がする。

たとえばこんな歌。

いはそそく垂水(たるみ)の岩の月光(つきかげ)に酔(ゑ)ひ酔(ゑ)ひて寒きパトス燃え立つ

最初の上句、いはそそく垂水(たるみ)の岩までは完全に枕詞で並べているのだけれど、下の句は現代的な感じがする。「酔ひ酔ひて寒きパトス燃え立つ」、パトスというのは感情のことで、月光に酔ってきて自分の情感が一気に燃え上がってきた、そういう感触を現代的に歌にしている。普通の歌人だったら、こういう試みをするとすごく平凡な歌というか、もう和歌みたいな歌が出来てしまうかもしれない、と思うのだけれど、江田さんは哲学を専攻していたからか、この上の句と連結させる下の句として、かなり現代的な情感をもった言葉をあっせんすることに成功していると思う。

もしかして、これ、江田さんの今までの歌集の中でベストなんじゃないか。という予感に駆られ始めた。


なにげなく「うまさけ」をどう歌っているか、と思って歌集をそこに開くと、

こんな秀歌が。

うまさけの身(み)に沈みゆく良夜かも麦熟(う)れゆける挽歌聞かしむ

すごく良質な抒情を携えた歌だ。

うまさけはたぶんお酒だろうと解釈して無理やり読解をすると、酒が自分の体に「沈みゆく良夜」だということと、「麦熟(う)れゆける挽歌」というのがなだらかに接続していて、「定型に言いたいことを盛り込みました」、的な江田さんの悪い癖が全然出ていない。ふつうになんとなくビールを想像しながら、その抒情性にゆったりと身をゆだねたくなる一首。

「くさかげ」にもこんな歌が。

くさかげのあらゐの崎にまどろみて弔歌(てうか)のごとき微熱きざせり

これも言葉に無理がかかっていない。うっすらと情感が伝わってきて、ちょっと前衛短歌的なイメージはあるけれど、まどろみて~微熱きざせりの間に挿入された「弔歌(てうか)のごとき」という比喩が絶妙だ。韻律も、無理に圧縮したり、弛緩させたりということもない。江田さんの言いたいこと(やや前衛的なイメージを持った情感の塊みたいなもの)と、枕詞(ほぼ意味のない言葉あそび)との釣り合いも、絶妙にとれていると思う。

ぱらぱらと読みながら、ひとつの仮説が思い浮かぶ。

江田さんという歌人は、もしかして制約がすごく強い状況に置かれるとものすごい秀歌を生み出すことができる歌人なのではあるまいか。

もちろん、57577の定型もひとつの制約ではあるけれど、それだけではまったく足りず、さらにまくらことばというもう一つの制約を自分に課してこそ、はじめてバランスがとれた一首が出来るのではないか。

つまり江田さんの言いたいことを歌うには、定型という制約よりもさらに強いバインドが必要なのではないかということだ。


もちろん年月を経て江田さんの短歌を作る技法が成熟してきたというのもあるのだろう。今回の歌集はとにかく角ばったところがなくて、歌全体のバランスがとれているように感じた。

何首かこれは秀歌だという歌をあげて、この感想を終えたい。

・いなのめの明けゆく空に解(と)かれゆく花(はな)の宴(うたげ)か祈り凍てしむ

いなのめ、という枕詞はわからないが、それでもイメージの飛翔力は感じ取ることが出来る。おそらく花弁が一斉に空に散る様子を歌っているのだろうか。空にむかって解き放たれていくのが、「花の宴」であるという。そんな言葉のあっせんはあんまり凡人には出来ない手並みである、そこに祈りが生じる。当然空の高いところに祈りが届くので、その祈りも凍っていく。

可憐な、あざやかなイメージの飛翔である。


・いさなとり海にあふれる歌ごゑの風の御墓(みはか)となりやならまし

いさなとりとは海を導く枕詞。海にあふれる歌声が、風の御墓となるのか、なったらいいのに、という感じの歌意だろうか。歌声が、風の墓となるというシンプルなことしか歌っていないが、この下の句のなりやならましという言葉の反復がうまくきいていて、韻律がなだらかに一首になっていると思う。

・にはたづみ流るる声にみだれたり影あらばそをわれかと思ふ

気付いたのだが、今回の江田さんの歌集は定型を完全に順守していて、安定感のある骨法で描かれている。にはたづみは確か雨水だったか。雨水が流れる声(音だろう)に自分がみだれたというのだろうか。そのあとで影あらばそをわれかと思ふは、明快だが奥深い下の句で、一首のなかで寂寥感が漂ってくる歌の作りになっていると思う。


・ぬばたまの夜に神燃ゆる美しさ裸形(らぎやう)の闇に水を嗅ぎたり

これは音感が固い歌だけれども、おそらく何らかの神事を歌った歌だろうと思った。もちろん具体的な状況設定はしなくてもいいのだろう。夜に神が燃えるというイメージの飛躍のあとに、裸形の闇に水を嗅ぐ、というこれもシャープな言葉が入ってきていて、かなり前衛短歌のような言葉の響きになっている。こういうイメージの飛翔力がたった江田さんの歌は僕は個人的に好きだ。

・わすれがひ忘れぬ初夏に青馬(あをうま)の水脈(すいみやく)をなすごときたてがみ

初夏という措辞のあと、青馬(青い馬というのは黒みを帯びた馬だろう)の「水脈をなすごときたてがみ」というこの水脈をなすごとき、というのが上手な直喩の出し方で、イメージを鮮明にすることに成功していると思う。

・ゆくかげの月の使者としはらはらと一枚の羽(は)は舞ひ降(お)りにけり

月の使者とはロマンティックな措辞で、そのあとにはらはらと一枚の羽が舞ひ降りてくるのだという。このイメージがもたらす現代的な感受性を思う。

・きくのはなうつろふ色に転生のやさしきひかり慈雨のごとあり

これも今までの江田さんにはなかったトーンの歌。やさしいタッチで、うつろふ、ひかり、慈雨という言葉が響き合って、非常にやさしい仕上がりになっているとおもう。全体として、エッジの利いたシャープな前衛的な歌と、
韻律のしらべにのせたやわらかなトーンの歌が並んでいて、歌集として楽しめる一冊に仕上がっていると思う。

江田さんの今回の歌集は、どの歌を引用しても均質な分量の抒情性と全体的なイメージの統一感に満ちている。

これは今までの江田さんの歌業のなかでベストかもしれない。

そんな予感を感じながら、今もこの666首と向き合っている。

松川洋子さん、『月とマザーグース』

すっかりご紹介が遅れて、というのもすでに枕詞になってしまったのでもういわない。

本来はこの歌集のご紹介は1月にすませているはずだったが、私の体調という事情で
やむをえず延期せざるをえなかった。

札幌在住の歌人。松川洋子さんの第六歌集。『月とマザーグース』である。田村元さんの
ブログでプロフィールを拝読する。

松川さんは昭和2年うまれらしい。

「りとむ」所属で「太郎と花子」の編集発行人であるから、ご縁が全くないわけではない。
僕が見知っている歌人の方でも、柳澤美晴さん、樋口智子さん、田村元さんという錚錚たる
メンバーの名前が思い浮かぶ。

北海道という土地は最近短歌、非常に熱気があって、松川さんを中心にして若い歌人が
切磋琢磨している様子がうかがえる。

どうも松川さんは若い歌人を育て上げる技術というか、若い人を引き付ける独自の魅力
があるのだろう。

詳しくは存じ上げないが、雪舟えまさんもご出身だとか。

一体どのようなお歌を詠まれる歌人なのか。

松川さんご本人のお歌に触れたことがなかったので、期待して歌集を開く。

流麗な文体か骨太な自然詠か、
とかいろいろと想像していたが、見事にショッキングに期待を裏切られた。


うわ。なんだこのカタカナの多さは!

そしてなんだこの文体は!

と驚く。

一言でいえば、大胆。かつ自由自在。

歌の幅が非常に広く、いろんな歌をお詠まれになるし、なんといっても歌が
若くてダイナミックである。

うまいか、といわれると僕はよくわからないのだけど、ちょっと前例がない感じ。

自由自在に、いろんなイメージを歌に盛り込む詠風である。


ひるがほの薄きからだに沁みてくる夕空のチアノーゼ

クリスタルエレベーターが塔を発ちてゆく 一基 二基 やがてすべ

どちらも、自由律、に近い。一首目は大幅な結句字足らずで、二首目は大幅な乱調、というか、
三句目が5音、四句目が6音になっているので、短歌を詠んでいるというよりは自由律の一行
詩を読んでいるような感覚がある。

一首目。ひるがおを擬人化している。もちろん夕空になってくると同時にひるがおは花を
しおらせていくのだろう。そういう様子を表しているのだろうけど、それをチアノーゼと
表現した歌人は僕は前例を知らない。

ひるがおが苦しそうにしおれていくので、夕空がチアノーゼのように感じられたというの
だろう。

発想の異色さは、群を抜いている。

二首目は韻律が溶解したような錯覚を受けた。

「クリスタルエレベーターが塔を発ちてゆく」

まではかろうじて(595かな?)定型で読めていくのだが、一基 二基 やがてすべて
という下の句には完全に参ってしまった。

ここにはうっすらとした作者の肉声がある。クリスタルエレベーターという透明な表現とあい
まって、作者がぽつりぽつりと一基 二基 やがてすべて と祈るようにつぶやいているのだ。

その光景は神秘的でさえある。

こういう歌を秀歌だと思った。


その半面、こんな秀歌も存在する。


六・二へ金打ちしより羽生の崩れたり竜王戦の長かりしかな

これは将棋の歌で、びしっと言葉があっせんされてている。

こういう歌は見たものをありのままに歌ったほうがいい。崩れたりという言葉
のあっせんが見事に決まっていて、将棋の対局という長い長い時間をきれいに
一首にすることに成功しているとおもう。

描写するときは確かな骨法で、発想を飛ばすときにはできるだけ奇抜に、
という方針だろうか。

ときおりその発想の奇抜さについていけないことがあるが、とにかく読者に
はおかまいなしに、さまざまなものを一気に持ってくる大胆な詠風には潔さ
さえ感じた。

1 雪代のあふるる半球鳥瞰するシュワスマンワハマン彗星

2 モーツァルトの絶対音感知れる者 共同墓地の盲目の蚯蚓

3 少年イエスの掌を透かしゐしうつくしきラ・トゥールの灯を思ふ聖夜ぞ

4 がつさりと寸胴箱にぶちこみし蝦蛄にひとまず手を合わせたり

5 微恙ながき人つと逝きぬ微恙とはしづかに深く人を蝕む

6 万葉集に秋思の歌の無きを知る杜甫にまねびし平安の歌

7 海の聖母の吐息にひらくさくら花 アメリカに咲いてしあはせですか

8 きのこ二万種のうち70%は名無しとぞ 名無しのきのこ気楽なるらむ

9 人が火を作ったことは罪ですか しあはせはとてもさむいのです

10致命祭 サロベツ原野の双眼のペンケ・パンケの沼まだ醒めず

11兎年七回目きてもうもう悟つてるひまなんぞないわい

12密氷のしづかな痙攣はじまりぬサーカディアンリズム海にもありて

うーん。ここには書ききれないが、雪舟えまさんの歌もあるし、蜂飼耳さんなども
登場する。ラグビーの歌もあったし、石原前都知事を怒っている歌もあったりと、
まあとにかく発想がいろいろなところから登場するので、読んでいて飽きない。

若い歌人と混じっているからなのだろうか。歌もお歳を考えれば(失礼)颯爽と
して若い印象を受けた。

技巧をこらした巧緻な歌というよりは、イメージを無理やりにぶつけた大胆な
歌、というほうがいいだろう。はまるとすごいものが登場する天才型のお歌を
詠まれる歌人なのだろうと感じた。

1、普通、雪代(雪解け水)が出てきたとき、下の句でまさか彗星が出てくると思うだろうか。
しかも長い名前の彗星を無理やり一首にねじこんでくる大胆さである。うわすごいのが出た、と思った。

2 上の句と下の句が対応させなければならないという短歌の鉄則からいくと、相当ずれがあるのだけど
詩的につながっている。モーツァルトと蚯蚓、一見対応しなさそうなものを強引に一首にしてこれは成功
だとおもう。

3 おそらくラトゥールは画家の名前だと思うのだけど、初句七音の調べが非常に流麗に流れている。
イメージも調べに乗っかっていて、きれいに決まっていると思う。

4 がっさり、という言い方がいかにも大胆で、その蝦蛄に手をひとまず合わせるという。ユーモラスな
お歌だと思った。

5 微恙という言葉のあっせんがいい。微恙のお歌2首あるのだけど、同じ人を歌ったものだと思う。
つと逝きぬという言葉のなかに少しさびしさが底ごもっている。

6 上の句の発見でよかったかなあと思う歌。万葉集と秋思、という言葉の取り合わせは言われてみれ
ばあんまり見ない。すこしさびしい発見を歌った歌だと思う。

7 口語脈の歌で、きれいに決まっていた。アメリカに咲いてしあはせですか という問いかけには
少し考えさせられるものがあるが、上の句はとりあえずすごくきれい。

8 楽しい歌。きのこがほとんど名無しで、その名無しのきのこが気楽だろうと歌っている。ちょっと
陽気な作者像が見て取れる。

9 このしあはせもシンプルだけど相当深いところまで届くなあとおもって読んでいた。こういうフレ
ーズだけで決めようとする歌は難しいんだけど、きまってます。

10 韻律とイメージだけでとった。実は歌意はよくわかっていない。サロベツにはたしかにペンケ沼、
パンケ沼というのがあるらしい。それが致命祭という祭になってもまだ目が覚めない。どういう意味か
わかんないけど何かすごいものを感じる。

11 これもユーモラスな歌で、悟るとか生き様とかそういうものを作者は嫌いらしい。こういうちょっ
と難しく考えないところというか、できるだけ自然体でいることが若い作者を惹きつけるのかもしれない。

12 このサーカディアンリズム、植物生態学の言葉らしいが、入れられないよこんなの。ふつう。最初
の衛星もそうだったが、なんと大胆に入れて、きれいにまとめるのかと思って拝読していた。

つたない感想でもうしわけないが、印象に残った歌に表記の短評を添えてご紹介に変えたい。
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