2015年04月 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

2015年04月

守中章子さん、『一花衣』

だいぶ間が開いてしまって、ブログで文章を書くのが久しぶりになってしまいました。
少しずつですが、歌集の感想書きを復活させていただきたいと思います。

本来なら2013年ぐらいから「続き」で読んだ歌集の感想を書くところなのですが、、
ちょうど直近で批評会があって、書きやすいので未来の守中章子さんの歌集から始めさせてください。

これ以上だらだらと伸ばすと、批評会の記憶そのものが薄れてしまって、もう何を書いていいのかわからなくなってしまいそうなので。。。

守中章子さんの批評会、私などは到底お近づきになれないであろう詩の方がたくさんお越しになられていて、100人ぐらいはいらっしゃったでしょうか、大盛況でした。

(記憶が薄れているのですが)批評会のパネルディスカッションでは、この歌集の「死」の気配が指摘されていたように思いっます。私も詳しくは存じあげないのですが、どうやら守中さん自身がやはりお身内の方の死をきっかけにして作歌を始められた方らしいということで、その歌集のテーマも必然的に死の気配をまとっていると思います。

私自身も、自分の祖母の死がテーマになった連作とか、うつ病で死にかけた経験というのを歌にしていた経験があるので、共感しながら拝読しました。ただ、その「死」に対するアプローチは私自身とはかなり違うな、と思いました。。。
                                
私はどちらかというといつも短歌を「ぼんやりとした感情の襞のようなものを、おそるおそる、言葉にしていく」という手つきで言葉にしていると思います。言葉を紡ぐとき、いつもなるべく「ぼんやり」したものを少しでも言葉に近づけたい、声にしたい。そういう欲求がいつも心のなかに沸き起こってくる。そういう作歌衝動があるのですが、

『一花衣』を読んでいると、そんな私とはまったく別のスタンスで言葉そのものに誠実に向き合う作者の姿が見えてきます。大胆に世界をまるごとつかむような、死を無理やりこちら側に引き寄せようとするというか、なんとなくロックンロールな認識の仕方をする作者だという印象がありました。

言葉に対するスタンスが若干違うので、私にとって大切な歌は、守中さんの渾身の歌とは若干違うかもしれません。

・さうだよねときはゆつくり進むから いまは未生つていふ場所にゐる(10)

このお歌が最初目に止まりました。文語調の歌が多いのですが、このお歌は岡井隆を彷彿とさせるゆったりとした口語調で、未生つていふ場所にゐる、という言葉が謎めいています。これは花が未生であるという状態とってもいいのだろうし、解説にあるように仏教用語の未生をとってもいいのだろうし、一首のなかに多義的な意味を孕んでいて、奥行きを感じさせる歌です。口語の呼吸がとてもゆっくりしていて、いいと思いました。

・幾千のことばを薄茶で飲みしづめしらさぎの立つ器を置きぬ(14)

ことばについて考えた歌はたくさんありますが、この歌も美しい歌だと思いました。。「しらさぎの立つ器」は実景としてとってもいいし、心象風景としてとってもいい。この実景としてもいいし心象風景としてもいいという読みの多義性を誘うような作品が私はとても好きだと思います。


・かなしみはボディブローのやうでありゆがむ画面に立ちあがるボクサー(54)

この歌は私にとって驚くべき発見だった歌。かなしみはボディブローという上の句が、まさに自分の体感と一体化しているようで、かなしみときたら僕なんかはもっと美しい言葉をつけようとすると思うのですが、いきなりボディブローという二句目に虚を付かれました。心ではなく腹の底にしずしず響いてくるものなのだろうな、という、少し驚いた歌でした。立ちあがるという表現も荒っぽくて、成功していると思います。

冬のあさ声をころして呼びてみるめざめのきはに会ふはずだつた(60)

ゆふぐれに読まるる詩には「せかい」とふ語のあらはれて母音ひびきぬ(94)

うなづきて熱き紅茶をすすりつつ赦すはうへと身はかしぎゆく(102)

かなしみをしづかに持ちて運びゆく木下闇(こしたやみ)抜けつぎの暗渠へ(106)

向日葵を購はむかな両の手にあふるるほどのあの日のこゑを(110)

われひとりめざめをりたる病棟に真夜しろき馬しづかに立ちぬ(123)

まなかひにひろがるものをうす霧と呼べり不安と未だ呼ばずして(126)

少し順番が前後しますが、私が好きだと思うタイプの歌はいずれも歌集の中ほどにあらわれてきました。詳しくは書ききれないのですが、126ページ。不安と名付けられる前の「うす霧」。

102ページの動作のなかに気持ちを込めた感じというのか、「赦すはうへと身はかしぎゆく」という所作の、さりげない描写の感じ。110ページの「向日葵」には「あの日のこゑ」がオーバーラップされて投影される。こういう描写と心象が入り組んだ歌をとても好きだと思いました。

しかしこの歌集における作者の本領はおそらくこういった複雑な歌ではないのだろうとも思います。

もっとも深甚だったのは、炎天に立っている亡父に「待ちやがれ」と思わず絶唱してしまうような、わしづかみにされるような言葉の大胆な使い方でした。

待ちやがれかげろふゆらぐ炎天に亡父立ちをりえい待ちやがれ(64)

この歌はとても成功していると思うし、気持ちもわかるのだけれど、私はどちらかというと「死」に対して怖れを抱いているというか、そんな死んだひとに対して待ちやがれなんて怖くて言えません。。。

直球のこれらの歌には、やはりストレートであるがゆえに持っている粗さのようなものも同時に持っていると思いました。

たとえば以下の2首はどうでしょうか。

もうたれも死ぬことなかれまどろみて深夜のベルに素足で走る(44)

吾子還らば雪水与へむ賢治のごといやむしろこの生命与へむ(58)

44ページの「もうたれも死ぬことなかれ」という感慨は、作者がお寺で暮らしているらしいという実感からすればよくわかるものだし、おそらく深夜に急報が入って自分自身が走り回っているのだろうと思います。

しかし私はこの歌が持っているある種のヒューマニズムには完全に乗りきれませんでした。死ぬことは避けては通れない。人は運命には逆らえない。それに対して表現の上だけで抗おうとするのはいささか強引すぎるように感じました。

58ページの素直な心情吐露も私は完全には乗り切れませんでした。ストレートで大胆に母の気持ちを大胆に歌っているのはいいと思うのだけど、運命に対して内省するというよりは、どちらかというと運命をねじまげようとしすぎているという感触が、何か世界の外に出て言葉を発しようとしている態度に捉えられてしまって、少し収まりが悪く拝読しました。

この作者は言葉に対しても、かなり無理な冒険というか、言葉そのものを歌にしようとしている姿勢が現れていて、それは冒険ではあるのだけど、ときどき言葉が雑になってしまう感じがある。


アの音を聞かせてほしいあのときのくちのかたちさとてもきれいだ(16)

脚韻を踏む美しけさに触れしのち愛恋といふ迷路に入りぬ(139)

「DETRUIRE(でとぅりゆいる)」かのじよは叫ぶ夜をこめてRに巻かれ樹になるまでを
(150)

とめどなく語るくちから翻(こぼ)るるは冠詞接尾語指示代名詞(150)

これらの歌は言葉そのものや、かなり概念的なテーマについて述べています。これは私の短歌へのスタンスとは大きく異なる部分だと思います。もちろん、言葉そのものについて触れた喜びというのを歌にするのはいいことだと思うのだけど、言葉にふれた喜びを、言葉で表現するということに、少し荒っぽさというか自己矛盾があるような気がします。これらの短歌には私の大好きな謎がないように思いました。

一首目、アの音を聞かせてほしい、というのは言葉そのものへの愛着のようなものですが、そのあとであのときのともう一度あ音を使ってしまうあたりが、なんとなくダメ押しな感じがして、あんまりおもしろいとは思えませんでした。

二首目、脚韻を踏むしずけさと愛恋はあんまり関連がないというか、言葉をこう、ゴタゴタゴタっと並べてしまっただけ、という感じがします。

三首目、DDETRUIRE(でとぅりゆいる)」のあとに、Rが出てきてしまう感じ。このへんがなんとも言えず僕にはダメ押し感があって、言葉付きが汚いように感じます。

四首目、うーん。言葉って本来は名付けられないものだと思うんですよね。国語学を勉強しているひとには申し訳ないんですが、冠詞接尾語指示代名詞という収め方は、僕には全く賛成できません。そういう言葉を言葉で難しくしようとしても、僕は全く乗れないです。

いろいろと難も書いてしまいましたが、僕はこの作者の立ち位置にすごく共感しつつ、その手つきにはあまり賛成できないという感じかもしれません。ロックンロールよりもウィスパーボイスを好む、僕の好みではなかったという説明の仕方でいいのかな、と思いつつ。

この歌集についての感想はこの辺りにしたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。
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