雑感。(『バラッド』歌評会にて) | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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雑感。(『バラッド』歌評会にて)

土・日と短歌の集まりに出ていて、また再び短歌について考えている。

今日はそれほど書く時間がないのだが、手短にまとめておこうと思う。

土曜日は中川宏子さんより、スワンの会にお招きいただいて、さいかち真さんの歌評をお伺いした。

その席で少し示唆を受けたことがある。

フランス語とドイツ語、ということ。

80年代から90年代にかけて、いわゆるライトバースや、紀野恵さん、水原紫苑さんの短歌をはじめとしたムーブメントが起こったが、その運動の根底にあったのは、フランス語的な言葉の語感であった、というのだ。

考えてみればこのような運動は、日本の思想界に代表されるポストモダンの思想運動とリンクしているようにも感じられる。

私も思想青年として、一時期こういったポストモダンの哲学書を読みあさった時期があったが、何に強く魅かれたかというと、浅田彰や蓮見重彦に代表される文体の強度だったような気がする。


・ふらんす野武蔵野つは野紫野あしたのゆめのゆふぐれのあめ (紀野恵)

いわゆる80年代を代表する紀野恵の代表歌が、「ふらんす野」で始まっていたことは象徴的なできごとではないだろうか。厳密に裏をとっているわけではないので、漠然とした印象批評になってしまうが、80年代から90年代にかけての歌を少し思い出してみると、あるシンクロニシティが見えてくるような気がする。


・進化という藍色の海すきとおる階段のした竜眠るべし

・族長らの眼のごとき天の青 岬に立てば創世の潮寄る


(井辻朱美:『水族』1986)


・透明の伽藍のごとく楽章がその目に見ゆる青年を恋ふ

・宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら

・ 炎天に白薔薇(はくそうび)断つのちふかきしづけさありて刃(やいば)傷めり

(水原紫苑:『びあんか』1989)

さて。どういえばいいのだろう。もちろん、ここに紀野恵を加えて考えてみるべきなのかもしれないが、80年代の女性歌人が持っていた言葉のイメージというのは、どことなく共通している。

硝子・水・透明・青。その歌が発するイメージの輝度は、あくまで硬質であり、理知的であるように感じられる。イメージの磨かれた冴えだけで作品世界が構築され、内奥のどろどろした身体性はまったく排除されている。

これらの作品を見て、「フランス的」と評語をつけることは少し戸惑うが、少なくとも「輝度の高い文語」と言えるのではないだろうか。

ひるがえって、今日のバラッドの批評会。

宮野さんは、重い情感を漂わせた骨太な短歌を詠む人で、同じ文語でも、水原紫苑さんや井辻さんといった歌人が開拓してきた硬質な文語の世界とはあきらかに異なる。

・営業車の薄き屋根撃つ雨音を聞きつつ少し眠りけるかも
                          
・吐く息の整ひ来たる君に添ひ今降り出でし雨のことを言ふ
                          (宮野友和)

歌集のプロフィールをめくると、宮野さんはドイツ語専攻だと言う。
フランス語、ドイツ語。そんなふうにくくっていいものかどうかわからないが、今、現代になって、どうしてこういう思い情感の歌が未来誌上で同時多発的にある勢力を持っているのか。

何らかの、感受性の変化を感じざるをえないのだが、さて、これからも、少しずつ考えてみることにしたい。

・遁走は美しきかな明け方にトムソンガゼルの跳ねを見たりき

・水圧を受けてかたちを保ちたる深海魚かな、五月が終はる
                          (西村旦)

・荷をおおふ薦に跳ねゐし白き鳥いまし羽ばたき地を離らむや

・逃散のごとくに氷見の沖に雪降りたり無事に済むとは思ふな
                          (黒瀬珂瀾)

(そういえば珂瀾さんは、『黒耀宮』(2002)のあのきらめくような彩色美の世界から、近年は完全に転調している。この転調の理由も、ひどく興味があるのだが、何よりも未来に入ってからの珂瀾さんの歌は、『黒耀宮』を一歩出ていると思う。)





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