中川宏子『いまあじゆ』を読む | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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中川宏子『いまあじゆ』を読む

いまあじゅ









中川宏子さんの第一歌集『いまあじゆ』
何回か書こうとしたが、適切な言葉が見当たらなかった。

もちろん、すぐれた歌集であることは間違いないのだけど、ちょっとどう紹介していいのか迷うのである。

歌はとても共感しやすい、いい歌がたくさん並んでいる。中年になった女性の心象を詠ったものだとすれば、十分多くの人に共感を届けられる、いい歌集だと思う。

ただ、それだけでいいのかな、と思うと、どうも全貌をとらえられないような気がして立ち止まる。

この「共感のしやすさ」には、なんとなく、難しいものがある。

何から書いていこうかな、と思って、この歌集の章立てから書いてみることにした。

              ※

『いまあじゆ』の作中の主人公は、中年の主婦と考えてもいいだろう。(もちろん、作者本人である、という読みは避けるけれども)

歌集のなかで、この主人公の主婦としての日常があちこちに出てきて、それが連作としておさめられている、という構成なのだ。

たとえば買い物へいったり、展覧会へいって絵をみたり、犬を撫でたり、韓国の38度線へ旅行へいったり、韓流スターのテレビを見てたり、ドイツで一時的に生活したり。

こういうあたりの行動を読んでいると、まあある程度恵まれて、かなり知的な家庭をお築きになられた主婦としての姿が浮かびあがってくる。

ところが、そこに出てくる歌が、意外と興味深いのだ。

・スーパーのカートを押して同型の主婦ロボットと甘柿を買ふ

・向かうより苦手な人がやつてくる(SWITCH OFFさ)すつと会釈す

ど、どらえもんだー。

こほん。。。

はじめのほうの連作は買い物の歌だが、そこで完全に自分を「ロボット」だと規定して行動している。何だか楽しい自己演出のように見えるが、もちろん、「ロボット」と自分を規定するところが一筋縄ではなくて、「退屈な日常のなかで生かされてる感」が微妙ににじみ出ているところに、この主人公のバランス感覚が働いている。

・ドラマ見て笑つては泣く単調な日々のすきまに挿す体温計

歌集の中盤くらいにこんな歌もあって、この歌集の一つの主旋律は、
「いちおう恵まれた主婦をやっているんだけど、なにか生きづらい感」を抱えている現代の中年女性の姿、とひとまず仮定することができるかもしれない。

そう考えて、地の歌をちょっと並べてみよう。
いずれも上手で、非常に共感しやすい歌が並んでいるのである。


・馬車道にコンビニがあつて花屋がない不思議のままに行く朗読会

・ケータイに桜の花をしまふやうきみのメールを保存してゆく

・ポップコーンがうまく作れたゆふぐれに法皇さまに言ふさやうなら

・白菜ぢゃなく春キャベツでゐよう人と交はる輪の中にゐて

・さよならはいまだ言へない祝日の旗をしまふやうな夜が来てゐて


 一首目は、「花屋がない」と感じる、少しリリカルな少女のような感性。

 四首目は、「春キャベツ」というみずみずしさに言い換えた隠喩のたくみさ。

 五首目は、「祝日の旗をしまふやうな」という直喩の意外性。

どれも、水準をはるかに超えて優れた歌だし、この辺りを見て買いたくなった女性がたくさん出るだろう。と、感じる。

しかし、この感受性について、私はなんとなく考えこんでしまうのだ。

八十年代を過ぎて、俵万智が登場したあたりから、短歌のリアリティは大きく変容した。大きな流れとして、ポストモダン思想に流れた記号短歌・口語短歌を生み出したし、いっぽうで共感をベースとして、ある程度共有化された自己像のなかで、そのなかでの差異を生み出していく方向性の短歌を次々と生み出してきた。

中川さんのこれらの短歌は、この「共有化された自己像」のなかで、意図的に自己の感受性を偽装したものであるような気がするのだ。

そしてその「共有化された自己像」は、今の若い世代の歌人にも、脈脈と受け継がれつづけている問題なのである。

・スプライトで冷やす首筋 好きな人はゐないゐないと呟きながら(石川美南)

・せつなさを語りつづけたサボテンに見たこともない花が咲いたよ(天野慶)

いずれも優れた短歌なのだが、当然、こういう突込みが入るだろう。

「この歌ほんとにスプライトで首筋冷やしたときに思いついたんかーい。この歌の作者は、ほんとにサボテンにせつなさを語り続けていたんかーい。これは、共有化された自己像を想定して、そのなかで自己演出をして作ったものなんじゃないのかー」

中川さんはあとがきのなかで、こんなことを書いている。

「結社に入って研鑽を詰むうち、突き当たったのは作中主体の問題であり「私性」の問題だった。この歌集には、私小説の形を借りた作中主体である、「私」が多数登場してくるのであるが、それを私個人と結びつけると必ずしも統一した現存する「私」ではない。生きるのに厳しい現実を見据えつつ、「私性」の課題は今後とも取り組み続ける問題のように思う」

なかなか、謎めいたあとがきではないか。

おそらく中川さんはこうした問題に自覚的なのだと思う。

この紹介文では、この「共有化された自己像」を掘り下げていくことは避けようと思うが、いずれネット短歌との絡みで、改めて考えていきたいところだと思う。

紹介文とはだいぶ離れた。
最後に五首選を。

ここにあげられる5首。完全にぐっときました…。

この歌集は、ぜひとも多くの人に手にとってほしい歌集だと思う。


・今われは水葬されてゐるのだらうMRIの川に入りゆく

・イムジンは撮影してはならぬ河終はりしはずの生理またくる

・非常時はここで死んでもいいですと念書にサインを鉛筆でせり

・ハチ公は少しさみしき顔ゆゑに人の集まる処と思ふ

・虹を撃て チェーンメールの届く朝トーストがいま叫びはじめる


MRIのひかりのなかで、水葬が出てくるとは…。

ハチ公の歌もいいなぁ。

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お読みいただいて、ありがとうございました。
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