最後は静かな場所だと決めて | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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最後は静かな場所だと決めて

 今日は、未来短歌会の岩田儀一さんの歌集『内線201』の勉強会に参加してきた。毎号の『未来』のなかで、岩田さんの短歌は幾度か拝読してはいたけれども、まとまった形でお歌を拝読したことはあまりなかった。

今までも未来のなかではほとんどお話をしたことがなくて、格別のお知り合いというわけでもない。

普段なら絶対に行かないし、そもそも存在すら知らなかったであろう小さな勉強会にどうして参加したのか、というと、ある一首を偶然発見して、衝撃を受けてしまったからである。





田中槐さんのホームページでご紹介されていたこの歌。

・二次会を断りて地下に降りゆく最後は静かな場所だと決めて

華麗な修辞に包まれた歌でもない。むしろ、無骨で散文的な歌といえば、そういえる歌かもしれない。決して難しい歌でもない。

しかし、この散文的な感じが、すさまじい隠喩の力となって、自分に迫ってくるように思えた。

何かの会合のあと。二次会を断って、地下にくだっていく。やっぱり、最後は華やかな宴よりも、孤独に過ごす時間がいいな、という歌として無理なく読めるような気もするが、どうも、「最後は静かな場所だと決めて」に、そのような日常的な意味だけではなく、死や存在の根源に迫るような強い言葉の力を感じてしまったのだ。

「静かな場所」とは、死のあとの虚無なのだろうか。それとも安息なのだろうか。この歌はそこまでは語らない。

この「静かな場所」に強い衝撃を覚えた私は、いそいそと槐さんに、「勉強会に参加させてください」と連絡をさせていただいたのだった。

               ※

『内線201』のあとがきには、次のような述懐がある。

「(前略)勉強しながら短歌を作り始めたのは、~一九七〇年代の初頭の頃である。当時、私たちが関わった「全共闘運動」は、〈後退戦〉を余儀なくされており、私たちの仲間のうちでは「ここが本当の出発点だ。組織に拠らず何事も一人ではじめ、持続してゆくしかない」ことが暗黙の了解だった。」

岩田さんは、1950年生まれ。おそらく70年代安保に関わって、安保闘争の終わりを肌で実感していた世代だろう。70年代安保は、闘うべき相手が喪失して空中分解してしまい、ほとんど大衆の支持が得られない内部抗争によって衰弱していったということは、おぼろげながら知っている。このような時代に、「歌わずにはいられない」気持ちになり、日々短歌を書き続けた岩田さんの感受性は、あきらかに時代と明白に関わっている。

それだからこそ、この「あとがき」の、「何事も一人ではじめ、持続してゆくしかない」という実感は、深く私の胸に突き刺さった。

岩田さんは、30代で一度作歌をおやめになり、50代になってまた再び作歌を再開される。今回の歌は、再開されてここ最近の2年半で書かれたものだということを知って、びっくりした。

・〈方法〉が先が〈意志〉かと問うている二十歳のノート見ればさびしも
・人間に序列付けおる会議あり拳の中に熱は戦ぎぬ

・目頭を押せば蠢く像ありぬ組織(オルガニスム)も傷つきやすく

序盤の歌から引くと、とても自己像がくっきりと見える歌が多い。『内線二〇一』とは、職場の自分の内線番号らしいのだが、このテクストの作中主体は、おそらく安保闘争が挫折し、自身が就職をしてからも、一人黙々と何かと抗争を続けていたのだろうか。歌のなかには、時折全共闘的とも見える言葉がいくつか存在している。

藤原龍一郎さんがご出席されていて、発言されていたことが強く印象に残った。記憶も曖昧であるので本来は引用を避けるべきであろうが、一応、勉強会という公的なものでのご発言であるととらえて、簡単に自分が受け取ったことだけを概説させていただくことにする。

”自分の作る歌というのは、決して誰にでもわかるものではないだろうし、よく自分も他の方から「あなたの歌はよくわかりません」と言われることもある。しかし、歌うことというのは、「自分の思いをわかってくれる読者は必ずいる」ということを信じて作るものだ。

この歌集のなかにも、もしかすると「こういうふうにすれば歌としての完成度が上がったかもしれない」、「もう少し言いようがあるのかもしれないが、こういうふうに言わざるをえないという歌が散見されて、そこが非常に好感を持てるところだ”

この藤原さんのおっしゃったことに、私は強く心を打たれた。

私にとって、短歌とは何なのだろう、ということを考えて見ると、最近では、それは「叫び」だ、と言い切ることができるような気がしている。

短歌を始めたころ、枡野浩一さんや天野慶さんといった歌人さんのお歌を知って、そこから作歌を始めた自分にとって、初期の自分の短歌というのは「いかに多くの人に自分のこころを伝えるか」ということを意識して歌を作っていたように思う。

ブログもなるべく多くの人に伝えたい、と思って記事を選んでいたり、あえて難しい話を避けて、なるべく日記のようなものをつけたりとか、ネットで歌を作る人たちと交流したりとか、とにかく短歌は一首の「作品」なのだから、多くの人に伝わるような言葉を選んでいくべきだ、というポリシーで歌を作っていたのだった。

しかし、未来に入ってから、私はその様な作品を一切放棄してしまった。なんとなく、多くの人の共通理解に媚を売るような歌を作ることが、ひどく不毛な行為のように思えたからだ。

今の自分の歌は、決して多くの人が受け入れてくれる歌でもないだろうと自覚しているけれども、私はそれでいいのだと思う。

歌うこととは、心情の叫びであり、「言うな」と誰かに言われてもどうしても言いたいことだけをすくいとっていくものだろう。そして、その結果がたとえ誰からも受け入れられなかったとしても、たとえ社会から自分が孤立したとしても、訴えつづけていくものなのだ。

………。少し主観に入りすぎてしまった。

岩田さんの歌の根底には、そのような「誠実な声」がある。その声が、世代を超えて、自分にも届いてくるような気がする。
             
             ※

別の角度からもう一つまとめておきたい。

批評会の席で、「同世代の方がどう思うのか」という発言が出た。

確かにこの歌集には、村上一郎であるとか吉本隆明であるとか、その世代の方でしかわからないようなキーワードがいくつか存在している。

しかし、この歌集は、ある意味で世代を超えて、受け入れられる余地のかなりある歌集ではないかと思った。

おそらく、キーワードこそ違え、この岩田さんのくぐもった声、というのは、今の時代の若者の不全感に共通するもののように思うのだ。

70年代闘争が終わり、時代は80年代、90年代を超えて、いわゆる「あたらしい内向の時代」がやってくる。サブカルチャーが全盛になり、それぞれのカルチャーの内部で、急速にひとびとが自閉していくような印象が現代にはあるが、そのようなポストモダンを潜り抜けた自閉的な感覚と、安保闘争を終えて、「それぞれの一人の闘争」に入られた、団塊の世代の声というのは、なにか共通していないか。

時代はくだり、もはや闘うべきものはなくなった。

ひとびとの間から危機感はうすれ、おそらくこれからはそれぞれの内部で、他者や社会とのかかわりを持たずに生きていくだろう。ひとびとが連帯しうる闘争などというものはもうないのだから。

このような時代に、ただ一人で何かと闘争を続けている団塊の世代の記録として読めるところに、この歌集の意義はあると思った。

29歳の読者の一人として、言葉こそ違うだろうが、やはり何かと孤独に向き合っていきたいと、心から思うのだった。

            ※

ここまで書いて、少し決めつけが過ぎるかもしれない。と、反省する。

このようなコードとは離れて、いわゆる修辞という角度から歌を検証する必要もあるだろう。今日は全ての歌に触れられないが、いくつかあげて、終わりにしたい。

いわゆる情景や比喩をからめて、心情をきっちりと作った歌もいくつかある。


・中年の水際で書かれし提案書春潮(はるしお)のように波は寄せ来る

・日曜に真白きシーツ干しておりかの出帆の朝焼けに似て

・ことごとく他人(ひと)へのこころ尖る日は寒椿ひと枝(え)手折りて帰る

・一握の塩のごとくに霜触れるサドルきりりと燃えそめにけり

これらの完成度が高いが、構築感のあるつくりの歌の一方で、すこし散文からだらっと立ち上がってきたような印象のある(冒頭掲出の歌もそうだが)歌が並んでいるのは、興味深い。

これらの歌には、あたらしい感覚があるのではないだろうか。

・「競争」は一日にして「闘争」に変わりて旗は垂れ下がりたり

・会議果てて寄せ鍋つつく「まあまあまあ」今夜の俺は軟らかい牡蠣

・冬空に龍のごときが連れ立てり「何よりもさきに書くことの態度が」

・朴の花が割れるように咲き家という概念はさらに取り残されて

・アナクロがUnique Clothing(ユニクロ)の黒に包まれぬ今日は幾つの
言葉が死んだか

・食卓に今日の苦さをしまい込む丁度いいんだ秋刀魚あたりが

・ゆうらりと蛍流れるこの川に あっ あっ と中年男声上ぐ





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