勝負はこれからだ(第5回NTC第二部) | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

勝負はこれからだ(第5回NTC第二部)

それが、イベントとして、まったく面白くなかったのである。ニューウェーブ短歌コミュニケーション。特に第二部。

石川美南、ひぐらしひなつ、廣西昌也、生沼義朗の4氏の議論は、それぞれがそれぞれの問題設定で話をすすめていくために、基本的にはディスカッションとしての相互の交流がなく、1500円払って見に行く議論として、どうなの?

という感じだった。

舞台裏はよくわからないけど、「短歌は新人に何を求めるのか」という大枠の問題設定で、事前にどんな話をすればいいのか、という打ち合わせもない状態で個々が勝手に話をする、なんてことがあっていいのだろうか。4人の議論がかみ合わないまま、「この辺で会場に振りましょう」なんて話をしても、会場だってどう答えていいかわかるはずがない。

私自身は特に発言はしなかったが、これはなんというか主催者側の怠慢ではないのか。

少なくともパネルディスカッションとして設定するためには、依頼を出す側が明確なコンセプトをもっておかないといけないのではないのか。

短歌のイベントに参加していて、いつもいつも「ああ、まただ」という感覚になってしまうのだけれども、「議論がまったくかみ合わない」

そして、「こういう話は議論がかみ合う性質のものでもないので…」という感じですげなくまとめられて、二次会へなだれこむ、といういかにもアマチュアリズム丸出しのイベントというのはもうそろそろやめにしてほしい。

個々の発言者の発言が健闘していたがために、この議論の「平行線状態」が非常に惜しまれる。優秀なイベンターを、短歌界は欠いているようだ。

            ※

いきなりこんな「イベントとしての苦言」から入ってしまった今回のNTCについてだが、このような混乱状況もまた、今の短歌共同体そのものを象徴的にあらわしているのかもしれない、と考えてみたりしている。

今の短歌に起こりっているのは、なんだかよくわからないまま、それぞれが勝手にしゃべって、それでなんとはなしに場自体がどんどん拡散していく、といういわゆる「歌人カラオケ化」現象のようなものではないか。

かつて大辻隆弘はネット短歌の評価軸の不在を嘆いた。

しかし、私たちが直面しているのは、もっと深刻な事態なのかもしれない。それは、若い世代全体がかつて大辻隆弘が「ネット短歌」に感じた危機感のように、個々の歌人が確固とした評価軸や価値観のようなものを打ち出しえないまま、それぞれがそれぞれの場のなかで適当に収斂していく、という、いわば「若手歌人そのもののネット化」のようなものなのかもしれない。          

               ※

無論、これは若手歌人のみに責任がある話ではないだろう。

おそらく穂村が指摘したIN OUT BORDERは、残念ながら現在の状況では疑いようもないくらい事実だ。それは短歌界の状況を如実にあらわしている現象だからだ。

少なくとも現在で短歌専門誌に作品を掲載する基準は、全て結社内からセレクトされていく。短歌専門誌自体に、新人を発掘していこうという機能はほとんど持たれていない。巻頭作品は大方、結社の重鎮クラスの人材で占められており、年功序列制としかいいようのない紙面編制になっている。

私は3誌の短歌専門誌を購読しているが、この1年間で、巻頭連作に、若手の作品が掲載されたことは一度もなかった。そして残念なことだが、どの専門誌を読んでみても、ほとんど「どこかの専門誌」で既に書いている人材ばかりが持ち回りで執筆しているような印象があり、角川らしさ、短歌研究らしさ、などが打ち出されるような企画は残念ながら、一回もない。

新人賞を受賞したクラスの新人でも、うかうかしてはいられない。彼らの作品が今後も永続的に短歌雑誌に掲載されるわけでもない。1年、2年くらいでだいたい依頼がこなくなってしまい、あとは膨大な「7首詠」とか、「10首詠」のなかに作品が埋もれる、という程度で終わってしまうだろう。

まあ、「結社の重鎮」クラスの人材ですら、もともと数がおそろしいほど多いわけだから、当然どこにも所属していない人材であるとか、若手歌人なんて、専門誌に掲載しきれないというのが実状ではないだろうか。

専門誌がほとんど独自の価値判断をもって作品を掲載するという冒険ができない以上、若手が自分の短歌を続けていくモチベーションというのは、ほとんど下のいずれかに収斂してしまうわけだ。

1同人誌を作るか。
2結社に入るか。
3ネットで作品を発表するか。
4ぼそぼそと作品を作って、新人賞に応募するか。
5大枚をはたいて、自費出版するか。
6カルチャーセンターなどで講義を受け続けるか。

そして、それらのうち、1・3・5というのは、ほとんど「既存の短歌的なある種の価値判断」を教育される機会というのは永久にありえないわけだから、2・4・6くらいしか、既存の短歌共同体で認知される手段というのはない。(1はケースバイケースだろうけれども…)

残念ながら、2・4・6というのも、場にあってはほとんど高齢化がすすんでいて、「既存の短歌的な価値判断」〈以外〉のものを受け付ける度量などがないケースも多い。

ということで、「既存の短歌的な伝統を踏まえながら、若い感性を持った価値観を創出する」という、短歌革新運動みたいなものは、永久に起こらないのではないか、という暗澹とした気持ちになってしまうのである。

            ※

歌葉新人賞は、このような歌壇全体に対する危機感から、ニューウェーブの旗手といわれた三人が創設した一種の短歌革新の試みと捉えることができよう。

今までの短歌的な伝統を踏まえながら、それとは大きく抜け出す短歌を、というコンセプトを全面に打ち出して、新たな価値観の創出を意図したもの、という選考方針であったように思える。

それは同様に、既存の短歌共同体が、インターネットという新しい「場」に出会った衝撃、口語短歌に影響を受けた若い感受性の歌人たちの登場、朗読の登場といった、短歌の大胆な「場」の変容が絡み合って、一気に噴出したムーブメントのようなものだったのである。

それらのムーブメントが、確実にある種の若い世代を短歌の世界に引き込んだ功績は疑いようもない。

しかし、そのムーブメントが5年で終了を迎え、そして最後に「事実確認」のようにイン、アウト、ボーダーなどと言われても。。。というやりきれない思いを感じざるをえない。

               ※


私が短歌を始めたのは2005年。第一部のほうで軽くまとめを出しておいたけれども、私は2003年くらいに第一歌集を出した歌人の方の影響を強く受けて、「ああ、短歌ってこんなに面白いのか」と思って、自分でも歌を作り始めた。

そして2001年頃の「マスノ短歌教」に見られる「かんたん短歌」の台頭、「かんたん短歌ブログ」の登場と、穂村弘の「短歌という爆弾」、そして「歌葉新人賞」の登場という二つの大きな磁場のなかで、
歌を作り始めたというのが来歴だ。

自分が始めた頃、「もっと情報が欲しい」と思ってみたはいいけれども、気がついたら「ちゃばしら」も配信を終了しているし、歌葉のホームページも一向に更新されない。ラエテティアという歌人集団もあったらしいが、どこへいったのかもわからない。

初学の自分に残されていたのは、ケータイ短歌、かんたん短歌ブログと、笹公人の短歌ブログの、それにちょうど選考会を行っていた第4回歌葉新人賞だけ、という状況だったような気がする。

以前ミクシィで書いたことがあるが、「なんか面白いおまつりをやっているなぁ」と思って短歌をはじめて、「ぼくも混ぜてもらおうかなぁ」と思って、東京に出てきたのはいいのだけれども、気がついたら、2007年の現在、そんなおまつりはもう全部終わっていて、なんだかしらないがみんなが後片付けをはじめているときに、のこのこ一人「わっしょいわっしょい」言いながら、出てきたようなものだ、という実感がある。

加藤治郎が2001年から2006年のまとめという形で第一歌集を語りはじめたとき、

「ああ、なんかネット短歌も一つの「時代」として、確実に歴史化されていくのかなぁ」

というような実感を持った自分が、なんとなく面白かった。

               ※

若い世代の真価が問われるのは、これから、という気がしている。

歌葉が終わってしまった現在、幸か不幸か、私たちは既に「場を自分たちで作りだしていかなければいけない」という状況におかれつつある。

これは完全に資本の敗北、と言わざるをえないだろうが、近いうちに、商業誌というレベルでは短歌がとりあげられることはない、という時代が到来するのではないだろうか。

そのためには、インターネットというツールは、やはりこれからも重要なものとして存在するだろう。

私たち自身が、しっかりしたそれぞれの態度表明を、多くの人たちに伝えなければならない。

先行世代の評価を頼って短歌を作り続けているだけだと、いつの間にかムーブメントに流されてしまう。そのような失敗を、私たちは2001年~2004年の間に一度経験してしまっている。

ニューウェーブの3人や枡野浩一は、この世代のなかでは圧倒的に鋭利な歌人であって、だからこそこのムーブメントを起こすことができた、といえなくもないけれども、「その後」のことを考えてみると、やはり私たちはこの人たちに「全部評価をお任せする」というのはいささか虫が良すぎる。

インターネットで文章を書き始めたのは、その辺の必要性を痛感してしまったからだ。

とにかく地道な活動になるのかもしれないけれども、文章を書いてネット上で発表をする、というのは、今後も絶対に必要なことであるような気がしている。

この辺で第二部も締めておきたいが、この辺の問題に関する考察は、作品レベルの話も含めて、引き続き、引き続きくどくどやっていくだろう。

スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。