批評が詩を矮小化させていくー短歌の読みについてー | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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批評が詩を矮小化させていくー短歌の読みについてー

先日、未来彗星集・かばん合同歌会に参加していて、ある種の強い危惧を感じていた。その危惧は自分のなかで歌会を重ねるごとに強くなるばかりだ。

いつか書こう書こうと思っていたのだが、昨日ガルマン歌会に参加していて、自分のなかの堤防もとうとう決壊したように感じた。

この場で、ある程度自分のスタンスを明確にしておいたほうがいいように思う。

個人的な記憶になるが、昨年短歌を始めたばかりのとき、塾の授業で「短歌」の時間があったので、私は覚えたての短歌を黒板に書いて、
「今の短歌はこんなに面白いんだよ」ということを伝えようと思った。

そのとき引用した歌が、

・手のひらを器のかたちにしたままで何かが降りてくるのを待った

という伴風花さんの作品だった。

生徒たちはこの歌を見て、「えっ、これが短歌??」というような感想を口々に言う。私はしめしめと思いながら「どんなふうに感じる?」
と聞いてみたら、生徒たちは得意満々の笑顔を浮かべて、口々に

「ゆきっ! ゆきっ!」と答えたのだった。

「………うーん。そうだー。そうなんだよなー。ゆきなんだよなぁ」

と答えながら、私は、生徒たちの笑顔とは対照的に、なんとなく釈然としない思いを抱いたのが強く印象に残っている。

              ※

この歌について言えば、この歌の下の句にある「何かが降りて来るのを待った」

は、あくまで「何か」であって、雪ではない。

確かに、この歌は雪の情景から着想を得て作られた一首であるということは言っても差し支えないかもしれないが、この歌のポエジーの価値を、雪をあえて雪といわず、「何か」と置き換えたところにあるのだ。

「何か」という言葉から漂ってくる漠然とした淡い期待感、そこに自分の身体の一部を「器」と置き換えることから見えてくる「受動的な存在」としての自己像。「何かが降りて来るのを待った」には、祈りのような気持ちも込められているだろう。

この歌を「雪」と答えあわせをしてしまったとき、「何か」という言葉が持つ本来的な喚起力は全く捨象されてしまう。そのことに、なんとなくやりきれない感じを持ったのである。
             
言語それ自体が何かに奉仕するものではなく、「自立的な存在」として様々なイメージを喚起させるのが本来の詩的言語の持つ機能である。

「そこからどのような具体的なイメージを喚起させられたか」というのを延々と述べていくというか、そこで立ち止まってしまう読みは、言語そのものが持つ様々な喚起力を、一元的なものに還元する作業でしかないのではないか。

無論、一元的なものはわかりやすい。だから受け入れられやすい。それはわかる。しかし、わかりやすさに還元していい場合と、よくない場合があろう。

特に、それが批評の場であるならば、なおさらだ。

              ※

彗星集・かばん合同歌会、でわたしは「歌会」の場で、このような読みがふつうに行われていることに、強い危機感を持った。

そこで私が感受したかばんの読みの特徴は、一言で言うと、「長い」。

私はその長さそのものに、なんとなく「やりきれないなあ」という気持ちを抱きながら、ずっと聞いていたのである。

あくまで私が感受した印象であるが、かばんの歌の読みの場合、「この歌について私がこう思った、こう感じた」ということが何よりも重視されている。時折、その歌から感じ取ったイメージを、やや一元的な形で、具体物に還元して読むことがかなりの程度許容されている。

「ん? これは雪じゃないかな。」
「いや、これは○○だと思う。」

というような意味で、作品について「自分が感じ取った具体物」そのものを、お互いにぶつけあう、というような場面も見られた。

無論、この姿勢でも、作品そのものを感受できない、ということではないだろう。しかし、「読み」の自由が許容されるあまり、議論そのものは、その具体物の妥当性を問うような瑣末な結果に陥りかねない危険性を孕んでいる。

本来の詩言語としての「喚起力」が、十分伝わっているかどうか、十分にその場にいる多くの人に広く受け止められたのか、という本質的な「評」を行う場にはなりえない可能性もある。

また、最も危険な問題なのは、やはり作品そのものよりも、「作品を読むわたし」の価値のほうが優位であるという構造そのものにあるのだろう。

80年代以降、テクスト論が全盛となり、作者の聖典化の廃止、読みの自由ということが大いに称揚された。

しかし、読みの自由は、「どのように読んでもいい」ということでは全くない。テクストという言語そのものをそのまま受け入れながら、「どうしてこのように表現したのか」という深層を探っていくのが本来の読解であって、そこから感受した「私の印象」などというのは、そもそもどうでもいいものなのだ。

これは「かばん」という会の構造的な問題なのかもしれないが(先生がいない)、どうも作品に対する個人個人の読みの優位性が、ときに作品そのものよりも際立ってしまっているのが気になってしまったのである。

              ※

黒瀬珂瀾は、未来4月号の時評のなかでやはり同様の危機感から、「具体物に置き換える」読みの危険性を語っていた。短歌が本来有する「無意識のエネルギー」「ダイナミズム」は、具体物に還元することで損なわれてしまう。これは何も比喩に限った問題ではなく、すべてを技法論で説明したり、韻律論で説明したりしてすますような読解にも、同様の危険性があると考えてもいいだろう。

比喩、韻律、技法などというものは、あくまで短歌そのものに副次的についてくるものであり、短歌本来を全て体現するものにはなりえない。

以前彗星集の歌会で、

・職場にはどうしやうもない力学があると思ふよ、割れるくちびる(宮野友和)

という歌にかなり立ち止まって、「どういおう、どういおう」と戸惑った経験があったが、本来短歌に受ける圧倒的な衝撃は、「どういったらいいかわからない」種類のものである。

批評は「どういったらいいかわからないもの」を、なんとかして言語化しよう、言語化しようという人間の営みのようなものなのだ。

そこで、「割れるくちびる」は一体何の隠喩か、などということは考えないほうが、自分のためだろう。

私はよく自分の立場を、「言語ベース」という言葉で説明しようとするが、それはこのような考え方に基づいている。それを説明するものとして、一応この文章を置いておきたい。
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