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短歌をはじめてまだ一年半の私は、「伝統」という言葉を聞くと、ときどきたじろいでしまうことがある。
太古から続く和歌の重み、とか、そういう言葉を聞くとどうもしっくりこない感じがしていて、「伝統が大切だからとにかく短歌を読みなさい」という言い方には、あまり納得できない感じがあるのである。
しかし、じゃあ全く古い短歌を読まないのか、といわれるとそういうわけでもなくて、茂吉をがんばって読もうとしたり、土屋文明をがんばって理解しようとしたりすることもある。
そういうとき、短歌の「伝統」というのは私にとってまさに異物だ。
今まで自分のなかになじみのない言語の運動みたいなものをなんとかして取り入れよう、取り入れようとするわけだから、ペタペタな言い方をすると非常に「おなかにわるい」ことになる。
うーん、なんじゃこりゃ。どこがいいんじゃ、こりゃ。。。
ということで、短歌をはじめて1年くらいはこんな消化不良状態が続いた。
実はある場所である有名な歌人さんに教えてもらったことなのだけれども、「短歌」という言語がある日突然「わかる」、という現象は、「自分の脳内にびーっと筋が一本引かれていく感じ」のようなものらしいのだ。
この実感は、非常に自分でもよく理解できていて、ある日突然、ああああっ! と飛び起きるようなことが起こることがある。
例えば、ヘレンケラーが「言語」を発見したときの感動を思い浮かべてみるとわかりやすいと思うのだけど、w・a・t・e・rという記号のつながりが、ある日突然「水」をあらわす言葉なんだ、ということを発見した喜び、といおうか。
最初の頃、ひどく感動した歌をあげてみる。
かなしみはだれのものでもありがちでありふれていておもしろくない(枡野浩一)
わかるなよ あなたにわかるかなしみはあなたのものでぼくのではない (仁尾智)
この辺が不思議なところで、最初自分は57577という定型を使ってものを伝える、ということがひどく新鮮なもののように思えて、そこから短歌を作り始めたのだった。
口語の短歌、普段自分たちが日常で使っている言葉を定型におさめる、という皺が脳内に刻み込まれたとき、やはり飛び上がるような衝撃を受けた。
しかし、この皺というのは不思議なもので、同じような水をいつもいつも流していると、だんだん効力が薄れてくるのである。
たとえば、5年ほど前に感動した歌を、今でもずーっと愛唱している、という人はいるだろうか。1ヶ月か2ヶ月の間にマスノ系短歌を読破していって、次第にマスノ短歌、という水がなんだか同じような流れ方をしているということに気づいてくると、もうちょっと何か、違う流れ方をしている歌はないか、という「言葉に対する餓え」のようなものが生れてきたりする。
この繰り返しが、自分にとって「短歌を読む」ということなのかもしれない。そして、「短歌を作る」ということは、そこで生れてきた衝撃を自分のなかに取り入れて、またぷいっと葡萄の種を吐くように、自分から吐き出すことなのかもしれない。
読むたびにあたらしい溝が掘られていって、そのぶん、短歌という言語に対する理解がどんどん深まっていく。短歌とは一つの言語なのだ。
※
初心の頃の自分が最初につまづいた言語、というのは「の」だったような気がしている。
初心者のとき、こんな歌がよくわからなかった。
あけがたは耳さむく聴く雨だれのポル・ポトという名を持つをとこ(大辻隆弘)
普通われわれの言語体系には、「の」は所有格、くらいの意味しかもたない。「雨だれのポル・ポト」?って何? というレベルでつっかえるのである。しかし、この「の」の通路が開かれると、かなり短歌の世界は大きく道が開ける。
「の」は、短歌言語的にいえば、場面転換をあらわす「の」であって、
あけがたは耳さむく聴く雨だれの/ポル・ポトという名を持つおとこ(大辻隆弘)
で切れるスラッシュを導く言葉、というふうに考えると、「おおおっ」というふうに道が開ける。
雨だれの/がポル・ポトに、かかっているような、切れているような。 この辺の微妙な感じが、まさに「感動モノ」なのである。
そして、この「の」は様々なシーンで使われる。
沈船の窓よりのぼる泡よりもはかなきことをいまこそ言わめ(山田富士郎)
この歌だってそうだ。
沈船の/窓よりのぼる泡よりもはかなきことをいまこそ言わめ
というふうに区切って読むと、「沈船の」が短歌全体のイメージの方向性を規定していると読むこともできるし、
沈船の窓よりのぼる泡よりも/はかなきことをいまこそ言わめ
でくぎって、「の」がない序詞として読むこともできる。
このあたり、短歌の「の」的使い方がわかってくると、異言語を発見したような気持ちになって、ぞくぞくするのである。
加藤治郎は、「の」の達人とでも言えるような歌人さんで、この「の」の感じをいろいろと教えていただいた。
剥製の内なる綿のたまらない暗さであれば眠れずにいる 『環状線のモンスター』
なんじゃこりゃ。。。どういう歌だ? と最初びっくりしたのだが、よく読んでみると、
剥製の内なる綿の/たまらない暗さであれば眠れずにいる
で、「の」がいきなり2句目に出てきている。
おおおっ。びっくりしたー。びっくしたよう。 こんなとこに「の」が出てくるとはおもわなかった。
剥製の内なる綿の/で、たまらない暗さを引き出している。もちろん、 意味的には、「ように」で代用してもいいのだろうけど、それじゃあちょっと「の」が死んでしまう。ここできれいに場面転換している感じを、「の」で出しているのだ。
あれれ、そう考えてみるとこの歌は?
真夜中に剥がれる皮のなめらかに環状線を離れて迷う『環状線のモンスター』
自分、最初は「皮のなめらかに」とつなげていたのだけれど、よく考えてみると、2句目「の」で読んだほうがしっくりする。
真夜中に剥がれる皮の/なめらかに環状線を離れて迷う
ああ、これは、剥製の歌とセットだったのか。
加藤治郎、おそるべし。
※
少し雑談を挟んでしまったが、とにかく、短歌というのは、一つの言語なのだ。
枡野浩一の言うように、日常の言葉しか使わない。私たちが知っている口語しか使わない。短歌は57577という選択も、作歌態度としてはありうるだろう。
しかし、それでは「あたらしい言語を取り入れて、それに逐一驚く」という歌が持つもう一つの感動を、完全に排除してしまうことにはならないか。
伝統は、異物である。
だからこそ、それを取り入れて、自分の短歌をもっともっと豊かにしていく必要があるのだ。
私たちの口語の短歌は、まずしい。
枡野短歌なんて、結局10年くらいの蓄積しかないじゃないか。
枡野短歌に縛られる人は、その10年分くらいの蓄積のなかから、自分の言葉を見つけてこないといけないのである。これは、逆に自分の歌の世界をひどくさみしいものにしてしまうだろう。
「あたらしい言葉を知るのがたのしいです!」
そういう人なら、難なく短歌の世界を深めていくことができるような気がする。
短歌の数は多い。
そして、短歌の歴史は長い。
短歌の海は、果てしなく大きい。
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