物語化された私像-コンセプチュアルな時代に向けての試論- | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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物語化された私像-コンセプチュアルな時代に向けての試論-

私たちは、どういう経路を伝ってある作品を「わかる」と感じるのだろう。

私たちがその作品を「わかる」というとき、私たちの既存のデータベースのなかに、その作品を受け入れるだけのバックボーンが存在していることは疑いようもない。

・あかあかと一本の道通りたりたまきはるわが命なりけり

斉藤茂吉の名歌として今も知られているこの作品は、「たまきはる」ということばが枕詞であることがわかっても、一本の道と命がつながっているいうことがわかったとしても、どうも私たちの心のなかにぴたっと収まる、という感じがしない。

なんとなく韻律的な修練を積んでくると、「通りたり」「なりけり」の間にある微妙な緊張感であるとか、そういう「短歌としてのよさ」を感じとることができるかもしれないが、それでも茂吉と自分の間にはなんとなく距離感があって、素直に一首だけを読んで、「ああ、そうだよなぁ」、という感じにはなかなかなれない。

しかし、私たちが以下のような作品を読むとき、素直にそれらの作品が「わかった」ような気になってくる。

・3回も食事したからバレてるよ生春巻とわたしが好きね(佐藤真由美)

・午後10時 月が大きい 今もまだ信じる魔法がいくつかはある(加藤千恵)


実際に二人の作家は文庫本にまでなり、多くの読者の共感を呼ぶ作品として、今も認知され続けている。

私もこれらの作品を読むと、「うーん、そうだよなぁ、わかるよなぁ」という気持ちになるのだけれども、「いったいどうして、これらの作品を自分が「わかる」と感じるのか」という自分のなかの回路について、考えを進めざるをえなくなってくる。

どうして、これらの作品がわかるのか。

いったい、いつごろから、私たちはこういう作品を「わかる」と感じるようになったのか。

そもそも、「わかる」とはどういうことなのか。

             ※

荻原裕幸は吉川宏志との対談でこのようなことを述べていた。

「どこかに分岐点があると思うのだけれども、たとえば父親の歌を東さんが書いたとき、東さんのお父さんはどんな人だったんだろう、という
方向に考えがいくんじゃなくて、その言葉がもたらしているイメージみたいなものを、自分の側の体験に重ねたくなるんです。情報が切断されているせいもあるんだけれど、読者の方からそこに乗り入れちゃうんだよね。恋愛の作品なんかでもそうだけど、感情移入というか、自分がもう東さんの一人称に乗っかって読むっていうところがあるんじゃないかな」『短歌ヴァーサス4号』

私もこの分岐点を指摘するだけの知識を持たないが、この感覚は非常に共鳴できる感覚だ。

私たちは、一首を読もうとするとき、その背景にあるリアルな作者をおもいうかべるという「読み」を、いつのまにかしなくなってきてしまっている。むしろ、作品の内部には「作品空間」とでも言うしかないものが拡がっていて、その像を自己のなかで再構成して読む、という読み方が当たり前になってきている。

3回も食事したからバレてるよ生春巻とわたしが好きね

というとき、この会話の作品空間のなかで、まず、どこかで二人の男女が食事をしていることがわかるだろうし、しかも会話している場所は、なんだか「道頓堀横丁」とか「居酒屋和民」のようなダサい場所ではなく、渋谷のオープンテラスといった場所であることがイメージできるだろう。かなり踏み込んだ情景のイメージの共有が存在していて、はじめてこの一首はこの一首として存在している。

午後10時 月が大きい 今もまだ信じる魔法がいくつかはある

この歌に関しても、基本的には「魔法」という言葉がある種の共有化ワードになっている。この魔法というのは「ロードス島戦記」のようなオタッキーな世界で流通する「魔法」でもないし、古典的な意味での妖術でもないことがわれわれの読むコードとして存在しうるだろう。

これらの短歌は、背景にある種のシチュエーションに対する前提があって、そこに作中主体を置き、その作中主体に自己を投影して共振させるという読みが前提として存在している。その感覚が、私たちのいう「わかる」ということなのではないか、とあらかじめ結論を出しておこう。

短歌史的に見れば、80年代以降の口語短歌には、この種のシチュエーションに対する共振とでも言うしかない物語的な磁場の導入が存在していた。

・「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

                     『サラダ記念日』俵万智

俵万智のサラダ記念日は、そのような背景のシチュエーションに依存するために、物語空間の導入を会話体によって連想させるという手続きをふまえた、新たな口語短歌の地平を切り開いた歌集として認知されている。

よく専門的な歌人たちが、これらの作品を「通俗的」と非難する大きな理由は、これらの短歌がその作品のシチュエーションを、外部に求めることに根拠を置いている。

たとえば、伝統的な文語の短歌では、一つの状況の圧縮に作品そのものの価値がおかれていた。

・廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり(小池光)

・撒水のいち早く消え道白く過ぎし孤独の日に続きをり(島田修二)

いずれの二首も、状況の圧縮がよく効いた短歌だ。

小池作品では、満開の紫陽花の花の様子を「花占めて」と省略的に表現することで、詩的圧縮をよく表現しているし、島田作品では、撒水が乾いていく道の様子を、「白く」と表現することで、簡素に状況を把握している。

しかし、サラダ記念日以降、私たちが口語的なものを短歌に導入する際に、口語体が持つ一つの物語性を作品空間のなかに導入するという手続きからは避けては通れない。90年代以降のライトバースが導入した「口語短歌」は、口語であること以前に、作品空間が物語であることを私たちに強いたのである。

人形が川を流れていきました約束だからみたいな顔で(兵庫ユカ)

特急券を落としたのです(お荷物は?)ブリキで焼いたカステイラです(東直子)

ここで「いきました」、「みたいな」、「~です」という口語体を採用するとき、私たちはこのテクストの発話主体が女性であるということを無意識に前提とせざるをえないだろう。現代の口語短歌には、多かれ少なかれ、この文体それ自体が持つ「物語への共有」が所与のものとして組み込まれている。

2000年以降の口語短歌は、読みのコードがそのように決定されてしまっている以上、この「主体」と「物語」の関係を前提にして、ほとんどが成立せざるをえなくなってしまっているのではないだろうか。


・この夢をあきらめるのに必要な「あと一年」を過ごしはじめる

・好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君
               枡野浩一『ますの。』

1999年、枡野浩一は、一首全体の背景を最大公約数的な「誰にでも起こりうる物語」に仮託することで、極めて愛唱性の高い新たな口語短歌の地平を切り開いた。

・明け方に雪そっくりな虫が降り誰にも区別がつかないのです

・新婚旅行へ行きましょう、魂のようなかたちのヘリコプターで
         穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

2001年、穂村弘は、口語文体が持つ独特の女性的な会話体で全体を構成することで、歌集全体を穂村弘本人に向けて届いた「まみ」の手紙として、つまりは女性の書いた物語として一冊の歌集を提示した。

いずれも、短歌以外の世界では既に当たり前のできごとだったが、作者と作中主体がもはや完全に切り離されたストーリーとして提示されうることを示したのである。

そして、2000年以降に第一歌集を出した歌人たちは、多かれ少なかれ、このような「物語化された私」から、どのようにコンテクストをずらしていくか、という一点にかけて、作歌を行っているように見える。

二年間暮らした街を出て行こう来た時と同じくらい他人か(松村正直)

遠ざかる光 これから僕がゆく道を照らして電車は消えた(千葉聡)

オーバーオールのほかなにも着ず春小麦地帯をふたり乗りで飛ばそう(飯田有子)

風船を放してしまったその日から悲しむことを覚えたのです(天野慶)

海水に耳までつかり実況のない夏休み後半へ続く(盛田志保子)

嫌いって言えないジンに浮いたまま拾い上げないライムの輪っか(佐藤りえ)

茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして(石川美南)

既に、これらの作品には、近代短歌の伝統としてあった「見る主体」としての私は存在しない。中城ふみ子以来の、「演ずる自己」としての私が存在すると考えてもいいかもしれない。

当然、個々の作家にはいくつかのモチーフの差異は誕生しているが、多かれ少なかれ、私たちの間には、意図的に自己像を演出し、作品空間を作りあげるという回路が存在してしまっているのである。

これは、現代の口語短歌を作歌する上で避けては通れない共通認識のように思える。

私たちは、既に歌人ではなく、短歌作家として生きる道を選んでいくことも可能な時代になっているのだ。

この前提のなかで、2006年から2007年の「現在の」口語短歌を考えていく必要がありそうだが、それはまた、次の考察に席を譲ることにしよう。

修正稿:2007年5月8日
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