ネット短歌の火を消すな | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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ネット短歌の火を消すな

笹短歌ドットコムが1周年を迎えた。

J-waveがスポンサードしていた「短歌ブログ」の時代から数えると、足掛け2年となる。

私の歌歴は、ほぼこのJ-wave時代の後期に短歌を投稿し始めた頃から始まると言える。その頃同じ時期にインターネットで短歌をされていた方とは今でもつながりは大きいし、おこがましい言い方だけれども、200年後半のインターネット短歌の文化圏のなかで、歌を作り始めることができたのは、自分にとっても幸せなことだったように思う。

とっても残念なこともいくつか体験してきた。

同じ時期に歌を作り始めた人で、今では歌を作っていない人も増えてしまったことだ。

無論、枡野浩一の「かんたん短歌ブログ」が終わったことも大きいのだろう。インターネット上の場がなくなったことで、難民化する人が非常に増えてしまったのだ。

2004年くらいまでのネット短歌というのは、「ラエラティア」「ちゃばしら」「歌葉」に代表されるように、いわゆるネットと口語短歌が入り混じった新たな感受性の新人の排出、という機能を持っていたが、そのようなネット環境は急速に衰退した。

2005年あたりから、インターネットは、教育的な志向を持った、枡野浩一、笹公人という二人の歌人による、投稿の「場」としての意味合いが非常に大きくなってくる。

しかし、これらのネット環境は、商業的な成功を収めはしなかった。

現在、二つの場は、スポンサードする企業の撤退によって、廃止・縮小を余儀なくされてしまっている。

(これは講座の場で笹公人自身が語っていたことなので、この場で書いても問題はないだろうが、笹短歌ドットコムは今や、笹公人自身のボランティアによって支えられている)

結局、短歌そのものが読み手と作り手がほぼイコールであるという現実を、ネットの場でも再反復したに過ぎなかったのだった。
            
そもそも、短歌というビジネスモデルは、作り手自身がお金を出して自分の発表の場を確保する、というシステムによって成り立っている。

企業からのスポンサードによって、その機能を成立させるという試みは、残念ながら、本質的な意味での短歌システムにはなじまなかったようだ。

             ★

1周年を迎えた笹短歌ドットコムから、何首か引いてみよう。
(わたし自身は出詠できなかったが…)

・「降参」のメールに笑みはひろがりて春の勝鬨橋を渡りぬ(瑞紀)

・手のひらに花びらが舞い落ちてきて手つかずのまま春はすぎゆく(嶋田電気)

・芽吹くその瞬間にただ焦がれつつ雪を静かに静かに融かす(はせがわゆづ)

・ねがわくばうまれかわって花びらをあなたのあなたの窓辺に散らす 
(富田林薫)

・米を研ぐ水道水の冷たさに気付かぬ朝は春の始まり(あきえもん)

これらの歌には、もう「笹短歌調」とも言える感受性がしっかりと根付いているし、短歌としても安心して読める水準の作品になっている。

もう笹短歌ドットコムとは、一つの「選歌欄」として成熟期、完成期を迎えつつあるのではないか、という感じもするのである。

初学の私たちに「詩」と「散文」の違いを繰り返し解いてきた笹公人の功績は大きい。

しかし、その成熟さ、ある種の完成度の高さが、笹公人個人の努力によって培われ、維持されているということを考えると、私たちは、そろそろ考えるべき時期に来ているのではないだろうか。と感じてしまう。

残念ながら、インターネット短歌ブームはもう終わった。

私たちは、今までのように誰かが無償で自分の歌を取り上げてくれる、ぽかんと口を開けて、「何もしない投稿者」として、振舞っていればそれで済む、という状況ではなくなっていくだろう。

雑誌で選を受けるときにも、最低限その雑誌を買わなければならない。

笹短歌ドットコムは、そのような経済原理から離れた無償の愛で維持されているのである。(これは、笹公人自身が、選者の「無償の愛」で成立している「未来」という場のよさを理解しているから、としか言えないのだろうが…)

幸い、インターネットという場は、紙媒体と違って、多額の費用を必要とはしない。

インターネットというシステムを通じて、ある程度投稿者が、選者に費用を還元するシステムというものを作ることができれば、(つまりはネットに結社の選歌機能のみを移管させてしまえば)、紙媒体では選歌欄を持っていない歌人が、独自の価値基準で作品を編成する、ということができるかもしれないし、投稿する側も安心して場の維持を期待できるのではないだろうか。

もちろん、短歌を続けるためにはある程度の覚悟が必要。というのは厳然たる事実だが、同時に「締め切りに追われて、大してうまくもないと思っているけど、ただ歌だけは出している」というのも、すごく大切なことなのだと思う。

歌を読み続ける場が何よりも重要なのは、自分の歌が誰の歌のとなりに並んでいるか、ということだろう。

自分の歌は当然読むし、同様に同じ時期に歌を作っていた仲間の歌を見ることができる。それが、相互に影響を与えながら、作風というものを形づくっていくのではないだろうか。

そのような場を、ネットからなくしてはいけない。

             ★

(お知らせ)
             
今まで、個人的に題詠100首ブログのスペースを借りて、文章を書いてきましたが、2007年9月より、新たな場を立ち上げることにしました。

まだいろいろと書きたいことがありますが、とりあえず9月までは、ネット上での文章の公開はお休みさせていただきます。

くだらない文章にながながとお付き合いいただきました方、ほんとうにどうもありがとうございました。

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