週刊時評の「私」、問題の整理。 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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週刊時評の「私」、問題の整理。

新たな場を立ち上げるために、9月まで休もうと思っておりました「題詠100首のためのブログ」ですが。。。

大辻隆弘さん、吉川宏志さんの週刊時評で、「私性」と「喩」の問題について、活発な意見交換が行われております。私自身も、非常に興味深く拝読しております。

どうも速報性を重視するインターネット上の言論では、少し遅くなってしまうと議論に乗り遅れてしまいそうなので、やっぱりこの場で一度、私なりに論点の整理を行っておくことにしました。

ことの発端は、大辻隆弘さんが『喩の現在』について、棚木恒寿さんの批評会での発言に触れて、このような問題提起をされたことから始まっています。

「議論の発端となったのは、パネリストの1人であった私が引用した次のような歌であった。

  下降して底(そこい)に届くひとひらよ水槽のごとく景ありにけり     棚木恒寿

 この歌において、棚木は花びらが地上にゆるやかに落ちる様から、水の中を想像し、自分のめぐりの世界を「水槽」のようだ、と言っている。ここには〈喩〉を用いることによって、世界そのものの認識を更新しようとする棚木の意志が感じられる。それは世界の新たな開示を齎す〈喩〉の力を棚木がまだ信頼している、ということだろう。その背後には、認識の力によって世界を再構成しうる〈強固な私〉への信頼がある、ということだろう‥‥。そう述べながら、私は、そのような〈喩〉と〈強固な私〉に対する過度な信頼に、疑問の意を提示したつもりだったのだ。

           (中略)

前衛短歌において〈喩〉は、日常的には隠されている現実の深部を認識のもとに連れ出す武器として重用されてきた。前衛短歌の影響を色濃く受けた90年代初頭のニューウェーブ短歌も、〈喩〉の種類は多様化し複雑化したとはいえ、基本的にそれは「現実の深部を認識の明るみに連れ出す武器」として信頼されてきたように思う。」

 「2007.5.7 〈喩〉の現在」大辻隆弘

翌週の短歌時評では、「強固な私」について、吉川宏志さんから疑問が呈されるに至りました。

「ただ、自分の目で物事を見ようとすることを、「〈強固な私〉への信頼」というふうに結びつけ、疑問視することが私にはよく理解できないのだ。もちろん、「自己」や「主観」というものは甚だ怪しい代物であることが、ポストモダン以降にさんざん議論されてきたことは私も知っている。けれども、揺らいでいる〈私〉が表現されている歌として、多義的な歌や曖昧な歌などを、過度に評価してしまうのも危険なのではないだろうか。」

「2007.5.14 〈強固な私〉とは何だろうか」吉川宏志 


それに対しての大辻さんのこの問題への応答。

時評「〈強固な私〉とは何だろう」のなかで、吉川は〈強固な私〉を「人生の中のある一瞬に、絶対的にリアルに感じたことを、一首に定着させようとする」主体だ、と考えているようである。生の一瞬一瞬において具体的な実感を感じ取る感性的主体こそが〈強固な私〉であると考え、私(大辻)がそれを否定し「揺らいでいる〈私〉が表現されている歌」を評価しようとしている‥‥。極言すれば、吉川は私の主張をそう解釈しているようだ。

 私の言葉が足りなかったせいもあろう。が、ここまで述べてきたとおり、それは明らかな誤解である。私の言おうとした〈強固な私〉とは、吉川が解釈したような「一瞬のリアル」を感じ取る感性の主体としての〈私〉ではない。むしろ、現実の具体性を抽象化し理念化する理性的主体としての〈私〉の謂なのだ。

「2007.5.21〈強固な私〉について」大辻隆弘

それに対して吉川さんの応答。

〈私〉という問題は、たしかに現在よく論じられているテーマであり、論文集などもしばしば出版されている。けれども、そうであるからこそ、〈私〉という言葉を用いて安易に批評することには慎重でありたいと思う。前衛短歌時代には絶対的な〈私〉があった、というような言い方(4月23日・大辻隆弘「等価値のなかの混迷」を参照)も疑問に感じる。前衛短歌はむしろ、硬直したイデオロギーから脱出するために、なまなましい感情の揺れを表現しようとした側面 があったからである。たしかに定型意識が緩くなっている現在よりも、緊密な印象のある歌が多いことは間違いないが、だからといって「絶対的な〈私〉」が存在したと考えるのはやや早計なのではないか。現在の目からはそう見えるという印象批評に傾いている気がする。

「2007.5.28 〈私〉を論じる危うさ」吉川宏志

そして、現在、最後の応答は、

吉川宏志は先週の青磁社時評のなかで、「〈私〉を論じる危うさ」を述べている。正直いって、なぜあそこまで吉川が苛立つのか、私にはよく分らない。それは、私の「強固な〈私〉」「絶対的な〈私〉」というやや不用意なネーミングが原因なのだろうが、少なくとも私は、〈私〉というものを単なる「一人称代名詞」や「作者の自己意識」といった浅い問題としてはとらえていないつもりだ。

「2007.6.4〈私〉の詠い方?」大辻隆弘

となっています。



主に、「私」についての議論の流れだけを追ってみましたが、この流れだけを見ると、「私」という問題一つとってみても、まさに「私」という用語そのものに、個々の批評者がそれぞれの意味合いを滑り込ませていることがわかります。

大辻さん、吉川さんという現代短歌の論客二人の応答をとってみても、
このような状況なのですから、吉川さんがこういうふうに嘆息する理由もわかるわけです。

「現在もっとも問題になっているのは、歌論や批評の前提になる、歌の読みや価値観が、不思議に通じ合わなくなっているところなのである。だから、論争などが起きても、議論が噛み合わない苛立たしさばかりが残ってしまうことが多い。
 もちろん、人それぞれに価値観があるわけで、完全に一致することはあり得ないのだが、丁寧に自分の考えていることを説明し、逆に他人の思考が理解できなければ、素直に「わからない」と質問していくことが必要なのだろう。わかったふりをするのが最もよくない。愚直さが大切な時代なのだ。」

「2007.5.14 〈強固な私〉とは何だろうか」吉川宏志 


この実感は私も常々感じるところです。

現代の批評用語は、その多義的な意味の広がりによって、例えば同じ問題を扱っていたとしても、80年代のテクスト論の文脈で私を論じようとすることと、70年代の作者論の立場から私を論じようとすることでは、その「前提」からして大きく異なってしまいます。

したがって、お互いが同じ問題について語っていたとしても、「真っ向から反対する」のではなくて、「少しずつずれていく」のです。

だから、お互いがお互いを「わからない」という状況が生まれるのではないか、と私は感じています。

何かについて議論をしようとしたとき、もはや「個人の意見」だけではすまない時代になってきているようです。

「個人の意見」の上に、その意見が成り立っている「前提」をまず表明しないことには、話が始まらない。

そこで、その前提についての可否を逐一問うていくことが、短歌に限らず、議論には求められるのでしょう。

どうやら、難しい時代になってしまったようです。

             ◇

大辻隆弘さんの立場について、私なりの理解を加えて、解釈してみたいと思います。

大辻さんの短歌観では、前衛短歌~90年代のニューウェーブ短歌までの流れを、「理性的な主体の私、現実の認識装置としての私」からの脱却として捉えるようです。

この議論の前提になっているのは、おそらく大辻さんの『子規への遡行』で提示された、「歌の叙述の内容を固定された一点から見た情景として読み解く」という近代短歌の定義でしょう。

「従来の(※引用者注、近代以前の)歌の読みにおいては、それぞれの歌はつねに古歌の連想によって生じた多重的なイメージのもとに読み取らざるを得なかった。そのようにして読まれた歌は、過去の歌人たちの多元的な視点を、自らの内に内包してしまわざるをえない。子規は、歌を固定された一点から見た情景として読み取ろうとすることによって、従来の〈読み〉の中で歌が内包してしまった、多元的な視点や連想を排除しようとしたのである」

大辻さんのこのような論点を強引にまとめれば、「「作品」という虚構の空間のなかで、「私」はカメラアイとしてのみ機能する」というきわめて空間的な作品イメージの捉え方があります。

つまり、大辻さんは、作品を読解されるときに、そこからイメージされるものを、読者の内部で「一つの世界」として再構成されようとなされるわけです。

それに対して、喩の力というのは、「そのような固定的な認識をうちやぶる=世界そのものの認識を更新しようとする」もの。つまり、頭の中で再構成されるイメージを、現実の状況から全く異なるものにすることによって、世界に対して衝撃を与えるもの、ということになるでしょう。

このような、空間的、認識論的な読解指標は、大辻さんの「私」論を考える上では、避けてはとおれない前提のように思えます。

一方の吉川さんはどうでしょうか。

吉川さんの場合、そもそもご自身の「私」の前提のなかに、「作品空間」という問題設定にそって、作品を読まれること自体が、あまりないようなのです。

「静かで、乱れのない歌に、鋭く胸を衝かれる。」

「どうしても歌いたいものを歌うという強さがなければ、他者に言葉は伝わっていかない。」

「人生の中のある一瞬に、絶対的にリアルに感じたことを、一首に定着させようとするのは、詩歌を作る上で最も大切なことなのではないか。作者としての率直な感情を失ったとき、短歌の魅力は大きく損なわれてしまうように思う。」

このような吉川さんの意見表明は、むしろ作者の側からなされていて、
根底には、「作者の感情・抒情性」を読者は味わうもの。という短歌観があるようです。

そもそも、吉川さん自体は、短歌の読解そのものに、認識論的な視座、であるとか、「作品空間」といった西洋的な作品のモデル化を導入することに対して、強い抵抗をお感じになられているのではないでしょうか。そしてそれが「強固な私」への執拗な疑義につながっている、と捉えることができるのかもしれません。

これは、どちらが「いい」「悪い」という問題ではなく、お互いそういう前提にある、ということを、わたしたち読者のほうで汲んでいかなければいけない、ということなのかなぁ…。

わたし自身は、西洋的な批評理論に慣れ親しんできたものですので、このような大辻さんの問題設定は非常によく理解できるのですが…。

もしかすると、大辻さんのような理論的な歌の読み方は、むしろ少数派なのかなぁ…。もしかして、短歌の世界では、未だにこのような理論モデルはまったく理解されていないのかもしれない…。

わたし自身の立場として、大辻隆弘さんの『「喩」の現在』に対して異論を出すというのであれば、もう少し別の角度からなされるものではないか、と思われてなりません。

いずれにしても、お二方の議論の推移(もしかするとこれでピリオドかもしれませんが…)を、もう少し見守っていく必要がありそうです。


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