池田はるみ『婚とふろしき』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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池田はるみ『婚とふろしき』

2008年「未来」新年会 シンポジウム「2007年、歌集歌書について」
2008年1月20日(日) 日本出版クラブ会館:会場配布レポート

「をばさん」と口語体―池田はるみ『婚とふろしき』


レポート 西巻 真

・口語体の大胆な導入―わかもの歌との差異―

・どうにでもなる人生があるやうな青い廊下を渡つてゆくよ
・茶碗三つ並べて置くよ幸福は夕暮れに来てしづかに座る
・六月から小野先生がゐないのだ診療所にはもう秋のかぜ
・大いなる桴を振り上げ振り下ろし権現太鼓をだろだろ鳴らす
・をばさんの自意識を持てわが来たり文化村にはボンド公演
・風切つて歩いてゐるがガニ股になつてゐるのも知つてゐるわい

 ・安見錦よき力士なり晩年の貴乃花をば降り廻したり
 (第三歌集・『ガーゼ』より)
・マンションの深き疲れを癒すべく高き足場が組まれてゆけり
 ・銀婚は銀のくもりに見えざるを曇りて見えぬ空あたたかし

※本質的には、文語定型の韻律感を知っている歌人

・現実への信頼感・私性への信頼感

 ※第一歌集からの変遷「現実への後退戦」

 ・エンジンのいかれたままをぶつとばす赤兄とポルシェのみ知る心
 ・あ、あ、あ、こゑ。吾を深々と統べゆくは誰がこゑあれは春の夜のこゑ
 ・はくちうにをとめのひめをあやめたるをんなどれいのまぼろし見しか
 ・水中に鳥のあそびをしてゐるはうたびとのRyu。そとのぞきたり

・普遍的な感動をもたらす安定感

・やんはりと聞き過ごしたり風の音のここはしづかに受話器を置かう
・身体あらば生きてはゆける声あらば話はできる 映像を消す
・子の部屋はごちやごちやとしてその中に肩を揉まれてわれはをるなり
・どのやうに子は生きるらむくれなゐの婚姻色に染まりつつゐて
・なにもかもこぼれてしまふ晩年をしづかに広く受け入れてゐき
・鴎外の家が大きい そのことに打ちのめされて啄木を見る
・貴乃花に夢を見てゐた 日本にも重い希望があると思って
・はるみさんは忙しくしてはるみさんは働いてばかりはるみさんは居ない
・白梅は男のやうだ寒風に見栄を張ったり困ってみたり
・高橋に南高橋かけられて亀島川はのつそりと照る
・風はいまどこから吹いてゐるならむどの角度にも雨が当たりぬ

※その結果がもたらす一抹の退屈さ・冒険のなさ

補遺 わかものの口語短歌

・3回も食事したからバレてるよ 生春巻きと私が好きね
・まあいっか わたしが可愛いことなんて わたしひとりがわかっていれば(佐藤真由美)

・読みかけの新潮文庫を閉じるときあのはつなつの開脚前転
・きみはもう春のひかりに溶けながらどうしてそんなに笑ってばかり(ひぐらしひなつ)

・一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン
・こなごなになってしまったいいことも嫌な思いも綺麗な粒ね(佐藤りえ)

・金色の焼きおにぎりの三隅をいっせーのーで割る朝ごはん
・母親が教え続けるのは名前 呼べばあなたの方を向くから(盛田志保子)

                  ※

・「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
・それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした(笹井宏之)

・ドラッグストア横切るときに一枚の葉っぱが落ちてきて胸につく 
・わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる(永井祐)

・牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ
・映画嫌いの彼女がよく見てたロードムービー 旅行も嫌いだったくせにさ(宇都宮敦)


(発表の際、完成原稿を準備して読み上げるのが私のスタイルなので、当日しゃべった内容の発表原稿が残っていました。もちろん、実際に語った内容とは大きく違う可能性もありますが、一応ご参考までにということで、こちらに掲載しておきます。レポートとの対比をしていただくという、非常に読み苦しい原稿になることは、ご容赦ください。)

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 こんにちは。西巻です。今回非常に困ったのは、依頼をいただいた、池田さん、岡井さんも、私などよりはるかに年上でいらっしゃって、歌歴や実績など断然長くいらっしゃるということです。私は今年ようやく30になったばかりで、短歌をはじめてまだ3年にもなりません。短歌についての知識などははるかに及ばないでしょう。

 短歌というのは「異なる世代との対話」という側面があると思います。私はいろいろ考えた末、自分が若い人間であるということをむしろ武器にして、自分の年代を基準にして、差を考えていくしかないんじゃないか、と思いました。茂吉や文明、近藤先生などに影響を受けたわけではないですし、もっとも影響を受けたのは笹公人さんや盛田志保子さん、枡野浩一さんといった比較的「今」の歌人さんです。私は、私のいま手の届く範囲の作品を考えながら、そこから逆に差を想像するという方法で、この「異なる世代との対話」にのぞもうと考えました。

・池田さんの「婚とふろしき」について

池田さんとは、首都の会でよく一緒に歌会をさせていただいていて、やはり「読み」の面では頼りになる方だなあ、という印象を深くしているのですが、私がとても衝撃を受けたエピソードがありますのでご紹介させていただきます。この前参加した首都の会で、「猫」の作品があったのですが、「この猫は現実の猫を歌っているものとは思えない」という批評をされたことがあったのです。

私は、短歌のなかで「現実」が歌われていないということが、マイナス材料になるということをまったく考えていなかったので、びっくりすると同時にとても興味を持ちました
短歌が現実を歌うものだ、という立場そのものが衝撃だったのです。池田さんの作品は、文語ではあるのですが今回の歌集では非常に口語脈の歌も多くて、とても読みやすかったのですが、やっぱり若い人の歌と比べるとなんとなく違う気がする。なんだろう、と考えると、やはりこの「現実への信頼度」なんですね。

たとえば、ひぐらしさんの歌を読んでみると、「春のひかりに溶けながら」というような抽象度で目に見えない感覚的なものを歌うということが、ごく自然な感受性として定着しています。池田さんの作品、たとえば3首目を見てみると、「六月から小野先生がゐないのだ」というのは口語脈の歌ですが、なんとなく小野先生は、実際にいたような手触りを感じます。目の前のものをしっかり見つめて、短歌をつくるような印象があって、同じ口語脈でも、若い人の口語の歌とはだいぶ違うという印象を受けました。

池田さんは、完全文語脈の歌も当然のようにおつくりになっていて、その韻律感をよくご存じでいらっしゃる方だと思います。ここに出した相撲の歌も、アミニシキ「なり」ふりまわし「たり」というなり、たりというぴしっとした止め方がうまいから、言っていることはそのままなのに、それでも短歌になってしまうという定型の力を感じます。第三歌集にも、そうした文語止めの感動的な歌がたくさんありました。その方が、こうして現実をみながら口語の歌を作るというのは、逆に非常に興味深く、チャレンジなのでは、と思いました。

この歌集のもう一つのポイントとして、「をばさん」の立場、というか「母性」の立場から歌を作るということがあります。私の世代の若い短歌は、口語脈の歌というと、盛田さんのように「母性」を拒否するという視点から歌を作る歌人さんが非常に多い気がします。最近、発行された若い女性歌人の歌集を読んでいると、「母」の歌が実に少ない。自分を「かわいい女性」として、あるいは少女として設定することで、母性を拒否する、というタイプの歌が、一般的にもプライオリティを得るという状況が佐藤真由美さんをはじめとして続いていて、若い歌人の口語女性短歌は、「母性を引き受けない」短歌なんですね。池田さんの場合は、もう「をばさん」として自分を設定するところで、そういう美意識もかなぐり捨ててるところがある。岡崎さんが、自分を「ガニ股」と言って短歌を作るはずがないなあ。というところで、逆の意味で、非常に気持ちよさを感じました。そういう視点で、息子をうたった歌も、響きました。全体的に、ひとをうたった歌、が非常に印象に残っていて、人生とか結婚とか、死であるとか、そういう身の回りの「人」をうたった歌に、響く歌が多いと思いました。すごく土くさくて、まさに「おもしろうておかしい」人の姿を描きだすことに成功しているし、信頼感がある。池田さんは、私性や現実にポイントを置いているのがはっきり見えるので、共感できるところも多いですし、信頼できる歌集だなあ。という印象がありました。

問題をあげるというか、大辻さんの歌集などでも同じことを感じるのですが、やはり第一歌集から見ると、この世代の方というのは、現実から逃避するのではなくて、むしろ現実のほうへ「後退」している、逆の意味での現実逃避がある気がします。

今回池田さんの他の歌集も読みなおしてみたのですが、やはり第一歌集の『奇譚集』が、圧倒的に面白い。「エンジンのいかれたものをぶっとばす」、なんて、次に何が出てくるのかわからないはらはら感というか、「現実」という枠にとらわれない自在さを感じるわけですが、今回は落ち着いて安心できる歌集であることは認めるけれど、全体としてのはらはら感がうすまっている。

バンドをしている息子に、ライブでなんであんなに頭を振るか、ってママとして突っ込んでる歌がありましたけど、僕たちはむしろ、ライブビデオのなかで頭を振っている年齢なので、なんとなくはるみママに、「もっと現実をみなきゃだめよ」と突っ込まれてる子供の立場で読めてしまう。
2首目に、「体あれば~」という歌があって、これは「生きていることのありがたさ」みたいな視点が出ている歌なのですが、ぼくはこういうふうに「生きているそのもの」をありがたいとはどうしても思えなくて、その視点で書かれている社会詠などには、あまり共感できない気がしました。
むしろ、映像のほうをじーっとみていて、のめりこむのが僕らなんじゃないかな、という気がします。「にくこっぷん」の歌とか、日常に寄り添いすぎると、遠いものが見えなくなる。という気がします。

連作としては、「ふくろふに遭う」が、そういう視点からは抜けている気がして、いい連作だと思いました。個人的には、「風の音の」の歌と、「高橋」の歌などがいい歌だなと思って拝読しました。ただ、これは歌としてちょっと。という歌がほんとうにないですね。やはりどの歌も、何をやりたいか、明確に伝わる歌が多くて、信頼できる気がしました。

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お読みいただいて、ありがとうございました。
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