横山未来子『花の線画』を読む | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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横山未来子『花の線画』を読む










10月19日。さまよえる歌人の会。

今月の対象図書は、葛原妙子賞を受賞した横山未来子さんの第三歌集『花の線画』

私は普段、「自然の美しさ」や、「生きることのありがたさ」を歌ったような歌をいいと思うことはあまりない。

よく、年輩の方の作品で、「ペチュニア」や「サフィニア」や「ガーベラ」といった、庭に植えてある観葉植物をほいほい歌にしたような作品を見るたびに、ときどき「こんなに簡単に「身の回りのこと」が歌になってしまって大丈夫なのだろうか。。。と、思うことが多い。

今回、横山さんの短歌の広告を先に知って、なんとなくそんな「ペチュニア」みたいな短歌なのかな、と先入観をもったりしてしまっていた。

その予想は見事に、完璧に裏切られたと言っていい。

最近読んだ歌集のなかで、一番よかった歌集だと思う。

確かに横山さんの作品には、花や鳥や虫が多く登場するし、「よろこび」や「ひかり」といったあかるいイメージの歌もたくさんあるのだけれど、それは「花や鳥や虫を単に眺めてみました」というような種類の、なんとなく作った歌とは全く次元が違う。

この人の作品には、ものすごい懸命さを感じる。どんな批評用語も別に必要ないだろう。
生きることに一生懸命な感じ。それが読者である僕にも歌全体から伝わってきて、非常に感動的な歌集だった。


われのみにて終るわが生葉の間(あひ)の石榴の花の朱を欲りゐたる

白壁に噴水のうすき影動きたしかなりひとりひとりの生は

一首目。葛原妙子賞だからというわけではないけど、葛原妙子の

・奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり

をふっと思い出した。葛原の「われ」は、「累々と子をもてりけり」と自分の子供へと思いが移行していく。しかし、横山さんの「われ」は、「われのみにて終るわが生」と自ら宣言する。

横山さんの境涯に引きつけてよむことは避けなければならないが、横山さんはよくインタビューなどで、「一瞬一瞬を大事にとどめたいと強く思うんです」というような言い方をすることがある。この「われのみにて終わるわが生」という「生」の使われ方には、この「一瞬一瞬」に必死であろう。という言葉と同じ根っこから出た言葉のように思われてくる。

横山未来子インタビュー

二首目。やはり「生」という言葉が使われた一首。

この「たしかなりひとりひとりの生は」という言い方にも、やはり強く引きつけられた。この言い方は妙に実感がこもっている。それは最初、横山未来子という作者が「体が弱かった」という情報を知らないで読んでも、十分に伝わってくるものがあった。

この必死な感じ。

うまく説明できないが、この人が使う「生」という言葉は、中途半端な感じで使っている気がしない。

水に乗る黄葉の影よろこびは遠まはりして膝へ寄り来つ

蜜吸ひては花のうへにて踏み替ふる蝶の脚ほそしわがまなかひに

しばらくを蜜吸ひゐたる揚羽蝶去りゆきて花浮きあがりたり

鳥の巣や狐の巣ほどあたたかくありて待ちたしこの世のわれは

暖色をうしなひてゆく雲の群れ喉ひらききり泣きし頃あり

耳元の草ふるはせて風吹けり脳(なづき)は土にあづくべきもの

あふむけに運ばれてゆくあかるさの瞼の外に遠き雲あり

薄紙は椅子にかかれり春の花を巻き締めてゐし疲れを残し

ひらくなき眼のために蓋の裏をうつくしく彫(ほ)りし柩はありぬ

好きな歌を何首かひいてみた。
そこには、美しい言葉の響きと強く現実を見つめる眼差しが存在している。

これからも、大切に手元におきたい歌集だと思った。

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