わかものうたの未来・口語の未来 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

わかものうたの未来・口語の未来

わかものうたの未来・口語の未来                                               
(初出:2007年10月28日 彗星集4周年記念歌会発表原稿)
 
Ⅰ・ライトヴァース

「前衛短歌が、喩法・主題制作・私性の超克など様々な方法上の問題を明確にしながら、作品として提示していったとことは史的事実である。が、唯一口語体だけは、作品として結実しなかった。口語体というのは、前衛短歌の最後のプログラムだった。」(加藤治郎『TKO』より)
 
ライトヴァースによって現代の私たちが普遍的に考えている口語体が出来上がったと言っても間違いない。
しかし、「口語短歌」そのものは短歌史のなかでも繰り返し試みられてきた話題であったのだ。

たとえば、戦前のプロレタリア短歌では、「アララギ派」をはじめとした伝統的な文語定型の短歌を「ブルジョア的」として非難し、大衆のための文芸(プロレタリアートのための文芸)として口語短歌を位置づけようとする試みがあった。

・朝日を読むな勝つまで読むなのビラが来た号外よりビラを先に張らう(坪野哲久)

また、昭和4年、(プロレタリア短歌とほぼ期を一緒にして)北原白秋の飛行詠などが新聞紙上に発表されて話題になった。

 ・自然がずんずんからだのなかを通過する―山、山、山。(前田夕暮)

これらの短歌では、口語短歌運動としてだけではなく、自由律短歌の考え方としても結びついていために、定型との親和性を放棄した形での作品が多く見られていた。また、プロレタリア短歌では、「大衆性」の基本を「労働者階級の問題」と強く結びつけたため、歌材の選択そのものがきわめて限定的になってしまう恨みがあった。

ライトヴァースでは、これらの問題を前衛短歌の影響を受けながらクリアしていき、定型との親和性を持つ話体を独自に開拓していったと考えられるだろう。また、歌材の選択の幅も、恋愛をはじめとした自由な話体を開拓していった。

・バックシートに眠ってていい 市街路を海賊船のように走るさ(加藤治郎)
・「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(俵万智)

岡井隆はこのように言っている。

「ライトヴァース派には、多かれ少なかれ、作者(作中主人公といったほうが正確だが)にまつわる〈物語〉のイメージが濃厚だった。作者は架空のであれ事実のであれ〈物語〉の中に在る。これは、近代短歌が既成概念とした、歌による〈人生記録〉の思想を、うらがえして利用したものである。ライトヴァース派が口語(というより話体といったほうが正確だが)を短歌に導入して成功したことは定説だろうが、読者は、この話体を主人公たちの劇中のセリフとして聞いていたのである。」 (岡井隆)

ライトヴァースは、私と作品が密接に結びついていた過去を自由にし、短歌で歌われている世界自体が、日常とは別個の世界を作りあげることに成功した。また読者が想像することによって、歌の背後のシチュエーションを補っていく構造を作りだすことで、独自の作品空間を作りだすことができるようになった。

たとえば、一首目で歌われているのは、どこかの車のなかのシーンを切り取ったものであるのだろう。シチュエーションに関する情報を、読者が自由に想像することが許されている。

また、これらの歌は、加藤治郎、俵万智といった個々の作者を超えて、普遍的な作品空間へと言葉を押し上げることに成功している。

80年代はポストモダンブームの中で「作者の死」ということが盛んに言われていたが、これらの近代文学的な批評タームと、短歌の潮流も無縁ではいられなかったのである。


Ⅱ・ポスト・ニューウェーブ

これらの口語短歌の伝統を踏まえて、新たな口語短歌の開拓を目指した世代として考えられるのは、1994年に登場した世代だろう。

1. フラット化の時代

現在では40代に突入しているこれらの世代では、ニューウェーブの影響を受けながら、ニューウェーブに対して微妙に否定的なスタンスをとることになる。たとえば、この世代の代表的な歌人である松村正直、枡野浩一といった二人の論を見てみよう。

「ニューウェーブ以降の世代である私たちは、彼らのこうした現状や態度を、しっかりと認識するべきなのだと思う。そして彼らの行き詰まりの原因を一度よく考えてみる必要がある。その上で、真に良い歌を作ろうとするならば、たとえ保守的・復古的というようなレッテルを貼られようとも、彼らとは違う道を選ばざるをえない。ここ数年に出た歌集を読む限り、多くの若手歌人が既にそのことに気付いている。ニューウェーブの時代はもう終わったのだ。」(松村正直「角川短歌2002年」)

「穂村弘の短歌を今まさに好きでいる人たちは、すこやかさが嫌いなのかな。いや、現代に生きてる人はだれもが病んでるんでしょうけど。「大丈夫なのかなあ、飲んでる睡眠薬の強さを自慢するようなこと書いて」とか、「そんな透明っぽいペンネームでいつまで生きていくの?」とかって、大きなお世話みたいなことをつい言いたくなってしまう。私がある時期から穂村弘ファンの集う掲示板に顔を出さなくなったのは、あそこにいると余計なことを言って彼らを傷つけてしまいそうだし、結果として自分自身も傷ついて駄目になりそうだったからです。」(枡野浩一40000字インタビュー「早稲田短歌2002年」)

松村と枡野は、一見対極的に見える歌人だが、実はニューウェーブに対して共通した感覚を抱いていると私は考えている。興味深いのは、松村正直のこの「ニューウェーブはいらない」という論に対して、やはりニューウェーブ世代と考えられる大辻隆弘がこのような反論を寄せていることだ。

「私が強烈な違和感を感じたのは、松村のニューウェーブ短歌に対する認識の甘さである。松村はニューウェーブ短歌をきわめてテクニカルな側面からしか見ていない。「口語・オノマトペ・記号」などの手法のみが、松村にとってのニューウェーブであり、そこには「私」の存在はない、と考えているようだ。
 冗談を言ってはいけない。と思う。『マイ・ロマンサー』をもう一度開いて読んで見るがいい。そこには、普段の日常の意識のなかでは気づかない不気味な「私」の無意識的な深層が、圧倒的な暴力性をもって顕在化しているはずだ。」

私が特に興味を挽かれるのは、大辻隆弘が『不気味な「私」』と言う形で、ニューウェーブ短歌に「私」の存在を認めていることだ。おそらく大辻の指摘は正しい。松村の内部には、不気味な「私」は存在していないし、それは枡野が、「すこやかさ」と呼ぶものと同義であると考えていい。

私は、これらの「不気味な「私」」と呼ぶものの不在を持って、松村、枡野の短歌を否定する立場に立つことは慎重になりたい。穂村、加藤、荻原、大辻といった世代にあって、松村、枡野の世代にないものに、注目したいと思っている。むしろ、松村、枡野は、このような「不気味な私」から無縁でいられたからこそ、次代に口語短歌を拡張することが可能になったのではないだろうか。

特に枡野浩一の場合、短歌の大衆化と言う点で、近年でもっとも成果を挙げた歌人として知られるようになった。

枡野、松村と同世代の男性歌人として、千葉聡の名前もここに加えておきたい。彼らの短歌の特徴は、「短歌の共感可能性」を押し広げたことにある。

・二年間暮らした町を出て行こう来たときと同じくらい他人か (松村正直)
・それ以上言わない人とそれ以上聞かない僕に静かに雪は   (松村正直)
・こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう (枡野浩一)
・かなしみはだれのものでもありがちでありふれていておもしろくない (枡野浩一)
・蛇行せよ詩よ詩のための一行よ天国はまだ持ち出し自由 (千葉聡)
・遠ざかる光 これから僕がゆく道を照らして電車は消えた  (千葉聡)

これら3人の歌は、読者が理解するのに難しい強烈な比喩だとか、読者の想像力を超えてくる先鋭的な比喩を極力避けている。文体も、想像力の飛翔からははなれて、きわめて着実な印象を受ける。

荻原裕幸は枡野浩一の作品を、「作家の自己表現でありながら、同時に読者が自身の言葉だと錯覚するような場所で共感を誘発する文体がある。」(短歌ヴァーサス4号)

というふうに批評している。

枡野は、自信の作品を読ませるとき、枡野浩一の声というよりも、私たち自身の声としてこれらの作品を読むことができるような仕組みを、自己の作品の「文体」のなかに取り入れることに成功した。「かなしみはだれのものでも~」と読んでいくとき、そこにある種の感動があるとすれば、それが文体がもたらす共感可能性であると指摘することができよう。

以前、大衆性とは、「純文学に対する大衆文学」というように、「マスとしての大衆」を全面的に主張するような
ものであったかもしれない。しかし、枡野が体現している大衆性は、読者一人一人の内部に浸透させていくような巧妙なものだ。枡野の作品には、作者と読者の間にあるはずの、ある種の距離感が一切存在しない。そのことは、大衆性の変質を私たちに示唆させてくれるが、このことはここでは詳述しない。

千葉、松村においても、自己像の構成の仕方は、「日常的な私」から離れようとしない。そのことは、口語短歌を基盤に、きわめて普遍的なイメージで構成される「私像」を提示し、読者との距離感を埋めようとする試みであるように思える。

2・女性文体の浸透

ライトヴァースやニューウェイブ、それ以降の枡野や松村が推し進めた口語短歌運動が導入した修辞や、文体レベルのテクニックの進展は、2003年以降、むしろ女性歌人たちに多く受け継がれることになる。

・左手が微妙な位置に浮いたままなにも言えずにくちづけをした (加藤千恵)
・3回も食事したからバレてるよ 生春巻きと私が好きね (佐藤真由美)
・感覚は枯れてゆくから 明日君にシマトネリコの木を教えよう (永田紅)
・この道は春に花降る道となる パラダイスとは変化するもの (天野慶)
・嫌いって言えないジンに浮いたまま拾い上げないライムの輪っか (佐藤りえ)
・歯みがきをしている背中抱きしめるあかるい春の充電として (伴風花)
・今を割り今をかじるとこんな血が流れるだろう砂漠のざくろ (盛田志保子)

これらの歌人たちの短歌の差異を指摘する余裕はないが、いわゆる「女性一人称の口語体」への親和力、情景と比喩のバランスのよさをあげることができるだろう。個々の作家としての価値判断はおくとして、総体として語るとすれば、これらの歌人たちはそれぞれ口語体とレトリックのバランスで勝負をしていくことになるのだが、短歌世界に新たな何かを持ちこむという方法で勝負する歌人たちではなかった。

2003年以降、これらの歌人の影響をうけた歌人たちが次々と登場するが、方法的には喩性と文体のバランスがとれすぎていて、どれも同じ歌に見え、一昨年ぐらいからこのレベルで同じ歌を投げ込んでいくだけでは通用しない、という状況が生まれ続けているように感じる。

たとえばいわゆる「投稿歌人」「ネット歌人」と呼ばれる人たちのなかにも、これらの技法を駆使する歌人たちが登場してくると、「オリジナリティのある歌人」を見分けることが非常に難しい時代に突入しているようだ。


(参考:ネット歌人の作品)
・ シロツメクサ抱えて歩く保健室がないから頭痛もしない春です (宮田ふゆこ)
・ あさがおの双葉のような始まりに鳥たちはもう帰りたくない (橘こよみ)

口語短歌は、現在に至るまである種の飽和状態が生まれていると考えてもよいだろう。

3・口語短歌の可能性

これらの飽和状態にある口語短歌を差異化していく方法として、幾人かの特殊な歌人たちが独自の技法を追求していくにいたった。これからの口語短歌の可能性として、幾人かの歌人たちをあげていき、その可能性を指摘することで本稿を閉じたい。

(1)言葉の関節を外す(斉藤斎藤の戦略)

今までのポストニューウェイブ第一世代の文体をたくみに借用し、そこからずらすことでオリジナリティを主張するという方法に、斉藤の独自の戦略がある。

・いけないボンカレーチンする前にご飯よそってしまったお釜に戻す (斉藤斎藤)
・そうさぼくらは世界に一つだけの花ぼくらはぼくを束ねるリボン (斉藤斎藤)

既存のフレーズを上手く借りてそこからずらすことによって批評性を生み出す独特の技法や、比喩をつかった表現を極力さけ、「お釜に戻す」「向こうから人」のような即物的な表現を大胆に導入することで、いわゆる予定調和的な口語短歌の回収のされ方をずらしていく方法は、斉藤の独壇場になっている。
たとえば、突然始まる情景描写から、むき出しのものをぽんと投げることで、比喩からずれた言葉の圧力を生み出すという独特なタッチの作品群は、斉藤の新たなレトリックの可能性を感じさせるものだ。

・鳴くだけの事ぁ鳴いたらちからをぬいてあおむけにおちてゆく蝉ナイス
・ゆうやけのなか川べりの道を行き止まれと言われ止まる全体

ここでは、「ナイス」、「全体」という言葉の圧力に特に注目しておきたい。

2・言葉をフラグメント化する(今橋愛・飯田有子)

二人とも、独自の方法意識で口語を非日常の領域へ押し上げることに成功した歌人である。

・「水菜買いにきた」/三時間高速をとばしてこのへやに/みずな/かいに。 (今橋愛)
・うしろてに/てすりさがしても/きたみちは砂です/思い出せない本です (今橋愛)

今橋短歌の場合、「思い出せない本」や「みずな」「かいに」といった、空間と言葉の飛躍を徹底化した表現に特徴がある。多行書きを活用して、言葉と言葉の間隔を上手く飛ばしてゆくことによって、今までにない意識の分裂を表現している。

・たすけて枝毛ねえさんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中に撫でまわす顔 (飯田有子)
・投与のことも水音と呼ぶ夕ぐれにどこでおちあう魂だったの (飯田有子)

飯田短歌では、今までのように状況が良くわかって比喩もバランスも良くて、といった方法ではなく、全面比喩のような方法で言葉自体の圧力に賭けていくような歌の作り方をしている。言葉をフラグメント化していくという点で、言葉の出し方は違うが、二人とも口語短歌をさらに過激化させた戦略としてありうるだろう(ただ、この方法は既に穂村弘という偉大な先駆者がいるが)

3・口語短歌による社会=世界へのアプローチ

・かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ中澤系)
・二十代凶悪事件報道の容疑者の顔みなわれに似る(松木秀)

口語短歌は恋愛がモチーフになることが多く、社会性や世界性へアプローチしていこうという動きが今まであまりなかった。あまりそれほど多くなかった。中澤系をはじめとして、こういった社会的、哲学的なモチーフで口語を駆使する方法にも可能性があるのではないか。

4・マックスが異なる歌

兵庫ユカ、佐原みつる、といった歌人たちは、今までの短歌で「歌の核心になっている」部分を意図的にずらすことによって、あらたな完全口語の表現を開拓しようとしている歌人というふうに考えることができるだろう。

・受け入れるだろう ケーキの紙箱の片側をこう開く感じで (兵庫ユカ)
・今はまだ口にできないことだから袖口の白い釦に触れる (佐原みつる)

たとえば、「市街路を海賊船のように走るさ」というとき、歌の核はあきらかに「海賊船のように」という比喩のマックス部分におかれていた。しかし、兵庫短歌、佐原短歌では、歌の核心にあるのは、「こう開く感じ」であり、
「今はまだ口にできないこと」である。

今までは歌の核心が一つのカタルシスであり、そこにむけて表現を研ぎ澄ましていくような作歌方法が普通だったが、これらの歌人には、歌の核心部分が、非常にささやかなことであり、そのようなカタルシスとは無縁である。技法的に強引に説明すると以上のようになるが、これらの歌が現在の若手歌人の「すこやかさ」とは程遠い実存意識と結びついていることは疑いようがない。


・真水から引き上げる手がゆっくりと私を掴みまた放すのだ (笹井宏之)
・こんなにもピアノになって氷片を海に散らし続けるピアニスト (高田祥)
・ミサイルが飛ぶように海鳥が飛ぶ愉快な時代にみんな生まれて (細見晴一)


 これから口語で歌を作っていく場合、自らの立ち位置を正確に理解し、次にどのような歌を投げ込んでいくかという才能が必要になってくると考えている。

----------------------------------------------------------------------
お読みいただいて、ありがとうございました。
もしこの記事がお気に召したら、ぜひブログランキングを拍手かわりにクリックしていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。