
←ご購入は
「pool」のサイトへ
久しぶりに短歌の話題です。
斉藤斎藤さんのそのつど誌「風通し」の創刊をきっかけに、若手歌人の間ではちょっとした同人誌ブームが到来してきているようです。
私たち彗星集の会報「新彗星」もまもなく2号が発刊されますし、昔からある「歌クテル」、「豊作」、「sai」なども既刊、あるいは近刊予定のものが数多くなってきています。地方では「アークレポート」や「太郎と花子」といった若手の同人誌も回を重ねていますね。
さらには変わったところでは、今橋愛さん、雪舟えまさんの「snell」や、加藤千恵さんの「ハッピィマウンテン四之巻」、yukkyさんの「ivory」など、今までにないタイプの短歌同人誌まで登場して来ました。
こういった創刊・復刊・続刊ラッシュをどう考えるかという議論はひとまず横において、一つ一つの同人誌について個別にご紹介させていただくことにしようと思います。2008年11月9日に発刊された、石川美南さん、清水寿子さん、松本隆義さんらによる短歌同人誌「pool.vol 6」。
今までの「pool」と違い、編集ソフトが入ったことで、誌面、デザインともに非常に瀟洒な雑誌に仕上がっています。
また、新同人として加わった内山晶太さん、多田百合香さん、堂園昌彦さん、中田有里さんといったメンバーも、既に他の短歌賞や結社誌などで活躍している方ばかり。
短歌作品の見せ方も、デザインも、論考・対談も、バランスよく配置されていて、誌面として非常に読者に優しい、読みやすい雑誌に仕上がっていると思いました。
「風通し」は、見た目の印象からするとまったくユーザーフレンドリーではない同人誌ですが、「pool」はとても「ユーザーフレンドリー」な雑誌ですね。しっかり雑誌として作っているという印象があり、好感を持って読みました。
まずは短歌作品からいくつかご紹介しましょう。
ゲストで登場した永井祐さんの「日本の中でたのしく暮らす」
・日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる
・たよりになんかならないけれど君のためのお菓子を紙袋のままわたす
・ゆるくスウィングしながら犬がこっちくる かみつかないでほしいと思う
・二十五歳になって体がやせてくる夜中に取り出すたばこといちご (永井祐「日本の中でたのしく暮らす」)
永井さんの作品は、相変わらずフラットに、やや57577の声調をかるくずらした口語文体を非常にうまく使いこなして、現実から少し覚めているけど「「ほどほど」に前向きな主体像をうまく作っているように感じました。永井さんの作品は好きだけど、作品が出てくるにつれて、次第に癖みたいなものが見えてきているのかな、という気もします。
・楠の木はこんなにでかくなるのかと、行き止まりかと仰ぐ曇天
・万馬券散って秋空 この次は牝馬が勝ちそうな秋の空 (五島諭「酔ったというと」)
五島諭さんの作品。
一首目。上句の「楠の木はこんなにでかくなるのかと」、という言い方に、非常にポエジーを感じます。
石川美南さんが同人評で、「感慨というにはあまりにもささやかな、ふっと出てきた思い」と表現されていますが、これは的確な批評だと感じました。
希望のような希望以前の何かがふっと上の句でおとずれて、それがやはり「曇天」とうまくひびきあっているような、非常に淡い屈折したポエジーがある作品だと思いました。二首目の「散って」にも、なにかそんな屈折感があります。「万馬券」ですから、本人が買ったに違いないのです。これは、一つの誰にも届かないモノローグのように読める歌ですが、それでも本人は「さわやか」なのです。そのギャップが面白いと思います。
我慢している
風が吹いて
揺さぶられたりふるえたりするのは
気持ちいい (中田有里「バス停の前の木」)
この、淡い屈折したポエジーは、中田有里さんにも共通しているように思います。今回は短詩を引用してみました。この短詩は、「我慢している」がないと成立しない短詩のようにおもいますが、この「我慢している」が、何かかるい挫折感からぎりぎり手前のある感覚を、読み手に届かせようとしているように感じました。
・壁や床くまなく水びたしにして湯浴みを終ふる夕暮れの王
・うろこ雲のひとつひとつを裏返しこんがり焼いてゆく右手かな
・口移しで分け与へたし王国のさみしい領土浅き領海 (石川美南「夕暮王その後」)
石川美南さんは、王国を歌う歌人なのだなあという印象を深くした三首目。石川美南のなかには、おそらく帝国はありません。「王国」であることが、石川美南にとって重要なのでしょう。自らの内部の王国を、「口移しで(でもいいから)分け与えたし」、と述懐するところに、石川美南のポエジーがあると感じます。これらの歌群は、近年の石川さんの作品のなかでも、もっとも心に響いた歌でした。
・美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している
・振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
・秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
・追憶が空気に触れる食卓の秋刀魚の光の向こうで会おう (堂園昌彦「やがて秋茄子へと到る」)
堂園昌彦さんの歌には、非常に硬質な「光」の感触があふれています。それは、硬質な、他者との関係性を拒む「光」だと思います。これらの歌群は、美しい青春歌ではすまされない関係を拒否する「痛み」のようなものが巧みに定型に練り込まれている一連だと感じました。
僕はこの「硬質さ」に、今一歩自分を重ね合わせることができないように思いますが、これは良く結晶化された痛みなのではないでしょうか。
・雪、しかも明るく月はありながら永遠(とわ)の残存歩行者を照らす(清水寿子)
・わらじむし湯船の底にゆらめけりさながら冬のはじまりにして(内山晶太)
・ひとりまたひとりと抜けてまたひとりひとりと来たりカフェテリアには(多田百合香)
他にも、良い歌がたくさんあって、引用に苦労するのですが、この辺で短歌の引用は打ち止めにしたいと思います。作品がしっかりしているので、購入にして損はなしの同人誌だと思います。
評論についても一言だけ。
対談は個別には示唆に富んだ発言が繰り返されていますが、全体として感覚的で、やや物足りなく感じました。松澤俊二さんの評論は、三枝、菱川、篠といった歌人たちの議論をしっかりと追いながら、新風十人世代の「内面の美」を強調することで再評価しようとする菱川の短歌史観を批判するという、力作評論です。
ただ、結論には賛同ができません。
「来るべき暗澹の時代」というのが、どのような事象のことを言うのか、はっきりと示されていないように思いました。これでは、「戦争になると人間は間違いなく口をつぐむ」という、ごく当たり前のことを言っているにすぎないのではないでしょうか。
長くなりましたが、以上です。
----------------------------------------------------------------------
お読みいただいて、ありがとうございました。
もしこの記事がお気に召したら、ぜひブログランキングを拍手かわりにクリックしていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
