水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』




『黒山もこもこ、抜けたら荒野-デフレ世代の憂鬱と希望』





11月29日にあるイベントの予習というわけではないけど、詩人で社会学者の水無田気流さんの社会学系の著作、『黒山もこもこ、抜けたら荒野』を改めて読む。



 先にお断りしておくが、ここで述べたいのは単なる「世代論」ではないし、ましてや近年流行(はや)りの「階層論」の類でもない。しいて言えば、私の生まれ育ちがひどく凡庸であるがゆえに浮かび上がってくる「高度成長期後の日本社会の幸福史」を、主観と俯瞰(ふかん)の両方を交えつつ記録しておきたい、というものである。




という「はじめに」から始まるこの本は、自分の個人史と、世代論、階層論のようなものが複雑に折り重なった不思議な書物だ。ときどき、詩人らしい感性の鋭さで、現代日本について鋭い指摘をする。

だからといって、それが別に何らかの「結論」に達するという感じではなくて、ときおり作者個人の「憤り」が噴出してきて考察が終わる、という、社会学の本とも人生についてのエッセイとも断定しにくい、とても複雑な内容が盛り込まれた一冊になっているように思う。

といっても、非常によみやすい。

たとえば、こんな調子で、冒頭の文章が始まる。



 忘れられない光景がある。
 幼稚園に入院した初日、帰りの送迎バスを待っていて、私は鼻血を噴いて倒れてしまった。なぜか、と問われれば「恐怖」のせいである。
 幼稚園児はみな同じ紺の制服に紺の帽子、黄色い鞄をもって整列し、バスを待っていた。その、「同じ格好をした人たちが大勢きちんと並んでいる」光景に、すさまじい恐怖を覚えたのである。思うに、当時から気の小さい子どもであった…。
       (中略)
 どうしてそんなに無性に恐かったのか、といえば、当時見ていたアニメや戦隊ものの影響のような気がする。そう、無意識のうちに、同じ格好をして並んだ人たちが、「仮面ライダー」に出てきた悪の組織、ショッカーの戦闘員のように見えていたのである。しかも、私もみんなと同じ格好をしているという事実が、恐怖に拍車をかけた。
 もし正義の味方というものがこの世に本当にいるとすれば、たぶん、やっつけられるのは、私のほうなのだろう。




この人、相当生きづらかったんだろうなあ。幼稚園のときにこんな発想になってしまうと、その後の苦労がしのばれる。これを書いている僕も、幼稚園から小学校、中学、高校と、まったく学校に対しては良い思い出はない。そもそも体育の時間にひとりで服を着替えられないすごく「不器用」な子供だったし、着替えられるようになったあとも、相当走り方とか動き方で多くの生徒たちに笑われた。

気がついたら、こんなふうに鬱屈して三十歳にもなるのに短歌なんて書いている人間になっちまったぜ。べいべーー。

…なんて、脱線はいいや。

こんな調子で、自分の個人史と重ね合わされて、現代社会のことについて俯瞰的に論じているのだけど、この人が体感で引っ張ってくるものが非常に鋭いのである。

たとえばこういう指摘はどうだろうか。



「現在の日本社会の特徴の一つに、「スクラップ・アンド・ビルド」があるが、これは建築物や行政機構に限らない。あらゆるものが、すさまじい速度で書き換えられ、同時に書き換えられたという事実それ自体もまた消去されていっている。
 新しいビルの前を通過する人が、以前そこに建っていたものが何であるのか思い出せないように、今の日本では、誰もが「それ以前」にあったはずの「何か」を常に忘却している。いや、正確には「忘却している」ということへの漠然とした不安感だけは浮遊しつつ残存しており、その隙間にメディアがひっきりなしに代替物を注入し続けているように見える。」




確かに、僕たちはスイカが出来てしまってから、スイカ以前に切符を買うのにあれだけ並んでいたことをすっかり忘却してしまったり、もっと前に窓口で切符を買っていたころのことなんて、ほとんど忘れてしまっているだろう。新しいものが登場してきて、それに馴れてしまうと、もう過去のことなんてどうでもよくなる習性が、日本という国にはあるような気がする。

ビリーズ・ブートキャンプが出来る前にあれほどはやった健康器具の数々や、(たぶんビリーも、もう忘れられているらしい)24時間営業の店が出来る前の僕たちのライフスタイルなんて、とっくの昔に忘れている。そうやって、新しいものにどんどん馴れて、その代わりに古いものを忘れていくというのは、日本という国が持っている特性だと、水無田さんは言う。このあたりの認識は非常に鋭い。

ぼくは今三十歳になろうとしているけど、二十歳の学生たちのラノベへの異常なこだわりとか、強烈にカルチャーギャップを感じるしね。十年違うと、もう世界の見え方そのものも全部違ってしまっているのかもしれないなあという感慨を持ったりした。

そういえば、僕、ブログができたりmixiが出来たりする前は、どうやって自己表現していたんだっけ。。。思い出せない。。。

                     ※ 

水無田さんは、短歌についてもちょっとだけ触れていて、これが僕が以前論じた「インターネット短歌と少女ゆうれいたち」のテーマとぴったり一致したりすることに驚いたり。。。

まあ、一読してかなり29日が楽しみになった本だったと言っておきたい。
ゆるい筆致で書かれているけど、とても読みやすい90年代社会学の本だと思う。

詩集『Z境』も、ぜひまた紹介したい一冊。

あ、一応このイベントについても、もう一回告知しておきます。

それではーー。今日はこの辺で。



新人会 presents パネルディスカッション
〈わたし〉氾濫時代の表現―若者/当事者のハイパーインフレ畑でつかまえて―

そんじょそこらの、特別なワタシ。
〈わたし〉にとって特別な一人のはずの〈わたし〉は、実は大勢の中の一人にすぎない?

格差問題、就活、ケータイ小説、ブログ、消費社会、戦後日本、言論など。冷静に、かつ熱く〈わたし〉をとり巻く「イマ」/「イマ」がとり巻く〈わたし〉を浮かび上がらせる、前代未聞のディスカッション!
お招きしたパネラーの方々は、全員気鋭の論者の皆さま。この組み合せはココでしか見られません!聴けません!

【Introduction】
ブログやSNSには、〈わたし〉の日記や表現が溢れかえっています。それは誰かと繋がれるときもあって、ケータイ小説もそのひとつ。一方でそんな〈わたし〉が溢れかえっていて、なにか行動したり表現したりしようとすれば氾濫する他の〈わたし〉表現の中に埋もれてしまいます。就職活動では自己分析が求められ、確かな唯一の〈わたし〉を作り出して売り出さなきゃいけない。マジメに労働・格差問題を議論しようとしたって、自分の生活の苦しさを訴えれば当事者それぞれの〈わたし〉の立場がぶつかりあい、切実なコノ苦しささえ伝わりづらい。そんな中求めたくなる過剰な共感。そして、そんな世界に本当の〈わたし〉なんていないと思って自分探しに奔走したり旅立ったりする多くの人々。でも果たしてその先に「本当の〈わたし〉」がいるのでしょうか?

【ゲスト】
水無田気流(詩人・社会学者。詩集『音速平和』で第11回中原中也賞。他の著作に『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』など)

速水健朗(編集者・ライター。主著に『ケータイ小説的。 “再ヤンキー化”時代の少女たち』、『自分探しが止まらない』など)

八柏龍紀(作家・歴史教師。主著に『「感動」禁止! 「涙」を消費する人びと』、『戦後史を歩く』など)

OPEN 12;00/START 13:00
前売¥1000/当日¥1200(ともに飲食別)
※前売券はローソンチケットにて発売中(Lコード:39028)
※ネット予約もあり。(以下URLにて)
(入場順は、前売チケット→ネット予約→当日券の順になります)
http://www.loft-prj.co.jp/PLUSONE/reservation/




※追記 マーケットプレイスでは58円で出ているようです。安いなあ。

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