田村元さん、『北二十二条西七丁目』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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田村元さん、『北二十二条西七丁目』

田村元さんの第一歌集、『北二十二条西七丁目』を拝読した。

硬質な文語旧かなで、非常に内容の充実した歌集である。

丁寧に編年体で組まれていて、2000年以前から2012年までの十数年間、作者が23歳から、現在までの歌の履歴がきっちりと並んでいる。僕が1978年生まれなので、ちょうど一個上の先輩で、歌集からは、おそらく実社会でばりばりと活躍されておられる作者の像が浮かぶ。歌は人生の履歴だと主張するかのような丁寧な歌集の作りと、明朗ですぱっと言い切るような歌い口にとても好感をもった。

 幸福にならうと思ふ一枚のシャガールの絵を壁にかけつつ

青春歌として、また歌集の巻頭歌としてこれほどふさわしい歌があるだろうかと驚く。「幸福にならう」というフレーズに、ある種の予兆、予感めいた感覚を纏わせることに成功している。それは下の句の力にあるのだろう。シャガールの絵を壁にかけるという行為は、おそらく新しく買ってきたか、引越ししてきたぐらいのときにしか行わないのだろうけれど、その清新な気分が、過不足なく丁寧に一首のなかに織り込まれている。いい歌だと思う。

若書きの歌には逆にこう言う歌もある。

 たましひに引き潮おとづれ星月夜 涙の水位保たれてゐる

 青春は干草まみれだつたさと嘘ついてfar east of Eden

これは若書きの歌らしい失敗のような気がする。ややロマンティシズムに流れすぎた感じがする。一首目、引き潮、星月夜、涙の水位ときれいな言葉が並んでしまい、歌の重心がどこにあるのかがわからない。二首目は、far east of Eden と逆にかっこよく決まりすぎてしまった。やややりすぎな感じがするというのは正直な感想だ。しかし、こういう歌も、若書きらしい歌として素直に好感を持って読めるだけの魅力を作者は持っている。

 西日さす部屋の真中の憂鬱かわれも昭和に生(あ)れたるひとり
 
 くれなゐのキリンラガーよわが内の驟雨を希釈していつてくれ

どちらも、男らしい歌である。かすかに懐古主義的な響きをもつ一首目は、昭和に生(あ)れたるという表現が微妙な発見である。これは昭和生まれと平成生まれの隔絶がだんだん激しくなってきた今だからこそさらに心に響く煩悶ともいえる。それを「西日さす部屋の真中の憂鬱」とややセンチメンタルに受け止めるところに、歌としてのよさがあるのだと思う。

二首目は、男らしい叫びである。「驟雨を希釈していつてくれ」とキリンラガーというアイテムにむかって叫ぶところにこの歌人の男ぶりというか、若さと男らしさの混交がある。後半の職場詠にもつながっていくいい歌だ。

 わがために斉藤茂吉が何をしてくれたといふのだらう、椿よ

 来たるべき新時代など春の夜のラーメンほども信じてをらぬ

 われを置きて発ちたる友よアフガンに桜(はな)は、短き歌はあるのか

 もし、といふ仮定の前に立ち止まる思想とは言はぬまでの思ひよ

 ふりがなをわが名に振りてゆくときに遠くやさしく雁帰るなり

 弘前の桜を咲かせゐるころか前線はきみへと北上しつつ


「芹と思想史」まで一気に6首を引いてみた。

「わがために~」これはキリンラガーの系統に入る歌。かっこいい叫びである。そしておそらくこの作者の代表歌と言えるだけの響きを持っている。斉藤茂吉に対してすぱっとこう言い切る迫力は感じるし、何より純粋である。「来るべき新時代~」の断言も心地よい。そしてその男らしい響きは、思想へ哲学へと拓かれていく。このあたりのドキュメントは読者を引き込む力がある。

一方でこの時期の作者は、優美な佳作も多く持っている。

「ふりがなを~」の歌は比喩が巧みに効いて優美な歌に仕上がっている。ふりがなという言葉の響き、そして何よりも遠くやさしく雁帰るという情景の斡旋が見事で、心が落ち着く仕上がりの歌だ。「弘前の~」の歌は実際の歌なのだが、どういうわけか景として美しく仕上がっているように思われる。前線という言葉と「きみ」との取り合わせが新鮮でうつくしい。

この「芹と思想史」までの歌は淡麗な青春詠とか思想詠という風に考えてもいいだろう。このあたりを境に作者は職場の歌を数多く残すようになり、おそらく東京に越して来たのであろう、東京の歌が増えてゆく。それは青春の喪失なのだろうか。「芹と思想史」以降の歌を取り上げてみよう。

 ものの芽が闇に突き出す 一介の月給取りであるといふこと

 もづく酢の酢に咽せてをりこれ以上われから何が搾り出せるか

 マークシートの円をわづかにはみ出して木星の輪のやうなさびしさ

 俺は詩人だバカヤローと怒鳴つて社を出でて行くことを夢想す

 地下鉄のほそき光にたどりゆく日に二十ページほどの読書を

 いまだ何者にもあらず冬の日の雲ひとつなきあかるさのなか


仕事と歌の間で煩悶している姿が目に浮かぶ。一首目、会社員である自分をややシニカルな視点で見ている。一介のという表現がそう感じさせるのであろう。二首目、これ以上われから何が搾り出せるか、というのは職場詠としても歌人の煩悶とも読める。こういう煩悶がいい。三首目は美しい修辞の歌で、私も集中で最も好きな歌の部類に入る。「マークシートの円をわづかに」という初句七音の加速感にもたれて、突如「木星の輪のやうなさびしさ」という意外性のある比喩が出てくる。この新鮮な響きに私は心うたれた。俺は詩人だバカヤローという直球の言い回しも快く響く。少しコミカルに響く感じもあるが、それでも日常と格闘する姿が見える。この歌はぎりぎり、俗をはなれて短歌の世界に踏みとどまっている。「地下鉄のほそき」の歌「いまだ何者にもあらず」の歌は、ゆたかな世界だ。かすかな光、そのなかで二十ページほどの読書をするという日常の動き、雲ひとつなきあかるさのなかという澄んだ響き。いずれも好感を持って読んだ。

歌集が後半に入ると、やや俗っぽい歌が増えてくるように思う。僕は文語旧かなでこういうことをやると、一遍に歌集の美しさが台無しになるような気がして、賛成はできない。

 疲れたらチカレタビーと言つてみる春のでんしんばしらに凭れ

 ゆふぐれに燕のやうにやつて来て飲みに行かうと誘う鉄道員(ぽつぽや)
 
 疲れ果てわが寝室に入り行けばシェーのポーズで熟睡の人

どれも歌が俗のほうへ向いている。確かにチカレタビー、シェーのポーズ、読者を納得させられる力はあるのだろうが、世界と闘う気力というか、美と闘う気概のようなものが感じられない。鉄道員と書いてぽっぽやと読ませるルビというのはあきらかに小説からきている。この辺の言葉の選択のセンスのまずさは、後半の歌、つまりは近作にあきらかに表れているような気がするのは私だけだろうか。

田村さんにはもっともっと叙景詠を作ってほしい。日常の優美さや豊かさが広がる世界をもう少し見せてほしいと注文をつけさせていただきたい。近代短歌の持つ透明感や抒情の美しさといったものをこれから手にすることが出来るはずの歌人なのだ。実際にこれからの第二歌集への萌芽が、ところどころに見えてきているのだから。

最後に後半から好きな歌を引いて感想を終える。

 口語へとほぐれゆきたる民法を春まだ浅く読み進めをり

 ガラス辺未明の道に散らばりて光にも欠片(かけら)といふものはあり
 
 添付ファイル添付し忘れもういちど春の闇へと「送信」を押す

 藤棚のやうに世界は暮れてゆき過去よりも今がわれには遠い

 こんなにも冬の日差しが明るくてさみしさの底にふるさとはあり

 旧姓を木の芽の中に置いて来てきみは小さくうなづいてゐた


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