山田航さん、『さよなら・バグチルドレン』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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山田航さん、『さよなら・バグチルドレン』

山田航さんの『さよなら・バグチルドレン』を拝読する。

20代の第一歌集である。
まず僕の好きな歌を三首あげてみる。

調律師のゆたかなる髪ふるへをり白鍵が鳴りやみてもしばし

楽器庫の隅に打ち捨てられてゐるタクトが沈む陽の方を指す

旅行鳩絶滅までのものがたり父の書斎に残されてをり

「夏の曲馬団」より。完成度の高い虚構の美の世界を構築しようとしていることがよくわかる歌群である。調律師、楽器庫、旅行鳩。いずれも現実のものではないが、ぎりぎりのところでリアリティを持っていて、言葉の選択はさわやかでしかも意外性がある。

1首目、これは歌意をどうこうするというよりも「調律師のゆたかなる髪ふるへをり」という上の句の美しさをとりたい歌だ。調律師がピアノの調律をしていて、そのときに髪が動いたのだろう。その「ふるへ」が白鍵が鳴り止んでもしばらく残っているのだという。微細な世界の美しさが上の句に凝縮されていて、それでいて調律師という言葉の美しさが殺されていない。

2首目、すこししんとしたさびしい情景だが、これも楽器庫という言葉の選択のおかげで、「タクトが沈む陽の方を指す」という下の句が美しい情景として立ち現われてくる。ややノスタルジックな感受性を感じさせる歌だろうか。それでも歌の新しさはまぎれもない。

3首目。旅行鳩という生き物がいたことは思いつくが、「絶滅までのものがたり」というふうにはなかなか表現できない。それが書斎の本棚に隠されていたというのだ。そのひそやかな感じと、遥か大昔の出来事を一首に結び付けていく。はるかなものとひそやかなものの対比がこの歌の主眼だろう。


こういう徹底した美意識に基づいて、山田さんは「夏の曲馬団」の一連を書きあげた。僕はこの一連にとても感銘を受けていたので、山田さんはほんとうに透徹した美意識を貫き通したい方なのかなと勝手に思っていたが、どうやらそういうわけでもないようだ。歌集を通読したり、あとがきを読んだり、帯の自選歌を見たりしていると、どうもそれとは違ったピュアな優しい青年という表情が浮かび上がってくる。

 うろこ雲いろづくまでを見届けて私服の君を改札で待つ

 やや距離をおいて笑へば「君」といふ二人称から青葉のかをり

 紋白蝶は二つに折られた手紙だと呟いたきりの横顔がある

 でもぼくはきみが好きだよ焼け焦げたミルク鍋の底撫でてゐるけど

 さみしいときみは言はない誰のことも揺れるあざみとしか見てゐない

 水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ

 雨の朝きみが眠たげに喋るときせめて永遠をぼくの世界に

歌集の全体を通底するのは恋の感触というか、「きみ」との甘やかな交歓が非常に多い。こういう「きゅんとするかんじ」がたまらない人には、この歌集は青春の傑作秀歌ということになるとおもう。1首目は「うろこ雲」、2首目は「青葉のかをり」という語で、歌を詩の水準まで高めている青春歌。3首目、「紋白蝶は二つに折られた~」といううつくしい修辞の巧みさや、5首目、「水飲み場の蛇口を~」の歌に見られるような新鮮な発見は普遍性を持っているし、「でも僕はきみが~」、「さみしいときみは~」、「雨の朝きみが~」の歌は、修辞は全く使われていないが、十分に歌として成立している。全体的に「きみ」へと語りかけるときの優しい息づかいが歌によくマッチしていると思う。

 鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る

 たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく

 いつも遺書みたいな喋り方をする友人が遺書を残さず死んだ

 鳥が云ふ誰にとつても祖国とはつねに真冬が似合ふものだと

 自閉とはむしろ自開だ秒ごとに傷つく胸を風に晒して

歌集の中盤になるとこういう苦しい歌、少し社会への批評性をもった歌が表われてくる。しかし山田さんのこうした歌は、あくまで自分の体温から遠いところへはいこうとしない。親の収入超せない自分、そして友人の死、身近なところから酷薄なものを歌おうとする姿勢には好感が持てる。「鳥が云ふ~」の歌は象徴性を持たせた一首で、あまり高いところから行くとスタイリッシュになりすぎてしまうが、「真冬が似合ふ」という響きがやわらかさを感じさせる。「自閉とは」の歌はおそらく集中で一番かなしい叫びである。「自閉とはむしろ自開だ」と開き直ってみせるところにやや強がったわれを感じさせるが、下の句の付け合わせがかなしい。これらの歌は歌として成功していると思う。

さて、少し気になったことも書き記して置かないといけない。

それはひとつめは旧かな口語という問題である。

山田さんは私が拝読した限りでの前評者である東郷雄二さんや、解説の穂村弘さんの指摘にもあるように、西田政史さんや寺山修司さんから深い影響を受けていることは言うまでもないのだろうが、文体はもっともっと口語的である。

やうだね、さうだね。してゐるといった表記が集中に散乱しているのだが、例えばこういう歌は美意識としてどうなのだろうか。


 いつも同じ作り話ぢや飽きちやふねお気に入りのマグカップも割れて

完全に平坦な口語で作られているのだが、中身は全くの旧かな使い。そして「ぢや」であるとか「飽きちやふね」といった見慣れないかたちの旧かなが見える。ここまで表記が崩れてしまうと、果たして口語を旧かなで詠う必然性がどこにあるのか、という疑問がしずしずと湧いてくる。これはふつうに「じゃ」「ちゃうね」でいいのではないか。口語と旧かなは別のものとしてとらえられてもいいのではないか。

 きやんどるの位置を直して窓ごとにかがよふ夢を鳥に見せたし

これは「きやんどる」という表記そのものが賛成できない。一言でいうとかなり俗っぽく、ふつうにカタカナでキャンドルではだめだったのだろうか。山田さんの美意識が単純に「旧かな表記」に耽溺している程度の美意識だったらどうしよう。ということを心配してしまう。

旧かなには文語の響きがあり、旧かなの持つ文語的な響きを生かしてこそ旧かなは旧かなとして成立するということを、私は持論として言っておきたい。現代の日本で、旧かなで歌を作るというのはかなり不自然なことだ。しかしある程度の歌人が旧かなを選択するのは、旧かなでないと歌いえない響きや感性を求めてのことだと思う。その不自然さを乗り越えてまで、旧かな遣いを選択するのは何故なのか、と言う疑問を山田さんには提示したい。

そしてもう一つは作風の不統一をどう説明するのか、という問題だ。

巻頭に受賞作である「夏の曲馬団」を持って来て、そのあとにその他で読んだ自分の作品を並べる、という方法はおそらく大きな短歌賞を受賞した歌人なら当然そうするであろう歌集の構成なのだが、山田さんの場合、もしかするとこの手法は成功していないのではないか。と思われる。

既に私が取り上げた歌のなかでも、

 旅行鳩絶滅までのものがたり父の書斎に残されてをり

の歌に見えるような世界の構築性を重視する歌と、

 雨の朝きみが眠たげに喋るときせめて永遠をぼくの世界に

の歌に見えるような、完全に直球ストレートな胸キュン恋愛歌では大きな落差がある。

最初から「夏の曲馬団」のように「世界を構築する」ような歌を歌集で一貫してやっていれば、「ああこの人は寺山修司以来の天才」として名前が記憶に残るような気もするが、残念ながら「夏の曲馬団」のような歌は集中にほとんど見受けられない。

「夏の曲馬団」の世界を期待して読んだ私のような読者から見て、後半でそういう「世界を構築するような意志を持った歌」と言えば

 貴族の瞳(め)、長き睫毛はうつむきを知らずや五秒後のダービー馬

など、やや塚本邦雄的な響きを持った歌がちらほらと散見されるばかりで、あとは「日常に密着した甘くすこし苦い世界」としか評しようのない歌が続いている。

有り体に言うと、中盤、後半の歌は喩性というレベルで「夏の曲馬団」から大きく後退してしまっているように見受けられるのだ。

これは、「どう作風を固定するのか」

というのがまだ歌を作っている作者自身にも固まっていないからだろう。

おそらく山田さんの才能であれば、この辺の課題は完全にクリアしてやすやすと次のステップへ移行できるように思われる。「きみ」との甘やかな世界との共感と「世界を構築する美意識」と共存させる喩的な能力の高さが結合すれば、あらたな作品世界を山田さんは手にすることができるであろう。

 フェルディナン・シュヴァルよ、蛾よ、かなへびよ、わがいとほしきものは地を這ふ

 除雪機は未明を進む泣き虫の一つ目巨人(サイクロプス)のごとく唸りて


私は個人的には歌集後半のこういった歌に、その才能の萌芽を見た。山田さんは、その才能が保証された歌人なのである。今後のさらなる健詠をお祈りしている。
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