永井祐さん、『日本の中でたのしく暮らす』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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永井祐さん、『日本の中でたのしく暮らす』

永井祐さんの歌集、『日本の中でたのしく暮らす』を拝読する。

長い間短歌の世界で「この一首はひどい」、「この一首すばらしい」などと、「この一首は」、的なかたちで論評されてきた永井祐さんの短歌だが、まとまった形で世に出るのは今回が初めてとのこと。期待して歌集を開いた。

僕は永井さんの最新作はよく知っているが、過去の作品はほとんど知らない。

そういう状態で読むと、おそらく編年体で組まれたのであろう永井さんの歌集の始めの方に出てくる煩悶の「ふつうぶり」にびっくりすることになる。


窓の外のもみじ無視してAVを見ながら思う死の後のこと

ここにある心通りに直接に文章書こう「死にたい」とかも

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな

ミケネコがわたしに向けてファイティングポーズを取った殺しちまうか


こういった歌に出てくるのは、一言で言えば実存感覚をうしなった青年の「生きづらさ」である。

1首目、2首目に関しては歌意の説明は不要だろうと思うが、3首目は、「はねとばされたりするんだろうな」という表現に心の虚ろさを感じ取ることができる。

自分が電車にはねとばされたりするかもしれない、そういう事実を目の前にしても作者はきわめてあっさりとしている。本当に電車にはね飛ばされると言う事実を作者はおそらく想定していない。「はねとばされたりするんだろうな」という表現に、力がかかっていないのだ。それは虚ろさを表現するための意図的な脱力である。

四首目、殺しちまうかにという言い回しに力が入っているのか入っていないのか微妙なところだが、連想させられるのは少年犯罪であろうか。ネコを殺すという行為にある種の残酷さを感じる。

しかしこれらの歌を僕はあまり感心して読まなかった。永井さんの文体はこういう実存的な問題を汲み上げるには平板すぎる。歌集を通読していくと、永井さんがこういう歌材を出来るだけ捨て去り、新しい世界を汲み上げようと口語の文体のを研ぎ澄ませてくるさまがだんだん分かってくるので、読者は永井さんの文体を信頼できるようになってくる、という仕掛けになっているように思う。


その永井さんはおそらく「冒険」と「アイデア」あたりから徐々に短歌らしいことを始める。

明け方の布団のなかで息を吐く部屋の空気がわずかに動く「冒険」

十二月 ライブハウスで天井を見上げたら剥き出しの配線「アイデア」

これも比較的クラシカルな、永井祐さんの歌を鑑賞するには非常にわかりやすい歌だと思う。布団のなかで息を吐いたとき、「わずかに動く空気」と言う些細なもをの歌に詠み込む永井さんは、どちらかというと今まで堆積されてきた「短歌」のやり方を少しずつ試みているのではないかとおもう。

「十二月 ライブハウス~」というのは永井さん特有の初句切れで一字開きの歌。しかし、このうたはきわめて描写的だ。文体的にはもっとも永井節らしいが、「天井を見上げたら剥きだしの配線」で、すべて説明的に描写されているあたりに永井さんが「短歌らしさ」を意識しようとしているのが見て取れる。

しかしこれらの水準の歌も、やっぱり永井祐を永井祐たらしめるにはまだ何かかけている。

永井さんには何かもっと別の魅力があるのだ。

                ※

五円玉 夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう

テレビ見ながらメールするメールする僕を包んでいる品川区


永井さんの美質を限りなく表現し得ていると思った歌を引いてみた。

五円玉 の歌は、夜中のゲームセンターにいる作者が春はとっても遠いと思う、というだけでは日常の散文のレベルに陥ってしまうだろうが、初句切れ一句目の「五円玉」の表現がとてもうまいとおもう。ここに何を入れても良いのだが、永井さんは「おかね」を入れる。五円玉から、春はとっても遠いと思う、までの意外性に詩的な飛翔力がある。

テレビ見ながらメールする、の歌は、なんとなくあわい「ひかり」を連想させる歌だ。するすると「テレビ見ながらメールするメールする僕を包んでいる」、と韻律が加速し、そこで結句の「品川区」に立ち止まる。この品川区は夜の品川区なのだろうか。おそらく僕は夜の光景だろうととった。品川区が包んでいるというのは、きわめて即物的な発見であるが美しい発見である。

永井さんは完全口語を目指すとおっしゃられているようだが、永井さんの魅力のひとつには、こういう「即物的」なものを題材にして詩的世界を巧みに構成できるという点にもあるようにおもう。

「お金」だったり「メール」だったり、完全に日常的なアイテムが詩的アイテムとして機能するとき、永井さんの歌は「永井祐」らしさを発揮する。多くの歌人たちは短歌にこういった語を入れるとき、短歌らしさを意識して季節感を入れたり、比喩表現を使いがちになる。しかし、永井さんが見ているのはあくまでゲームセンターであり、デニーズだったりする。この無機質な都市感覚のなかで即物的に「お金」や「季節」や「都市名」が記録されるのだ。ここにはドライな都市感覚が歌い込まれていると行っていい。

もちろん、永井さんの美質は他にもいろいろある。


 月を見上げて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね

 君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか


上句と下句の関係が、奇抜な形で脱臼された歌だ。

「月を見上げて月いいよねと君が言う」と上の句が推移していったとき、読者はどうしてもこのあとにおさまりのいい下の句を期待してしまうのだが、永井さんの歌はふつうの着地ではないほうへいってしまう。

「ぼくはこっちだからじゃあまたね」

とまるで読者に断絶をうながすかのように、さらりと急所を外すのだ。

この「君」にもうあえるかあえないか、などといったことも、作者はまるで期待していないのだろう。そういう乾いた人間関係をもたらす言葉としてこの「じゃあまたね」は機能している。インパクトの高い言葉の連なりだ。

君に会いたいの歌は、場面転換が2つふくまれているがどれも上手に機能している。

君に会いたい、雪の道、聖書、は3つとも関連はしているがそれぞれ異なった場面の提示で、君に会いたいと思っていたところに、「ふと」雪の道に気付いた、「ふと」聖書はいくらぐらいだろうか、と思ったという日常の意識の動きを歌にした歌だと思う。雪と聖書はイメージ的にはなんとなく喩的なイメージとしてつながる感じがするし、日常にあるふとした意識の動きを3句にわかれて提示されたとき、読者はその中からある種の美しさを感じ取ることができると思う。

さらにはこういうパターンの歌もある。

 ラジカセがここにあるけどこわれてるそして十二月が終わりそう


単純な、そして一見するとなんでもないような平板な歌と言って良いのかも知れない。

しかし些細な抒情、いや些細というよりはもっとかすかな、しずかな情感を湛えた歌だと僕は思う。
言葉にするにはあまりにも平易で、どう感想をのべていいのかちょっと迷うが、一見二物衝突のようにみえる。そして十二月が終わりそう、という下の句はラジカセとは決して対比されていないが、ひじょうにあわい情感のようなものがここには見受けられる。壊れたラジカセと十二月の終わり、この対比からはあわいさびしさのようなものを感じ取ることが出来る。

ここまでやや我田引水ぎみだが、永井さんの歌の中からよいと思った歌を説明的に書いてみた。

ただおそらく永井さんがやろうとしていることはもっと他の所にあるのだろうと思う。
歌集後半はもっと即物的に、もっと投げ出すように歌が歌われている。


僕はかなり即物的にぽんと投げだすだけの歌集後半の歌はほとんどいいと思わなかった。

詳論はここでは省く。永井さんを批判することは、いずれまたどこかで形を変えて行っていくことになるだろう。

このブログでは、以上のように良いと思った歌だけを取り上げて感想を終えさせて頂く。
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