『汀暮抄』をできるだけ丁寧に全力で読む | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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『汀暮抄』をできるだけ丁寧に全力で読む

(この文章は初出がミクシィ日記、「レ・パピエ・シアンⅡ」2012年6月号に再掲させていただきました)

僕が個人的に敬愛している大辻隆弘さんの第七歌集、『汀暮抄』を読む。この歌集は読んでいる最中に衝撃が走ったので急いで読みたいと思った。 あまりにすごいので、どうすごかったのか説明をする必要があるとおもった。

しかし、自分の批評能力でアララギ的な歌を説明できるのか自信がない。ただ、第五歌集の『夏空彦』のときにあった「ちょっとどろっとした身体感覚」のような物が抜けて、完全に清澄でしづかな作品世界に移行していると思った。 もう歌についていって、勉強させてもらうしかない。と思って、ひたすら丁寧に読み込む練習をしようと思った。

 ということで、この歌集はかなりゆっくり歌を選んでゆっくり読んで見ようと思う。

目次通りにいくと、「稲生」から「帰国」まで。「蒲郡」から「リム」まで。そして最後が「香貫」から「天ヶ瀬」までになるとおもう。三回にわけて、一種の秀歌鑑賞的なものにさせて頂きたいと思います。


1「稲生」から「帰国」まで


 背の裏に日がまはりきて白樫の樹が凹凸を帯びはじめたり


自分の背の裏に日差しがさしこんできて、白樫の樹がへこんでいるのがじょじょに見えはじめたという歌意の歌だとおもう。その日が差し込んできた感じを、帯びはじめたりとしているあたりがうまい。何かを発見したときの感動がおだやかに歌になっている。僕だったらぱっと日がさしてぱっと凹凸になった、と歌ってしまうかもしれない。丹念な描写のうまさが光っていると思う。


 真夜中の花舗のガラスを曇らせて秋くさぐさのしづかな呼吸


イメージの冴えとわずかなロマンティシズムを感じる歌。ただ、微細なものを感じ取っていることに注目したい。真夜中の花屋さんで秋のくさぐさが(おそらく)しづかに呼吸をしているのだろう。その呼吸でガラスが曇ったというのだ。これはイメージととるべきだ。ただ、大辻さんのどの歌にも感じられる微細なものへの愛着がこの歌にはある。


 踊り場に残れる熱を靴に踏むきよらかなりし昼の日ざしの


わずかに残った踊り場の昼の日差しの熱を、靴で踏んだという歌なのだが、これも非常に微細なものへの愛着がある。靴をとおしておそらく作者は熱を感じ取るか感じ取らないかぎりぎりの感覚だったはずだ。それを歌にする。そしてそれを「きよらかなりし」と歌う。清明で澄んでいる作品世界だ。


 海峡の曇りをわたる速きあめ手帳の歌を濡らして去れり


はるかなものからちいさなものへというのは短歌の王道のような気がする。手帳の歌というのはものすごく小さいものだが、それを上句の「海峡の曇りをわたる速きあめ」というはるかなものが濡らしてしまった。海峡のと言う見立てにもリリシズムがあり、「曇りをわたる」という上句もうまいが、そこから一気にフォーカスしていった下句もうまい。


 子をおもふ誠がやがておのづからナショナリズムを帯びゆくあはれ


これもぼくは秀歌だとおもう。確かに横田さんの子を思う気持ちは切実なものだが、拉致被害者たちの主張は非常に北朝鮮に対して辛くなってしまった。ナショナリズムを帯びて状況的にむずかしくなってしまった、そういう難しいところを歌っている。それをあはれと言う一言で適切に表現していると思う。ときどき大辻さんにはこういう秀歌がある。


 ゑのころの穂はむきむきに傾きてひかりとなりし雨をまとひぬ


むきむきという表現が一瞬よくわからないが、向き向きのことであるとおもう。思い思いの方向にゑのころの穂がかたむいていて、それが雨に濡れて輝いている。そういう情景を「ひかりとなりし雨をまといぬ」とロマンティックに歌い上げている。この歌では作者の立ち位置がよくわからないのだが、かなり遠方から見ないと「ひかりとなりし」雨は見えないと思う。遠景を歌った歌と読んだ。


 逝く秋の総てを神に於いて視てニコラ・デ・マールブランシュさびしゑ


ニコラ・デ・マールブランシュはフランスの哲学者。「総てを神に於いて視る」のは彼の主張らしい。この歌は響きに清明さがある。ニコラ・デ・マールブランシュが画家であってもやはりこの歌はいいと思うだろう。歌意としては、逝く秋を総て神に於いて視るであろう、マールブランシュはああなんと寂しいのだろうかという感じだろうか。詠嘆がうつくしい。


 藁を焚く火のかたはらに静かなる馬立ち昏れて影となりゆく


山水画のようなというのか、やはり情景のうつろいを見事に歌にした一首として興が深いものがある。立ち昏れてというのが非常によくて、馬が立ったではなくて、立ってだんだん暗くなっていったのだから、藁を焚く火の馬は影になってゆく。しずかで、一首のなかであざやかに情景がうつろっていく。


 箔かろく圧(お)したるごとき雲はゆき風明かりする午後となりたり


雲の表現をするのに「箔かろく圧(お)したるごとき」というのはあんまりない。どういう雲なのかというのを考えてみるのだけど、やはり薄い雲でそれがすこしへこんでいるような雲だろう。そうすると、あおぞらである。多分。雲は流れてゆくのがはっきりと見えるほどの強い風が吹いている。歌は「箔かろく圧(お)したるごとき」である種の感慨をもたらすが、あくまで風景描写としてごときが使われていることに注目したい。比喩が感覚に流れない、いい歌だと思う。


 満ち潮がしづかに動く河の底に牡蠣の殻しろく捨てられてあり


これは視た歌なのかイメージなのかが微妙な歌だが、河の底に「牡蠣の殻しろく捨てられてあり」というのは、水の中のことを歌っている。その上で満ち潮がしづかに動いている。あくまで作者が視ているのは満ち潮がしづかに動くなのだが、そのなかのことまで細かくみている(感じている)あたりにこの歌の良さがあると思う。しろくもすごく状況を体現させたうまい表現だとおもう。



 ハンガーを左にずらし干すシャツのひらめきのなかに妻の朝あり

 空ふかく揚がる雲雀のあるときは二分三連音符(にぶさんれん)をまじへて鳴けり


この「童貞聖」の一連はどれもいいのだが、こういう軽い歌も集のなかに含まれている。ハンガーの歌は「ひらめき」がいい。雲雀の声の高いトーンを二分三連音符と読んだのはすがすがしい感じがする。どちらもかろやかな佳品。


 藤暗(ふぢぐら)といへば涼しき風は来てみづのほとりの石は乾けり


藤暗という表現が新鮮だ。藤棚のなかが暗くなっていてそれを藤暗というのだろう。歌に即していうと作者が藤暗のなかにいたのかどうかは定かではない。ただ、藤暗といったら涼しい風がふいた、という何か幻想的な光景だ。そして魔術のようにみづのほとりの石が乾いた、というふうによむのが歌に即した読みではないか。やや異色な作品として読んだ。


 死ののちの帰国といへりそれをしも帰国といふか否か知らねど


死について深く考えさせられる歌だ。立ち止まる一首。これもマスメディアのある種の表現に対して違和を感じている歌だと思った。メディアが言う帰国と言う言葉に対して、自分は帰国と言うのかどうかしらないがと言う風に止めて、歌に余情をもたせている。


2 蒲郡」から「リム」まで

少し「稲生」「帰国」とは趣きが違い始めた気がするのは、自分の歌のひき方が悪いのかもしれない。イメージを触発される歌のほうを選んでしまった。


 夕時のひかりしづかな雑司ヶ谷ホルンを抱いた女が通る


「解夏」はもしかして少しさだまさしなのか。聖橋を歌った歌もあって、ファンとしては少し色めきたつ。それはちょっとおいておいて、この一連からはどの歌を引いたらいいのか非常に迷った。

思い切ってこの歌を選んでみた。「ホルンを抱いた女」という言葉に意外性があって、「夕時のひかりしづかな」と言う上句とうまく連結している。いわゆる言葉が響き合っている歌。丹念に描写した歌も好きだけど、こういうちょっと言葉の斡旋に工夫がある歌も好きだ。


 夜が朝に移るはざまのうすあかり蜩ひとつ啼きそめにけり


連作「薦生」にはひぐらしの歌が二首あって、どちらもすばらしい。こちらを選んだ。蜩が夜が朝に移るはざまにひとつ啼くというそのままの歌意で通じるが、夜と朝をわけるうすあかりのなかに、何か警笛のような、こちらとあちらを分ける彼岸のような、ある種の幽玄さを感じる蜩の声を感じた。


 紫の木槿が咲きてかの夏の告知されたる朝をおもひぬ


これは告知という言葉がドラマチックな雰囲気のある一首。何を告知されたのかはわからないが、わからないままでいい。本来の大辻さんの歌とは違う趣きがあるのかもしれないが、かの夏の告知されたる朝という表現は詩的にインパクトがある。これは個人的な好みで選んだ。



 雨粒が斜めに窓をのぼりきてわが飛行機は機首を下げゆく


「イラ・フォルモーサ」より。おそらく中国を旅した時の旅行詠。この連作からもどれを選んでいいのかわからない歌が三首ほどあって、大いに迷う。これは情景を「発見」した歌で、飛行機が機首を下げてゆくとき、雨粒の向きが変わるという状況を歌い込んだ歌。確かに些細なことなのだけど、この些細なことを歌にする詩精神が大辻さんらしいとおもう。


 命終に間にあはざりし祖母(おおはは)はベッドにまるく口あけてをり

 命なきひとのからだは揺れやすく後部座席に祖母を抱いてゆく


二首、南京櫨から引く。自分も祖母を亡くしている経験があるので、この一連はひとごとでは読めない。死んだ人が口を開けているという情景は実は僕も体験したことがあるのだが、この軽く掴んだような感じの結句が哀感を漂わせている。

二首目。後部座席に抱いてゆくというのは多分祖母の身体を本当に抱いていったのであろう。これは実際に抱いた人ではないと歌えない非常事態の歌だ。命なき人の身体は揺れやすくというのは発見なのだが、その発見は強い哀感を伴っている。


 亡きひとの携帯電話の契約を解かむとしたり深く礼(ゐや)して


これもしずかだが哀感がただよった歌だ。どういうふうに言えばいいのだろうか、歌としては解くと言う言葉の選択がうまいと思う。死んだ人の携帯電話を解約するという行為は、実際にはやることなのだろうが、なかなか行われないさみしい行為だ。それを歌にしたとき、発見とも哀感とも違う微妙なものが漂ってきているとおもう。


 死は死もて贖ふべしと贖ひ得ざらむを知りて人は言へりき

 
これも引いておきたい歌。最近の犯罪厳罰化の傾向に対して歌っている。ところどころ差しはさまれる社会詠に、「偶」というタイトルがついていることにも着目したい。「贖い得ざらむ」という言葉通り、死では人の罪を償えるないということを知っているのかはわからない。ただ、そう感じたというところに大辻さんの優しさが表われていると思う。


 ひつそりと濡れしガーゼが垂れてをり百葉箱の闇を開けば


これは闇を開いたときに、ガーゼが垂れていたというそれだけの歌と言えばそれだけの歌なのだが、そこからたちあがってくる濃密な質感に注目したい。ひつそりとという言葉の選択がいいのだと思う。闇のなかにひっそりと湿っているものがあるというのは、想像をいろいろとさせるやや官能的な表現の歌だとおもう。(確かこの歌、未来の大会かどこかで見たことがある) 


 魚の生(な)る木が校庭に立つといふ風すぎてまどろみを運ぶ木


これは大辻さんには珍しく幻視の歌だと思う。おだやかなゆったりとした幻視だ。風すぎてまどろみを運ぶ木という表現が生き生きとしていて、おだやかさを際だたせている。校庭という舞台設定も下の句にしっかりとついていて、ややおとぎ話的な雰囲気を醸し出しているように思う。


 春の夜にこころやさしく思ふかな種子郵便の割引なども 


これもどちらかというと描写というより語感を生かした感じのいい歌。種子郵便というのは本当にあるらしい。植物種子を通常の郵便物よりやすく送ることができるという制度らしいが、これが語感として本当に感じよく響いていて、さらに春の夜という言い回しがこの種子郵便という言葉を生かしている。一首としてまとまっている。


香貫と下諏訪は挽歌集である。ともに玉城徹、河野裕子の死について歌っている。
こういう一連から引用するのは難しい。感情がひっそりと湧き出てしまうからだ。
特に二連ともよかったのだが、どの歌を引くか、という段になってとまどった。


 狩野川(かのがは)を越えゆくときにはや淡く悲しみは来てバスは弾みつ


歌意はその通りなのだろうが、悲しみは来てバスが弾むという描写に力がこもっているように思う。バスが弾むというのはふつう明るいイメージで使われる言葉だが、この場合ではかなしみをほんのりと慰めるように弾んだという感じなのだろう。見立ては明るい歌だが、ほんのりとかなしみが覗く。



 みづうみは風のみなもと下諏訪の駅に下りの列車を待てば


今度は河野裕子氏の挽歌集から。作者は下諏訪に旅するが、この「みづうみは風のみなもと」という新鮮な表現が下諏訪という土地の風情としっかりマッチした、明るい紀行詠のように読める。実際に思い出を語っている歌たちは哀切で読者の共感を呼ぶところがあるが、こういう歌が差し挟まれているところに読者は救われる。


 秋といふ時の兆しを書き記す少し細身のペンを選びて


これは「下諏訪」最後の歌。感傷的な趣きのある歌だと思う。少し細身のペンを選びてという言い回しがやはり細かい描写力を感じさせている。秋という時の兆しという表現は、ふつうに使うとどうしても甘く流れてしまうところだが、下句がそれを補っているような気がする。ロマンティックな歌として記憶に残った。



3 石榴から天ヶ瀬まで


 すみやかに深まる秋のかたはらに椅子を置く背が垂直の椅子


韻律を途中でぷっと切ったような印象のある歌。すみやかに深まる秋のかたはらに椅子を置くまではしずかな情景を歌った感じだが、突然「背が垂直の椅子」と言われて立ち止まる。このまるで物自体を描いたような感触はどうだろう。描写と言えば描写なのだが、突然にあらわれるこの「背が垂直の椅子」に惹かれた。意外性のある一首。


 静物画ゑがかむとして明るさの集ふ石榴をここに移しつ


静物画という非常に静謐なイメージのなかに石榴がおかれている。それだけで歌になってしまうのが作者の技量だろう。明るさの集ふ石榴という言い方がうまくて、何か石榴が熟しているだけではなくて、ほのかに荘厳なイメージが漂う。


 夜の河はくらがりとしてただ遠く広がりてをりそのうへを越ゆ


夜の河の渺々とした感じが良く出ている一首だ。そのうへを越ゆというあたりに果てしないくらがりとわれの小ささの対比が描かれていて、これははるかなものとちいさなものの対比の一パターンだと思った。ひたすらの暗黒とそのうえを越えていく「われ」が、歌になっている。

以上終わり。

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すきな10首

背の裏に日がまはりきて白樫の樹が凹凸を帯びはじめたり

真夜中の花舗のガラスを曇らせて秋くさぐさのしづかな呼吸

海峡の曇りをわたる速きあめ手帳の歌を濡らして去れり

藁を焚く火のかたはらに静かなる馬立ち昏れて影となりゆく

夜が朝に移るはざまのうすあかり蜩ひとつ啼きそめにけり

雨粒が斜めに窓をのぼりきてわが飛行機は機首を下げゆく

ひつそりと濡れしガーゼが垂れてをり百葉箱の闇を開けば

その内に蓬髪の魔女すまはせて自動販売機は灯りをり

狩野川(かのがは)を越えゆくときにはや淡く悲しみは来てバスは弾みつ

静物画ゑがかむとして明るさの集ふ石榴をここに移しつ


語り残した歌もたくさんある。この歌集はすべてが工夫のある秀歌といってもいい。

多分明日また読んだら違う歌が選ばれるかもしれない。

五年後に読んだら全く違う歌が選ばれるだろう。

そのくらいこの歌集の神髄を理解するのは、時間がかかるような気がした。

ぼくはまず近代短歌の蓄積がないし、偉大な近代歌人の強い影響というものがない。

そこを煮詰めていかないともっと深くこの歌集の理解が出来ないと思う。
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