柳澤美晴さん、『一匙の海』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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柳澤美晴さん、『一匙の海』

mixiなどではすでにちょっと触れていたが、今年の前半は文章を書くのは控えていたので、こちらのブログでの紹介が遅くなってしまった。

同じ彗星集の仲間である、柳澤美晴さんの『一匙の海』を拝読した感想を述べて置かなければとおもう。

一読して驚いたと言っていい。

彗星集で一緒に歌を読んでいるとき、これほどなにげない、やわらかい歌を多く書く歌人だったとは思わなかったのだ。自分のなかの柳澤さんのイメージは、たとえばこんな歌に代表される歌人だった。

浅井健一に習作期なし炎天の獣舎に厚き氷を運ぶ

新しき波を切り裂く評論の滅菌済みの刃を思う

1首目は塚本邦雄の歌に雰囲気が似ている。「炎天の獣舎」という言葉に、ある種のダンディズムを感じさせる硬派な歌だ。「浅井健一」というセレクトもふくめて、こういったダンディズムやある種の「かっこよさ」への憧憬がある。

2首目は、短歌の詩形に対する述志が見られる。滅菌済みの刃というからには、「新しき波=ニューウェーブ」を批判する勢力に対して反対の立場をとっているのだろう。かなりケンカ腰の歌である。僕が毎月見る「柳澤美晴」といえば、こういう歌に代表されるようにかなりぎらぎらしていて、どちらかというと男っぽい言葉を多用した硬派な歌を歌う歌人、という印象が強かった。

ところが、僕が予想していたこういう種類の歌は歌集にはほとんど採録されなかった。それだけではなく、未来賞受賞作も11首(本来は20首)、短歌研究賞次席作品のWATERFALL(本来は30首)も16首、と、既定の歌数よりも収録された歌数のほうがすくない。

受賞した作品からもかなり大胆に歌をそぎ落としてきたのがわかる。

歌集を編むにあたって、 約8年分もの歌をそぎ落としてきたのだから、それは大変な作業だったのだろうと思う。歌集はその効果か、一首一首に外れが少なく、よくまとまった歌が多い。

まずはⅠから自分が良いと思った歌をあげてみたい。

 古書店に軒を借りれば始祖鳥の羽音のような雨のしずけさ

 定型は無人島かな 生き残りたくばみずから森を拓(ひら)けと

 SUBWAYのサンドウィッチの幾重もの霧にまかれてロンドンは炎(も)ゆ

 自衛隊と地域とを分けるスーパーのちらしおそろし 薄く指切る

編年体とはいえ、Ⅰは全体のプロローグ的な部分に当たるものとして受け止めた。地下鉄爆破事件を歌ったSUBWAYの歌を初めとして、かなり修辞牲の高い歌が並んでいる。個人的には、1首目、いきなり「始祖鳥の羽音のような」という瑞々しい直喩に打たれた。始祖鳥がどのようなものかは見たことがないが、漢語的なぱりっとしたイメージが雨の雰囲気によくあっている。上手な直喩の歌だと思う。

2首目の歌は、歌集の帯と一緒に読みたい。「定型への野心と志」という加藤治郎の言葉に象徴されるように、短歌定型に何かを付け加えたい、そういう野心と志に溢れた歌だ。プロローグとしてはこれほど相応しい歌はそうそうないだろう。

3首目は短歌的な「の」を活用していきなり実景から遠景へと展開する歌。これはSUBWAYとロンドンの地下鉄が掛詞のようにかかっていて、「幾重もの」という3句目がサンドウィッチとロンドンをつなぐ鍵みたいな機能を果たしている。技法的に洗練された社会詠と言っていい。

4首目、この歌も「分ける」と「薄く指切る」が掛かっている。北海道の日常生活に自衛隊の駐屯地があるのだろう。理知的な感じがするが、歌意としては自衛隊のいる区域にはスーパーのチラシは配達されず、「地域」にはチラシが配達される。その不気味さを「おそろし」と表現したものだといえよう。薄く指切るはやや技巧ばしった印象もあるが、まずは成功しているといえる。

Ⅰは柳澤さんの特徴である修辞の鋭さや、社会に対する視点のようなものが良くでているように思う。この時期の柳澤さんは、硬質な表現を好む歌い手なのではないかと感じさせられる側面がある。韻律はどちらかというとごつごつしていて、あまりなめらかな印象を受けない。


Ⅱの歌には、こうした柳澤さんのごつごつしたまなざしとともに、より平明な日常詠が多く見られるようになってくる。

 生きなくていいとは誰ひとり言わず繃帯のごとく吐息流れる

 満ち潮の函館駅で読み返す付箋だらけの『ルバイヤート』を

 夏の水やわらかし冬の水硬し白とうきびが母より届く

 呼び捨てにする甘やかな声ひとつ灯台として暮らしてみたし

 昆布漁する生徒らにアルバイト届けを書かす初夏の教室

 刺繍針ざむざむとわが内をゆきどこからどこまでがきみだろう

 かすかなるためらいの後てのひらにそっと切符を置く券売機



1首目、繃帯のごとくという直喩が効いている。生きなくていいと言う無力感のある上の句に対して、「繃帯のごとく」というだらっとした吐息が流れるのだという。修辞のセンスが効いた良い歌だ。

2首目、これは言葉の連なりが美しい一首。「満ち潮の函館駅」という上の句に、「付箋だらけのルバイヤート」を読むという一見ありえない付け合わせの固有名詞をもってきて、歌に美しさをもたらした。これだけ固有名詞を入れて歌が濁った感じがしないのは、この作者の言葉のセンスの良さだろう。

3首目、これはどちらかというと近代短歌的なよろしさがある。夏の水やわらかし冬の水かたしという表現のあとに、白とうきびという言葉の質感を持って来た歌。日常の些細な事柄の発見だが、この歌は短歌的なよろしさを十分に発揮して一首としている。

4首目、この歌集には恋の歌が多いのだが、僕はⅠの相聞歌をほとんど採れず、逆にこういう喩性の効いた恋の歌のほうを採りたいと思った。「灯台として暮らしてみたし」というのは自分が守られていたいという一種の願望だろうか。おそらく灯台としては暮らしてはいないのだろう、どちらかというと積極的な柳澤像が垣間見える一首である。

5首目、これは意外性で一首に仕上がっている。都会のアルバイトとは違う、もっと暮らしとか営みに密着した仕事として昆布漁があり、それに「先生」としての作者はアルバイト届けを書かせる。都会では絶対にお目にかかれない光景だが、作者の目を通して一首に仕上がっている。

6首目、刺繍針がざむざむとわが内をゆく、というのはややごつごつした身体感覚が詠われた歌である。自分の体内に他者という刺繍針が「ざむざむ」とささっていくというような認識は、おそらく柳澤さん以外の歌人では表現できまい。

ちょうど同じ時期に短歌研究新人賞を受賞した野口あや子さんの歌集にも

 真夜中の鎖骨をつたうぬるい水あのひとを言う母なまぐさい

という、他者への嫌悪を自分の身体感覚に投影した歌があったことを一瞬思い出した。

この歌は、野口さんのようにウェットではなく、むしろドライに、あらっぽく自分の身体感覚が歌われていることに注目したい。柳澤さんのわれはいつも、一歩覚めたところから世界を見ようとする。

7首目は優美な仕上がりの歌。かすかなるためらいの後てのひらに…という擬人化された姿がこの歌の主眼になっているが、その発見だけをぽんととりだして一首にまとめている。

さてここまで読んできたところで、ふとした疑問が頭をかすめてくる。「柳澤さんはどっちに行きたいの?」
という疑問である。たとえば歌集の61ページは僕の疑問をいやます結果となっている。

「昆布漁届け」の歌と、「滅菌済みの刃」の歌が同時に並んでいるページなのだ。

僕のような読者から見ると、「滅菌済みの刃」とニューウェーブを批判している勢力に対して否定的な見解を述べている作者が、うってかわったように「昆布漁届け」の歌を書くというのは美意識として考えられない。

この昆布漁届けの歌は、固有名詞を出して恐縮だが、多分松村正直さんが喜んでとる、(しかもとっている)はずの歌である。そして滅菌済みの刃の歌は、おそらくたとえば彦坂美喜子さんのような論客が好んでとっているはずの歌である。これは同じ時期に制作されたからといって同時に並べていい歌なのだろうか。

つまりは、柳澤さんは日常を描写するときには「ありふれた写生詠」の技法を使い、歌の歌を作るときには「加藤治郎」的な価値感でものごとを考えていることになる。

柳澤さんの考える「リアリズム」とは、日常詠のときはおもいっきり写生、修辞を使うときだけ修辞、というポーズをとっていることになるが、それは柳澤さんの歌論に影響しないのだろうか。

僕ははっきりとこのような作品の並べ方には違和感を表明したい。

むろん、「修辞」というレベルでものごとを考えてしまうと考え方がせまくなるのだが、柳澤さんの歌には述志なら修辞、生活なら描写、という何か隔てられた歌の作り方があるように見えてしまう。「修辞とリアリズム」を同居させるのを志向するのならば、日常生活と歌とが高度に混じり合ったような歌の作り方をしなければならないのではないか。

むろん修辞というのは歌のレトリックだけに留まるものではない。同じ景の切り取り方でも、違う韻律で見せたり、もっと形を変えて見せたりという歌全体(てにをは)をふくめた高度なアプローチが必要になってくるはずなのだが、柳澤さんは歌柄としてはどちらかというと真面目で几帳面な印象を受けるので、もやもやっとした心の動きがあまり反映されない硬質な響きに見えてしまう。

これは柳澤さんの美質でもあるが、どう「硬質」に生活を歌っていくのかが、柳澤さんの今後の課題のように思われる。

Ⅲはそんな柳澤さんの文体の弱点があらわれてしまった近作に仕上がっていると思う。

何首か引いて感想を終えたい。

常連の生徒数名 帰巣するように保健室に来るなり

「包帯」は、日常詠としてはきわめて平凡な仕上がりになってしまった一連。保健室と自分というテーマで詠われた平凡な日常詠である。修辞も効かず、韻律もふつうとなると、掲出歌の出来のように平板な仕上がりの歌が多く生まれてきてしまう。

涙には「恋水」の表記あることをきみの辞典を借りて知りたり

この歌は発見を歌った歌。こういう発見を繰り返していかないと柳澤さんの日常詠の詠風は厳しい。

怒りより逸れてゆくのが躾なり家々に刃のひかり鎮まる

これはうまい歌。怒りと刃のひかりというのが対応関係にあって、なんだかひとつの景として決まっているのが面白い。

処女歌集処女地処女雪しろがねの血液あらば美しからん

北海道という特質、しろがねという響きをふまえて一首が構成されている。こういう漢語を生かすと柳澤さんの歌風はだいぶ良い感じになってくるように思う。

コンビニでしずかに朽ちてゆくものへバーコードほそき墓碑を並べる


コンビニの商品を「朽ちてゆくもの」とする見立ては新鮮だ。そこにバーコードがほそい墓碑を並べるのだという。巧みな練れた発見の歌だ。

いじめっこの名前わたしに記憶なしあんのんと生きていろよ名無しで

こういうむこうっ気の強い歌を作る柳澤さんのことである。第二歌集にはおそらくあまたの「気の強い柳澤美晴像」を前面に出した歌を並べてくるに違いない。柳澤さんには響きのなめらかさはないかもしれないが、はまったときの迫力を感じる。

日常をどう強気にすくってくれるのか、これが柳澤さんに僕が大きく期待していることである。

何よりも柳澤さんは今年の現代短歌協会賞受賞者なのだ。僕の拙い感想など気にせず、堂々と王道を歩まれるであろう。今後の活躍を心からお祈りしている。
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