岩尾淳子さん、『眠らない島』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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岩尾淳子さん、『眠らない島』

こちらもブログでは初めての紹介になる。やはり彗星集の同門である岩尾淳子さんの第一歌集、『眠らない島』を拝読した。

口語短歌は厳しい局面を迎えていると思う。

ある程度の技法や修辞の修練が終わると、口語短歌は平板さだけが目立ってしまい、どういう形で「新しさ」を付け加えるのか、というのがますます見えづらくなって来る。

現代詩に近づける方法もあるだろうし、あえてフラットな口語のまま突き進むという方法もあるだろう。景の転換や斬新な措辞など、さまざまな試みをする方法もあるだろう。とにかく何らかの詩的な鮮度をもつ歌でなければ、口語で歌う価値というのは見えづらくなってしまう。

そのなかで岩尾淳子さんの第一歌集『眠らない島』は、短歌的な素地を残したまま口語で歌うという非常に難しい課題に挑戦した歌集だ。

短歌的な素地とは何だろう。

僕の考えではそれは現代的な「歌枕」である。

水、ひかり、海、風、雨、ゆるい、ほそい、かなしみ。

こういう美的な言葉を並べると短歌は現代短歌らしくなる。

この歌集の悪口を言うとそれが自分にそっくり跳ね返ってくる感じがしておそろしいのだが、岩尾さんの歌集の特質をひとことでいうと、もうこの既存の短歌美の世界に踏みとどまって自分は口語の歌を作る、という宣言のようにも見えて来る。

この「歌枕」をあえて多用し、平明で美しく、そして時に退屈でもある世界を作り上げようとする意図がこの歌集には見受けられる。

 あたたかいコンクリートに自転車を寄せておく海のねむりのそばに

見事な巻頭歌である。下の句、海の「ねむり」のそばにという言葉からは「あたたかい」という上句と共鳴するようなやわらかで上品な息づかいが感じられ、優しい雰囲気へと読者を誘ってくれるであろう。これは平明な言葉づかいから詩的な感興をもたらすという点では、ほかに類例をあまりみないほどよく仕上がっている歌だと思う。

 遠ざかるものはしばらく明るくて二本の白い帆を張るヨット

海という歌枕からすこし離れて、過不足なく「ひかる」光景を入れた歌。この歌が美しく見える私は、相当程度現代短歌に汚染されているといっていい。「遠ざかるものはしばらく明るくて」という表現、特に「しばらく」が素晴らしい句の入れ方で、上の句だけでは遠ざかるものが何であるのか、はっきり書かれない。そして下の句になって「二本の白い帆を張るヨット」が登場する。下の句の安定感と、上の句のややはかないな感じが過不足なく一首におさめられていて、よくまとまった叙景歌だと思う。

 添付して送られてくるほそながい花火を眠りのはざまに映す

これも見事な叙景歌である。「ほそながい花火」というのは日常の携帯電話のメール写真だろうが、それを「ほそながい」と省略することによって呼吸や体温のある語に変えてしまう。われわれは添付だけで意味がとれるので、ほそながい花火を映すという光景のあたたかさ、純粋さを楽しめばいいと言う形になっている。

 こぼされた砂糖の最後のひとつぶのかなしいひかり降りしきる ガザ

これは師である加藤治郎の「ガザ地区につもるちり幸福のちり朝のロールパンつかむほかなく」をふまえた歌だろう。この歌は社会詠というよりも、ガザが「降りしきる」にかかる完全なオノマトペに転化しているので、「砂糖の最後のひとつぶのかなしいひかり」という言葉の並びの美しさを見て欲しい歌だと思う。言葉に負荷をかけない上品な仕上がりだ。

この歌集で特徴的なのは、章立てが全く見られずにひとつひとつのタイトルの連作が延々と並んでいることだ。

ふつうⅠ、Ⅱ、Ⅲ、となんらかの章立てを作って歌集を作ろうとするものだが、この歌集は、そういった章立てを拒否し、淡々と美的世界が記述されていく。おもだったストーリーらしいものは見受けられない。

あるとすると「象のあそび」に見られるようなかすかな背徳感のようなものだろう。

 ひどいことをしてきた春の夕暮れにわたしの名前が外で呼ばれる

 情欲のなごりを寒い陽がさして駅階段を跳ねている鳩


これらの歌もひどくぼかしてあって、作者が本当に性愛で悪い事をしてきたのかが判然としない。ただ、そういう「感じ」だけが歌として刻み込まれる。まるで出来事のない世界を生きているような、そういった淡々さだけがこの歌集からは感じ取られる。

 もう少し、この澄んだ世界を紹介する役割を自分に課そうと思う。


 ときどきはぴくっと動くこの鳥の最後のことをひかりのことを
 
 知らされていないがゆるい勾配はたしかにあった明るさのなか
 
 黒い眼のゆりかもめらはうっすらと脚をしずめる春の潮に
 
 あけがたの霧をしりぞけようとする平らな水のゆるいひろがり

 いちにちは中州のようにぼんやりと二つの橋をゆきもどりする

 

 一首目は死について歌われた歌。ときどきは「ぴくっと動く」というこのフレーズが生々しいリアリティを発揮している。作者は鳥の死に際を見ている。そこでときどき「ぴくっと動く」鳥の死んで行く様子を見ているのだが、さらにそこで下の句に「この鳥の最後のことをひかりのことを」と、畳みかけるような「を」の連鎖をつけくわえて、この歌にさらにドラマティックな要素を継ぎ足している。僕がもっとも気になった歌だ。


 二首目。完全に歌枕のなかに言葉を没して、かすかな世界を汲み取ろうとする意志が見受けられる一首だ。「知らされていないがゆるい勾配は確かにあった」というのはやや何かを思わせる思わせぶりな感じがするが、心の内面のことを歌っているような気がするし、半分実景のようにもとれる。この「歌枕」は使うと非常に便利で、こうして心象風景と喩を混交させることができる仕掛けになっている。


 三首目。本当は古典文法に通じていて、和歌的な世界も作れる作者だが、この一首ではその素養が少し発揮されている。春の潮に「うっすらと脚をしずめる」ゆりかもめという描写は丹念で奇をてらっていないし、韻律もゆっくりと流れていくために時間のおだやかさを感じられる一首だ。

 四首目。この「水のゆるいひろがり」がやはりおだやかな時間の流れを読者に提示する。明け方の霧をしりぞけようとするという上の句でほんとうに繊細なことを歌っているのだということが読者に明示され、さらに平らな水のゆるいひろがりが、おだやかな時間の流れを読者に提示する。このゆったりとした韻律感覚にしばらく佇んでいたくなる一首だ。

 五首目。これも心象と実景が解体されて一つになった歌だ。「ぼんやりと」二つの橋を行き戻りする、のは一日なのだろうか、それとも一日のなかにいる「われ」なのだろうか。どちらの読みも成立するが後者をとりたい。「ぼんやりと」というのが一首のなかで効いていて、二つの橋をいきもどりするという「われの心」におだやかな平穏を告げている。そこで「中州のように」という直喩が何気なく入っているのだが、これは「中州」と二つの橋をつなげている「ように」であって、実景を補完する役割も果たし、さらに作者の心的な状態も表すという、優れた比喩の機能のさせかただ。

ここまで歌を引いてきたが、かなりわかりにくい歌をわかりにくい解説をしてしまったような自分への危惧も感じる。この歌集はこうして歌意を尽くして説明することが、そのままこの歌集の批判にもなってしまうという危うい二文法を兼ね備えた歌集なのである。

とりあげてきたうたどの歌にも、僕が先に述べた「歌枕」的な使われ方が高度に入っていて、短歌の修辞技法に習熟した読者をうならせるだけのできばえの歌になっているのだが、いかんせんこの歌集は武器が少なすぎる。

この作者に対して水、ひかり、かなしみ、ゆるい、ほそい、海、雨、風。を引いて歌を作ってくださいと要求したら、一体どんな作品になってしまうのだろうか。

この歌集にはビルディングスロマンが持つある種の成長はもう既になく、もはや歌の形も「これで決まった」としかいいようのない歌われ方がをされている。完全に成熟した口語というべきだろう。

この作品に学ぶことは大きいが、この作品を全面的に肯定することは可能なのかどうか。

そういう問いかけは、問いかけのまま残っているといって良いだろう。

この世界が短歌の読者にどう受け入れられるのか、僕は興味を持って見ている。

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