川本千栄さん、『深層との対話』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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川本千栄さん、『深層との対話』

川本千栄さんの評論集『深層との対話』を拝読する。

評論について論じよ、というのはちょっと難しい課題なので、感想を書くのが大分遅くなってしまった。

「短歌は評論によって文学となる」というあとがきにかなり気合いが入っている。川本さんがどんな作品批評を展開してくれるのか、期待しながら全体を読む。

概括的に述べると、一番面白かったのは河野裕子さんについて論じた「光れる闇」という評論だった。河野さんの短歌が持っている「瑞々しい、健康的」といったイメージとは相反する、「色濃い死の影」に注目している。

 「産むといふ血みどろの中ひとすぢに聴きすがりゐて蝉は冥かりき」

と言った歌を引きながら、河野さんの短歌の読み直しを図っている。

やっぱり師系というものがあるのだろうか、河野さんの短歌を論じるときの川本さんの語り口にはちょっと違う気合いがはいっているような気がする。この「光れる闇」という評論のあと、「変容する身体感覚」へと続き、「〈われ〉の境界線」へと続いていくのだが、このあたりの女性歌人を論じた視点というのには迫力があり、一瞬ぞくりとするような鋭い指摘が続いている。

「主体とモノが共鳴し会い、主体の身体がモノにまで拡大していくような感覚」(河野裕子歌集『家』から
『歩く』にかけての指摘)

「主体がモノに転移するのではなく、〈略)モノが主体の身体のなかへ入り込んで来るような感覚」(河野裕子歌集、『季の栞』から『庭』にかけての指摘)

そして最終的には、

「自己と他者〈モノ)との境界線が曖昧なままモノに同化し、その全体を大きな〈われ〉として捉える、またその大きな(われ)から自己の深層に直接降りていく回路がある、これらは近現代短歌の「私性」の枠組みを超える、新しい私性のあり方ではないだろうか」と結んでいる。

河野さんを筆頭にした女性歌人を論じたときの川本さんの評論は、引いている歌もいいし、鑑賞も行き届いている。『深層との対話』という表題も、ここからとられているのかもしれない。こういう「感覚」を掴もうという回路へ手を伸ばした評論にはとても好感をもった。

逆に、吉川宏志さんや加藤治郎さんについて述べた文章には奇妙な違和感を感じざるを得なかった。

詳細はすっとばして結論だけ紹介するが、

「華やかな修辞に飾られてはいるが内容の希薄なニューウェーブの歌はもう要らない。女性の恋愛の歌ももう飽きた。二十一世紀の短歌を拓くのは、自己を客観的に見つめる骨太な知性と冷徹な批評精神に支えられた社会詠である」

塔の歌人に一概に言えることなのだけれども、僕には、さすがにそれはちょっと、と踏み込めないところがある。

「短歌を拓くのは社会詠」

「個人の小さな声である短歌を、時代と世界の中に位置づけるのが評論」(あとがき)

こんなに構えちゃって大丈夫なのだろうか。川本さんは。と思ってしまうところがある。

僕もかつて、3年ぐらい前は、評論を書かなければならないと思っていたし、社会詠をつくらないといけないと思っていた時期もあった。しかし、これは何かそうせざるを得ないような歌壇的な「空気」を感じてのことだった。

果たして評論を書かなければ歌人はいけないのか。

社会詠をなんでつくる必要があるのか。

そもそもの根源的な疑問はこの2点にある。

ここには、短歌を何か「オフィシャルで影響力の強いモノ」に変えて行こうとする焦りのようなものを感じ取らずにはいられない。


僕が最近とても納得した歌に

光森裕樹さんのこの一首がある。

だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて(光森裕樹)

ここには、ぎりぎりのところで、社会詠を歌わざるを得ないような感じが「力」になっていくような、短歌の世界の微妙な空気感と、それに抵抗しようとする作者の「あぶないあぶない」という感じが出ている。

川本さんのこの評論集では、一番新しい光森さんや永井さんといった世代の歌人たちが全く触れられていないので、今の川本さんの見解はよくわからないのだが、僕は最近の空気感では、「ニューウェーブは要らない」→「これからは社会詠を」という言い回しも完全に昔のものになってしまっているような気がしてならない。ぼくの感じ方では、むしろ「社会詠さえ要らない」のだ。個人の声だけでいいのだ。世界や社会に繋がっていこうなんていう意識はさらさらないので、純粋に何か感動をもたらしてくれる歌を読者として鑑賞したいという意識になってくる。

そう読むと、おそらく川本さんが力を入れたであろう「社会詠、その二十一世紀の視点」という評論は、歌の鑑賞というよりも引用の仕方にややバイアスがかかっているように見えて、あまり実感として立ち上がってくる評論ではなかった。

加藤治郎さんに対する見方は、僕は数段『昏睡のパラダイス』のほうが出来がいいと思っていて、(「加藤治郎のオノマトペ」)これはまた形を変えてブログに見解を表明することになるだろう。

まあ、意識の点で少し乗り切れないところがある評論集だったが、「近代短歌やまざくら考」や「前田透ーその追憶と贖罪の日々」など、戦後意識という点でも、川本さんが一貫した思想を持っている論客なのだなということが伺い知れる好評論も少なくない。

まとめて読んでみると、やっぱり評論に意識を入れている人の評論は違うな、と感じさせてくれる評論集だった。
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