豊島ゆきこさん、『りんご療法』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

豊島ゆきこさん、『りんご療法』

豊島ゆきこさんの第一歌集、『りんご療法』を拝読する。2008年の砂子屋書房刊。


一読、次のような歌がいいと思った。

①「おさかなの死」を尋(き)く吾子に世にめぐるいのちを話すさんまほぐしつつ

②ものかげに水引の花咲くやうな秋の一日(ひとひ)も店を守れり

③戦ひに天草四郞の掲げたる旗は残りぬいのちもたぬゆゑ

④玻璃一枚隔てて人の営みのすこし向かうに水仙の伸ぶ

⑤銅鐘の響きは長く底ごもり生まれし土地がわが終(つひ)の土地

⑥そのかみの「深屋善兵衛」長き名の二字がとられてわが店「深善(ふかぜん)」

⑦散ることの美のみ歌はれにつぽんのとある時代に冥かりし花

⑧子がひとりゐるといふこと私の興したちひさな会社のやうだ

⑨そのかみに激しき夜戦ありしとふ東明寺(とうみやうじ)かそけく落ち葉掃くおと

⑩ざつくりと柘榴は裂けぬほんたうのことひと息に言つてしまへり



すごく短歌という詩形のなかで自然なことを、この作者は何度も何度も確認しているような印象をもった。

短歌とは人生の履歴であり、記録なのだということだ。

作者像が明快に浮かぶということが、この歌集の良さであり、シンプルではあるが短歌の持つ味わいなのであろうと思う。

作者は埼玉県の川越で「深善」という店をやっているらしい。そして歌集が進むにつれて、飼い犬のことやお子さんが成長していく様子などが次々と描かれていく。主婦として、また店を切り盛りする立場の方として、また母としての日常が描かれている。作者はとても地に足をつけて歌を作っている印象を持った。かなり長いスパンのことを一集に編まれた歌集で、最初に「おさかなの死」を聞いていた子どもが、大学の入試を受けていたりする。長く短歌を続けられてこられた作者なのだろう。

一つ一つの歌の水準は、決して高いとは言えないかもしれない。しかし、何十年にもわたる日常を記録し、人としての営みを大切にするという安定感を一集から感じられる。

1首目から鑑賞してゆく。

①は「おさかなの死」と「さんまほぐしつつ」という上の句と下の句が対応して、納得感を深めている作品。おそらく編年体で並べられたのであろう、この集の最初の頃のお子さんは大分小さいように見受けられる。さかなの死から世にめぐる命の話を子どもに言い聞かせるという、何気ない歌なのだが、「家庭のなにげないやりとり」を読者に思い描かせる。とても納得感の深い作品だ。

②水引の花咲くような、というのは何気ない直喩だが、歌のなかでよく馴染んでいるように思える。どんな光景なのかはよくわからないが、まあひっそりとした秋の光景なのだろう。その一日を「店を守れり」と作者はいっている。店を守れりという言葉にあわいひかりのような感触をまとわせることに成功している。しずかなひっそりとした秋の一日、店のあかりを照らしている、そんな情景を思い描いた。一集のなかで一番すきな歌かもしれない。何気ないが、成功した作品だと思った。

③おそらく長崎を旅した時の作品だろう。「いのちもたぬゆゑ」という下の句が上手に入っていて、一首のなかで深い納得感を感じさせる。仮に「いのちもたぬゆゑ」という作者の視点がなければあっという間に平凡な歌になってしまうのだが、上手に定型のなかに作者の視点が収まっているので、読み手としては納得して読める一首。過去のものに思いをよせたときの歌は総じていいと思う。

④玻璃と言う言葉はややきれいに歌につきすぎたかなという感じはしないでもないが、硝子の異称だという。硝子一枚隔てて、人の営みがある。その向こうに水仙の葉が伸びているのだという。まあ微細なことを掬い取ろうとしているのだろう。こういう人の営みとか暮らしというところを歌いたい作者なのだろうと思って拝読していた。

⑤銅鐘という語感が良く生きていて、そこに長く「底ごもり」、という言葉付きの良さをとりたい歌だと思った。
自分の深いところに根ざしたものとして銅鐘という言葉があり、自分の生れた川越が終(つひ)(自分の最後の)土地だと言っている。上の句の感覚が上手に実感をもって歌に対応していて、とてもよい歌だと思った。

⑥「そのかみの」から一気に「深善」までもってくるところに、韻律の力を生かした作者の歌の技量を感じさせる。その昔に「深屋善兵衛」と言う人がいた。その長い名前の二文字がとられて、自分の店の名前が深善になっている。単純なつくりの歌だが、韻律に一気に力を任せてのっけてきた感じが心地よい。またこの作者の境涯を述べるひとつのテーマを提示する歌のようにできている。

⑦確かに桜は一時期、散ることの美だけが強調されて非常に暗かった時代があった。桜を歌うのは非常に難しいが、この歌は桜の美しい面だけを強調せずに、冥かりしという言葉を入れることで非常に時代性を帯びた奥行きが深いものになっている。こういう歌は歌集のなかでも数は少ないのだが、所々にこういう歌を歌おうとする作者の意識は感じられると思う。

⑧自分の子どもがいるということを、ちひさな会社のやうだ、とする表現に独特の感受性がある。この歌は深い納得感のある歌。実際に子どもを産み、育て、という行為はおそらく実社会でいう「ちひさな会社」を興すことにひとしいくらいの大変さがあるのだろう。この感触はとても響いてくる歌

⑨はるか昔に「激しき夜戦」があったとする過去と「かそけく落ち葉掃く音」がするという今の東明寺の対比が面白い。歌の形として上の句で過去の「激しき夜戦」についてのべ、下の句で「かそけく」とする基本に忠実な言葉の対比のさせ方で、これはよく効いて成功しているとおもった。激しき夜戦という言葉の意外性もいい。


⑩「ざつくりと柘榴は裂けぬ」という言葉の後に、「ほんたうのことひと息に行ってしまへり」、という下の句をつけた。これははなにげない歌だが、ざくろのあざやかな感じと、自分のはかない感じをきれいに対応させているとおもう。総じて上の句と下の句、きれいに対応させようとした歌はうまくまとまっていて、手堅い感じを受ける。


ただどうしても歌集に多くなってしまうのが、「結句がまずい」歌である。歌集の前半に多いが、結句で説明的にまとめてしまう感じの歌で、こういう歌は安易に形にはまりすぎて賛成できない感じがする。


巻き上ぐるブラインドにしろき雪の街あらはるるとき清女の気分

咲き満つる桜の下でボール打つ女生徒のこゑ 春の長調

けふ一日鳥になりたし金の粉をまぶせるごとき木犀日和

夕涼み会の薄暮に紺色のゆかた着こなし少女は桔梗

家ひとつ毀(こぼ)たれしのちしばらくをすみれ生ひたり むらさきの領

すべて結句に難があるというか、結句で説明をしてしまっているために余情が生れないという初歩的なミスをしている歌だとおもう。

「清女の気分」は雪の街の説明として働いてしまっているし、「春の長調」もなんだかとってつけたような下の句。三首目はちょっと情景がロマンティシズムに流れてしまっている。「木犀日和」はややポップス的な、平凡な下の句だ。四首目もゆかた着こなしのあと、「少女は桔梗」としているあたりが、ちょっと説明かなあと言うまとめ方。五首目も、きれいな歌だが、最後に「むらさきの領」と下の句でなんだか「まとめ」のように入っている決め方が、あんまり機能しているとは言い難い。

ちょっとこういう感じで「まとめ」に入ってくる結句の付け方は気をつけたほうがいいと思った。

日常のことを丁寧に掬い取ろうとするところにこの作者の本質があるのだろう。技術的な難というのは次の歌集あたりで早めに解消して、作者らしい生の奥深さを見せてほしいと思った。
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。