加藤治郎さん、『しんきろう』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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加藤治郎さん、『しんきろう』

加藤治郎さんの第八歌集『しんきろう』を拝読する。

最初、たとえばこんな歌に注目した。

 定型に喩がたまるのを待っている静かな夜に扉はひらく

 リアリズムとは重荷なり黄金の果実を囓りながら思えば


ああここにいたって、我が師の口から「リアリズム」という言葉が出てくるとは思わなかった、、、とちょっと慨嘆する。しかし、なんやかんや言っても作者はあくまでも「リアリズム」のほうにはいかないのかもしれない。うーん、どっちなんだろう。。

「定型に喩がたまるのを待っている」という言葉は、作者がもっぱら喩をあくまでも主眼として歌を作っている、ということを指し示すだろうし、「黄金の果実を囓りながら」思う(提示される)主題は、「リアリズム」そのものが重荷になっているという作者の姿である。

今回の加藤治郎さんの歌集から流れて来る主旋律は、「リアリズム」を歌うのか、それとも「喩」の世界に踏みとどまって歌うのか、という葛藤のようなものであるように感じた。

 リアリストそれとも俺はわたつみの白い帆船の蜃気楼か


この歌は表題の「しんきろう」の中に入っているわけではない。「カマイタチ」という連作に収められた一首である。歌意を解釈すると、(自分は)リアリストなのか、それとも海の白い帆船の蜃気楼なのかとちょっと自問している感じのある一首だ。「わたつみの」は海をしめす言葉であると同時に、短歌的には「歌枕」に属するものである。自分は「リアリスト」なのか、「それとも「海の白い帆船の蜃気楼」なのか」と自問自答する姿に、僕は加藤治郎がリアリズムと「わたつみの白い帆船の蜃気楼」(つまりは修辞)のなかで苦悩している姿を読み取った。

もちろん、このリアリストはそういう短歌的なリアリズムだけではなく、社会のなかでリアリストとして振るまっている自分の姿を思い描いてもいいのだろう。自分が社会のなかで「リアリスト」としてふるまっている、しかしそんな自分も社会のなかで「わたつみの白い帆船の蜃気楼」にすぎないのかもしれないという疑問を抱く。そういう情感を湛えた歌としても読める。

二重性を湛えた喩の水準の歌をつくるというのは、加藤治郎の加藤治郎らしさと言えよう。

さて、そう思って全体を読むと、まず目についてくるのはやはり喩景に工夫を凝らした歌の技術的な水準の高さである。


 ①やわらかな椅子を重ねているばかり海の見えないゆうぐれの部屋

 ②加湿器の吹き出す霧があしもとを漂う夜にあきらめること

 ③竹細工のこころであれば涼しかろうに、水の波紋のようにゆうやみ

 ④夕顔のひらくゆるさに愛しあうきみを病舎におくるしるしに

 ⑤鶴の息遠くまで飛ぶ明け方の夢のなかにはわたくしひとり

 ⑥つややかな指の記憶に海光のカードを闇にさしいれにけり

 ⑦ぼくが今ここにいないということのクローバーの野のしずかな眠り

 ⑧かさぶたの小さな島が膝にでき明るい雨がふりそそぐのです



特に加藤治郎らしいと思われるおだやかな歌を8首並べてみた。どれも技術的には手堅い歌が多いし、言葉の感触を繊細にしあげた歌が目につく。これは修辞の歌のひとつの水準というべきものだろう。

①、この歌は何気ない、一見すると平凡に見える歌だが、「やわらかな椅子」という表現に妙な質感がこもっている歌だ。どんな椅子を連想すればいいのだろう、たとえばよく歌評会などで目にする折りたたみ椅子だろうか。いや、この歌は具体的な情景をあげるべきではないのかもしれない。ただ、「やわらかな椅子をかさねているばかり」という表現の「やわらかな」が持つ質感を楽しめばいいのだろう。海の見えないゆうぐれの部屋は平凡だが、手堅い下の句だ。

②夜にあきらめること、という三句目以降の処理が新鮮で目立つ歌だ。「加湿器の吹き出す霧があしもとを漂う」までで非常に微細な情景の描写を入れてきて、そのあとに「夜にあきらめること」という下の句が入る。この結句の処理に情感が入っている。「何を」あきらめたとか、そういう余計な描写は入れない。ただ漂う、という言葉の不安定さと「あきらめること」という言葉の感触を読者はそのまま受け止めればいい。結句にやや美しく不安感が凝集される。そういう作りの歌だ。

③きれいに入った歌。「竹細工のこころであれば涼しかろうに」、というのは自分のこころが竹細工のようなこころだったら涼しいだろうにというふうに言っている。「竹細工の」という表現が新鮮で、ちょっと心に入って来るような表現になっている。そのあと、さらに竹細工を補強するかのように繊細な描写を下の句にもってくる。「水の波紋のようにゆうやみ」というのは「竹細工のこころ」という上の句と上手についていて、なにかきらきらした感触が上手に竹細工と絡み合うように出来ている。

④病舎という表現は既に加藤治郎の歌集で何度も繰り返されてきた表現だが、今回もわかりやすく王道を言っている感じのある歌。この歌も①同様、景のうつくしさをそのまま受け止めればいい表現だろう。夕顔のひらくゆるさに愛し合うという上の句から、きみを病舎におくるしるしに、という下の句まで淀みなく一首が流れていて、透きとおった印象を読者に与える。歌意をどうこうすると言うよりも、夕顔のひらくゆるさに、という言葉にはかない感じを受けて、そのはかない感触のまま下の句へ移行する。夕顔と病舎という表現が可憐な感触で一首にまとまっていて、非常に透明感を感じさせる歌になっている。これも手堅い感じのする歌。

⑤ふつう鶴の息を「遠くまで飛ぶ」というふうにはなかなか表現しない。鶴の様子を描写するか、鶴の首とかしてしまうところだが、これを「遠くまで飛ぶ」としたところには歌の発見がある。その明け方の夢のなかにわたしはひとりでたっているというのだ。下の句は言葉に無理をかけない表現で、インパクトにはやや欠けるが手堅くまとまっているとおもう。

⑥「つややかな」、という表現と「海光の」と言う言葉がやや掛詞的に響き合っている。というと説明しきっているだろうか。「つややかな」という表現は「カード」にもかかっている。作者はカードをどこかに差し入れようとしている。それを「つややかな指の記憶」、という表現で美しくしあげた一首。海光のカードというのはわかりにくいが、意味よりも美を優先させようとする加藤治郎らしい表現で、つややか、海光、カード、闇といったことばが自然な形で歌のなかに織り込まれている。

⑦「の」は短歌的な切れ字で、場面転換を表す言葉。僕はいまここにいないということの/で一回切れて、クローバーの野のしずかな眠り、とやはり美しい方向に場面を転調させる役割を果たしている。これも手堅くまとまった歌で、総じてインパクトはうすいがさらりとこころのなかに入って来る感触の歌といえようか。

⑧「かさぶたの小さな島」というのは、やはり自分の身体感覚を美しく表現している。自分の膝にかさぶたという名前の小さな島ができて、そこに明るい雨がふりそそぐというのは、やはり美意識に基づいた自分の身体感覚の把握の仕方であって、美しい。しかし、ここにもやはりある種の隙のなさ、手堅さを感じさせる。

さきほどから歌をあげて感想を言ってきて、手堅い、手堅い、といっているが、僕はこういう手堅い作りの歌はこの歌集のほんの一側面に過ぎないと思っている。こちらはどちらかというと「喩景」の方向に振れる加藤治郎であり、リアリズムというか、境涯のほうにおりていった今の加藤治郎の表現とはやはり違う。これは加藤治郎を読み慣れない読者がまず目にして「いいかな」と思う感じの歌だと思うが、今の加藤治郎の水準はこのレベルでは留まってはいない。

①何も救えずなにもすくえず雨の日の郵便受けの休会届け

②定型は国境である あしたの雨のかなたの微光

③付箋のように死は貼りついているだろう家族の歌を俺は探して
  
④向日葵の種は迷惑メールほどみっしりならぶ みなごろしだ

⑤産道に締めつけられてわたくしの頭はゆがむ雪のあしたに

⑥病葉の日本語一語くちびるに貼りつきながら普通の暮らし

⑦ひしひしと葉書を捌く霜月の選歌の蜜はわれのみぞ知る

⑧残業のざんのひびきが怖ろしい漏洩前のくぼんだまなこ

⑨鬱病の男を監視する義務は俺にはあらずセロリを囓る

⑩これが最後の一つぶという自覚なく食べ終えた、そんな死もあろうよ

この連からは、加藤治郎の「生」がどちらかというとあらわになっている歌を挙げてみた。この歌集の白眉とも言える歌群であり、どちらかというと前半に挙げた歌よりも「リアリズム」へと傾斜しているような歌の作りになっている。

①はおそらく「未来」の会員で「休会届け」を出してきた歌人がいたということだろう。短歌を辞めるという人も当然多い。そうはいいながら、自分は何も救えなかった、そういう無力感を醸し出す上の句「何も救えず」のリフレインである。これがうまくはいっていて、「雨の日の郵便受けの休会届け」を補強している。

②は新しい試みにチャレンジした作品。57577の間の5をとってしまって、5777の文体にしている。これはきれいに決まっていると思う。定型は国境であると言う断言のあとに、「あしたの雨のかなたの微光」という非常にはるかな、地平線をあらわすような比喩的な描写を入れた歌。国境という響きとあい混ざって、とても成功していると思う。

③はこの時期、加藤治郎は確かに「家族の歌」という連載をもっていた。その家族の歌に付箋をつけながら、付箋のように死は貼りついているだろう、としていくことで、「家族の歌」という言葉そのものも何か陰惨な印象を持つものに変えてしまう。さらりと流した印象の歌だが奥行は深い歌だと思う。

④みなごろしだ、という断言がいかにも加藤治郎らしい。「向日葵の種は迷惑メールほどみっしりならぶ」という上の句からは、向日葵の種があの白黒模様のままみっしりと並んでいるという様子を表現している。みっしりならぶという表現が非常に気持ちが悪く、確かに向日葵の種はそういうふうに並んでいるなあと思わせる実感を伴った感触がよく出ている。そのあとに、「みなごろしだ」という断言がつく。ものごとを陰惨な方向へもっていこうとする加藤治郎の特色がよく出ていると思う。

⑤「産道に締めつけられてわたくしの頭はゆがむ」という表現は幼児体験ともいえないもっと原的な「胎児体験」を歌っている。その原初的な胎児体験、「産道に締めつけられてわたくしの頭はゆがむ」という表現がなまなましいリアリティをもって響いてくる。こういう陰惨な感じが加藤治郎らしいのだ。「雪のあしたに」という言葉は情景を補強するためにつけられた一種の補完的な喩のようなものだが、この体験のなまなましいリアリティを上手に下の句で補っていると思う。

⑥病葉、は加藤治郎がよく好んで使う修辞だが、病気のために変色した葉っぱのこと。それを枕詞として「日本語一語くちびるに貼り付けながら」としているが、ここから感じ取られるのは「病葉の」と言う言葉がもつ独特の鬱勃とした感触だろう。そのあとに「普通の暮らし」とあまりにもぽんと言葉がでて来ているので、一瞬とまどうが、この歌もひっかかりとして「普通の暮らし」というべたっとした落ち着かせ方が独特で、うまいのだろう。

⑦加藤治郎は毎日新聞の選者でもあり、NHK短歌の選者でもあるという。「ひしひしと」と言う言葉がうまい。かなりすごいスピードで歌を選ばなければならないということを指しているのだろう。そのあと「霜月」の「選歌」の「蜜」とするあたりに、加藤の歌人としての言葉使いのうまさが際だっている。うまい一首だ。

⑧残業のざんの響きがおそろしい、という言葉にはインパクトがこもっている。漏洩前のくぼんだまなこ、というのはおそらく仕事で疲れ果てて、目がくぼんでしまった様子を現しているのだろうと思う。まるでまなこが漏れてしまいそうなくらいくぼんだまなこをしていて、そこにやってくる残業の「ざん」の響きがおそろしいとするのには強いリアリティを感じる。

⑨これはインターネットか何かで鬱病だとカミングアウトした男の日記を読んだときの歌だろう。鬱病の男を監視するという言葉は、おそらくSNSか何かで他人の日記を見ているときの歌ではないかとおもう。そんな義務は俺にはないと良いながら、セロリを囓る、このセロリを囓るがやっぱりうまい結句の付け方だなとおもう。

⑩そんな死もあろうよ、という言い方にだらりとした無力感を感じる一首。何かを食べたり飲んだりしているなかで、これが最後という自覚を持つことは人間にとってそれほど多いことではない。そういう自覚もなく食べ終えた、というのは面白い発見だ。そして、そんな死もあるだろうと慨嘆する。これは不思議だが実感のこもった歌だ。

「しんきろう」の歌のなかから喩景に徹した歌と、どちらかというと生の実感に根ざした歌の二つを取り上げて鑑賞してみた。どちらかというとやはり、生の実感に根ざした歌のほうが、暴力的ではあるがリアリティを感じさせる表現で、成功していると思わせるような歌が多いように感じた。

ただ、加藤治郎の歌をあえて批判すると、もう社会詠はほんとうに歌わないほうがいいんじゃないかというぐらい、社会を歌うのがへたくそになってしまっている。

黒瀬珂瀾さんがちょうど未来の11月号で震災の歌について批判していたが、僕は震災が起きようが起きまいが、加藤治郎は社会詠が限りなく下手な歌人、という印象を雨の日の回顧展以来持ち続けている。

ほんとに治郎さん、社会詠はもうやめたほうがいい。

 一日艦長はチンパンジーなりちょうかいはゆく日本海まで

 紙ミサイルを水鉄砲で撃ち落とすのどかな午後にわれは働く

これは北朝鮮のミサイル発射についてのべた歌だが、一体この歌のどこに批評性があるのか。一日艦長はチンパンジーとするあたりははっきりいって、「ちょうかい」の乗組員を侮辱しているとしか思えず、僕が自衛隊員だったら怒って怒鳴り込みにいってもいいレベルの歌である。

紙ミサイルを水鉄砲で撃ち落とす、というのもはっきりいってひどい。要するに自分はのどかに感じている訳だが、つまりは歌人としてこの事件にあまり実感をもっていないのだろう。それであればなんでこういう歌をわざわざ作るのか、紙ミサイルを水鉄砲で撃ち落とす、は比喩の面でも大きく水準を下回るし、実感の面でもリアリティを大きく欠いている。

 洪水が押しよせてきた洪水が顔を破った ペーパーナイフ

これも社会詠という以前に歌としての水準を大きく割り込んでしまっている。このペーパーナイフが全く効いていない。洪水が押しよせてきた洪水が顔を破った、という表現からどうしてここにペーパーナイフという言葉が入るのか必然性をまったく欠いた表現になってしまっている。

ぼくの私見だが、加藤治郎は自分の内面から押しよせてきた社会詠というか、オウム真理教事件や少年連続殺人事件のような、ある種の内面的な心の闇がもたらした表現については多分非常に得意としていて喜々として歌う事ができるが、ミサイル発射事件の歌や今回の大震災のように、外から押しよせてきた出来事を自分の内面に取り入れて歌うことができないタイプの歌人ではないのだろうか。

だから、「外から押しよせてきた出来事」を歌うのはものすごく下手で、想像できる「内部の闇」について歌うのはものすごく上手な歌人ということになるのではないか。

笹井宏之さんへの追悼詠も外からやってきた出来事である。

必然的に、どうしても言葉遊び的なほうへ行ってしまう。

笹百合のさやさやゆれるBlogには永久(とわ)に承認待ちのコメント

これなどは、笹百合とした必然性がほとんど感じられず、笹井さんの笹を百合にみたてただけというきわめて平凡な追悼の仕方をしている。こういう感じで追悼されても、僕だったらあんまり嬉しくないかなあ。と思う。

治郎さんはできれば、歌うテーマを、自分の得意な方向で歌っていくような努力をすべきだと思う。

なんでもかんでも歌にする、というのではほんとうに「下手」な「苦手」な部分が各所から叩かれると言う結果に終わるだけである。

そろそろ第八歌集になる。『環状線のモンスター、』『雨の日の回顧展』ときて、まだ加藤治郎の「これはっ」

という「レイトワーク」をまったくみれていない。

さすがに弟子としても、そろそろ短歌史に残る決定的な仕事をこの辺でしてほしい、という半ば焦りのような祈りのような気持ちで、治郎さんの歌業を眺めているのである。
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