「うたらば」総集編Ⅰ | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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「うたらば」総集編Ⅰ

文学フリマで購入してきた同人誌を紹介していくことにする。

「うたらば」総集編Ⅰを拝読した。

これは紹介していいものかどうか大分迷った。できればこのままそっとしておいてあげたいというか、この世界観で完結させておいてあげたい、と言う気持ちで、余計な鑑賞など加えない方がいいのではないかという気持ちが大分先にたった。

ただ一応作品として買ったものなので、しっかり紹介はしておかないといけないと思い、筆をとる。

これは写真の美しさと詩文の美しさもだいぶ入って来るので、全体的にトーンが統一されて読みやすい。

こういうものなら「売れる」というか、「売れる」という言葉も大分微妙なのだろうけれど、少なくとも僕が最近やっている文語短歌などよりははるかにポップな仕上がりになっている。


「春恋」
「夕刻」
「細雪」

の三部構成で、写真と短歌と詩文で、投稿者の方たちの作品をまとめたもの。

僕はとりあえず、この詩文集は、僕が読むというよりもできるだけ短歌を読んでいない友だちに紹介するというスタンスで行こうと思っている。誰か僕の人脈でひっかかってくれる人がいればいいのだが。何か良い形に発展することを祈っている。

さて、この世界観をどう読むのか。難題である。

全体的に制作者の意図は明快で、

「この総集編を手にして「短歌って面白いかも?」と思ってくださる方が一人でもいてくださることを願って。」

と書いてある。つまりは、明快にテーマをベタな方向にもっていって、それで短歌の読者の間口を拡げようとする試みなのだろう。この種の試みというのは、枡野浩一さん、加藤千恵さん、佐藤真由美さんが始めて以来、女性では伴風花さん、男性では千葉聡さんのような作者が繰り返し繰り返しトライしてきては結局は枡野浩一さん以外の成功者を出してこなかったという「伝統」がある。

鬼門といえば鬼門なのだ。

僕自身、こういう感触の口語青春歌はもう2000年代に結構な数読まれていて、僕はちょっとその手の大衆性に限界を感じて、それでこの手の口語歌からは離れたという経緯がある。恋、夕暮れ、雪、いずれもイメージを拡げやすい、作りやすいテーマで投稿歌を並べてきている。歌としての鮮度は、完全にイメージに頼り切っている分、かなり落ちるような印象を受けた。

僕はとりあえず散文と写真はとっぱらって、歌だけで鑑賞する。歌人としてはそのほうが誠実な切り口になるだろう。作者を誰一人として知らない状態から鑑賞に入る。鑑賞にむっとされるケースも多々あると思うが、お許しいただきたい。

「春恋」の鑑賞から。活字にされている10首を全部鑑賞する。

春に恋するのが一番良いでしょう風が強いと尚良いでしょう(伊藤夏人)

①わかりやすい歌だが、写真と詩文をとっぱらってこうして載っけてみると極めておだやかな歌だと自分は思う。まったく謎みたいなものがない。「春に恋するのが一番いいでしょう」と作者は上の句とても散文的にいっていて、「風が強いと尚良いでしょう」というあたりに、かすかなポエジーの核心みたいなものがあるのだろう。うっすらとした恋の感触を漂わせることになるが、この歌はやや情感がおだやかであんまりつよく自己主張しない。これはこれで良い歌にはなっているとは思う。


咲くことも散ることもなく満開のあたしは重たい女なんだね(さかいたつろう)

②歌としてはちょっと「重たい」の歌意がとりずらい。咲くことも散ることもなく満開の、といっているからには、「わたし」をさくらに見立てて満開だと言っているのだろうが、どうして満開だと重い女になるのか、この辺は何か女心コードというものがあるのだろうか。「私は重い女なんだね」と言うことがいいたいのであれば、咲くことも散ることもなく満開の、という上の句はやや関連性がなく、強引につけすぎた感じが強く出ている。

まって、って言葉も届かないくらいあなたとあたしのあいだにさくら(こゆり)

③まって、って言葉もとどかないくらいの距離にわたしとあなたのあいだにさくらが咲いているという感じの歌意でとりたい歌だが、この歌も言葉としてはやや道具立てが演出的すぎるようにおもう。「まって、って言葉もとどかないくらい」の距離の間にあるものとして「さくら」が咲いているというのは、まるでドラマのワンシーンのようで道具立てが強すぎて感心しない。これは結句に「さくら」以外の言葉を入れた方が歌としては完成度が高くなると思う。

わたし世紀もっともさむい春がきた さよならなんて習ってないのに(ムラサキセロリ)

④わたし世紀、という言葉が斬新で、おそらくこう表現することに作者の全体重がのっかっている。二十世紀でも二十一世紀でもなく、「わたし世紀」なのだ。そこには社会に対する視点などはのっけからなく、ただひたすら「わたし」と恋を歌うと言う作者の開き直りみたいなものがみえて逆に感心する。下の句、さよならなんて言ってないのに、ではなく、習ってないのに、としたところにぎりぎりセーフな屈折があるとおもう。やや受け身な作者の姿が連想される。おそらく「さよなら」という言葉を相手に言われた失恋の歌なのだろう。そうすると、この歌は感興をもって読める感じがする。

好きな人はいないと首ふる十歳の髪に触れればうまれる光(イマイ)

⑤現代短歌の水準としては、この光は凡庸すぎる。好きな人はいないと首ふる十歳の少女がいて、その少女の髪に触れたら光が生まれたというのだが、この「うまれる光」というのは完全に演出にかかってしまった句。歌を演出しようとすると、わざとらしさが生じてしまう。この歌は、好きな人はいないと首ふる十歳の少女の髪に手を触れた、と言う情景だけでよく、あえて「うまれる光」とまで踏み込んでしまう必要はなかった。ちょっともったいなかった歌。

はじまると思ってなかった 潮風に揺らされている菜の花なのはな(田中ましろ)

この歌は歌の核心がぼやけすぎていて何に焦点が当たっているのかが見えづらい。おそらく恋のはじまりを告げているということは写真と散文でわかるが、もしそれがなくこうやって歌だけならべたとしたら、この「はじまる」が恋の感触であるということがはっきりとわかるだろうか。「潮風に揺らされている菜の花なのはな」という表現は非凡な感じがするが、上の句がぼやけすぎてしまうように思う。恋だとしてはっきり読んだとしても、下の句で一回「潮風に揺らされている菜の花」と情景の説明が入って、そのあとに「なのはな」ともう一度細かくリフレインさせた意図が字数合わせ以上のものになるだろうか。ちょっと細かいところで賛成できない感じの歌の作り方をしている。やや芸が細かすぎたような印象がある。

ふるえつつ抱きしめあった春のなか一緒に酔ってもいいと思った(藤野唯)

⑦完全な散文。「ふるえつつ抱きしめあった春のなか一緒に酔ってもいいと思った」、これは情景はすぐに思い浮かぶが、韻文としての急所みたいなところが何一つない。二人は、「ふるえつつ抱きしめあった」のだろう。そして春のなかで「一緒に酔ってもいいと思った」という下の句には、単純に気持ちの説明だけがあってそれから一歩先の読者を感動させる韻文の核みたいなものがない。これは完全に失敗しているとおもう。

去年から凍らせていた告白がベビーピンクの街で溶けそう(文月郁葉)

⑧ベビーピンクの街、という表現があまり納得できない。ベビーピンクというのはおそらく実際の光景ではなく、単純な心象の投影としてだけあるような気がする。普通「街」というのはたくさんのひかりに満ちているもので、そのなかからベビーピンクだけを取り出して街と表現するのは強引というか、やや作者の意識が過剰に出過ぎてしまった光景の説明だとおもう。やや人工的な、つくりものめいた街を連想させる。そのなかで、去年から凍らせていた告白が解けそうだと作者は言っている。それは解けるだろう、多分。作者は人為的につくられた「ベビーピンクの街」という世界のなかにのみ身をおいている。ここには外部がないので、どんな物語でも成立するだろうと思わせる。こういう作り物めいた感じが出た「ベビーピンクの街」という表現にあんまり納得がいかなかった。

桜色に塗ったばかりの指先があなたの髪に絡まってゆく(rieco)

これはおそらくマニキュアか何かで、指先を桜色に塗ったのだろうと思う。そしてその指先があなたの指に絡まってゆく、としているが、これもいくぶん散文に近い、しかもかなり説明的にはいってしまった散文のような気がする。これは叙景を歌いたいなら、「桜色に塗ったばかりの指先」では読者のなかで簡単に解凍できすぎてしまうので、もうちょっとぼやかした感じの何かが、「あなたの髪に絡まってゆく」という感じにしあげたかったところだ。説明と叙景は幾分意味あいが異なる。


春を病み芽吹く気持ちに水をやる係に君を任命します(中森つん)

歌としては上の句5音の状況が分かりづらい。春を病み芽吹く気持ちに水をやる、というのは春を病み、で一回区切って読むのだろうか。つまりはこの作者は病んでいるのだろうか。春を、で一回きれて、病み芽吹く気持ちだろうか。「病み芽吹く」という表現はあったのだろうかと考え込んでしまう。おそらく作者自身が病気になってしまったのだろうというふうに僕はとった。それで「春を病み」として、一回マイナスなことをいって読者をひきつけ、そのあとで芽吹く気持ちに水をやるのだとプラスの方向にもっていきたいのだと思う。「芽吹く気持ちに水をやる係りに君を任命します」、までは比較的詩としてうまく言っているように思うので、上の句5音をどう処理するかで伝わり方が大きく異なってくるとおもう。この歌は比較的言葉を詰め込みすぎというか、情景を動かしすぎてしまった感触がある。 

以上で「春恋」の鑑賞を終える。

続いて「夕刻」である。

夕ばえにだけうまくいく作戦があると聞かせて握る手のひら(むしたけ)

 うまくいっている歌だと思う。夕ばえにだけうまくいく作戦というのは、何か具体的なものではなくて作者の心のなかでひそかにうまれた「作戦」なのだろう。この「心のなか」に生まれた作戦を、「詩」として機能させることに成功している。ある種のわくわく感を歌から感じ取った。下の句の「握る手のひら」もうまい。作者はうまくいく作戦があると内心で感じ取った。それを自分に言い聞かせて手のひらを握る。ここに気持ちの忖度が入っていて非常にうまい歌だとおもった。

乗りなれた助手席にいて命まで君にゆだねるやさしい日暮れ(紗都子)

 状況はよく分かるし、適度に短歌的な感じが出ている歌だとは思うが、乗りなれた助手席にいて命まで君にあずける、「やさしい日暮れ」とまでしてしまった言葉使いがすこし重たい。命まで君にあずける、までで十分「やさしい」感じが出ているので、あえて「やさしい」にまで踏み込む必要はなかった。ここでやさしいという言葉を使わずにどう優しく表現できるかがおそらく中級から上級にあがる一歩手前ぐらいの表現だとおもう。気持ちは良く伝わって来るのでいいといえばいいのだが、まだ少し甘い感じがしてしまう。


シーグラス何度夕陽を浴びたのか傷つくことを忘れたように(文月郁葉)


この作者は綺麗な言葉でものごとをまとめようとする癖があるようだ。シーグラスというのは海岸に打ち上げられている波打ち際のガラス片ことで、アクセサリーとしても収集されているという。そのシーグラスにむかって、何度夕陽を浴びたのか、としている。ここまではよいのだが、傷つくことを忘れたように、というのは平凡に入りすぎてしまった結句。まさに作者自身があまり傷つきたくないと感じているように思う。そういうちょっと控えめな感情が歌に入り交じってしまっていて、冒険心がなくなっているように感じた。

終わりなど告げずに沈む曇天の太陽みたいなやさしさだった(野比益多)

終わりなど告げずに沈んだのは、太陽が雲に隠されてしまっていて、まさに日没を作者が感じられなくなってしまったからだと思う。これは新しい発見のように思える。ただ、この歌の場合、終りなど告げずに沈む曇天の太陽、という言い方が生きているかどうかは検証してみる必要があるだろう。「終わりなど」の「など」という言葉使いが少し字数合わせ気味かもしれない。「終わり「を」というふうにしっかりをでとめたかったところだ。あとは下の句のやさしさだった、というまとめ方も少し大雑把だ。細かいところに雑な感触はあるが、発見の新しさは買いたい歌。


何匹の鬼転げ出る夕暮れのコスモス畑揺らして呼べば(いらくさ)

この鬼という言い回しは新鮮だと思う。かくれんぼをしているか、あるいは実際に鬼が棲んでいるように作者は感じたのかもしれない。そこで、夕暮れのコスモス畑を揺らして呼ぶと、何匹の鬼が転げでるのか、というふうに作者はものごとを見据えている。これは発想が新鮮な歌で、いい感じにまとまっているように思われた。

夕焼けに伸びていく影いつの日か大人になるのは知っていたけど(都季)

これは「いつの日か大人になるのは知っていたけど」という詠嘆の前の、「夕焼けに伸びてゆく影」はあまりにも平凡につきすぎてしまった上の句だろうとおもう。まあ、この前後に上の句と下の句に対応関係はないけれど、夕焼けに伸びてゆく影」というのはもう何度も短歌の世界では使い古された感じがしてしまう表現で、インパクトが足りない。そのあと「いつの日か大人になるのは知っていたけど」とまとめる。このまとめにもやっぱり新しさが足りない感じがする。全体として平凡な仕上がりになってしまった歌。

悲しみを捨てにくるとうこの海に沈む夕陽はすこし大きい(幾代)

「悲しみを捨てにくるというこの海に沈む夕陽は少し大きい」、やっぱり散文っぽく入ってしまった一首。「沈む夕陽は少し大きい」という大きいのあたりに歌としてのポイントをみてほしいのだろうと思うのだが、「悲しみを捨てにくるとうこの海に沈む」、という表現はあまりにも平凡で、歌にインパクトが感じられない。まあそのインパクトのなさというか、既存のイメージにたよったベタベタ感が「うたらば」の「うたらば」らしさなのだろう。

潜水夫は装備を脱いで夕暮れの眠りの底へ沈んで行った(徳毛圭太)

これは雰囲気はいい感じの歌。潜水夫はふつう海の底へ潜る仕事をしているのだろうが、それをあえて海の底へと言わずに「装備を脱いで」「眠りの底」へ沈んで行ったとしている。つまりは仕事が終わったあと眠りの底へ沈んで行ったのだろう。これも素直に詩としてたちあらわれていて、いい感じがする。やや夕暮れのはきれいすぎかなとは思うが、題詠なのでしょうがないのだろう。綺麗に出来ている歌。


さよなら夢の鯨が群青を泳ぐ 明日も良い日でありますように(ヒラタ)

これは上の句、さよなら夢の鯨が群青を泳ぐ、という表現に意外性があって良い歌だと思った。「さよなら夢の鯨」と無理やりに破調にしあげた感じの歌柄が抜群によく、詩的な説得力がある。そのあとに、明日も良い日でありますようにというまったく関係のない下の句がはいる。この詩的な飛翔力がこの歌の魅力なのだろう。好きな歌だ。

黄昏のひかりに包まれ歩いていた どんどん出逢って忘れていこう(鳥海牧子)

まあ歌意はとりやすく、いろんな人に「どんどん出逢って」そして「忘れていこう」という恋をあらわした下の句が生きている感じはする。ただ、上の句はインパクトがやっぱりたりない。黄昏のひかりに包まれ歩いていた、というのはどちらかというとおだやかな表現。そのあとに「どんどん出逢って忘れていこう」というのはやや加速感をもった表現。なので上の句と下の句の対応がまったくばらばら。この下の句にはもっといい上の句がつけられる感じがする。

以上「夕刻」終り。

最後、「細雪」の歌を紹介する。

革命はしずかに起こる手をひかれ君と走った粉雪のなか(紗都子)

この作者の歌は「夕刻」の歌のときよりも出来がいい。革命はしずかに起こる、というのはたとえばほんとの革命とかそういうものではなくて、単純に自分の気持ちのなかでおこった大きな恋の「革命」なのだろう。革命はしずかに起こる、というあたりに、歌としての鮮度があるように思う。「手をひかれ君と走った粉雪のなか」というのはドラマティックな道具立てだが、上の句の意外性を受け止めているので成功していると思う。


初恋に気づいてしまう取り合ったチョークでちいさく書くゆきだるま(こゆり)

見立てが平凡。初恋に気づいてしまうのは作者なのだろうが、取り合ったチョークでちいさく書くゆきだるま、というのはこの「初恋に気づいてしまう」の説明にしかなっていなくて、歌に詩的な飛躍なり発想の転換なりが見受けられない。完全にイメージにながれたベタな印象のする短歌で、これでいいといえばいいのだろうが、僕のような読者からはこの歌は完全に失敗しているように思える。

語らない唇のため降る雪を刹那消し去るコンビニの灯は(飯田和馬)

下の句の情景の把握がうまい。「降る雪を刹那消し去るコンビニの灯」というのは、おそらくコンビニの蛍光灯のひかりが眩しくて、降ってくる雪がその瞬間だけ見えなくなってしまうということなのだろう。その表現が非常に鋭くて、「見立て」の生きた一首に仕上がっている。ただ、上の句は、わかりづらい。語らない唇とはなんのことだろう。男女が恋の話を「語らない」と言っているのだろうか。この上の句は勿体なく、「語らない唇」というのは表現が荒っぽすぎて損をしているような気がする。

すぐに消えてしまうことなど分かってて、それでも(だから)雪は降るんだ。(龍翔)

この歌は平凡な感じがすると思う。すぐに消えてしまうことなどわかってて、それでも(だから)雪は降るんだ、ってあらためて短歌で確認するまでもなく、多くの人がそういう感じのことをポップスとかドラマのなかで共有してきたはずのものではないだろうか。この発見は今さら言うまでもないという平凡な土台の上に立ってしまった歌だと思う。従って、歌としてはまったく立っていない。

午前二時の事故を目撃した人を求む看板に細雪舞う(太田宣子)

うーん。これは「」をつけたほうがよかったかもしれない。「午前二時の事故を目撃した人を求む」看板に細雪舞う、というように。これだと「求む」と看板にがくっつきすぎてしまっていて、もとむかんばんにささめゆきまう、というふうに韻律的には切れ目がなくだらだらっと続いていってしまうような感触がある。そうすると読み取りが難しい。ただ、「」をつけた歌として読むと、過度に言いたいことを歌に押しつけていなく、情景としては一首まとまっている良い歌になるかなと思った。

あしたにはやんでる雪を窓越しにひとりで見てる窓際の席(篠原謙斗)

難しい歌だ。窓越しにひとりで見ている窓際の席、というのは、言葉が二重説明みたいになっている。「窓際の席」というだけで具体の説明としてはわかるので、「窓越しにひとりで見ている」、というのは歌としては言い過ぎなのではないだろうか。そしてもっと難しいのは上の句。あしたにはやんでる雪を、というのは、どうして作者は断言することができるのだろうか。多分天気予報か何かで、明日にはやむはずの雪をとしたかったところなのだろうが、あしたにはやんでる雪をという説明はやや無理筋な感じがする。なんとなくぽつんとした情感を歌いたかった歌なのだろうとおもうが、言葉がうまく説明仕切れていないようにおもう。勿体ない歌だ。

バスの窓駆け上がる雪 ねえ、あのさ サビしか知らないあれ歌ってよ(とびやま)

この歌は成功していると思った。「バスの窓駆け上がる雪」というのは突風か何かが強くふいていて、それで外の光景がぶわんぶわんと荒れ狂っているのだろう。バスの窓駆け上がる雪、という歌いぶりにも勢いがあっていい。そのあとに、全く関係のない「ねえ、あのさ サビしか知らないあれ歌ってよ」という「きみ」への語りかけが出てくる。この上の句と下の句が離れた感じがとてもいいと思う。こういう感触に,歌としてのリアリティというのがある気がするのだ。

春を待つ方法としてわたしなら真っ白になる覚悟はあるよ(ミボツダマ)

うーん。この歌はわかりづらい。春を待つ方法として、わたしなら、真っ白になる「覚悟」があるというのは、ちょっと日本語的におかしいのではないだろうか。「方法として」の「方法」と、真っ白になる「覚悟」というのは関連性がない。もうちょっと言葉をうまく斡旋したほうがいいだろうとおもった。自分がまっしろになる覚悟があるよというのがこの歌の核心だとおもうので、方法のほうはもう少し推敲したほうがいいのかな。

雪だるまさん そばにいて欲しいけど同じ世界じゃ解けてしまうの(ショージサキ)

これも発想としてはきわめてベタな感じ。雪だるまさんにそばにいてほしいけど、同じ世界じゃとけてしまう、というのは全体的に描写が散文化していてあまり好きな表現ではない。ここにあらわれているあわい「一緒にいられない感」みたいなものを雪だるまというようなありきたりな表現を使わずにうまく形にできたらいいのかな、と思った。もうちょっとうまく歌えるだろうという感じはする。

さらさらと降りつぐ雪におおわれてスノードームの町のともしび(纏亭写楽)

これもスノードームという響きを面白いととるかどうか、ぐらいが歌のポイントで、発想としては平凡かなという気がする。さらさらと降りつぐ雪におおわれて、の「雪におおわれて」というのは四句目でスノードームと言い換えてしまっているので、二つ言葉が重なっていることになる。スノードームという言葉付きが面白いか、ぐらいで他には表現として凝ったところが一つも見受けられないのが難。


さて今回はあくまで「歌」としての感想を書いた。

全体的に「うたらば」に言えることだが、こういう青春の「きらきら感」みたいなものに頼って歌を作っていると、歌が感覚に流されやすくなってしまう、というところだとおもう。

それは決して冒頭の「短歌は、もっと自由になれる」という意味での「自由」などではなく、むしろ決まり切った「感覚」の紋切り型なのだ。ポップス的、そして演歌的といってもいい。

で、それを肯定して全面的にその世界に身を委ねている人たちに対して、僕がいくら「それ紋切り型だよね」といっても、渦中にいる本人たちは自覚して選んでいるのだから、特に批判はできないのかなという気もする。

一点制作者目線でなにか参考になることを申し上げられるとするなら、もっと「短歌って面白いかも?」と思ってくださる方が一人でもいてくださることを願って。」ということを目指すのなら、最初からフリーペーパーという方式意外の「儲かる」方法で出版されることをお勧めしたい。「うたらば」の編集方針からは、歌をポップにしようという意図は感じられたが、「売れたい」という意識があんまり感じられなかった。

このままずるずる原価割れ、みたいな方向で編集をつづけず、書籍化なり写真画集化するなりして、もっと高値で売り出すことを考えないと、多分お金がどんどん消えていってしまうということになりかねないので、ぜひペイ出来る形で流通されることをお勧めする。

そのためには作品がもっと強度の高いものにならなければならないだろう。ぜひ「投稿者のみなさん」と制作者の方で頑張って、もっといい作品が作れるようになったら面白いんじゃないかと思った。
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