「率」2号(2) | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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「率」2号(2)

率の2号、2回目である。今回は吉田隼人さん、吉田竜宇さん、小原奈実さん、馬場めぐみさんを取り上げる。


まずは吉田隼人さんの一連、「砂漠と幽霊」である。

うーん。率直に言って吉田さんは今回かなり苦戦しているかな。という印象を持った。「率」の同人のなかでは珍しく藪内さんと二人で文語旧かななのだが、吉田さんの連作は文語旧かなの良さを十全に生かしているとは言い難い。正直いって、文語が持つ「余情」が足りていないのである。

①とほく雪降りはじむるを音に聞きからだは咳でふるへる粒子

②眩暈(めまひ)かもしれぬ余震で隠るれば机の影は方形なりき

③故郷しづかにうしなはれをり売薬の錠剤噛んで噛みくだすとき

④体罰のごときあめゆき何処ゆきのバスとも知らず乗りこみにけり

⑤精神をひきずつてゆく 泥濘のそこかしこ薄氷(うすらひ)張るさなか

⑥可能世界のわれを殺むる速度もて通過してゆく特急電車

⑦きみはきみの苦痛を生(いく)在るほかなくば雪の廃墟で傘をさしけり

⑧薬壜洗ひ干されてゐたりけりまるでからだのないひとのやう

⑨屋根ひくきこの町にけさ逃げ場なく無色の風のふきだまりをり

⑩車椅子おさるる少女おす少女 時間差に髪ふはりとゆるる

50首のなかから気になった歌を10首選んでおもむろに鑑賞してみる。

①は悪い意味で気になった歌だ。とほく雪降りはじむるを音に聞き、まではすらすらと読める。おそらく作者は「とほく」のほうで雪が降り始めているのを音に聞いている。しかしいきなり「からだは咳でふるへる粒子」としたときに、なんでそんないきなり具体物を出すのか、がよくわからない。「粒子」という表現は、作者が一首のなかにまるで異物を差し込んでしまうかのように結句に入っているわけだけど、こういうふうに安易に具体物に落ち着かせる感じ、というのか、そういう感触があまりすきになれない。

そう考えていくと、音に聞き、もやや具体物に入ってしまった感じの情景の提示の仕方だ。「とほく雪降りはじむるを聞きゐたり」ではだめだったのか。なんというか、この作者の文語が「なめらかではない」印象を受けるのは、音、とか、粒子、とか、名詞をぶつんぶつんと差し挟んでしまって韻律を阻害させる感じがあるからだとおもう。

歌意をとろうとすると、やっぱり下の句はよくわからず、おそらく「からだ」のことを「粒子」と言っているのであろう。「からだは咳でふるへる粒子」というのは、からだが咳で粒子のようにきらきらと震えている、そういう感触を出したかったのだろうとは思う。おそらくこの作者の特徴として、文語で丁寧に描写するというよりは何か外部から具体物をすぽんともってくる、という感じの書き方をしたいんだろう、とは感じる。

②これはよく見ている歌だと思った。「机の影は方形なりき」という描写はとてもいい。しかし上の句はやはり余計なものが入りすぎているように思える。「眩暈かもしれぬ余震で隠るれば」、というのはちょっと「しれぬ」というあたりの言葉使い、用言があまりきれいに入っているとは思えない。「机の影は方形なりき」にフォーカスさせるための上の句であれば、眩暈、余震という言葉使いはちょっとピントがぼやけるかな。という感じがしてしまう。この辺は感覚の問題なので難しいのだが、僕だったら「眩暈かもしれず」で止めるかな。と思う。ちょっとだらだらっと名詞を差し込みすぎているような感じが気になる。

③うーん。やっぱり響いていないなあという感じがする。「故郷しづかにうしなはれをり」という上の句と「売薬の錠剤噛んで飲みくだすとき」というのは連結していない。僕は、「売薬の錠剤を噛んで飲みくだす」と「故郷がしづかにうしなはれ」るという上の句下の句が、一首のなかで必然性をもって響き合っていないとだめだと思う立場の読者だ。歌のふくらみというのは、上の句と下の句が上手に響き合ってからこそうまれる。そういう骨法を無視しているので、故郷が失われたという表現と錠剤を飲みくだすという表現に必然性がうまれてこない。これも悪い意味で気になった歌。

④①、②、③でなんか盛大にだめだしをしてしまったが、④はいいなあと思った。体罰のごときあめゆきという直喩が作者の心情をかるく乗せていて、下の句で「何処ゆきのバスとも知らず乗りこみにけり」という感触は、すごくよくわかるというか上の句と下の句に必然性がある。あめゆきが降っていたので、自分はまるで流浪者のように「何処ゆきのバスとも知らず」に乗り込んだのであろう。これは感覚がよくわかる。良い歌だと思う。

⑤おそらくこういう概念的なことが表現したいんじゃないかな、という吉田さんの骨法がよく見える感じの歌だ。
「精神をひきずつてゆく」は無理な表現がかかっていない上の句で、これは哲学の用語からきている重たい「精神」なのだろう。その「精神をひきずつてゆく」という上の句に、「泥濘のそこかしこ薄氷の張るさなか」、という下の句をつけた。この歌は悪くないのだが、やっぱり歌としての「必然性」ということになるとちょっと弱い。上の句と下の句を結びつけるキーワードがないので、上の句はいいし下の句もいいんだけど、上と下が対応してないんじゃないのか、という感じにさせられる歌だ。

⑥可能世界も哲学用語。僕はよくわからないのだが、現実世界とは異なる違う世界のことを可能世界というらしい。その可能世界(もしこうありえたらという世界)のわれを「引きずる」速度で、特急電車が通過してゆく。これは概念的だが歌意はとれる。自分はおそらくホームのなかにいて通過して行く特急電車を見ている。その特急電車のなかに「可能世界」(もうひとりの)われがいる。こういう概念的な歌が歌いたいのかな、と思った。

⑦はやや廃墟と言う言葉が大仰だけど、まず成功した歌じゃないかなと思う。「きみはきみの苦痛を生在る他なくば」、というのは人は誰でも自分の苦痛をそれぞれに生きなければいけない、それを「きみ」に仮託して歌っている感じがする。そこに自分は雪の降る廃墟で傘をさしている。これは響き合っているし、やや大振りな言葉使いがめだつけれど成功している感じはする。

⑧⑨はとても良い歌だと思った。⑧薬壜というのは確かになかが空洞になっていて、「まるでからだのないひとのやう」という比喩はよくわかる。上の句の「洗い干されてゐたりけり」も無理な力がかかっていないので、上手に丁寧に響きあっている。こういう感触の歌は好みの歌である。

⑨透明な感じを歌にだそうとしている。「屋根低きこの町」はすごくうまくものを見ていて、そこに無色の風が吹きだまっている。と言う見立てはものすごく自然で、無理なことをしようとしていないのがいい。こういう言葉に力をかけない感じはとてもいいと思う。

⑩最後に一番お気に入りの歌をとっておいた。「時間差に髪ふはりとゆるる」という表現がとてもいい。これは名詞がうまくはいっていて、具体物を差し出す感じとして成功していると思う。車椅子おさるる少女おす少女、までなめらかに上の句がきて、そのあと下の句で「時間差に髪ふはりとゆるる」、と上手に具体物を落ち着かせている。

以上10首鑑賞した。一首のなかの名詞の言葉つきにはほんとに気をつけたほうがいいと思った。なんか概念的にぽんとはいってくる感じがあるので、そういう歌を作らない方向で歌うのか、あるいはそれを全面に押し出して歌うのか、はっきりと分けた方がいいのではないだろうか。

この連作からは、吉田さんの文体は、まだまだ移行期だなあという印象を強く持った。




続いては吉田竜宇さんの作品。「人がいなくても血がながれることがあります。」

加速感のある文体で、名詞をぽんぽんと繰り出してくる感じの文体。

連全体として名詞の連なりが面白くそのイメージの飛び具合が気持ち良く入って来る。どれも高い水準で歌を並べていると思う。非常に面白い一連だと思った。

たとえばこんな歌。

海はその端から滝と流れ落ちそれを支えている亀と象

これは全部二音の名詞で構成されている。海、端、滝、亀、像。この二音の名詞を韻律にぽんぽんと乗せていくことによって、全体的に韻律が加速感をもって読み進められる感じになっていくと思う。歌意をとっていこう。これは地球平面説で描かれた地球の様子なのだと思った。海はその端から滝と流れ落ち、というのは、平面である地球では海が端から滝として流れ落ちてゆく。それを亀と象が支えている。ちょっと奇抜でシュールな情景なのだが、これは名詞の力で一首を構成している。そういうバランス感覚のよさを歌からは感じさせられる。

たのむ料理が同じで笑う赤色の魚の腹に草は詰められ

上の句七音がはやい。「たのむ料理が同じで笑う」はごくありきたりな表現なのだが、こう77の句にきれいにまとまっていると、良い感じで響いていると思う。それで下の句に料理の描写が出てくるのだが、「赤色の魚の腹に草は詰められ」、これも平凡な見立てではあるけれど、きれいにまとまっているとおもう。一見すると散文的な表現なのだが、こういう形でイメージを提示すると効果的だな、というのが作者は体感としてよくわかっているように思われる。あっさりしているけれども非常に好感を持って読んだ。うまい歌を作る作者だなという印象を持つ。

ただ、この一連のテーマは「戦争」なのだと思うのだけど、喩景だけで戦争を描ききってしまって、ちょっと実感のともなわない「戦争」というか、作者のポジショニングがはっきりとしない「戦争」の描かれ方をしているなと思って、そこに賛成できないといえば賛成できない感じがする。

巴里は燃えています落としたのは銀ですちゃんと国旗で包みました

ボランティアで戦争に行ったままなのにamazonからの遺灰が届く

なにごともなかった空に無数の風船そして戦争は終わったの?

うーん。この3首はおそらく戦争について書いた歌だと思うのだが、立ち位置を明確にしないまま戦争について述べたとしても、あんまり説得力がわかないかなとおもう。この戦争とはなんのことなのか。自分がコミットしてないということだけは確かで、そういう実感のわかないところで戦争を歌ったとしても、もうこの辺の表現はニューウェーブ以降で大分でて来ちゃったんじゃないかな、と思う。

一首目

歌としては綺麗に決まっている。しかし、批評性としてはどうなのかな。落としたのは銀ですというのは完全に無意味の意味をあらわすような感じの句の入れ方で、あまりこの句の入れ方には賛同できない。あまりに軽く巴里は燃えている、と歌いすぎている。この作者の場合、イメージをとにかく加速感に委ねてぽんぽん入れていく作風だと思うので、こういう歌に批評性を感じるかどうか、というのはおそらくかなり意見が分かれるところだと思う。

二首目

現実にはありえない光景を歌っている。ただ、この歌は批評性が機能しているような気がする。amazonから遺灰が届くというのは、世の中確かになんでもamazonからものが届くようになってしまっいて、おそらく自分の遺灰もamazonから届くんじゃないかというちょっと奇妙な不安感を入れた歌だとおもう。「ボランティア」で戦争に行った、というのも、おそらく友だちが「ボランティア」で戦争に行ってしまったのだろう、日本人の戦争に対するスタンスというのはどちらかというとこういう意識なのかなあという気がして、ここには少し現代的な感触を拾い上げようとする作者の姿が見えているように思われる。

三首目

これは失敗していると思った。「なにごともなかった」、「そして戦争は終わったの?」

という表現は古い。どの戦争について述べているのかわからないが、結局「ひとごと」のように戦争をとらえる感じ方というのは、もはや挑発の文体としては機能しない。もうちょっと「コミットしない」ならしないで、二首目のように戦争と現実感をうまくシンクロさせるといいのに、と思った。

表題歌はいいと思う。

人がいなくても血が流れることがあり私たちには綺麗な臓器を

これも強引に解釈すれば、なにか臓器移植のような出来事について述べているのだと歌意をとる。「人がいなくても」というのは、おそらく死んでいる(脳死になっている)人のことだと思った。だからその人は「人」としてはもうこの世にはいないのだけれども、当然血が流れることはある。「私たちには綺麗な臓器を」というのは、その臓器を提供してほしいということだろう。こうやってよむと、上の句「人がいなくても」は、とてもリアリティをもってこちらにせまってくる歌の表現のような気がする。

良い歌が並んでいるだけに、表現の題材が惜しい感じがした一連。この作者の才質にも期待しておかなければならないと思う。




招待作品にうつる。小原奈実さんである。この人はほんとうにうまい文語旧かなの歌を作れる作者だと思う。

よく若い人の歌は「わからない」という感想が出ると思うのだけど、この作者の歌はほんとうによく分かる。
文語旧かなの急所をしっかり押さえて歌が作れる作者。やや、旧字に凝りすぎているかなあという感触はあるが、それでも奥行のふかい作品世界を展開できる可能性のある作者だと思う。

①黙すことながきゆふさり息とめて李の淡き谷に歯を立つ

②耳小骨はかつて魚類の顎の骨電話のきみにゆるやかに馴れ

③抱き来し本に移れる身の熱を贄(にへ)のごとくに書庫へ返せり

④病院へ並木つづけり往路、帰路、とはの往路もあらむか樹下に

⑤齧歯類の死後のしばしを冷しおく野菜室あり二匹を加ふ

⑥右耳に近き窓より鈴虫のこゑ痙攣のごとく触れくる

⑦果軸まで濡るる葡萄よ享けたれば水ひといきに腕をくだりぬ

いいと思った歌を7首あげておく。

①は李(すもも)とよむのだろう。自分が沈黙している時間がながい夕暮れ時に、息をとめて李の窪んだ部分に向けて自分の歯を立てる。これは何気ない行為だが、李の窪んだ部分を「淡き谷」と表現したりという細かいところに作者の発見が見てとれる。良い発見の歌だと思う。

②はおもいっきり理系的な発見で歌われた1首。調べてみるとたしかに耳小骨というのはかつて「魚の顎の骨」だったらしいが、ここでは上の句思いっきり意外な発見を持って来て、読者を立ち止まらせる。そして下の句では、自分の耳を電話におしあてながら、他人の声を聞く様子が描かれている。「きみの電話にゆるやかに馴れ」というので、ああ耳小骨を発想したのは電話だったのか、という解読ができる仕掛けになっている。非常にうまい歌で、思わず付箋を貼らずにはいられなかった。

③は「贄のごとく」はちょっと動く感じがするというか、やや大袈裟な直喩の取り方だなあと思うが、自分の体にうつった本の熱を、書庫に返すというあたりの発想に、短歌的なものと親和性の高い「もの」の見立て方がある。うーん。うまいな。ただ本を返すだけではなくて、本にうつった自分の熱を書庫へ返すのである。こういう「われ」の感覚をうまく歌に入れ込んで歌うのは短歌としてとても自然な発想である。

④何気ない日常の描写から、「とはの往路もあらむか」という詩句の挿入で読者をはっとさせる。あわてて上の句を見ると、「病院へ並木つづけり」となっていて、たしかに病院は入院したり退院したりする患者さんもいるのだろうけれども、一回入院したままそこでお亡くなりになる患者さんも当然いらっしゃるわけで、それをやわらかい文体で把握するあたりがうまい。病院とはっきり言わずに、「病院へ並木つづけり」としたあたりが、うまくぼかしが入っていて、往路、帰路もやわらかく韻律を溜めている。非常にうまい歌で一番最初に着目した歌。

⑤これは思いっきり残酷な歌で、ん、なんで野菜室に齧歯類の死後を冷やしておくのか、と一瞬わからなかったが、そのあとの歌でマウスの首を切る様子が描写されている歌があって、ああ、おそらくこの人は実験でネズミを使っているんだな、ということがわかる。医大生か何かなのだろう。だから、「齧歯類の死後のしばしを冷やしおく野菜室」なのである。そこにさらに「二匹を加ふ」としている。歌としてはこの「二匹を加ふ」にとても強いリアリティがあって、ああ、ほんとのことを歌っているな、という感じにさせられた。

⑥自分の身体感覚に根ざした歌を歌うのがこの作者の特徴なのかなと思って読み進めた。西側とか東側とかそういう窓のとらえ方ではなくて、あくまでも「右耳に近き窓」から聞こえてくるのであって、この表現に体感に根ざしたリアリティを感じる一首だ。鈴虫の声が「痙攣のごとく」ふれてくる、というのは非常に直喩としては決まっているとおもう。痙攣か。そんなふうに鈴虫の声をとらえたことはなかったけど、言われてみれば確かに鈴虫の声はうるさい。それを痙攣と表現した発見はいいと思う。

⑦これは「享けたる」という言葉がやや字に凝っていてどうかな、という感じがするのだが、葡萄の房がそれこそ果軸まで水に濡れているのだろう、その葡萄の房を手でうければ、その水が一気に自分の腕をくだっていく。ここにも体感に根ざした瑞々しいリアリティがある。

小原さんは派手ではないが、非常に漢語的な響きに根ざして自分の身体感覚を歌うという点で、とても才能のある作者だとおもう。才質があってしかもわかいというのはとてもうらやましいなあ。


馬場めぐみさん

あんまり感心してよまなかった。どうも連作が情緒に頼りすぎというか、口語短歌としてはもうこのくらいの歌は誰でもやすやすと読めるレベルにあるだろうという気がしていて、こういう感じで今後歌を作っていくとするとかなり厳しいのではないかと思う。

修辞的な新しさも実感的なリアリティもなく、ただ言葉を31音に並べただけです、という感じがあまり気に入らない。

風のなかにいるということだけがわかる気がするのだけど気のせい

ピンヒールを履いて背筋を伸ばして何故にそんなに生きようとする

そんなにも赦さなくていいそんなにも愛さなくていいそれでもきみは

境界がわからなくなるところまであなたとおととことばとわたし

夜が明けて日々が続いていくことは残酷だからしがみつくだけ

希望と呼ぶ薄っぺらさに縋るしかもう術が無いお願い生きたい

切実と名付けられる度醒めていく言葉が力を持つわけがない



あげるとすれば6首目、7首目だろうか。お願い生きたい、とか、切実と、という言葉にかろうじてこの作者の「表現したいリアリティ」のようなものが見てとれるけれど、もうちょっと「生のままの言葉」を並べるよりも、なにかこう工夫をしないとやっぱりだめだろうという感じがしている。ちょっとありのままの言葉のならびだけで勝負しつづけるためには自分のなかでの「具体的なテーマ」が必要になってくるだろうとおもう。具体物を出さずに感触で勝負した歌はやっぱり弱い。

今後の作品に期待したい。

さて、率2号、藪内さんと内山さんだけが残った。まあ自然な成り行きでこうなってしまった気がする。。。。

このお二人については折りにふれて述べる機会があるだろうということを期待して、今後の作品に期待することにしよう。二人とも歌質はあきらかに受賞作や歌集収録歌とくらべて歌質が落ちているので、今回はとりあげないことにする。
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