江田浩司さん、『まくらことばうた』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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江田浩司さん、『まくらことばうた』

またしてもとんでもない歌集が出てしまった。

という印象を持った。江田浩司さんの『まくらことばうた』である。

昨年暮れは未来にゆかりのある歌人で、高島裕さん、江田浩司さんと相次いで歌集をおだしになられたけど、この江田さんの歌集はとんでもないものである。


「辞書か。これ?」

というのがぱっとみした感想である。総歌数666首。まるで計算したような歌集の分量。


江田さんの新たな挑戦、ということになる。


その新たな挑戦というのは、すごくシンプルで明快。

いろはにほへと順にまくらことばを並べていって、

そのまくらことばに対応させて歌を作っていく、というものである。

江田さんの歌は読者に苦行を強いるかのように、難解で分かりにくいものが多いのだけれども、

今回も一瞬それか、と思った。


「ひえーこれ全部読むのかーー。」


古今東西のまくらことばを全部使って歌を作る、それをいろはにほへと順にならべる。

言葉による試行をこれでもかと繰り返す永遠の実験歌人、江田浩司さんらしい試みである。



『ピュシスピュシス』のときは、その難解さのあまりに僕も思わず匙を投げつけてしまった。

『山中千恵子論』も、もう断裁してやろうか、というくらいわかりにくいクリスティヴァの
引用の数々で、いかに専門が国文学だった僕でもわからんよ、これは。

という何かすさまじい試みだったような気がする。


今回もあまりに濃かったらそのまま感想書かずに放置しようか。。。

と思っていたのだが、目に触れてしまったからには書かねばならない。

「なぜ歌集評を書くのか、それは歌集がここにあるからだ」

と、登山家の一説を妙にもじって、自分を励ましたりする。


中身をぱらぱらと読む。

「あれ、これ意外にわかりやすいな」


枕詞自体はとても古いものなので、もっと古典チックにまとめているのかと思いきや、江田さんはそれをとても現代的にアレンジすることに、成功しているような気がする。

たとえばこんな歌。

いはそそく垂水(たるみ)の岩の月光(つきかげ)に酔(ゑ)ひ酔(ゑ)ひて寒きパトス燃え立つ

最初の上句、いはそそく垂水(たるみ)の岩までは完全に枕詞で並べているのだけれど、下の句は現代的な感じがする。「酔ひ酔ひて寒きパトス燃え立つ」、パトスというのは感情のことで、月光に酔ってきて自分の情感が一気に燃え上がってきた、そういう感触を現代的に歌にしている。普通の歌人だったら、こういう試みをするとすごく平凡な歌というか、もう和歌みたいな歌が出来てしまうかもしれない、と思うのだけれど、江田さんは哲学を専攻していたからか、この上の句と連結させる下の句として、かなり現代的な情感をもった言葉をあっせんすることに成功していると思う。

もしかして、これ、江田さんの今までの歌集の中でベストなんじゃないか。という予感に駆られ始めた。


なにげなく「うまさけ」をどう歌っているか、と思って歌集をそこに開くと、

こんな秀歌が。

うまさけの身(み)に沈みゆく良夜かも麦熟(う)れゆける挽歌聞かしむ

すごく良質な抒情を携えた歌だ。

うまさけはたぶんお酒だろうと解釈して無理やり読解をすると、酒が自分の体に「沈みゆく良夜」だということと、「麦熟(う)れゆける挽歌」というのがなだらかに接続していて、「定型に言いたいことを盛り込みました」、的な江田さんの悪い癖が全然出ていない。ふつうになんとなくビールを想像しながら、その抒情性にゆったりと身をゆだねたくなる一首。

「くさかげ」にもこんな歌が。

くさかげのあらゐの崎にまどろみて弔歌(てうか)のごとき微熱きざせり

これも言葉に無理がかかっていない。うっすらと情感が伝わってきて、ちょっと前衛短歌的なイメージはあるけれど、まどろみて~微熱きざせりの間に挿入された「弔歌(てうか)のごとき」という比喩が絶妙だ。韻律も、無理に圧縮したり、弛緩させたりということもない。江田さんの言いたいこと(やや前衛的なイメージを持った情感の塊みたいなもの)と、枕詞(ほぼ意味のない言葉あそび)との釣り合いも、絶妙にとれていると思う。

ぱらぱらと読みながら、ひとつの仮説が思い浮かぶ。

江田さんという歌人は、もしかして制約がすごく強い状況に置かれるとものすごい秀歌を生み出すことができる歌人なのではあるまいか。

もちろん、57577の定型もひとつの制約ではあるけれど、それだけではまったく足りず、さらにまくらことばというもう一つの制約を自分に課してこそ、はじめてバランスがとれた一首が出来るのではないか。

つまり江田さんの言いたいことを歌うには、定型という制約よりもさらに強いバインドが必要なのではないかということだ。


もちろん年月を経て江田さんの短歌を作る技法が成熟してきたというのもあるのだろう。今回の歌集はとにかく角ばったところがなくて、歌全体のバランスがとれているように感じた。

何首かこれは秀歌だという歌をあげて、この感想を終えたい。

・いなのめの明けゆく空に解(と)かれゆく花(はな)の宴(うたげ)か祈り凍てしむ

いなのめ、という枕詞はわからないが、それでもイメージの飛翔力は感じ取ることが出来る。おそらく花弁が一斉に空に散る様子を歌っているのだろうか。空にむかって解き放たれていくのが、「花の宴」であるという。そんな言葉のあっせんはあんまり凡人には出来ない手並みである、そこに祈りが生じる。当然空の高いところに祈りが届くので、その祈りも凍っていく。

可憐な、あざやかなイメージの飛翔である。


・いさなとり海にあふれる歌ごゑの風の御墓(みはか)となりやならまし

いさなとりとは海を導く枕詞。海にあふれる歌声が、風の御墓となるのか、なったらいいのに、という感じの歌意だろうか。歌声が、風の墓となるというシンプルなことしか歌っていないが、この下の句のなりやならましという言葉の反復がうまくきいていて、韻律がなだらかに一首になっていると思う。

・にはたづみ流るる声にみだれたり影あらばそをわれかと思ふ

気付いたのだが、今回の江田さんの歌集は定型を完全に順守していて、安定感のある骨法で描かれている。にはたづみは確か雨水だったか。雨水が流れる声(音だろう)に自分がみだれたというのだろうか。そのあとで影あらばそをわれかと思ふは、明快だが奥深い下の句で、一首のなかで寂寥感が漂ってくる歌の作りになっていると思う。


・ぬばたまの夜に神燃ゆる美しさ裸形(らぎやう)の闇に水を嗅ぎたり

これは音感が固い歌だけれども、おそらく何らかの神事を歌った歌だろうと思った。もちろん具体的な状況設定はしなくてもいいのだろう。夜に神が燃えるというイメージの飛躍のあとに、裸形の闇に水を嗅ぐ、というこれもシャープな言葉が入ってきていて、かなり前衛短歌のような言葉の響きになっている。こういうイメージの飛翔力がたった江田さんの歌は僕は個人的に好きだ。

・わすれがひ忘れぬ初夏に青馬(あをうま)の水脈(すいみやく)をなすごときたてがみ

初夏という措辞のあと、青馬(青い馬というのは黒みを帯びた馬だろう)の「水脈をなすごときたてがみ」というこの水脈をなすごとき、というのが上手な直喩の出し方で、イメージを鮮明にすることに成功していると思う。

・ゆくかげの月の使者としはらはらと一枚の羽(は)は舞ひ降(お)りにけり

月の使者とはロマンティックな措辞で、そのあとにはらはらと一枚の羽が舞ひ降りてくるのだという。このイメージがもたらす現代的な感受性を思う。

・きくのはなうつろふ色に転生のやさしきひかり慈雨のごとあり

これも今までの江田さんにはなかったトーンの歌。やさしいタッチで、うつろふ、ひかり、慈雨という言葉が響き合って、非常にやさしい仕上がりになっているとおもう。全体として、エッジの利いたシャープな前衛的な歌と、
韻律のしらべにのせたやわらかなトーンの歌が並んでいて、歌集として楽しめる一冊に仕上がっていると思う。

江田さんの今回の歌集は、どの歌を引用しても均質な分量の抒情性と全体的なイメージの統一感に満ちている。

これは今までの江田さんの歌業のなかでベストかもしれない。

そんな予感を感じながら、今もこの666首と向き合っている。
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