高島裕さん、『饕餮の家』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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高島裕さん、『饕餮の家』

高島裕さんの『饕餮の家』を拝読する。

一読、歌集の印象を一言で述べれば、「底ごもるような重圧感」とでもいうのだろうか。

歌の一首一首から、調べというよりも響きが聞こえてくるような、非常に濃密で重量級の声がする、そんな印象を持つ歌集である。

僕は高島さんの歌集は『旧制度』以降、折にふれて拝読してきたが、その作品世界の濃密さ、歌う素材(モチーフ)のやさぐれ方というか、そういう感じがとても好きで、新たな歌集の刊行を待ち望んでいた。

その作品世界を再び目にすることができて、とても嬉しい。

今回の歌集も一首一首、あいもかわらず低く、重低音のような作品の響きが感じられる歌群である。


たとえばこんな歌が好きだ。

・便所蜂、夜を飛び来て心温(ぬく)し とほき円居(まどゐ)の中の亡き父

いきなりの初句「便所蜂」はびっくりな言葉だろうが、こういうふうにやや「やさぐれた感じ」で言葉が斡旋されるのが高島さんの短歌の特徴だろう、と思う。その便所蜂が飛んできてふっと心が温かくなる。思いはふいに下の句でご自身の亡くなられたお父様のことへと向かう。初句だけはびっくりだが、作りとしてはほんとうに正攻法な歌で、ご自分の家族のことに思いを馳せている。

さてこの歌集は、少し構成のこと、全体のことを触れておかなければならないだろう。

I・Ⅱ・Ⅲと章立てされた全体のなかで、その章立てに作者がかなりの腐心をしているだろうことを読みとることができるからだ。

おもにⅠでは作者ご自身の郷里であるふるさと富山のこと。

Ⅱでは「海市行」とタイトルがつけられているように、富山と東京の移動。

Ⅲでは、おそらく時事詠というか、近作が集められたのだろう。妹さんのことを中心とした日常詠から、原発までを歌った連作までテーマが幅広い。

Ⅰでは自分の根源の部分である郷里のことを歌い、Ⅱでは東京への移動を長い連作で歌い、というようにⅠからⅡの対比があざやかで、章立てにかなり工夫を凝らされたような印象を持った。

冒頭に引用した歌は、Ⅰの最後の歌。

秀歌はいくつもあるが、Ⅰからいくつかの歌を引用させていただく。


①家内(いえぬち)に過去世の匂ひ立ち初めぬ数珠もつ人に茶を勧めれば

②葛切を食めば思ほゆ父かつて生者の側にありて悩みゐき

③もろともに光を抱いて談りゐしきみたちをいつ見失ひしか

④夜の雨を聞きつつ思ふ、わが齢(よ)にてツァラトゥストゥラを書きしニーチェよ

⑤温めて運転席でひとり喰ふコンビニ弁当こそわが至福

⑥消え去りし雪の精(すだま)と思ふまで白木蓮の花潔(きよ)きかな

⑦くれなゐの雨うつくしく降り初めぬ。ふるさと富山ふるさと富山

⑧一色の青き空こそ寂しけれ。鳥行かばその鳥がふるさと



独特の韻律感覚、と言っていいだろう。重く底ごもるような歌の重心の低さのようなものは、たとえば④、⑦、⑧の歌を読んでみるとあきらかになると思う。ふつう三句目でぶつっと韻律を切るというような行為は、歌に流麗な調べを求めるタイプの歌人なら決してしないことだとおもう。

ちょっと順番を前後させるが⑦の歌から鑑賞してみたい。この⑦の歌は、一見すると「ふるさと富山ふるさと富山」、と平板に言葉を重ねただけのような歌に見える。しかし、上の句で歌われているのは、かつて大空襲にあって町一帯が全焼してしまった富山の光景なのである。「くれなゐの雨うつくしく降りそめぬ」、でいったん韻律を切って、そのあとに祈るようにふるさと富山ふるさと富山とリフレインすることで、作者は底ごもるような情感を歌に身にまとわせる。こういう芸当は通常の歌人ならほとんどしないことだろう。この作者の重心の低さというのが、この一旦途切れるような、韻律の「滑舌の悪さ」からきているということは指摘しておいたほうがいいかもしれない。

⑧も同様の構造で、一度、一色の青き空こそ寂しけれ。とわざわざ読点まで打って、韻律を停滞させる。そのあとに、鳥が行けばその鳥にとってふるさとになるという発見を歌う。こういうなめらかでない歌の作り方というのは、作者が独自に、自分の文体の重心を低くするために身に付けた技術なのではないかと考えてしまう。

細部の韻律の斡旋も的確だ。

②は葛切という言葉が、非常に透明でやわらかい質感をともなっているが、それを思ほゆという言葉で一旦伸ばし、そのあとに「父かつて生者の側にゐて悩みゐき」と細かい言葉の連なりを情景としてやわらかく挿入している。これによって一首は独特の哀感を持つことになる。読後感としては、「父かつて生者の側にゐて悩みゐき」、という情景が非常に浮き立って見えるため、「葛切」と対応して情景が光って見える、ということになるだろうか。もう故人となられたのであろう、作者のお父様について、細かい「生者の側にゐて悩」むという行為が歌になまなまとしたリアリティを与えている。

何とも言えない不思議な読後感をもたらす歌だ。

⑤こういう内容に至福という言葉を挿入するのはふつうの作者では絶対に失敗する言葉の斡旋だろうとおもう。しかしこの作者の場合、喰ふ、という言葉がもつハ行の響きと、「コンビニ弁当こそわが至福」という結句のこまかい2音、2音、3音の連なりで、その言葉の挿入をあたかも自然であるかのように感じさせるという非常に不思議な、異端な言葉の作り方をしている。非常に不思議な成功例と言える。


①ディテールが細かいところが好きで、数珠持つ人に茶を勧めるという行為が、「法要の日」という連作のリアリティを押し上げているように見える。そのお茶の匂いと、おそらく法要という独特の空間が持つ線香の香りというのかが、読者に「過去世の匂い」などと言っても違和感がない感触を身にまとわせることができるのだろう。細かいところを歌った歌だ。

③喪失の歌。光というのは、たとえば「青春の光を~」などと改悪すると非常に陳腐なものになってしまうが、上の句のもろともに、でこの光がうまくはまっている感触がする。もちろん読者は青春の光を想像してもよいし、もっと神々しい、たとえば短歌の作歌上光のことを想定してもいいのかもしれない。いろんな解釈の余地を光に残すことで、光が多重性を放っている。そのうえで、「きみたちをいつ見失ひしか」という痛切な悔恨の情に思わず共感するという仕組みになっていると思う。

ここまで歌を引いてきて、ぼくのつたない鑑賞などどうでもいいかもしれない。とだんだん思うようになってきた。

Ⅱの歌は打って変わって、「海市行」というタイトルがつけられた短い一群の連作になっている。作者が高岡から東京に出てきたという描写を歌のなかで入れていて、おそらく東京のコンビナート群というのか、工場地を巡ったのだろう。その様子をまた重厚な文体で描写しているので、読み応えがあった。

やはり句読点の使い方に独特の工夫があって、リズムがある。あえてこの一群からは歌を引用しないが、一連として際立った描写力を感じさせる秀逸な連作だった。

Ⅲは「心無い歌」「竜宮までも」で社会について鋭い視点をはなったかと思えば、「花冷えの花」のようにややユーモラスな視点を持った日常詠。長歌とその反歌など、一連としてバラエティに富んでいて、読み応えのある章になっていると思う。特にラストの原発詠である「終曲/鉛が原」などは圧巻の出来栄えで、連作としてすごいなあと思わせる一連になっていた。

何首か引いて感想を終えたい。

①トイザラスへふいに折れゆくするどさを愉しく追つてハンドルを切る

②どこまでも許されてしまふ予感せり 花の向うになほ続く花

③裡(うち)に飼ふ畸形の蟲を見せ合つて笑ふ、五月の夜の深みで

④壁高く花の屍(ドライフラワー)逆さ吊り。羊歯を活けたる瑠璃皿のうへに

⑤五月闇、運転席に眠りゐる女ゲリラのごとき吾妹よ

⑥かつて花、真つ黒焦げに立ち枯れて夥しくも首ならべたり
  三月十七日午前十時前。福島第一原発。
⑦ヘリの影、霞める空に現れぬ。かかる祈りを国家と呼べり

⑧ふるさとは取り替えられぬ。くれなゐの同心円の中のふるさと

⑨とめどなく「線」を吐きつつ壊れゆく象たちよ いままで楽しかつたよ



1首目は軽妙な日常詠で、トイザラスへふいに折れゆく鋭さ、というのが楽しい見立ての歌。

2首目は同様な甘い感じの歌が多くてどれを選ぶか迷ったが、どこまでも許されてゆく予感、と花の向こうになお続く花、という言葉の対応関係がいいと思ってこの歌にした。

3首目、4首目、6首目は、完全に高島劇場である。畸形の蟲、花の屍といったどすぐろい見立てを通して、一首にする手並みはもはや余人には到達できないとおもう。

5首目、女ゲリラのごときという表現も高島節だが、自分の妹さんへの愛情のようなものがつづられていると思う。歌集を通じて、妹さんへの優しさが伝わってくる歌が何首もあって心に残った。

7、8、9は原発詠。イメージの形象のさせ方が見事な一連で、ドキュメンタリーのような雰囲気を持つ7首目。
8首目に寄せたふるさとへの思い、9首目の原発を「象」ととらえたイメージの形象力、どれも立ち止まって感心しながら読んだ。

この文章を書いている途中に。饕餮の家が寺山修司短歌賞を受賞したことを知った。
修司忌から一日遅れてしまったが、心からお祝いしたい。受賞にふさわしい価値のある、優れた歌集だと思う。
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