生沼義朗さん、『関係について』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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生沼義朗さん、『関係について』

読んでいて説明に困る歌集というのが、ある。いや面白いことは面白いのだけど、その面白さをどう伝えればいいのかわからない歌集というのだろうか。ただ読者として読むだけならいい。この『関係について』は、おそらく読みたいときに、まっさきに手に取る歌集だろうと思う。

だけど、この歌集の感想をかけ、ということになると話が別というか、うーん。読み終えたあと、どう面白さを説明すればいいのか、言葉に詰まる。

こういう歌がいい歌だよ、と言って説明を終える、ということは紹介の仕方としては一番簡単だ。

こういう構成になっているよね、と説明して終えるというのも簡単だ。

しかしこの歌集にはなんか全体を語りつくすときにどのような方法論で説明すればいちばんしっくりくるのか、ということがなかなか図りにくい部分がある。

読んでいて

「ああ、この人はすごく丁寧で几帳面な人だ」

という作者の「人柄」のようなことが問題になる。

そんな歌集のように感じた。

この歌集を作った人はまぎれもなく「生沼義朗」という作者そのものなのかもしれない。あまりにも「生沼善朗」という自己が過剰に立ちすぎていて、なんだか全体が「生沼義朗」というハンコが押された一つの風景のように見えてきてしまうというか。

「生沼義朗」は短歌を作るだけではなく、構成を決め、さらには装丁を決め、さらに後記にも律儀にも製作年代や歌集を作るにあたった経緯などもすべて記している。まるで設計技師が自分の家を作るときのような丁寧さ、几帳面さで。おそらくすべての歌人が構成を決めたり、装丁を決めたり、後記を書いたりということは普通にするのだろうけれど、「生沼義朗」はそのどれもすべて几帳面に丹念にすすめてしまったため、もはや歌集から残ってくるのは歌ではなく「生沼義朗」というその人のてざわりのみなのではないか、というような印象を持ってしまった。

                      ※

こういう印象を感想に書くのは、一応作者の死を宣告したはずのテクスト論的読みを展開する僕のような評者にとって、あまりいい傾向ではないかもしれない、と思いつつ、慎重に歌を見ていくことにする。

まず一点気になったのは、あまりにも几帳面すぎるために「まるで歌に奉仕してしまった」かのように見える連作をどう評価するかという点だと感じた。

たとえば「東京地裁四ー二号法廷」という連作がある。

「二〇〇四年二月某日、東京地方裁判所へ行く~」

というながい詞書が据えられたこの歌群は、「一体この作者は何のために、裁判所へ行ったのだろう」ということが全くわからない連作だ。

・あまりにも古典的なる顛末と女に法廷で淡くかかわる

・生きるとは所詮リスキイ なればこそ彼女は法を犯したるらむ

冒頭と最後の歌を引用したが、そもそもこの連作で扱われている事件自体、それほど目新しいものではなかったらしく、一体どういう必然性を持って作者がこの連作を歌ったのかがよくわからない。これ、単純に、「短歌を作るためだけに行った」のであれば、それはかなり危険なことで、ただ裁判を傍聴してぼおっと短歌を作っただけ、の連作に見えてしまう。もしかして、標題にもある「物語の失効後の世界を生きるため」にこんななんでもない裁判の傍聴などということをしたのだろうか。なんでこんな連作が入っているのかがわからない雰囲気の連作になっている。

次の「祝祭以後」も似たような手触りがある。

「一月某日、有明へ行ってみる」ではじまる長い詞書が寄せられたこの一連には、結局この作者がコミケのスタッフをやめてしまったこと、コミケが開かれる会場である有明へ向かったことが書かれているが、肝心の「コミケ」は開催されておらず、ただコミケの会場が開かれている有明に景色を眺めにいった、ということだけが描かれている。この連作は、先の「東京地裁四一二号法廷」と違って、幾分荒涼とした雰囲気が流れているために、連作としては読みごたえがあるのだが、「なぜそもそも」コミケが開かれていないコミケ会場の景色を見に行く、なんてことをわざわざしたのだろうか。何か「物語の失効後の世界を生きる」ことを表現したいがために、無理くり「コミケが開催されていないコミケ会場」という舞台設定を選んだのではないか。という疑念がひしひしと沸き起こってしまう。


そういう意味では連作としては、黒瀬珂瀾さんの「結婚式のために」富山へ向かった、という「北流まで」という連作のほうが出来がいいと感じる。ここには、連作とするだけの必然性が見えるからだ。

連作としての必然性が見えるところに、逆にこの歌集の核心と感じるだけの秀歌が次々と現れてくるように感じた。

「北流まで」から2首引く。


・北流を渉る橋桁 かくまでにはわが境涯は鮮やかならず

・つまらない日々へと帰る車中にて明日の昼食のこと考える

一首目、「かくまでにはわが境涯は鮮やかならず」という断言がとてもよくて、ほんとうに荒涼とした日々を生きているんだな、という感慨が一首から感じられる。「北流を渉る橋桁」という言葉のあっせんも派手さはないが渋くてとてもいい。二首目の「つまらない日々へ」という言葉もさりげない歌だが、明日の昼食のこと考える、というほんとになにげない日常の言葉の挿入が、読者を荒涼とした終末感のようなものへといざなう。単純に結婚式を褒めている一連ではなくて、その行き帰りの何気ない「日常」のことを描写するあたりに、生沼さんの生沼さんらしさがあらわれているのではないか。

ここらへんまで書き進めて、ようやく一首について感想を書ける時期が来たかも知れない。

たとえば1の歌でいいと思うのはこういう歌だ。

・水溶性では決してなきかなしみはかぼそき嘔吐をいくつも産みぬ

・トマトの皮を湯剥きしながらチチカカ湖まで行きたしと思うゆうぐれ

・動詞よりつきし地名をかりそめに過ぎることありたとえば押上

・人のせぬ仕事ばかりをせる日をばサルベージとぞ名づけてこなす

1首目は、あまりみない「かなしみ」の表現の仕方。「水溶性では決してなき」という言葉が妙に実感を伴って見える歌で、そのあとのかぼそき嘔吐という表現もとてもよく効いていると思う。なにか水溶性ではない、ということは油性のサインペンのようなものを思い描けばいいだろうか。そのイメージのあとにかぼそき嘔吐と出てくるので、ああ、油脂分にやられたのか(これは卑俗な解釈だが)という実感を伴ってくるあたりが面白い。


2首目はチチカカ湖という言葉のあっせんが巧み。歌としてはそれほど際立って新しい発見があるわけではないのかもしれない。たとえば日常のことをおもいながら非日常のことを思うというのは歌としてはよくみる構造だ。

しかし、「トマトの皮の湯剥き」という言葉と、チチカカ湖という言葉の飛翔力はちょっとみないくらい独特の響きをこもらせている。

3首目、なんというか発見を歌った歌なのだけれど、「たとえば押上」と韻律にのせてぐいっと押し出してくるような感触が見事だ。「動詞よりつきし地名をかりそめに過ぐることあり」という上の言葉から、一気に「たとえば押上」と引っ張ってくる、この押し出すような韻律の魅力を体感できる一首。

4首目 作者の実感が伴っている。いい歌だとおもう。「人のせぬ仕事ばかりをせる日々をサルベージとぞ名付けて過ごす」というのは、下手をすると単なる散文のような気がしないでもないのだが、この歌は独自の視点を持って歌われた「サルベージ」という言葉のあっせんが響いてくるので、その感触がとてもいいと思って読んだ。

逆に1から。これはだめだと思った歌。

・浮力なる理屈に体(たい)をあずけたりまずは読むべし水のテクスト

・越境という語を思う埼京線に乗って赤羽過ぎてゆくとき

・永遠に来ぬ革命に焦がれつつわが口ずさむフランス国歌

これらの歌は理に落ちすぎてつきすぎている。湯船に入ることを、理屈に体(たい)をあずけて、水のテクストを読むべしというのは発見としては面白いのだが、なんというか、歌として無理やりに「テクスト」という言葉を挿入してしまったかのような印象。

2首目は赤羽過ぎていく、と越境が付きすぎ。わりと発見が平凡なのではないか。

3首目も、革命に焦がれつつ、という言葉で何か期待させられるのだが、わが口ずさむフランス国歌ときたところでちょっとがくっとなった。革命とフランスが付きすぎだろうと思う。

                 ※

ここまで慎重におもにⅠについてみてきたが、なんだか褒めているのかけなしているのかわからない感想になってきたことをちょっと後悔している。

僕は個人的には生沼さんの歌集、かなり面白いと思っている。

Ⅰはやや、作り込みすぎてあざといかな、と感じた部分もあったが、

特に構成としてはⅡとⅢのほうに、読み応えのある歌が並んでいると思った。

・居間のテレビつけっぱなしに台所に立てば低音のみが響きぬ

・隣室で水使う音が漏れている生活感と言えばそれだけ

                        (「関係について」)

・おのずから出でにし水をきっかけとして室温に苦瓜(ゴーヤ)は濁る
                        (「生活の鳥」)

 駅前再開発事業キャッチコピー
・東北線ひたすら下る車窓には〈これでいいのか北上尾〉とある

・葱畑過ぎてなお夏、本庄にかつて保険金殺人ありき

                         (「信州行」)

最もおもしろいと思ったのは「中国の地図 〈差異をめぐって〉」の一連だろうか。

・教養の敗北としておさなごに当て字のごとき名前の増える

・信教を持たざるゆえに教会へは行かず精神科を訪いぬ

たとえばこれらの歌は、日本社会の内部へと分け入ってくるような批評性のあるリアリティを持った歌だ。

1で、「日本人は刻苦勉励をこのむゆえ最終回にクララは歩く」という歌があったが、ぼくはこの歌は日本人は、というくくり方が大雑把で、自分が含まれていないような気がして、あまり好きにはなれなかった。それよりも、この中国の地図の2首は、自分自身が日本社会に降りていって歌ったという冷え冷えとしたリアリティがある。教養の敗北、信教を持たざるゆえの精神科、いずれも冷え冷えとしたリアリティを感じて立ち止まった。


Ⅳ以降も見ていきたい。派手さはないが、着実に細部をつかむというか、いいところを渋く見る、という感じがして僕はその感触がとても好きだ。


・体育会系から右翼へ至るごとき父の思考をはつか羨む

・関係をひとつ見送る日曜に一回性の雨は降りおり

                         (「一回性の雨」)

・選挙速報見ては気づけり万歳は背広のかたちが崩れることに
                         (「リリシズムの行方」)

・インディアン・ペーパー一枚ずつめくるごとくに春の失調は来る

・労働を維持するために一箇月の医療費が二万円を超えたり

                         (「春の失調」)

・突如、脱水モードに入る洗濯機そのように怒りたきこともあり
                         (「東京にいる」)

・透明なひかり満ちいる天空に鳥語圏とはどのあたりまで 
                         (「歩速」)

・ファミレスで深夜に茂吉読んでいるわれはおそらく晩婚ならむ
                         (「何川})

・暑いからか暑いからなのか買ってきたオクラの先が一晩で割れている
                         (「やじろべえ」)
・ソフトバンクに変わりしネオンは帰り路に喪の家の紋のごとくかがやく
                         (「チキンファーム」)
・要はつまり肩書きのあるその日暮らし、自分で会社を営むことは

・率(い)るものも養うものもなき身なれどそれでも働くほかにあらざる
                         (「働く」)
・物語の失効という物語ひとかかえにして表に行かな
                         (「物語」)

僕が面白い、と思った歌は、こういう歌だ。いずれも等身大の生沼さんの姿が、ほんとうに歌集にぴったり寄り添うようにして紡がれていると思う。その意味では、地べたに足をつけた生沼さんの苦悩や生のなまなまとしたリアリティが歌集から漂ってきているように見えて、それを楽しく鑑賞した。

東日本大震災以降の歌は、あえて歌集には掲載しなかったという。

さて、このように荒涼とした風景を、地に足をつけて展開した作者が、一体どのような立ち位置であらたな作品世界を見せてくれるのか、楽しみに待ちたいと思う。

本来なら歌集の批評会に参加するはずだったのだが、諸事情によりうかがうことができなかったので、拙い一文を持ってお詫びに代えさせていただきたい。


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