「外大短歌」3号 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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「外大短歌」3号

「外大短歌」3号を拝読した。
昨年の暮れごろだったか、ちょっと時節ははっきり覚えてないけれど丁寧な肉筆のお手紙を添えて送っていただいた。

学生のみなさんの短歌を読むのは楽しい。
未知な方との出会いとか、新たな若い表現を発見する楽しさ感じとることができる。

各地で学生短歌会が活発になって、いろいろな大学の短歌誌が届くようになってきている。
ツイッターとかでの交流もどうやら活発なようだ。

僕自身は、学生時代には短歌に触れて来なかったので、学生のときから短歌を続けるアドバンテージというのを痛いほど知っている。

ぜひいろいろな方のご意見を頂いて、「自分の作品が読まれる」ということの楽しさと、難しさを、是非感じていい作品を作り続けてほしい。学生短歌のアドバンテージは、なんといっても学生が終わってからも短歌を作り続けることで、仲間とつながっていくことができることだろうか。

ぜひ短歌、続けてくださいね。そう心から思っています。

こちらのブログでも、ささやかですが僕はこう読んだという個人的な意見をできるだけ丁寧に述べていこうと思います。

ブログは、しばらくまた学生短歌紹介シーズンに突入。

学生の皆さんの短歌、丁寧に読んでいこうと思いますので、「逆にこの批評はおかしい」ということがあったら、みなさんもぜひ遠慮なく仰ってください。ご指導ご鞭撻くだされば幸いです。


山崎春蘭さん「街」

とても好感を持って読んだ。落ち着いた静謐な抒情というのを一連から感じとることが出る、非常に雰囲気を持った作者だと思った。

・水鳥の頸のかたちの親指が吊革にあり首都冬に入る

・サンフランシスコの大きな妹に笑われているような静けさ

・曇り窓から透ける照明のごと かたわらにひとが来ている



一首目、多分、おそらく親指だけを吊革にひっかけている人がいたのだろうか。それを水鳥の頸のかたちの親指、と表現しているところが面白い。電車とかバスの吊革というのはもうちょっと殺伐とした光景なのだけど、それを詩的に押し上げるというか、「水鳥の頸のかたち」と表現することで、静謐な雰囲気を漂わせることに成功している。下の句、首都冬に入る、これは「いる」と読んだが、首都という言葉は一見遠いようだけど、少し硬質な響きが詩としてリンクしている表現なので、成功したいい表現なんじゃないかなと思った。うまく静謐な感じを歌に織り込んでいるとおもう。

二首目、あんまりみない瑞々しい直喩で、サンフランシスコの大きな妹に笑われているような、という言葉からは、そうだな、何を感じ取ればいいんだろう。これは「笑われている」と書いてあるから、ほんとうは明るい雰囲気の歌だととりたいんだけど、どうもそういう感じではなくて、何か遠いもの、はるかなもの、そこから漂ってくるほんのちょっとした寂しさ、みたいなものを僕は逆に感じとった。サンフランシスコも現実のサンフランシスコでもいいが、音感からすこしほんのりした抒情を感じる。一連のなかで一番好きな歌。

三首目、一時空けがきれいに決まっていると思った。これも直喩の歌なのだが、曇り窓から透ける照明のごと、で一旦一時空けが入ることで、上の句の映像がきれいに立ちあがってくる。そして韻律を一回字あけでやわらかくためて、かたわらに人が来ている、とくる感じ、温かさを醸し出していて、いい表現だと思った。上の句の字足らずも気にならなかった。おだやかで温かい気持ちになれる歌。

山崎さんの歌は、いい感じなんだけど少し音数あやしいところがあって、たとえば後半のこういう歌はあんまりいただけない。


・何ひとつ声にだすことないことの夕べ牛乳(ミルク)でパンを煮詰める

下の句が言いたかったんだろうけど、それにあわせるために何ひとつ声にだすことないことの、と「ことの」を2回連続で入れているような感じがどうもよくないかもしれない。「何ひとつ声にだすことない夕べ 牛乳でパンを煮詰める」とすればきれいに定型。この「ことの」の二回詰め合わせにあんまり必然性が感じられないので、ちょっと無理やりすぎる印象。ここが面白いという意見もあるかもしれないけど。

・暗がりに胃を横たえる 隣人の電話の声の止んだ後の


これは逆に字足らず。字足らず、結構冒険なので、あんまり安易に字足らずにはしないほうがいいかなというのが個人的な見解です。この歌の場合「の」っていう結句は不安定な結句なので、まあ入れられる、って言えば入れられるんですが、その前にも「隣人の電話の声の」と「の」が連続するので、ちょっとまずいのかなあという感じ。結句、「声が止まった後の」、ぐらいで定型に納めておいたほうがこの歌は「の」の浮遊感が生きる感じがして、少しもったいない印象。

・微笑もて彼女とガールフレンドと指輪とわたしと夜のうち

これも2音欠落。まあ指輪とわたしとが8音に読めてしまうので、夜のうちが5音。夜のうちがわ、ぐらいで7音定型におさめたほうがよかったとおもう。あと、この歌は上の句の微笑もて、がなんかふいっと文語っぽくて、ここも音数合わせで入れたのかなあという雰囲気がしないでもない。これは全部口語で、と、と、と、と。でつなげていったほうがよかったような気がする。あと歌意ですが、彼女とガールフレンドって同じ意味?? ちょっとそこだけわからなかった。

ただこの作者の詩的表現の鮮烈さというのは十分感じとることができた。ぜひ続けてほしい作者。


高畠亮輔さん「地面で暮らす人」

勢いのある文体。そしてなんかドライな世界を歌おうとしているのかな。力強い印象を一連から感じた。


・はんざいしゃなりたかないですスリッポンシューズのかかとを踏んで歩くも

・野菜ジュースが死体の如くどろどろと注がれている私の口に

・祇園寺にマヌケな鳴き声響かせるフクロウは体がなくてもしあわせ


1首目 勢いがあるのがいい。スリッポンシューズというのは革靴の、要するにひもで結ぶ必要のない靴のことだそうだが、すごくかっこいい韻律だな、と思って引かせていただいた。歌意としてはすごく明瞭で、ひらがなで開いた「はんざいしゃなりたかないです」というのがなんだか実感を持った手触りがあって、そのあとにスリッポンシューズという言葉のもつ固い語感かな。それがうまく響き合っていると思う。

2首目 ちょっとこの作者オノマトペにあんまり癖がないかなとおもっていて、その癖のなさがちょっともったいないという気がするんだけど、このどろどろと「死体の如く」という比喩がまずはきれいに決まっている感じがしていいと思った。野菜ジュースという本当は健康の象徴のようなものを、死体の如くと表現するのはとてもいいと思う。

3首目 この歌が一番好きな歌。祇園寺ってどこにあるのかなと思ったら、これは京都ではなくて調布とか高槻にあるのだという。もし京都をイメージして作っているのなら正確じゃないから変えたほうがいいと思うけど、多分調布にある身近なお寺のことを歌っているのだろうと思って読んだ。マヌケな鳴き声という言い方がちょっとドライな感じで、フクロウは体がなくてもしあわせ、という発見というか作者の思いの強さのようなものが破調とあいまって成功していると思う。かっこいい感じの歌だ。

あとはそうだなあ、しいてという感じになるんだけど、ちょっと平板な歌もあるかな。と思う。

・真っ青に空を映せる水の中逃げろよ逃げろオオサンショウウオ

勢いがあっていいんだけど、これどちらかというとやや散文的、っていう批評をされてもしょうがない歌かなあと思っている。読む人によっては、そのまんまじゃん! というか、わりと平坦な感じで、一首の詩的な密度が低い。あと口語調の歌なのに、空を映「せる」って、文語が一か所だけつかわれてるのも僕はちょっと気になった。


・コロンブスの潰しし卵の割れ目よりどろり白身の沁みゆく世界

うーん。これもまとめちゃったかなあ。という感じ。世界っていう言葉で、短歌の結句を終わらせるとどうしてもああそういう「世界」なのか、ということで結句が「まとめ」っぽくなってしまって、読者に「そうですか」という印象をあたえてしまう。やや説明的な感じが惜しい。

・梅雨に濡るるものみな生の途上なり蛙も烏も鬱々として

これすごくいい歌に化ける予感がするんだけど、生の途上なり、まではすごくいいと思う。ただ、結句、「鬱々として」という感じで、下の句に何か主観的というか、心情告白的な描写を入れちゃったのが惜しい気がする。「鬱鬱として」という言葉が入ると、余情がでなくなっちゃう。気持ちはわかる。ただ上の句の発見はすごくいい歌。

本馬南朋さん「曳航船」

うーん。雰囲気はすごくいいです。雰囲気はすごくいいし、才能、力量ともに十分なものがある作者だと思うんだけど、今回の連作でいえば、文法と仮名遣い、なんか変だ、と思った。僕も歌人のなかでは仮名遣いがおかしい、文法が相当おかしい、って言われてきてここまできてしまったので、僕が指摘するっていうのは筋違いな気がしないでもないんだけど。一連としては読みごたえがありました。

・ワイシヤツと夏のかげらう もつと手を伸ばしてゐれば、走つてゐれば

これまずいい歌なんだけど、カタカナは表音主義なのでワイシャツでしょうか。そのまえの歌がシャベルになっているので、ここだけ大きいヤを入れるのはおかしい。あとかげらうも、かげろふでは? かげらうという表記をしているのは梶井基次郎あたりで、もしかしたらそちらの影響なのか、ともちょっと考えた。

歌意としては、ワイシャツと夏のかげろうという何かはかないものを持ってきて、そのあとで、もっと手を伸ばしてゐれば、走つてゐれば。という作者の切実な思いが伝わるいい青春歌だと思う。ドラマティックな歌を作れる作者だと思って感心した。

・あの日よりヘッセに栞を置きしまま灯台守の帰らぬ岬

ちょっと下の句が意味を取りづらいが、実景としても読めるし、なにか心象風景としても読める。落ち着いた、たとえば洋書屋さんのような香気が漂う歌。灯台守の帰らぬ岬、で、自分の心の中のことを述べていると読んであげたほうがこの歌はいい歌になると思う。要するに自分のこころのなかの空洞のようなものを岬と表現しているんだと思う。いい歌だとと思った。

・港までの三等客車に背を丸めキリンにまたがる夢を見てゐし

港とか、三等客車とか、ちょっとなつかしいというか異国のフィルムのような雰囲気の漂う歌で、実際の光景ではないだろう。そのイメージの立たせ方がとてもいいと思う。ただ結句は、これ、連体形でとめているけど、こういう止め方して大丈夫なんだろうか。見てゐき、としっかり終止形で止めたほうがいいんじゃないだろうか。きが過去できついなら「をり」とか。道具立てはそろっていて雰囲気も出ているだけに結句の止め方はこれでよかったのか悩む。

・「私(わたくし)は生きてゐます」と瓶手紙したためど猶ほ異郷に沈む

困ったな。感じはよく出ている歌なんだけど文法があやしいところがあって、したためどなんて聞いたことがなくて大いに悩む。古語辞典ではしたたむはマ行下二段活用の動詞。どは已然形につくので、したたむれど、という言い方のほうが適切のような気がするんだけど。これ新しい表現なのかな。見たことがないです。

瓶手紙っていうのは島か何かで瓶に詰めて流す手紙のことだろうとおもう。いつか陸の人に海を越えて伝わるだろうという願いを込めて手紙をしたためる。その手紙を書いたけれども、自分の心は異郷に沈む、そういうのは感慨としてわかるが、この文法のことと、あと異郷に沈むは作者の情感をすこし盛りすぎた印象があって、本当はここで感慨をどばっと流すよりも、かるく描写しておいたほうがよかったかもしれない。たとえば「「私は生きてゐます」と瓶手紙したため海の向かうに流す」、とか。(あくまで拙い改作なので…参考にしなくていいです)

その辺が気になった。ちょっと旧かなの人、ほんとにあってるか、外大短歌内で揉んでほしい。

で、旧かながあやしいという点で、少し順番を変える。

すごい違和感のある文体で50首連作を発表した作者が藤松健介さん。
藤松さんの歌は文法が変というより文体が変わっている。

「幸ひにも生かされて来たること」50首。


すごく最後のほうに不思議な一首があって、それにしばらく考え込んだ。

・川を見に行かうと言つてくれし時のあなたの顔を思ひだしたり

言つてくれし…。

しばらく考え込んだ。これもともとの発想、口語、ですよね。
言ってくれた、っていう。それを文法だけ「し」にした?

この口語と文語が混じり合っている旧かなにしばらく考え込む。

んー。もしかして気分で、旧かな使ってないですか。
なんかもやもやっとした歌が続くので引いてみる。

・ごみ処理場の要塞のわきの川べりでとほくの花火見き 音のなき

これも言いさしで文語で「なき」とくるかあ。という前に、これは口語で歌ったほうが情感が出ると思う。

ごみ処理場の要塞のわきの川べりでとほくの花火を見た 音のない

という発想だよな、と、おもう。とほくと言っているのだから、実はこの歌「音のなき」がすごく不必要で、情感を盛ろうと計算したのだろうが、逆に不自然になってしまったのかなと思った。

発想が口語なのに、突然文語旧かなに変わるというあたりが、納得して読めない。


・神の鳥の翼が焼けそむるまでの煙草を吸つてただ吸ひ終へつ

煙草を吸つて、が口語調。なのに吸ひ終へつ、が文語調。これ、どう解釈すればいいか。こういう口語、文語混じりの歌、あんまりいい歌に見えなくて、ただ考え込む。。。

あと。の、もあやしくて、これ何にかかっているのかよくわからない。焼けそむるまで煙草を、でつながる歌。韻律にも貢献しておらず、どう解釈していいか悩むのである。

ののあやしい歌、まだある。

・もうながく動悸のやまずとりあへず寝転んだままじつとしてゐる

これははっきりと「動悸が」とか「は」のほうがいいでしょう。「の」は不安定な主格なので、あんまり僕は使わないです。

この50首連作では、逆に作者の口語調と文語調のおさまりの悪さというか、不安定すぎる文体が露呈してしまって僕は楽しく読めなかった。文語を入れるのをそもそもやめて、荻原裕幸さんのように旧かなだけど安定感のある口語にするのか、それとも近代短歌の文語調を摂取して文語をシャープにしていくかのいずれかだと思う。この文体はちょっと僕は納得できない。これを指摘せずに褒めるのも、納得いかない。

とりあえず作者がフジファブリックが好きで、志村さんにオマージュをささげていることと、いい歌もいくつかあったが、この作者はここで褒めるとよくないという気持ちが働いて、褒めるほうをなくなく割愛する。


続いては、黒井いづみさんの歌。

2000年代の口語短歌、ぼくが短歌を始めたのは7年前だが、そのときには口語が全盛期で、何人もきらきらとした口語短歌を作る作者が歌集を出していた。

天野慶さん、伴風花さん、佐藤りえさん、そして大先輩だけど、東直子さんとか。

その人たちの口語短歌には共通した特徴があった。ちょっと例を出してみる。僕が短歌にはまったきっかけになった歌たちだ。

・歯みがきをしている背中だきしめるあかるい春の充電として(伴風花)

・この道は春に花降る道となる パラダイスとは変化するもの 〈天野慶)

・キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる(佐藤りえ)

ちょっと表記があいまいなのだが、まあ軽い感想だと思って書いているのでその辺はご容赦を。

棒立ちの歌、とかいろいろと批評用語が飛び交っていたような気がするけど、この人たちの歌は僕は全然「棒立ち」だとはおもわなかった。一首のなかで、言葉の、あるいは発見の核心みたいなものがあるから。伴さんの歌では、「充電として」が効いているし、天野さんでは「パラダイスとは変化する」という発見がきいている。佐藤さんでは「キラキラ」をそのままもってきた発見がいい。


こういう歌にあこがれて僕は口語短歌から短歌に入ったのだけれど、黒井さんの歌は僕があこがれてきたこういう口語短歌に比べて、衝迫力というか、何か発見したから歌ができた、という感覚が弱いと思う。

むしろ言いたいことが先にあって、それに向けて韻律を乗せて言ったような感じ。

以前、馬場めぐみさんの歌を「率」の感想で思いっきりスルーしたことがあったけど、そのスルーした意味というのは、やっぱりこれは僕が憧れていた口語短歌ではない、少なくともそれの進化形ではないな、という印象を持ったからだった。

発見とか感動があって、それを伝えるために短歌を作る、というのがやっぱり最低限のルールで、ことが先にあって短歌を作る、というのはちょっと違うんじゃないか、と思う。

・あの人はこういう歌が好きじゃない だけどわたしは好きだし歌う

・捨てられる側でもいいのもっといい人に絶対拾われるから


こういう歌、完全にことが先行していて発見の気配が全くしない歌だと思った。
こういう歌をいいと思って作り、それが評価される基盤が整っているのならば僕はまったくこういう流れの外にいることになる。

僕がある時点から口語に見切りをつけて文語短歌を作るようになったのは、正解だったと自分で思うことにする。

黒井さんの歌のなかには、淡いが、発見の核みたいなものが透けている歌もあった。


・見たくても見られないのが虹なんだ きっとあなたに会えてよかった

・次もまためくるかどうか分からないページにばかり栞をはさむ

・お守りを買い集めてるみたいです 日々を真面目に楽しく生きて


連作「おひとりさま」の後半の3首。特に2首目はとてもよいとおもう。淡いがしっかりしたものの手触りがあって、その感触が一首をひっぱっている。

3首目とか、上の句はいいんだけど、下の句で短歌として、「真面目に楽しく」なんて挿入しても大丈夫なのかな。こんなに形容詞をじゃかじゃかつかって気持ちをつたえたら、逆に余韻が伝わって来ないだろう、と思う。

黒井さんは評論をすごくしっかり書いていて、その結語で

「豊かなイメージと、愛情に裏打ちされた弱さと強さが織りなす世界」と雪舟えまさんを評している。

ぜひ黒井さんにも、まずは豊かなイメージのようなものを歌に刻印させてほしいと願っている。


最後はOBの作品だが、石川美南さんはもう取り上げたので割愛させていただきます。


千種創一さんの作品は、はじめて拝読したが、

「完璧な連作」

「口語でなし得る今の短歌の限界のすべて」

「たとえるなら、全部幻燈機のような秀歌」

という、最高の手ごたえを感じました。

10首全部、完璧です。この10首のためだけにでもぜひ外大短歌を。と思いました。

とにかくおすすめします。引用も具体的な感想もいいません。

長々とお付き合いくださって、ありがとうございました。
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