三月兎はなぜ忘れ去られたのか? 〈初出:「未来」2009年11月号) | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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三月兎はなぜ忘れ去られたのか? 〈初出:「未来」2009年11月号)

 2007年に六花書林から『仙波龍英歌集』が刊行された。これによって、第一歌集『私は可愛い三月兎』を含めて、仙波龍英の歌業にあまねく触れる機会を得たことになる。林あまり、中山明、加藤治郎、俵万智らとともに「ライトヴァース」と呼ばれ、一世を風靡したと伝えられる仙波龍英だが、その過去の名声に比して、彼を理解・再評価するための資料は決して多いとは言えない。また、藤原龍一郎を始めとした同世代の優れた理解者に比べて、若い世代への浸透度はいま一歩という感を否めない。
 森本平が、当時ライトヴァースの話題の中心にいたのは仙波龍英であったと言う時代状況を示し、加藤治郎、俵万智のみが「ライトヴァース」の中心的存在であったという印象を払拭しようと試みている*1。しかし、残念ながら私たちの年代のなかで、加藤、俵よりも仙波にネームバリューを感じるという人間は稀少であろう。森本自身が「仕方ない」と述べているように、加藤、俵は未だなお現役で活躍し、短歌界に影響力を保持しているのに対して、仙波はかなり早い時点で短歌から遠ざかってしまった(その点は中山明も同様だが)。現代の状況から逆算して、ライトヴァース=「俵万智・加藤治郎」、つまり漠然と「口語体」を思い浮かべてしまう若年の読者は多いのではないだろうか。
 確かに仙波が未だに存命で、今日でもホラー小説などで高い支持を得ていれば、状況は多少は変わったのかもしれない。ただ、同じように初期歌集発表後に短歌から一度遠ざかった村木道彦や平井弘が、作品未発表中も、後継世代の短歌に多大な影響を与えていたことを考えれば、必ずしも活動期間と後続世代への影響は比例しているわけではないように思う。どうして仙波龍英のような個性が、後続世代にほとんど影響力を持っていないのか。多くの偉大な歌人がそうであるように、亜流とも言うべき多くの後継歌人を生み出さなかったのか。仙波がライトヴァースであるか否かという線引きをする前に、少しじっくり考えてみたい問題である。
 短歌史において仙波を高く評価する点として挙げているのが、風俗やサブカルチャーを積極的に作品世界に取り込んだ点である。もちろん、ただそれだけなら「ポップ」や「先鋭的」という一言で片付けられてしまいそうだが、多くの評者が指摘するように仙波の作品世界は決して「軽く」はない。「硬派のクルシサの化粧」*2(小池光)、「存在することに対する仙波自身の苦しい違和感」*3(川本千栄)といった、極めて「重い」評が並ぶ。
 「固有名詞を短歌に取り込む」と言う技法の継承性については、池田はるみの指摘*4が先行するだろう。池田は仙波を連想させる歌人として、笹公人・斉藤斎藤の短歌を挙げ、歌のなかの語句が「一首の中で、作者とは直接関係が無いのに無理やり関係してくる存在なのだ」としている。その一方で、「一首に固有名詞が目立っていて、歌っている作者の心が見えがたい」点を面白いと指摘する。もちろん池田は、確定的な影響関係を述べているわけではないが、私見では、一首単位ではなく歌群として見た場合、笹公人や斉藤斎藤の短歌に仙波が直接の影響を与えているとは考えにくい。
 
 ・メールでは加藤あい似のはずだった少女と寒さを分かつ夕暮れ(笹公人)
 ・トキワ荘のまぼろし浮かぶ夏の路地 誰かのベレー帽を拾った
 
 笹の短歌の良質の部分には、誰でも共感しやすい抒情性やノスタルジーが底流にあり、さりげなく笑える一首目に置かれた「夕暮れ」や、トキワ荘の「夏の路地」といった、読者にイメージを共有させやすい場面設定が施してあったり、アイテムが使われていることが多い。池田が取り上げている一首、

 ・ヒロスエと縁はあるかと問われおり黒いリュックを背負う男に

 は、私の解釈では「ヒロスエと縁があるか」と尋ねた男は、いわゆるオタク男子であるという読みと同時に、当時の映画「WASABI」で広末涼子を口説いたと噂されているリュック・ベッソンがかけてあるのだろう。映画の中でも黒服の男をジャン・レノが演じていることからも、この「黒いリュック」には「WASABI」のややスキャンダラスなゴシップも組み込まれていて、わかる人はくすっとするという構造になっていると見るべきだと思う。
 本質的にアイテムや場面を歌のなかに馴染ませることで、一首を構築する笹の世界には、いわゆる陰惨さとは無縁な抒情性や共感できる笑いが滲んでいる。ライトヴァースの歌人と言う点では、むしろ俵万智に近い感受性すら感じさせるのではないだろうか。
 斉藤斎藤はあえてここでは詳述しないが、やはり仙波とは別の回路から言葉を発している歌人であると言うことは指摘しておかなければならない。

・雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁(斉藤斎藤)

 この一首は、「のり弁」を「のり弁」そのものとして出す即物性が斬新なのであり、この歌の場合、仙波とも笹とも固有名詞の使い方は大きく異なっている。斉藤は言葉の繰り出し方が特異な歌人であって、必ずしも固有名詞にのみこだわる歌人ではない。確かに仙波と笹はかなり意図的に固有名詞を多用しているが、そこから醸し出される抒情質は大きく異なっていると言っていい。技法の継承という点ではなく、抒情質の問題も考えて見るべきだろう。笹は仙波の底流にある「硬派のクルシサ」を、受け継いではいない。
 もう一度、なぜ仙波の系譜が、現代の若手に受け継がれていないのかという問題に戻ろう。それは、仙波自身の問題もあるだろうが、当時仙波が感受していたはずの「サブカルチャー」という言葉で括られるイメージが、80年代と現代とでは大きく変質しているということも指摘しておいて間違いはないだろう。
 私のかすかな記憶*5を頼りに論を進めることになるが、80年代から90年代の初頭にかけてのアングラ・サブカルチャーの中心は、アニメーションではなく、むしろホラーだったように思う。特に欠かせない映画として挙げられていたのは、70年代後半に登場したジョージ・A・ロメロ監督の「ゾンビ」三部作や、ダリオ・アルジェントの「サスペリア」など、視覚的刺激の強いホラー映画だった。81年にルチオ・フルチの「地獄の門」「ビヨンド」「サンゲリア」、82年にはサムライミの「死霊のはらわた」がヒットし、スプラッタというジャンルが確立されることになる。これ以降、ホラーは恐怖よりも残虐性・猟奇性を追求するようになり、「食人族」などのモンド映画も脚光を浴びるようになった。80年代後半にビデオが家庭に普及した影響も大きく、これらの作品は、「ゲテモノ」と呼ばれながらも、レンタルビデオのラインナップに並ぶことになる。私が中学生のころ専ら見ていた映画は、レンタルビデオで借りたこれらの映画だった。その残酷な表現にある種の嫌悪感を抱きつつ、同時に自虐的な笑いを持って鑑賞し続けたのを覚えている。
 実際に仙波が書いた小説『ホーンテッド・マンション』*6では、このスプラッタ映画と同質の猟奇性が指摘できる。蚯蚓の群れの中に全裸で横たわり性の快感を得ようとする女性を描いた「桃源の館」、「恐怖の痙攣的美」を追求する詩人が、自分の恋人の妹たちを猟奇的に殺害し、その恐怖の表情を保つためにホルマリン漬けや蝋人形にしてゆく「淫獣の館」など、エロスとグロテスクと狂気を追求したこれらの作品の背徳性は、まさにスプラッタの「ひきつった笑い(恐怖の痙攣的美)」と近似しているのではないか。
佐藤通雅は『リアルタイムの短歌論』*7において痛烈に仙波を批評しているが、この指摘はある側面で正鵠を射ている。
 「これはいっぱいくわされたと思った後、おのずと連想されたのは性産業のことだ。(中略)はじめの頃、舞台の女性はチラリチラリとのぞかせるだけで、ウィットに富んでいた。ところが観客はそのものズバリを見なければ満足しなくなる。そこでズバリズバリと股間を開くようになるわけだが、そこから後は何もない。なくてはたちまちあきられてしまう。やむなく次から次へと新しい手を使う。(中略・『私は可愛い三月兎』の一連を批評して)しかしこの方法によっては、どこまで行っても横すべりするだけだという批判は成立するだろう。先端を行くために固有名詞や風俗に寄りかかっていけば、とめどもなくそれらを追いかけるほかなくなる。しかも並列的である。つまり一回ズバリと見せたら、客の目をそらさないようズバリズバリとやっていくほかない。こうなると企画する方は次の新手を見つけることに四苦八苦し、客だってズバリの刺激に疲れはて、にもかかわわらず刺激を求めてまた足を運ぶ。いずれも行者めくのはゆえなしとしない。」(引用原文ママ)
 この批評の文脈は、仙波の短歌の批評というより、仙波の短歌の背景にある当時のサブカルチャーの動向にそのまま当てはまる。スプラッタは映画興行としては80年代後半に急速に失速したが、その理由は方法の過激化、マンネリ化がもたらした客離れだった。まさに「ズバリの刺激に疲れはて」たのである。直接的、猟奇的な表現はサブカルチャーの前面からは姿を消し、同時にこれらのスプラッタを「引きつった笑い」を持って見る、ある種の自虐的な鑑賞態度もほぼ失われたと言っていいだろう。
 実際に、仙波の短歌の最も重苦しい部分は、極めて直接的であり、露悪的であるがゆえに、読むものに自虐的な重苦しさを強いてくるスプラッタの鑑賞態度に近似している。

 ・ぬるき雨ふりしきる真夜さかな焼く死者の夜明けを待ちわびながら (『私は可愛い三月兎』)
 ・日没のひかりにをんな眉ひそめ屍肉煠める手をやすめたり
 ・幾億も頭(づ)に鬱ならびそむ夜半(よは)を舌のしびれるまでの飲食
 ・熱帯に畸型の蛾溶(と)け獣とけひととけゆく夜(よ)しづかに狂ふ
 ・死のはひのごとく花ふる平凡をせつなく愛す脱糞のさなか
 ・蟹の甲割って糞状くさきもの指の腹へと乗せてしゃぶりぬ

 仙波のこれらの歌では、4首目の「畸型」や5首目の「脱糞」など、日常語では口にするのもはばかられるような表現が露骨に歌われ、特に快楽の中心である飲食が、死や鬱と絡めて歌われる点は興味深い。最も秀逸なのは6首目の「蟹を食ふ」の一連だろう。通常は快楽であるはずの食事が、まるで排泄のように歌われるというスカトロジーに似た感触が、読むものに重苦しいが、ある「引きつった笑い」を誘う。
 仙波龍英のこの自虐的とも言える作歌姿勢は、母の死を歌った一連で一つの達成を見る。

 ・ひら仮名は凄(すさま)まじきかなはははははははははははは母死んだ
・まる焼きの、かんぺきにまでまる焼きの母はいまだに母であらうか                  (『路地裏の花屋』)

 自身の母への挽歌としてこの「痙攣的な笑い」を捧げ、さらに「かんぺきにまでまる焼き」とまで露骨に歌う仙波の短歌は、狂気を突抜けた「ひきつった笑い」にまで到達したと言えるだろう。しかし、この狂気を突抜けた凄みは、その背景となるカルチャーの停滞にともなって消失したのかもしれない。人口に膾炙していると思われる母への挽歌にくらべて、より重苦しい『三月兎』の前掲6首は、ほとんど短歌的には注目されていないからだ。仙波龍英を受け継ぐことは、仙波の美しさを発掘することではなく、固有名詞の影に隠れたこれらの自虐的な世界観を引き受けることであると信じる。その意味で、清潔で健康な現代短歌たちにまみれて、仙波は鑑賞態度そのものが忘れ去られてしまった歌人と言うべきかもしれない。仙波は忘れられたのではなく、目を背けられたのだろうか。

*1森本平「三月兎の死-先駆性への墓標」(「季刊現代短歌雁」18・2002年12月号・雁書館)
*2小池光 「解説 うさぎはどこで跳ねるか」(『仙波龍英歌集』・2007年・立花書林)初出絶版のため代用
*3川本千栄 「仙波龍英 ~ 風俗詠と雪月花 ~」(「D・arts」第7号・2005年4月)

*4池田はるみ「歌壇時評 『仙波龍英歌集』を読んで」(「短歌」・2007年9月号・角川学芸出版)
*5この記憶の実証にあたっては、友成純一『内蔵幻想』(1993年・ペヨトル工房)を参照した。
*6仙波龍英『ホーンテッドマンション』(1990年・マガジンハウス)
*7佐藤通雅「どこが可愛い三月兎」(『リアルタイムの短歌論』・1991年・五柳書院)
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