短歌の読みについて(初出:「未来」2013年9月号) | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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短歌の読みについて(初出:「未来」2013年9月号)

振り返れば、2012年は若手歌人の優れた第一歌集が多く世に出た年であった。しかしその一方で、世に出た新しい歌人の個々の営みは多く、「内省的」と言えるようなものであった。例えば光森裕樹は次のような指摘をしている。
「従来の物に対してどう新しい動きなのかではなく、自分の中で何を大切にし、何をルールに定め、それをどこまで突き詰めるかの新しさが大切になっている。個々人での新しさを丹念に見ていかないと、若い人に共通の「これが新しい」というものは語れないと思います。」(「新春座談会―新しい歌とは何か」「短歌」角川学芸出版、2013年1月号)
光森の指摘にほぼ同意する。私たちは、前衛短歌、ニューウェーブといった「文学運動」「ムーブメント」からは既に遠く離れてしまった。おのずと、短歌は大状況に対してアプローチするような種類のものではなく、より内省的なものへとシフトしているという仮説が成り立つだろう。2012年は内山晶太、山田航、田村元、永井祐など、それぞれに特色のある若手歌人が多く世に出たが、彼らは総じて、自らの手に届く範囲以上のことを歌わないというスタンスの歌人だったように思う。当然、それぞれの歌の個性、それぞれの良さを丹念に見て行かなければならない。評論に求められている役割も変化している。新しい文学運動を提言するような情熱的な言挙げや論争は、もう求められていないのかもしれないし、文学史を記述する、というような野心ももしかしたら、無為なのかもしれない。
歌人に求められていることと言えば、目の前の歌集を「どう読むか」という小さな試みの積み重ねのみではないか。こういう一見瑣末な、局地戦のような議論は正直私の好みではないのだが、これだけ歌人と歌人との距離が遠く離れてしまった現代において、残されたものは「読み」という小さな架け橋を通じて、ささやかでも歌人と読者との、歌人と歌人との距離を詰めることではないかと思う。



2012年で最も話題になった歌集は、間違いなく永井祐の『日本の中でたのしく暮らす』だった。今回は読みの例としてあえて永井を取り上げる。永井の歌ほど鑑賞の難しい歌人は多くはないが、私は例えば永井を、大辻隆弘や斉藤斎藤がそうしたように「てにをは」の捌きがうまい歌人というように概括して新しさを見ようとする議論にはあまり説得されていない。大辻はレ・パピエ・シアンⅡ誌上に8ページにもわたる「新しきてにをは派」(「レ・パピエ・シアンⅡ、2012年9月号」)という論稿を寄せている。
全文を引用すると紙幅に詰まってしまうので概略だけ述べるが、大辻は永井の、

たよりになんかならないけれど君のためのお菓子を紙袋のまま渡す

という歌を引いて、未来のシンボジウムで柳澤美晴が永井に対して行った「修辞の武装解除」というレッテル張りを批判し、この歌の第三句目の「君のための」の「の」の使い方で、微妙な揺らぎを見せているということを力説した。私なりに敷衍すると、ここで「君のため」と定型に収めることもできただろうが、「君のための」とあえてすることで、永井の歌はこの「紙袋」を「きみ」本人ではなく、第三者に手渡した、という解釈が生じるとしている。つまり、別の人に「君のための」お菓子を(渡してほしい)と「渡す」という行為に、ナイーブな青年像が見て取れるような揺らぎが生じる、と主張している。
はたして、そのように読むことでこの歌が本当に良くなるだろうか。私は、ここで「の」が入っていたとしても、このお菓子を紙袋のまま手渡した相手はやはり「きみ」だろうと考える。大辻の解釈では、この「の」は意味的に「きみ」に手渡した可能性と「第三者」に手渡した可能性に分裂してしまうことになるが、そこまで歌の読み幅がぶれてしまうてにをはの使い方をもし永井がしていたのなら、この歌ははっきり言って失敗ではないか。もしここで「君のため」ではなく、あえて「君のための」としたことが問題になるとすれば、それは「意味的」に解釈を揺らがせることが目的だったのではなく、韻律上の要請があったということを視界に入れておかなければならないのではないか。
この歌は上の句、たよりになんかならないけれど、が全てひらがな書き、ふわっとした雰囲気で入ってくる77調のリズムである。それを「君のため」と受け止めては日本語的にも助詞がひとつ省略されてしまうのでおそらく作者の美学にそぐわず、韻律的にも若干腰が折れる印象がある。そこで「君のための」とあえて六音で受けることで、読者に第三句を読む呼吸を若干滞留させ、その上で下の句にフォーカスをする時間的余裕を歌に持たせている。歌としては、たよりになんかならないけれどという上の句の77調で不安定な感触を読者に暗示させ、「君のための」で一旦受け、「お菓子を紙袋のまま渡す」と具体的な行為を下の句で提示している歌だ。意味的にも「たよりになんかならない」自分と、「紙袋のまま渡す」という行為で、がさっとした無骨な作者像を提示している歌だと思う。
永井の歌に限ったことではないのだが、「てにをは」を読むことだけで歌を読解するという一つの方法論を、私は是としていない。短歌にはそれが名詞であるか副詞であるかという日本語的な細かい区分け以前に、作者が一首に刻印する呼吸のような、息遣いのようなものがあり、一首を通して読んだときにあらわれるその息遣いをまず読者は感じとり、一首から引き出されるイメージと合わせて、感動の衝撃のようなものを受け止るのではないか。
その点で、大辻の「てにをは論」は必ずしも永井の中でベストな歌を引いてきているようには、私には思えない。さらにこの議論に乗るのは申し訳ない気もするのだが、人口に膾炙した永井の歌、

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる

という歌にも、内容ではなく、言い回しの巧みさを見なければならないという大辻の主張には、半分は首肯しながらも、どうしても賦に落ちない部分が残る。「この歌、どんな歌だっけ」と言われた時、「あ、「別に」の歌だよね、「撮ったり」の歌だよね」と言われて、読者に共通理解が生まれるのだろうか。仮に名詞として「地元」の歌だよね、といっても共通理解は生じないだろう。この歌はやはり「「写メール」の歌だよね」と言ったときに、読者に共通理解が生まれるのではないだろうか。
その理由は、当然「写メール」「地元」という名詞に意外性があるという「名詞読み」の効能もあるのだろうが、この歌の場合、「写メール」という名詞の挿入の仕方が、内容面だけではなく、韻律面でも工夫が凝らされているからだと考える。
やはり初句七音で入るこの歌は、先述の「たよりになんかならないけれど」の句の入れ方とはおそらくまったく違うロジックで七音が入れられていると思う。「たよりになんかならないけれど」は一首のなかで「ん」が使われていることもあるのだろうが、響きはどちらかというと軽い。しかし、この歌は、前述の歌よりも若干リズムが遅く、「私は別におしゃれではなく」、というやや内省的で底ごもるような呼吸が続いている。その後、いきなり「写メールで」というやや伸びた調子の5音が挿入される。ここで読者は意外な調子の変化を感じることになるだろう。そのあとに、ここは大辻も主張しているが、下の句の77で「地元を撮ったりして暮らしてる」と言う完全口語の言い回しが入る。この「撮ったりして」という言い回しに所在なさげで投げやりな気分が感じとられてうまいという点では、大辻の意見にほぼ同感だが、さらに細かくいうと「撮ったりして暮らしてる」という細かな口語のリズムの動かし方にも心地よい響きの躍動があると思う。この歌はやはり、「写メールで」以降の転調の巧みさに眼を配らないとといけない歌なのではないか。



繰り返しになるが、私は歌を名詞、動詞という日本語的な区別ではなく、全体的に歌が持っている「呼吸」に注目して歌を読みたいと思う。そもそも言語が名詞なのか副詞なのか、助詞なのかといった「文法的な」区別は、言葉の発生からあった自然なものではない。言葉を整理したり、区別したりする過程で後付けで生まれたものだ。私は言葉が持つ生来のリズムとイメージをできるだけ大切にして歌を作りたいと思っているし、鑑賞の際にも言葉の持つ「息遣い」にまず注目したい。
紙幅が尽きてきたので、私が永井の歌で秀歌だと思っている歌を挙げて拙論を閉じる。

・五円玉 夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう
・テレビみながらメールするメールするぼくをつつんでいる品川区

一首目は永井独自の韻律の伸ばし方が巧みだと思う。五円玉、で一回韻律を切って、そのあとに「夜中のゲームセンター」というなめらかな長音の響きを持った上の句が挿入されている。そして結句では「春はとってもとおい」というあえかな感触を持った語句が入っている。上の句の出発点から、下の句の着地点まで、全体的に呼吸がなだらかに伸びて行く感じがある。上の句を一時空けるという技法は永井が時折試みる手法で、「なまけもの 僕は散歩して道に落ちてるお金を拾う」という歌も歌集には収録されているが、この歌のほうが私はいいと思う。「五円玉」という言葉の持つ響きと、そこから導き出される「春はとっても遠いと思う」という全体的な長音の持つ響きのよさと、歌の内容でもある「春はとっても遠い」という清澄な抒情は、響きと内容の面で、作者の独特の美的なセンスが感じられる秀歌に仕上がっているように思う。この歌は五円玉という小さいものから、春はとっても遠いという作者の感慨までを、なだらかな調べにのせて歌いあげている秀歌だと思う。
二首目、この歌は、メールするという言葉がまるで二回のリフレインのように美しく決まっているところにポイントがあると思う。最初のメールするの呼吸と、二度目のメールするの呼吸はそれぞれ早さが異なる。意味的には「テレビみながらメールする/メールするぼくをつつんでいる品川区」で区切ると分かりやすい印象があるが、「メールするメールする」の二回のリフレインの歌ととったほうが、辞としても新鮮な印象を受けるのではないか。二回目のメールすると言う言葉は、一回目のメールするという言葉よりも若干早く読むことができるように思う。メールすると言う長音の響きに、まるでするすると読者をいざなうかのような独特の加速感がある。その加速感に身を任せて一首を読み下していくと、読者は急に「ぼくをつつんでいる品川区」という即物的ともいえない、即物性から少し離れた抒情を持った風景に出会う。おそらくこの品川区は、夜の情景だろうととりたい。作者は、品川区の家々に明かりがともるような空間のなかでメールを打っている。その感触を、メールするメールするという長音の響きの加速感がつなげてくれる。そして、最後の下の句で読者は品川区というやわらかな「ひかり」に包まれる美しい風景に出会う。
永井について語ることは、どうしても「その批判」をするより先に、「まずその良さ」についてしっかりと述べなければなければならないというあたりに難しさがある。『日本の中でたのしく暮らす』には必ずしも全面的に肯定するとまではいえない歌も多数含まれているが、それを指摘することはまたの機会にしなければならないようだ。とりあえず今回は私の読みの一例として、「てにをは」に主眼をおくという読み筋に対してささやかだが、異なる意見を提示した次第である。
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