堀合昇平さん、『提案前夜』 | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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堀合昇平さん、『提案前夜』

もうすっかり遅くなってしまって。。。

発刊が2013年ですから、感想としては相当出遅れた形になってしまいました。本来なら堀合さんが日本にいらっしゃるときに感想を書いて、ご本人ともいろいろお話をしたかったのですが、ぼく自身にこのブログを続けるかどうかということに対する逡巡があったり、いろいろ個人的な都合で結局今日の今日まで感想を書けずじまいになってしまいました。

感想が遅れたことをお詫びしつつ。
気を取り直して書いていきたいと思います。

堀合さんの歌は、「未来」の誌上で読んでいる時は面白くもなんともないと思っていたのだけど、
歌集という形にしてみると、低いが同じ熱量で何かを確実に伝えて来る、そういう感触を確かに持っている歌集だと思います。

この歌集の作品世界は華やかで、ひとを魅了するような青春歌でもなければ、季節のうつろいを歌った「もののあはれ」でもありません。修辞もはっきりいって地味で、歌っている内容も無機質な職場詠。一首単位でパッと見せられると、うーん、そんなに目立っていい歌かなあという感じでもないです。

しかし並べられたお歌を連作として読んでいくと、何かひりひりした感触が伝わってくる、そんな仕掛けになっているように思います。

何よりこの世界観は怖いです。どういうふうに歌を引用すればいいのかな、とあれこれ考えていたのですが、例えば中家菜津子さんの引用が的確かもしれません。

「わたくしの消去」について / 「東海歌壇 岡井隆講演」 夏嶋真子(中家菜津子) 

中家さんは歌集の「末尾が0になるところから機械的に抜き出した」と言っています。これは引用としては不思議な形に見えるのですが、中家さんの論旨を読むと納得できます。

私なりに敷衍すると、堀合昇平という一人の歌人の個性が、長いスパンでずっと文体を変えずに、ぶれずに堀合昇平という「私」を貫いているために、それが反転するような形で、堀合さんという輪郭線が「普遍的なサラリーマンの姿にまで深化している」ということのようです。面白い見方だと思います。

中家さんはさらにこう続けます。

「無私な観察により事実を「美しく」詠んだとしても、記録の域を脱出することはできない。堀合氏は現実の出来事の中から事実ではなくひとつの詩想とひとつの真実を見つめている、社会へと大きく開かれた目をもって。それを独自の文体で描くことでサラリーマン生活という日常が、詩性の備わったリアリズムへと昇華される。」

さて、リアリズムというキーワードが出てきました。

近代短歌以来というのか、リアリズムは例えば自然とか、季節のうつろいとか、そういうものとセットになってきていました。しかし現代でリアリズムで歌をつくろうとするとき、どうでしょう。私たちは庭に咲くこでまりの花にリアリティを感じるでしょうか。これだけ過酷なオフィスワークを強いられて、たとえばブラック企業みたいなものが問題となるときに、私達の現代のリアリティは堀合さんが開拓したように、空調の音とか、職場での会議とか、そういう一見すると「歌になるのか」というところに、むしろ隠れているのではないかという問題提起があるようです。

一首も引用しないままでこの感想を終えるわけにはいかないので、私なりに歌を引用します。
 
 違う、僕じゃない。
胸ぐらを掴む男の胸元にIDカードが揺れていたこと(9)

胸ぐらを掴む男というのは、おそらく上司なのでしょうが、このお歌は詞書の「違う、僕じゃない。」という言葉とセットで読むと、ある無機質な感じが出てくるように思います。胸元に揺れていたIDカード。そして「違う、僕じゃない。」という切迫した詞書。ここには、荒っぽさと同時に、現代の「交換可能な私」への鋭い認識が詩になっていると思います。

IDカードを壁に翳(かざ)せばひらくドアのたぶんわたしがここにいること(22)

同じようなお歌は前半にもう一首あります。こちらのほうがわかりやすいですが、破壊力という意味では前のお歌のほうがいいかなと思います。「違う、僕じゃない。」という詞書が、端的にもう言い表していると思うのです。

さて、続いてもう一首。

部屋が暑い理由が判った。
仕様書は冷たい。痩せた指先で夏なのに塗るハンドクリーム(12)

なんとも言えず気持ちの悪い歌です。何の気持ち悪さなのかというと、はっきりとハンドクリームの気持ち悪さだと思います。痩せた指先にハンドクリームを塗る。本来なら保湿とかちょっとおしゃれとか、そういう目的で使うハンドクリームが見事に反転されてしまっていて、夏に塗るハンドクリームって気持ち悪いだろうなあという感触だけが伝わってくる。この決して癒しとかそういうところに向わない「ハンドクリーム」の気持ち悪さ。これが堀合さんの本領なのではないかと思います。

「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が揺さぶる(25)

このお歌、もう堀合さんの代表歌に完全になりました。「ナイス提案!」って一見するとユーモアがあって面白みのあるフレーズだけど、これは決して上司とかに言っているんではなくて、夢のなかで言っているんだと思います。このナイス提案!は、見事に悪夢だと思います。堀合さんの悪夢ではなく、現代の悪夢。そういうところを見事にとらえたお歌だと思いました。その後、うす闇に叫ぶもエグいなあと思いますし、それを妻が揺さぶる、というのもうまいです。「あなた、しっかりして」と揺さぶっているのでしょうか。私はここに救いようのない職業人の怖さのようなものを感じ取りました。救いを無理に読まないほうがいい歌であるように思います。

あと指摘しなければいけないのは、加藤治郎さんを始めとする現代短歌の影響です。決して堀合さんが本歌取りをうまくやっているという印象はないのですが、これだけ直球でニューウェーブを継承しようとしたというか、加藤治郎を継承しようとした歌人もかなり珍しいと思います。

「ロスジェネ」という一連には、記号短歌を模した

ホントウノジブンサガシニトラワレテケイサンドリルノコタエノヨウナ
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 (23)

という一首があります。僕は記号短歌であろうがなかろうが、背後にやはりその記号を選ばせるだけの内的必然性が必要だと思っているのですが、この歌にはそれだけの精神があると思います。白紙の計算ドリルを表す□の連打は、必ずしも目新しさはないような気もするのですが、それでも現代の「自己啓発」とか「自分探し」に対する精一杯の皮肉が見て取れるので、手法の目新しさというよりも、その背後の「批評精神」のほうを読み取りたいと思います。

他にも加藤治郎さんを始めとした先行する短歌の、いわばパロディのような歌が多かったです。

・反骨者(パンクス)のようにフロアを歩こうよネクタイ首に巻きつけながら(40〉

・いま僕の脳は機能を失ってタメ口たたく 大会議室(40)

やはり加藤治郎から短歌に入った私は爆笑してしまったのですが、

「~しようよ、~しながら」というのは完全に加藤治郎の歌の形だと思いますし、
「いま僕の脳は機能を失って」~は「濡れたガーゼに包むみつばち」という加藤治郎の「ブレイン・ダメージ」の有名な一首が思い浮かびます。ただちょっとこれらの歌はパクリにしてはうまく言っていないかもしれないと思いますし、加藤さんへの挨拶かなと思いました。そうするとⅡ章のタイトルになっている「シオリ」というのも、「ハルオ」へのオマージュかなということを考えたりして、全般的に加藤愛が満ちているなあという印象を受けました。

寝不足の朝に差し込む歯ブラシのざらつく感じ そうあの感じ(27)

と思ったらこれは中澤系のフレーズですね。さすが。

他にも、ぼくが個人的に好きだなと思った歌です。

みな前を向くから僕も前を向くデスクトップの遠い草原(28)

ふいに詩が奔ったようで手を止める機器構成明細第2・4版に(36)

冷えたゼリーに桃を掬えば知るだろうつまりはイメージの問題なんだ(37)

その他のゴミとかかれた箱の前とまれば捨てるその他のゴミ(48)

梅雨明けをニュースは告げる 堕ちぬため働くのだと何故言い切れぬ(55)

地下鉄にスマートフォンの溢れいてゼビウスをやるおんなに萎える(74)

市場にはデッキブラシの音だけが響いてふいに夏の気配が(90)

どの歌も、なんというのか、現実に足をつけているのですが、少しポエジーがあるかなというお歌です。ぼくが選ぶ歌というのは、単純にうまく言えてる歌ではなくて、ぼくなりに「美しさ」を感じる歌だと思います。

一首目、「みな前を向くから僕も前を向く」というのは多分職場で、パソコンの画面を全員見ているので、自分もというふうに前を向いたのでしょう。それがなんだか、日本的な同調圧力の暗喩にもなっているような上の句の怖い描写です。それが、突然デスクトップの遠い草原という美しい描写に変わる。もちろん、職場のPCですから、壁紙なんて設定されておらず、元のWindowsの画面のままなのでしょう。上の句描写のとおり前を向いたら、ふいに読者とともにデスクトップの草原を目にする。なんとも言えず美しい発見で、動きがあるのがいいと思います。


「ふいに詩が奔ったようで~」のお歌は僕すごく好きです。詩が奔ったようでというフレーズがとてもいいですね。でその詩が奔ったものというのが、機器構成明細2・4版というなんか現代的で詩なんて感じないようなものだった。そういう日常の苦しい仕事の場面に詩が奔ったような感じを抱く。ささやかな抵抗といいますか。窒息しそうな日常に詩を感じる場面があるよという歌ですね。

三首目「冷えたゼリーに桃を掬えば~」のお歌。これも素晴らしくいい歌だと思います。多分これもシーンとしては何か上司と部下の会話で「いやいや、それをこうするのはイメージの問題なんだ」といっているようですが、この歌は、美しいです。冷えたゼリーに桃を掬えばという言い回しもなめらかで、そのあとイメージの問題なんだ、と言う韻律も美しいので、そういう職場のシーンを無理に当てはめなくても歌として味わえると思います。

「その他のゴミ」の歌は、一瞬松木秀さんの歌かなとおもうくらいややニヒリスティックなものの把握の仕方がいいと思います。誰も自分が出したゴミのことを最初からその他のゴミと認識している人はいないのでしょうが、「その他のゴミ」の前に止まれば「その他のゴミ」にその他のゴミを捨ててしまうわけで。人間の認識の問題を、ゴミという身も蓋もないものに捉えて考えている歌だと思いました。

五首目「梅雨明けを~」のお歌。現代の暗部を見ています。いまじぶんが働いているのですが、それは堕ちぬため働かぬと言い切れるわけでもない。もしかしたら今の自分の生活も堕ちているのではないか、ふとそんな感慨がよぎったりするのでしょう。上の句の梅雨明けをニュースは告げる、というのがなんとなく明るい感じですが、それと下の句の急迫な口調がよくついているとおもいます。

六首目 スマートフォンで「ゼビウスをやるおんな」ってどんな人なんだろうと思うんですが、これがパズドラとかだったら普通だよなあと思うんですが、ゼビウスという言葉のチョイスがいいんじゃないかなと思います。ゼビウスかあ。昔やりましたね(遠い目)。言葉の感触として、ゼビウスってすごく懐かしいのに、なんか寂しい感じがあって、これがぴったり歌についているんだと思います。ただ、「溢れいて」という文語の混ぜ方、僕は堀合さんの文体ならこういうドライな文語の入れ方もいいかなという気はするんですが、気になる人はいるかもしれません。スマートフォンとしっかり訳さずに歌にするあたりにも、実直な人柄が溢れていて好感をもちました。

七首目。光景としては市場の朝だと思うんですよね。みんなそれぞれデッキブラシの音を響かせて廊下を掃除していて、そういうときになんともなく夏の気配がした、という歌だと思うのですが。デッキブラシの音が響くということと、不意に夏の気配がするということはなんでそう関連付けられるの?というくらい関係のないことだと思うのですが、このお歌の場合、その遠さがとてもいいと思います。

散漫に書いて来てしまいましたが、ちょっとむずかしいかなと思った箇所もあります。

一点目は、確信犯なのでしょうからあんまり問題にしませんが、堀合さんの長所でもあり短所でもあるところです。冒頭でも述べましたが、この歌集はとにかく職場詠が多いです。不器用と言ってもいいでしょう。とにかく、シオリという連作になるまで職場詠ばかりやっていて、シオリでちょっとだけ家族を詠っていてまた職場詠。この構成、これだけつらつらと同じトーンの世界ばかりを並べられたら、今後どうするんだろうな、とちょっと余計な心配をしたくなります。この構成だとどうしても前半、というか前半から中盤くらいまでにいい歌を見つけてしまって、後半がお腹いっぱいという感じになるかもしれません。

もう一つは、はっきりと歌の出来栄えにムラがあること。もちろん、第一歌集ということですから、歌のできばえにムラがあってもいいと思うのですが、これだけ同じトーンの歌が並んでいると、ああ、これはなんとなく詩として機能しているなという感じの歌と、んー。ちょっと微妙だなという歌の差が目立ってしまうと思うんです。この出来栄えの差は、私たちが感得するリアリティの差と言っていいのかもしれません。

堀合さんの短歌のリアリティは、近代=現代短歌が持続させてきたリアリティとは少し微妙に質が違っていて、堀合さんの歌の世界には「現代的」なリアリティはあるんですが、それが果たして「リアリズム」から来ているのか、というと全面的に中家評には賛同しかねるかな、という感じがします。短歌のリアリティには、もちろん「体験的によくわかる、ささる」という感じのリアリティは確かにあるけど、近代=現代短歌と接続していくなかで、やっぱり細かくものを見ていくというリアリティも大切で、堀合さんにはそういう「描写」が粗っぽい歌が多いように思います。

いくつか歌を引いて指摘したいと思います。

たとえばこういう歌ではいわゆる「リアリズム」、ものを見るということがうまく機能しているなという感じがあります。

組み結ぶ足つぎつぎとほどかれてほどかれぬ一組につまづく (48) 

ブラインドタッチを統べるつややかな指は依頼を拒みつづける (68)

一首目、これぞというくらい見事な出来栄えです。電車か何かに載っていて、自分が歩いていると周りの人間はみんな足を組んでいる。それが自分が移動していくと、みんな通路を譲って組んだ足を解いていくのですが、なかに気の効かない人というのがいて、その人の足に思わずつまづいてしまった。これが見るというか、観察ということ見事にを体現しているなあと、思いました。

二首目は、統べる、がうまい言い回しです。これは女性の事務員を観察している歌だと思いました。ブラインドタッチを統べるつややかな指、というのはおそらく女性の指だろうと思います。その人が上司からの依頼を拒みつづけている。そういう様子を観察していて、とてもうまいと思いました。

逆にこういう歌はどうなんだろうと思います。

週末にはなやぐ声を聴きながら塩の吹き出たスーツで歩く(18)

ゴミ収集車の過ぎ行けば後ろから生臭い風が吹いてくる(75)

一見するとリアリズムの歌に見えるのですが、一首目、はなやぐという言い回し、これは週末という言葉から連想されているだけであって、観察しているわけではありません。塩の吹き出たスーツというのも夏という感触は伝えて来るのですが、見慣れた言葉かなあと思います。突出してよく見えるなあという歌がある一方で、どちらかというと平板な歌が多いと、思います。

二首目も、悪くはないのですが、ゴミ収集車の過ぎ行けば、という急迫な声調のあとでゆっくりと「生臭い風が吹いてくる」、って言うと声調が挿入されるので、なんだか弛緩した感じになります。のんびりとした「生臭い風」だなあと思いました。これは下手をすると散文なのかなという印象もあります。事実をありのまま歌えば描写になるというわけでもないのです。

どうしてもこういう歌の呼吸というか、歌の文体ということをうまくコントロールできていないために、どうしてもキレのない歌、散文的な歌が増えてしまうのではないかと思います。

とても長々と感想を書きました。

堀合さんは外国に旅立ってしまったということなので、歌について語る機会があまり持てなかったのは残念なのですが、またどこかでお目にかかる日もあることを祈って筆を置きたいと思います。新しい境地を獲得されることをお祈りしています。
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