「批評ニューウェーブ」についての疑問への疑問への疑問への疑問? | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

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「批評ニューウェーブ」についての疑問への疑問への疑問への疑問?


未来1月号、4月号の中島裕介の時評では二つの「対立」について書かれている。

http://www.miraitankakai.com/comments.html

(4月号が現時点では最新。1月号は少し下にスクロールすれば読めます)

ちょうど手元に評論のために用意した資料を持っていたので、インターネット上での議論と併せて、この二つの「対立」についての議論の経緯が分かる状態だった。

今までは歌集などを初読で読んでの印象批評のようなものが中心だったこのブログだが、もうちょっと「きちんと調べて」「俯瞰的に見る」ような記事のほうが重要かなと思い、ささやかだが文章を書く事にした。

私自身は、最近「傾聴」の大切さというか、書かれた文章が何を書こうとしているか、細やかに相手の意見を聞くことが非常に大切なのではないか、と思っている。

この問題についてもちゃんと議論の出どころを抑えて、問題を整理しておいたほうがいいように思う。

まず、一つ目の「対立」の発端は山田航が2015年4月11日の東京新聞に、「批評ニューウェーブ」という記事を書いたことにある。

これに対して、大森静佳が結社誌「塔」の短歌時評でこの記事に対しての疑問を提出した。(私は初出に当たっていないので、ズルと言えばズルである)
http://toutankakai.com/magazine/post/4917/

それについては三上春海(2015年10月8日)
http://kamiharu.hatenablog.jp/entry/2015/10/18/231642


さらに久真八志(2015年11月20日)といった論客たちがそれぞれブログで意見を述べている。
http://blogs.yahoo.co.jp/okirakunakuma/64115590.html


特に九真は大森の時評について自身のブログで反論を述べており、見解の相違があらわになっている。

まず、少ない字数と締め切りという制約のなかで、短歌界でリアルタイムで起こったことについて、自らの見識のみを頼りにして、意見を述べなければならないという課題をこなしている時評の執筆者には敬意を表したい。

その上で私自身は、個人ブログの利点である、「締め切りがない」「字数が自由」という点を利用して、すこし込み入ったことを、できるだけ丁寧にわかりやすく文章にしていきたいと思う。

さて、この問題について個人的に議論を整理して行こう。

私自身の直感というか、第一印象では「「批評ニューウェーブ」って言われてもなあ」。という印象だった。

簡単に言うと、確かに統計を用いた批評も大事だと思うが、そこだけをクローズアップして、「ニューウェーブ」と名付けるのは新聞の誌面に掲載される時評としてはどうなのか、という疑念が湧いた。当初、私は、大森の「批評ニューウェーブへの疑問」をネットで読んだことから始まったので、大森の言っていることのほうが(なんとなく)私の考えていることに近いのではないか、と頷きながら読んでいたのであった。

しかし、山田の東京新聞の元の原稿を調べて読んで、私自身は大森の時評についても、やや粗っぽい見え方をしているかなとも思った。

たとえば、山田の時評について、大森は次のように指摘する。


まず議論の出だしである。

「例えば、光森裕樹は自身の運営するウェブサイト「tankaful」や「短歌研究」の時評(二~四月号)で、結社数や新人賞応募者の推移をグラフ化したものや統計データを活用してさまざまな問題提起をしている。田中濯は「短歌」の歌壇時評で、発行歌集数の推移を示すグラフを用いて歌集出版費用の問題に踏みこむ(二月号)。また、語彙計量ソフトを用いて歌集の分析をし(四月号)、歌集賞の在り方に疑問を投げかける(六月号)。「未来」の時評を担当する中島裕介も、結社論、電子書籍版歌集、著作権問題などをめぐって視野の広い批評を展開している。」(大森原文)

それに対して大森は次のように言う。

「いずれも短歌の未来を見据えた鋭い危機意識から書き起こされたものである。資料を集めて数字を拾い、グラフ化する作業には大変な手間と時間がかけられているだろう。」(大森原文)

ここまでは全くその通りで、私も光森、田中、そして中島の時評を読んで、大変な苦労をしているなあと思いながら拝読してきた。

しかし、問題になっているのは以下の箇所である。

「山田は、これら統計を活用した批評は従来の批評の在り方を転換させうると評価し、具体的な利点として①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる、②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる、という二点を挙げる。
 確かに、短歌の今後を照らすものとして統計データやグラフは貴重である。従来の印象や思い込みを覆す、スリリングな新鮮さもある。風通しもいい。その点、利点②に異論はない。ただ、①についてはどうだろうか。
 私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか。客観的であることはそんなに無条件で肯定されるべきことなのだろうか。歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。 」(大森原文)

もちろん、結社誌の時評という、非常に少ない文字数を考えれば、どうしてもまとめて自分の意見を言わないといけないという制約があったのだろう。そこは痛いほど伝わってくる。

その上で、大森はやや抑え気味に、

「私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか。客観的であることはそんなに無条件で肯定されるべきことなのだろうか。歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。」(大森原文)

と、反論を加えている。

このまとめて、やや比喩的に、(たとえば岡井隆の影響をうけている、と三上春海は指摘しているし、久真八志は、この部分を明確な「ミス」とまで言い切っている。)自分の意見を表明したところがやや粗っぽかったのかもしれない。

確かに私もこの箇所はすこし強引だったかもしれないと思う。

私が問題だと思ったのは、おそらく久真と同じところだと思うが、

大森がこの部分について「客観的な批評」、「透明な批評」、「つまらない」という感じで短くやや印象批評的に議論をまとめすぎてしまったことである。

これは山田の原文でもそうなっているが

「①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる」

というところと、

「②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる」

という二つの問題は、微妙に混線している。

「①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる」

これは一首あるいは一連あるいは一冊の歌(集)の「読み」についての話である。

「数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評」は客観的ではない、客観的であるという議論以前に、「自分がこの一首についてどう思ったか」という解釈を書くことが、「統計で分析できる」とはそもそも思えない。

まずもって、「統計で分析」された「一首の歌についての解釈」を光森も田中も中島も行っていない。

たとえば田中濯が角川短歌2月号で行っていたのは、私なりに要約すると、歌集の発行部数が減っているという現状をグラフ化し、その理由をいくつかまとめ、歌集出版という行為そのものが「おカネがかかる」という現実について述べたものである。私もむしろまったくお金がないので、身につまされながら読んだが、とてもわかりやすい「短歌を取り巻く環境について」の話だった。歌の読みについての話ではない。「統計を使用した分析」が新たな知見をもたらしたのは、山田、大森の時評で言えば、「②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる」の部分ではなかろうか。

田中は歌の読みに関わる部分として、やはり角川「短歌」6月号で「歌の背景」という時評を書いている。

・これはテキストマイニングという手法の紹介(簡単に言うと、文章の単位を出来る限り細かい語彙の「単位」に分類し、統計的に「数える」手法(「語彙計量」というものらしい)と、

・テキストマイニングが、「歌集を読み込むさいに、単語等の出現頻度をチェックして、そこから話を始める批評法」の助けになるということ、

・さらにはテキストマイニングが、「万葉集」において既に実践されていること。語彙計量や計量言語学といった分野が、議論が普遍性を獲得しやすい「議論のためのインフラ」になると述べていることなどが書かれている。

おそらく山田や大森が「ある程度客観的な議論をするためのインフラ」と呼んだものは、この計量言語学という新たな学術領域についての田中の知見を踏まえてのものだったのだろう。(ここが唯一短歌の「読み」と交差するところではある)

しかしこれも、突き詰めて言えば、「自分がこの一首についてどう思ったか」という解釈の分析ではない。テキストマイニングという新たな知見を含めたとしても、短歌の解釈についての個人の「主観」は揺らぐことがないのではないかと私は思う。

                       ※

さて、山田は実際には後の文章で、次のように書いている。(これは紙データを文字起こししているので、少し間違いがあるかもしれない。)

「こうした短歌批評のニューウェーブといえる動きが始動したことは、従来の短歌批評の方法の説得力を低下させるだろう。とりわけ、「この結社の歌人ならこうであるはず」「この世代ならこうであるはず」といった属人性に基づく批評は、根拠のないものとして排される。また、多様な表現ジャンルが相互に影響し合う現状においては、漫画なり現代美術なり社会学なり、短歌以外の知識を武器として歌論へ導入していくことが重要になる。当然一人では難しいので、エキスパートたちの集合知として、短歌批評は成り立っていゆくことになる。」2015年4月11日東京新聞「短歌月評」

山田はあまり無理なことは言っていない。とは一瞬思わせるだけの説得力を持っていると思う。

「漫画なり現代美術なり社会学なり、短歌以外の知識を武器として歌論へ導入していくことが重要になる。当然一人では難しいので、エキスパートたちの集合知として、短歌批評は成り立っていゆくことになる」

この部分は納得できる知見というべきところで、様々なジャンルの専門家たちが揃って、短歌は深まっていく。「エキスパートたちの集合知」ということは間違いない。もともと、たとえば大学で勉強したとしても、いろいろな学術部門があるし、もちろん計量言語学という分野を応用した短歌の批評があったら、そういう批評は積極的に私も読みたいし、興味がある。

ところが、その前の部分はどうだろうか。

「この結社の歌人ならこうであるはず」「この世代ならこうであるはず」といった属人性に基づく批評は、根拠のないものとして排される。」

確かにこういう「属人的な批評」をする人はいる。山田が誰を推定して言っているのかはわからないが、しかしこんな分析をする批評家は、「従来の短歌批評の方法」を用いる歌人だとしてもほぼ論外だと思う。それをまとめて、古い短歌批評と言われても、私は全く納得できない。一首の読みを細やかにすることが、属人的な批評に繋がるとは私には思えない。

もう一つ。

「漫画なり現代美術なり社会学なり、短歌以外の知識を武器として歌論へ導入していくことが重要になる。」

こちらのほうははっきりいって、こういう指摘をすることすら、もう時代遅れとしか私には思えない。

山田がおそらく把握している、「従来の短歌批評」ですら、「歌論」という枠組みだけでものごとを考えているとは思えない。少なくとも私の周囲の歌人たちは、様々な学術領域の影響を受けているので、これは私のいる環境が恵まれているのか、それとも山田の認識が間違っているのか、ちょっと考えこまざるをえなかった。

たとえば私自身が触れてきた歌人は、みな、何らかのジャンルのエキスパートだった。

文学、比較文学、哲学、美学、解釈学、精神分析、ポストコロニアリズム、あるいはいわゆるど基本の、言語学、国語学、
山田が指摘する「社会学」、「表象文化論」だって、当然視野に入っている方もいる。

既に現在の批評自体が、様々なジャンルの専門家が寄り集まって、一つの批評を形づくっていると思うのだ。既に、「短歌以外の知識を武器として歌論へ導入する」ことは、異なる学部の専門家である大学や大学院などを卒業した、一人ひとりの歌人が行っていることなのではないか。

もちろん、様々な学術領域の知識が導入され、山田の言う「エキスパートたちの集合知」を作っていくことは、これからも大切になるだろう。しかし、山田自身が、「従来の短歌批評の説得力が低下する」と指摘している文章の根拠は、あまりにも薄弱なものではないかと思えた。

確かにいろいろなところから知識を重ねて、短歌は読みを深くしていくと思う。
もちろん、社会学や表象文化論を用いた批評を誰かがこれから書いて行くならそれは望ましいことだが。

やはり前提となるのは、従来の歌論というか、歌のよみの蓄積をしっかり当たって、その上で「新しい読みではこう読めるよね」ということまで明らかにした歌についての分析なのではないかと思った。

一応ぐるぐる回って、私自身は、どこが批評ニューウェーブなのか。という最初の直感に戻ってくるに至った。

ひとつ目の「対立」、中島裕介が1月号の時評で述べていた意見の相違に対する私の見解は、おおむねこのようなものだと思う。

二つ目の対立については、要望があったら書くが、おおむね、山田の文章のやや視点を変えた角度からの読みなおしなので、あまり意味がないかもしれない。

(2016・4・10 書き下ろし)
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