「セクシャル・イーティング」を考える | ダストテイル-短歌と散文のブログ-

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「セクシャル・イーティング」を考える


リアルタイムで発信された作品をリアルタイムで批評することには、
ある種の困難さとともに、ある種のスリリングな危うさがつきまとう。

石川美南、光森裕樹、永井祐、今橋愛らによるセクシャルイーティング
を、私は初発のとき、ある種の驚愕を持って絶賛した。

しかし、その裏側に、ある種の歯がゆさというか、危機感があるという
逆方向の反応を先日ブログに上げた。

この反応があまりにも極端すぎるので、幾人かの方からかなり否定的
な反応をいただいたことは事実である。しかし、絶賛の声も歯がゆさも、
私のなかからまったく同一の感受性として現れたものである。

私は、この「絶賛したい」という気持ちと「それとまったく等距離の苛立
ち」の源が一体どのあたりに由来しているのか、という原因を、究明せ
ずにはいられない。

私自身、文章上だけではなく、実際に石川美南、永井祐、光森裕樹の各氏
と関わり、短歌の場で話をした経験がある。

私は、その「個人的な体験」を完全に捨象して、純粋に理念的な言語だけ
でこのセクシャル・イーティングに対応しようとしたが、どうやら、この作業
には、その「個人的な体験」が欠かせないようだ。

私のなかには、彼らに深く共鳴しながら、ある種の近親憎悪のような感覚
を抱いている一種のメンタリティの源が存在していて、それが私の彼らへ
の眼をゆがませる。

というより、ほぼ私と同質の問題意識を、彼らが持っていて、その発現の
仕方がまったく異なっているように感じる、というあたりから、私の彼らへ
の違和感は生じてしまっている。

現在のところ、「セクシャル・イーティング」というインターネット上で行われ
た一つのアクションについて、まとまった反応として現れたものはほとんど
ないだろう。

そもそも、「彼らが一体何をやろうとしたかったのか」

ということに対する分析的な視点を持ったものは、WEB上でも紙媒体でも、
まだ現れていないようだ。

私は、今回の一連の動きを見ていて、その「何をやろうとしたのか」、という
ことに、半ば気付きながらも目を瞑っていた。その態度が、首尾一貫してい
ないと見られた可能性については否めない。

そこで、私は今回そのことについてまとまった形で、私なりの意見を表明し
ようと考えた。

セクシャル・イーティングという、一見するとこのおだやかコンテンツは、なか
なかどうして中身はおだやかなものではないと思う。それは、ある一つの可
能性を提示しているように思う。しかし、私は本質的なところで、彼らの可能
性の提示の仕方にどうしても「乗りきれない」。

そのことも含めて、分析してみしたい。

セクシャル・イーティングと言うタイトルは、名前が示すとおり、「短歌の記録」
ではなく、このコンテンツが「食事の記録」に由来するということを意味してい
る。

私は、当初、この食事の記録のところをまったく素通りして、そのまま短歌ペ
ージのほうへいき、そして、短歌を見て、「おおおおおっ」と思った。

まず、それは短歌のほうではなく、短歌の外側のパッケージの部分である。

これが非常に凝った作りになっていて、一ページをあければ、あのつやつや
とした質感がディテールにわたるまで見事に再現されていて、なんというか
上質な雑誌をWEB上で見事に再現している、というあたりが、「これはすご
い」という気になった。

で、毎月の短歌を4ヶ月にわたって読み続けるという、ある意味単純といえ
ば単純な作業を黙々と行い続ける。で、その短歌も非常にすばらしい。

これなら、絶対に多くの人に読んでもらえるだろう!!

という期待感があった。

しかし、ある奇妙な感覚というのがどうしても残っていて、それは、「この
種のすばらしいもの」を、彼らがどうして無料で公開してしまったのか。と
いうことについて、なんとなく釈然としない思いを抱いたのである。

確かにこのコンテンツの「見せ方」は、一も二もなくすばらしい。細部にいた
るまで非常に手が込んでいて、高級感がある。私は、このようなすばらしい
WEBページがあれば、アクセスするためにお金を払ってもいいと思うだろう。

しかし、彼らはそれをしなかった。

それを「できなかった」のではなくて、「あえてそれをしなかった」

まず、そのことが、彼らと私の差を究明する手がかりになるだろう。

現代日本の消費社会では、素材に対するこだわりや、ディテールに対する
凝った処理というのは、一つの「プロフェッショナル」の仕事として価値づけ
られてきた。

5000円の椅子と1000000円の椅子で、一体何が違うのか、というと、
それに付随する素材感であったり、一種の高級感であったりする。

つまり、私たちは金銭的な対価によって、その種の「素材感」や質感を「買う」
という行為を、長年にわたってずっと繰り返してきたわけである。

これは一つの消費社会的な「価値体系」というべきもので、3000円出した人
間と、10000円出した人間で、サービスや待遇が異なるのは当たり前。

もっといい椅子を買いたいとか、こういうものを書いたいという欲求を満足させ
る手段の一つとして、あるいは「サービス・付加価値」として、本来そういった
「素材感」や「細部へのこだわり」というのがあったはずなのである。

例えば、デザイナーズマンションが法外な価格で売られたり、飛行機にエコ
ノミークラスとファーストクラスが存在したり。映画館の2500円の席には、
申し訳程度に肘掛がついていたり。

あの「飛行機のふかふかの椅子に座りたい」という欲求、素材感、こだわりへ
の欲求は、対価によって手に入れられるものであると同時に、自身のステイ
タスをあらわすある種の「記号」としても、存在している、というのが、私たち
消費社会に生きる人間の基本原則ではなかったのではなかろうか。

彼らは、「素材感・こだわり」を前面に打ち出しながら、それが、ある種の消費
社会的な価値体系にとらえられると言う判断を、決してしていない。

それはそもそも、「素材感・こだわり」というのが、「付加価値」ではなくて、「そ
れをこそ見てほしい」というものだったからに他ならないだろう。

もう一つ、このコンテンツのトップページが、どういうわけか短歌の記録ではなく、
食事の記録になっているというところも、彼らのメンタリティを端的にあらわす
材料になっている。

たとえば、WEB上で出ている今確認できる唯一の文章である「京大短歌」の
下里友浩の文章を引いてみよう。

「風のうはずみ」一連は、「セクシャル・イーティング」という奇妙な企画のなか
の一編として発表されている。石川美南、今橋愛、永井祐、光森裕樹という若
い4人の歌人が、月10首の短歌を、同月の「食事の記録」とともに発表する、
というものだ。

なぜ「食事の記録」なのか。その企画意図はあきらかにされていない。永井祐
と光森裕樹の歌には、「ポッキー」「珈琲」といった飲食物が詠みこまれており、
同作者の「食事の記録」を探すことで、読者は作中の主人公と作者のあいだ
に何らかの「つながり」を見出すことができるが、他のふたりはそうではない。」

http://www.kyoudai-tanka.com/cgi-bin/review_show.rb?index=67

これは、ごくまっとうな反応というもので、まず「歌人4人がなぜ「食事の記録」
を書かねばならない」のか。ということに対する答えは、あらかじめ用意されて
いない。実際、私たちはいきなり食事の記録をつらつらと読むという構成になっ
ていて、そこがまず大きなクエスチョンになる。


個人的な体験だが、石川美南が飲み会や食事会の席で、必死で「あ。これも書か
なきゃ、やらなきゃ」とセクシャル・イーティングの期間中、かなり真剣に、しかし生
き生きした顔でメモしていたことを思い出す。

私はこの体験を含めて、彼らのモチベーション全体が「何か奇妙なもの」に包まれて
いる感じを否めなかったのである。それは、彼らが「なぜそんなに意味もないことに、
夢中に、一生懸命になれるのか」ということだ。

私は何度か、「あの食事の記録はどうやって読むんですか?」と石川美南に尋ねた。

「え? 面白くないですか?」

という反応が、いきなり帰ってきたことに、私はすこし面くらった。

私が個人的な範囲で石川から聞いた情報によると、たとえば、「○○さんが今日は
何を食べた。」ということに、微妙な差を感じることが「面白い」という。よく読んでみ
ると、例えば光森裕樹の11月11日の食事の記録には、「会えば食生活どおりの
四人である。」というちょっとした短評が添えられていたり、

今橋愛の食生活が

10月30日
 ゆず茶、たまご、野菜

 やまぶどうスカッシュ 
 モスチーズバーガー サラダ
 
煮びたし
 かんとだき 他

と、「かんとだき、って何? その前に、朝のゆず茶、たまご、野菜、って、
今橋さん、大丈夫なの?」と思わず突っ込みたくなるような、よくわからな
い食生活が「発見」できる。確かに、この面白さを発見できる人には、何か
にこにこして思わず読んでしまうような、たまらない面白さになるだろう。

この面白さを説明すると、ある種の「フェティシズム的な面白さ」に近いような
気がする。

しかし、この種の「微差」そのものを、感覚的に受け入れられない人間にとっ
ては、食事の記録というのはこのサイトのメインディッシュではなく、「非常に
奇妙な余興」としてしか理解されないのではないか、と考えてしまうのである。

このサイトは、こういう「面白さ」を前提にして読むべきだ。ということはわかる。

しかし、そういう「感覚的な差」を前面に打ち出して勝負するという姿勢そのも
のに、なんとなく危険な兆候を感じてしまうのは、

「結局、感覚の問題なのか」

と、感じられてしまうからなのだ。

確かに時代状況は、極端なまでに「微差」を打ち出さないとやっていけない時代に
なってしまっているということはわかる。社会学的な言い方でいうと、1960年代の
「大文字の政治」の時代が終わり、80年代の消費社会化が、「モノとしての価値」
ではなく、「記号としての価値」を登場させるようなメンタリティを用意した。

つまり、価値そのものが「絶対的なものではなく、相対的なものである」と言う感受
性が登場したのである。

今回の、セクシャル・イーティングの企画は、そのコンテクストで読むと、今度は「記
号としての価値」というより、「価値」そのものにまったく意味がなく、「感覚的な差」
が価値判断そのものより優先するという、新たな基準が存在するということを、実践
してしまった、という形になるのだろう。

たとえば、さきほどの椅子の話でいえば、

5000円の椅子よりも、100000円の椅子のほうがすばらしく見えてしまうのは、
それが実際に素材とかディテールの問題ではなく、「私の欲求を解消する手段」と
して、それらが価値体系のなかに存在しているからに他ならない。

つまり、何ごとかに価値を見出す考え方というのは、結果的に言えば、「私」という
自意識の解消手段として、それが機能しているということになるだろう。

穂村弘が「愛の希求の絶対性」と言うのも、枡野浩一が「世界で2番目に売れてい
る歌人」というのも、結果的には「私という自意識をどのように解消するのか」という
範囲でものごとを語っているからであって、それが文学的「価値」観であっても、商業
的「価値」観であっても、何らかの「価値観」によって、私という自意識を満足させよう
とすると言う根源的な発想は、なんら変わっていない。

古臭いことを言ってしまえば、文学は「魂の救済」である。

というようなメンタリティが存在するということだ。

「「私の救済」という発想を根源的なものとして措定した場合、当然、「自らのやってい
ること」に何らかの「意味」や「価値」を見出さす、という発想にならざるをえない。

それが明示できるものであっても、明示できないものであっても、「~をしている私」
に意味がないといけないし、そのような「~をしている私」に意味があるという発想が、
ある種の文学観を、あるいは文学的な価値判断を支えてきた側面があるのではない
だろうか。

文学的価値判断は、どのような現象も「私」に、あるいは「私の欲求」に回収するこ
とで説明することができる。

これは、物語の外側ではなく、内側に本質的な「私」があり、その「隠れていた」私を
発見する、というような思考方法で、何かを感受するというメンタリティと説明してもい
い。

しかし、彼らにとっては、「回収されるべき私」など、物語の内側に最初から存在して
などいない。

彼らがこだわるのは、「微差」であり、それこそ、「~と~が違うって面白いよね」と
いった程度のことなのだ。

私は彼らのそのやり方、「短歌そのもの」ではなく、サイト構成を全体としたいわゆる
短歌の提示の仕方に、ある種の新しさがあることは認めることができる。

しかし、私にとって、彼らのやり方をほめることは、自分の足元を覆すようなある種の
危うさを同時に感じてしまう。

それは、文学や短歌に「私」を没入させるという思考法の終焉を意味する考え方であ
り、「魂の救済」を全的に否定するような状態になりかねないということかもしれない。

人間は誰でも自分がかわいいものだ。

残念ながら、私自身も、その「自分」が否定されかねないという事態にいたって、思わ
ずあのような反応をしてしまったということだ。

「世界に意味がある。全てのものには何らかの価値がある」と考える立場から、もう少し
問題提起をしてみよう。

彼らはおそらく、私のような思考法で、「対外的な価値づけ」を全てのものに優先する
というような発想は行わないだろう。

しかし、現代ではまだ、「何かに価値を見出す」という発想が支配的であるように思う。

彼らのやっていることが、「何らかの批評性を持ちえる」としたら、それはそのような
価値判断を相対化する視点を持ちえているか否か、という一点にかかっている。

彼らは確かにこのような「ある種の価値判断」にはまったく乗ってこないのかもしれ
ないが、しかし、その手続きを踏まえない提示の仕方は、そうでない立場の人間か
らは、どうしても「意味がないもの」のように見えてしまうだろう。

なぜなら、本来、素材性や微差というのは、「豊かさ」の象徴として私たち「意味
や価値を優先する」タイプの人間の前にあったものだから。彼らはおそらく「貧しく
もなく、病んでもいない」だろう。

なぜ、もともと「豊かさ」の象徴であったはずの素材性や微差といったものが、彼ら
のフェティシズム的な対象になりうるのか。

その「素材性へのこだわり」が、ある種の「既得権益」性のなかに埋没することと、
批評性を持ちながら「あえてそれをやる」ことの意味を提示することの差は、一体
どこにあるのか。

そこには、コンテンツを提示するだけでは説明しえない、なんらかの「価値判断」が
必ず必要になるはずなのだ。


スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。